険しい顔のまま、ブツブツ言い始める姿を細目で眺める。 冨岡先生なりに何か、閃きみたいなのがあったのだろうとひとまずは見守るだけにしたのだけど、暫く経っても帰還する気配がない。 掴まれたままの手首に感じる締め付けがそろそろキツくなってきた事で、とりあえず名前を呼んでみる事にした。 「冨岡先生?」 「……何だ」 意外にも早い返答に、次の言葉を用意していなかったためちょっと怯んでしまう。 「どうしたんですか?」 そう訊ねた事で、表情が少し和らいだのを感じた。 「お前に"待て"と言われた。その一点から小型犬に吠えるのを我慢していたのだと、自分ではそう考えていた」 何処か遠くを見つめる瞳がまた険しくなる。 「だが…違った。これはお前を護る上で重大な事案だったにも関わらず今の今まで気が付く事が出来なかった。完全に細胞が外敵に関し過敏になっていた故の失態だ。いつもの俺なら数秒で察知していたというのに…」 「冨岡先生が凄く、心の底から後悔しているのはとても良く伝わってきましたが、それ以上の事が良くわからないので説明していただけますか?」 「俺はあの小型犬を既知している。スマホから聞こえた声で気付いた」 「…彼女と会った事があるって事ですか?」 「あぁ。俺だけじゃない。お前も相対している。と言っても本人にではなく、ごく近しい人間にだ」 その言葉に眉を顰める。 彼女に似ている誰か、という事か…。 キメツ学園関係ならそれこそ冨岡先生じゃないけれど、私だって容易に気付くだろう。 そんなに距離が近い訳ではない、人物。 浮かんでは消えていく顔にこめかみを押さえたのと同時だった。 「声を思い出してみろ。お前は絶対にその人物に行き着く筈だ」 「…声、ですか…?」 先程聞いた彼女の声を脳内で探す。 間延びしたその喋り方、だけどそれは嫌味がなくて可愛らしいと… 「……っ!」 突然脳裏に浮かぶ1人の人物に思い切り寄せた眉に、冨岡先生の目が細くなる。 「…もしかして、下着売り場の、店員さんですか…?」 恐る恐る出した答えに、群青色が真剣な眼差しでこちらを見つめた。 「そうだ。年齢を考慮するに恐らく、小型犬はあの店員の妹に間違いない」 good boy すぐには受け入れるのが難しい案件に、返答が浮かばず、暫くその瞳を見つめたままになってしまったのに気付いて瞬きをする。 それは事実なのか、と口を開こうとして、すぐに呑み込んだ。 冨岡先生はこちらに答えを提示した訳でも、誘導した訳でもない。 だけど、私は自然とそこに辿り着いた。 事実なのは、間違いないだろう。 ふと、苗字が違う事に気付いたけれど、そこに私達の与り知れない家庭事情があるとするならば、今此処で考察しても答えが出ないので意味がない。 顔を見ても気が付かなかったのは、これはもう、遺伝子の不思議としか私には言いようがなかった。 世の中にはまるで瓜二つ、双子と言っても過言ではない程に似た姉妹も居れば、全く似ても似つかない姉妹も数え切れぬ程に存在する。 繋がった今でこそ、確かに似ている所のひとつやふたつ、簡単に思い浮かぶが、それが姉妹だと知らされていない状態でそれに結びつけるのは難しいだろう。 現に今、冨岡先生が気が付かなければ、私はこの先、絶対にあの2人の関係性を知ることはなかったと確実に言える。 「…確かに喋り方も声も…似てはいますけど…良くわかりましたね」 「本能が記憶している。お前との弊害にならないものは居ても良いものだと認識し攻撃しない。あの店員はその部類に入っている。鼻が詰まっているせいで聴覚から入る情報を本能が無害なものだと誤認し、バグを起こした」 「もはや犬じゃなくて機械みたいになってますよその言い方」 「機械になるのも悪くない。転生したお前とでもずっと一緒に居られる」 ふふ、と小さく笑う姿にバグを起こしてるのはそこ一点だけじゃなくて全体的になんじゃ…と思う。 「…あの店員さんがお姉さんとなると…」 考えを巡らせても、まぁ、だからといってそこが突破口となる訳じゃ…いや、これは… おもむろにスマホのロックを解除してからLINEを開く。 一気に上へスクロールしてから冨岡先生へ差し出した。 「この履歴を見て正直どう思います?率直な意見をください」 その表情は若干困惑の色をしているものの、すぐにその画面に視線を落とすと一度下まで動かしたであろう親指が止まる。 「…俺の知らない所でこんなにも大量に小型犬とLINEをしていた事に憤りを感じている」 「とりあえず今はその感情は置いといてください」 スクロールしていく親指が一度止まったかと思えば若干眉を顰めるものだから、こちらも身構えるも 「そうか。こんなものが送られてきては嫉妬しない訳がないな」 また望んだものとは違う言葉に溜め息が出そうになった。 「何を見て納得してるんですか?」 「これだ」 見せてくる画面にはラバーストラップの写真。 「それも今はどうでも良いです。そういう所じゃなくて1から全体をちゃんと読み込んでみていただけませんか?」 また親指が動いていくのを黙って眺めながら、そういえばこの人髪の毛乾かしてないな、と立ち上がる。 その後ろへ回り込むとドライヤーのスイッチを入れた事で振り返ったその顔が驚いていた。 「乾かしてくれるのか?」 「はい。それを読んでいる間だけでもと思いまして」 途端に綻ぶ頬が、画面に向き直したと思えば 「飼い犬という地位は存外、良いものだ」 そう呟いたのが微かに聞こえて、私もつい苦笑いをしてからその髪へ風を当てていく。 言われた通り、熟読していく親指が止まったのは髪を乾かし終えたのと同じ頃。 手櫛で軽く梳かしてからスイッチを切るとドライヤーをテーブルの上へ置いた。 「どうですか?」 「お前の指の動きはいつも気持ちいい」 本当にもう、無防備な後頭部をドライヤーで殴打してやろうか、と思った所で 「小型犬らしいか小型犬らしくないかと訊かれれば答えは"全くらしくない"」 後ろ手で渡してくるスマホを受け取る。 「そうなんですよ。特に最初の頃なんですけど…」 その左隣に立つとテーブルに置いたスマホ画面を右手でスクロールしていく。 「指導案を煮詰める際のやりとりなんですけど、これ、彼女古今和歌集と新古今和歌集の違いを数分も経たない内に私に返してきてて…」 スッと自然に絡めてくる左手に眉を寄せる。 「…寝なくて大丈夫なのか?」 自然と見つめ合ったその目は、思いやりに満ちていて、無意識に張っていた気が緩まっていくのを感じた。 「…そうですね。正直眠いは眠いです。冨岡先生も疲れてるのに付き合わせてしまってすみません」 その言葉で離れた手に、スマホを握るとポケットの中へしまう。 つい、自分の考察が間違ってないという確信を得ようと気が急いてしまった。 とにかく今日は休む事を優先させよう、と気持ちを切り替えた瞬間、宙に浮いた身体に息を止める。 「…何してるんですか?」 「俗に言うおひめさまだっこというものをしている」 「…だから状況の説明じゃなくて…何故今それをするかという理由を訊ねてるんですが」 「以前、胡蝶と生徒が女の憧れだと話していたのを聞いた事があるため、ずっと名前の意識がある時にしてみたかった」 「何ですかその意識がある時って…」 「俺が風邪を引き、献身的かつ手厚く愛に満ちた看病をした結果お前がダイニングで寝てしまった時だ。これで運んだ」 「これでもかという位に記憶の捏造が凄いですね。あと、まるで初めてみたいな言い方してますけど、冨岡先生この間してますからね」 「それはいつだ?」 これは、口に出して良いのかと一瞬迷った。 「誕生日の時です」 途端に目を見開く姿に視線を逸らす。 「…そうか。あの時は俺も名前の全てが手に入ると昂っていたため、正直断片的にしか記憶が残っていない」 言うや否や寝室へ向かう足を制止しようにも 「冨岡先生!?」 この状況では名前を呼ぶ事しか出来ない。 「焦らなくて良い。何もしない」 そうしてゆっくり降ろされた事でベッドのスプリングが僅かに軋んだのも束の間、ギッと更にそれが音を立てる。 左に潜り込んでくる冨岡先生に逃げようと身体を起こす前に包み込んでくる両腕で動けなくなった。 「警戒するな。飼い犬として添い寝するだけだ」 「いくら飼い犬とはいえ一緒に寝るのは流石にどうかと思います。その犬もいつ暴走するかわかりませんし」 「名前が辛い時に俺は自分を優先させない。これまで幾度ともお前の弱味に付け込める隙はあった。だが俺がそれを本気で利用した事が一度でもあったか?」 その言葉で蘇ってくる記憶に黙るしかなくなってしまう。 「俺はそれだけ、名前を大事に想っている」 髪を撫でる優しくて温かい手が、正直心地好いと考えてしまった。 「…彼女もこうやって自分の輪郭を撫でて貰いたいのだと、気付きました」 「今は小型犬の話はどうでも良い。お前が「どうでも良くないんですよ」」 どうでも良いなんて、そんな事を益々思えなくなってしまった。 敵意だけだと思っていた頃の方が、まだマシに思える。 私が耐えれば、それで良かったからだ。 それを言うと目の前のこの人の機嫌を損ねるから言わないけれど。 「彼女は、私です」 言いようのない既視感があった。 でもそれは、これまでの経験に依るものだと、ひとつ納得出来るものを見つけては当て嵌める。 そうして"輪郭"を見た気になって、本当の意味での"彼女"を見てこようとしてこなかった。 「お前は小型犬じゃない猫だ」 「それ今わざと言ってますよね」 「寝る気がないのなら誘っていると判断するが良いのか?」 「それは困ります」 「ならば早く寝ろ。心配せずともお前が寝たら俺も帰る」 「帰るんですか?」 思わず驚いてしまってから、しまったと思う。 「帰って欲しくないのか?」 「いえ、違います。冨岡先生の事なのでこのまま朝まで居座るつもりでいるのかと思っていたもので」 「お前が良いと言うのなら此処で寝るが」 「ちょっとそれはご勘弁願いたいです。それに私寝相悪いんで多分蹴りますよ」 「それは明らかな嘘だ。お前はあの時も俺の腕の中でスヤスヤと眠っていた」 「あの時っていつですか?」 「初めて姫抱きをした時だ。名前の寝顔は最高に可愛かった」 「…あの時も知っての通り色々あって疲れてたんですよ…」 「知っている。だからお前は今も抵抗しないのだろう?」 「…どういう意味ですか?」 「お前はあの時、一度目を覚ましているが、抱きかかえようとしていた俺の匂いを確かめようと首元を嗅いできた後、安心して身体を預け寝入った」 「…それは…流石に嘘か大袈裟か妄想ではないかと。冨岡先生こそあの時本調子じゃなかった訳ですし夢と現実の区別がついてなかった可能性の方が高いですよ」 「嘘でも大袈裟でも妄想でも夢でもない。だから俺は名前を猫だと判断した」 全然覚えてない。 けれど確かに、あの後すぐに冨岡先生は私の事を猫だの何だの言い出したんだっけ。 「そんなに俺の匂いが安心するなら毎日でも一緒に寝ても良い。寧ろそうしたい」 「…いえ、良いです大丈夫です。あとちょっとこの体勢も眠り辛いんで離していただけませんか?」 「何故だ。安心するだろう?」 「どちらかと言えば目が冴えます」 「興奮するのか?俺に全くその気はないが名前が望むなら「単純に慣れてないんですよ。誰かに抱き締められて眠るなんて、この十何年した事ないんで」」 若干驚いたその瞳が、意味を理解してすぐに満足したように温かさを湛えていく。 「…そうか」 優しく髪を撫でる手の動きに、自然と目が細くなる。 「本当に私が寝るまで見張るつもりでしたら隣には居て良いので、触れないでいただけませんか?」 最低限の譲歩のつもりでそう言えば、大人しく離れた事で、寝返りを打とうとした所でその手が肩を制止した。 「駄目だ。背は向けるな」 「何でですか?」 「お前が泣いていてもすぐに気が付けない」 「…心配しなくても泣きませんけど。泣く要素なんてひとつも…」 群青色の瞳に射抜かれて、大人しく口は噤む代わりに眉を寄せて不満は表しておく。 仕方なく仰向きへと姿勢を変えても、冨岡先生は身体ごとこちらへ向いたまま。 「…凄く寝辛いんですけど…」 圧しか感じない横へ視線を向ければ、暫し考えたように瞬きを何度かすると自分の腕を枕にしてから目を閉じた。 つい喉から出そうになった言葉を呑み込んで、天井へ視線を戻すと煌々とつけられたままの電気が勿体ないなと考える。 いや、この状態で消すという選択肢は選ばないけども。 冨岡先生もそれがわかってるからそこには触れないでいたのだろうか。 ふと握られた左手に身体がビクッとしてしまった。 すぐに左を見るも、その瞳は閉じられたまま。 それでも静かに手を持っていくと絡めてくる指先に、何のつもりか訊くのは我慢したのは、それ以上何かする気はないというのが伝わってきたからだ。 伝わってくる温もりに、先程まで冴え切っていた筈の目が重くなってくるのを感じて、あぁ自分で思っていたより限界だったんだな、と何処か冷静に考える。 「…名前」 何ですか?と答えるより前に落ちてきた優しい接吻に完全に寝入り端を挫かれた。 やはり危険なのではないか (…何するんですか) (心配するな。飼い犬による寝る前の挨拶だ) (また目が冴えたんですけど…) [ 85/220 ] [*prev] [next#] [mokuji] [しおりを挟む] [back] ← ×
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