good boy | ナノ
「本当に何も感じなかったのか?」

言われてみれば、何度か引っかかるものはあった。
それもすぐに向けてくる敵意に依って打ち消されたから、突き詰めて考えてこなかったけれど、今鮮明に思い出すのは

「私達の問題で周りを巻き込むのは不条理ですから、それはやめましょうね」

あの時の彼女。
表情は僅かにだけど綻んでいた。
何処かで見たような気がしたあの雰囲気は、私が冨岡先生に「偉いですね」と褒めた時に見せるものと同じだ。

掛けた言葉こそ全く違うが、彼女の中で何か、心に響くものがあったのは確かに違いない。

冨岡先生の言っていた内容が全て真実と想定すると、事あるごとに髪を触る癖も納得出来る。
てっきり整えていたばかりだと思っていたあの動き。

彼女は、自分で自分の頭を撫でていたんだ。

その仕草をする心理は、褒められたい。
そして甘えたい。

いつだったか生徒の中で、彼女と同じように…いや、それ以上に自分の髪を触っている子が居た。
余りにも執拗に動く掌が気になって調べてみた所、その心理状態というのを知り、声を掛けてみた事で家庭内の問題を話してくれたのを覚えている。
当時、私が力になれる事は話を聞く事だけだったが、時間と共に解決を見せていくに従って、執拗に髪を触る癖も治まっていった。

既視感を覚えたのは大きくこの2点だったのだろうと、今思うと、妙にしっくり来ている。

今まで私は公平という立場を貫いて彼女を傷付けていたから、彼女はその度に感じる寂しさを敵意として返してきていた。
起因が冨岡先生だったというのもただの偶然だったと言える。
遅かれ早かれ、何かをきっかけに、彼女は私に敵意を向けるようになっていたのは間違いない。

きっと本当は、自分の真意に、気が付いて欲しかったのだろう。

けれど、それでもまだ、全部じゃない気がしている。


good boy


キーボードを打っていた手を止めると、一旦右横へ顔を向ける。
「すみません、冨岡先生」
「何だ?」
「これ折っても良いですか?引っかかって文字が打ち辛いんです」
ボタンが飛んだ…正確には飛ばされたブラウスを隠すために借りたジャージの上。
冨岡先生にはジャストサイズのそれは、私が着ると太腿まで裾がくる。
そのお陰で一番上まで閉めたチャックの首周りはゆったりしていて良いのだけども、上げても上げても下がってくる袖は正直邪魔で仕方ない。
わかりやすいように両手を見せれば2回瞬きをした後
「構わない。俺が捲ろう」
それだけ言うと出そうとしてくる両手に迷ったものの掌で制止した。
「いえ、大丈夫です。自分で出来るので。それより窮屈じゃないですか?」
私にこれを貸した事に依って必然的にスーツを身に包んだままになった冨岡先生。
「動き辛さは感じるがそこまでじゃない。名前が望むならこれも脱いで貸そう」
「良いです。望んでないので大丈夫です。脱がないでください」
「そうか。お前以外の人間に例え上半身でも裸は見られたくないか。それもそうだな」
小さく笑う横顔に、もう何も返すまいと決めた。
絶好調な冨岡先生の向こう側、彼女はパソコンへ向き合ってはいるが、明らかにこちらを気にしている。
ツンとした空気は放っているものの、突っかかってはこないのは、冨岡先生の牽制が効いているのかも知れない。

袖を折りながら無意識にしてしまいそうになる考察を止めた瞬間、向けられたままの視線へ顔を向けた。

「…何ですか?」
「いや、可愛いなと思っただけだ」
真面目な顔で不意を突いてくるものだからドキッとしてしまったじゃないか。
「そうですか。花粉症の影響で冨岡先生には全てが可愛く見えるフィルターでも掛かってるんですかね?」
「今現在目に関しては何の問題も起きていない。ジャージに包まれている名前は最強に可愛く、俺のものになったという気になれる。折角だ写真を撮ろう。我妻を呼んでくる」
「撮らなくて良いですし呼ばないでください。私利私欲に巻き込まれる我妻くんがとても不憫なんでやめましょうね」
急に立ち上がろうとするものだから押さえようとその腕を引っ張れば私を見たまま固まる冨岡先生に眉を寄せる。
「…無理だ可愛い。今すぐ抱きたい。そうだ早退しよう」
…私この人の事どうやって扱ってたっけな?
というかこんなにぶっ飛んでたっけ?
駄目だ、疲れてるせいで頭が働かない。

「…きっも」

右横から吐き捨てられた言葉に、まぁそうなるよな、と溜め息が出そうになる。
それが普通の感覚だ。

「冨岡先生」
視線だけで座るよう促せば大人しく腰を下ろす姿から彼女へ向ける。
多分、冨岡先生へ分散したはしたけれども、私への敵意もまだ健在な筈だ。

正直、彼女がここから先、何を望んでいるのか、はっきりとした、それこそ"輪郭"が見えない。
多分私より、冨岡先生の方が彼女に関して言えばその人となりを理解しているだろう。
彼女について詳しく訊いてみようかと考えに至った矢先

「…何で苗字が冨岡のジャージ着てんだァ?」

教科書と文具一式を片手に戻ってきた不死川先生がわかりやすくギョッとして一歩引くものだから苦笑いが零れた。

「ちょっとしたアクシデントがありまして「聞いてくださいよ実弥先生〜。この人苗字さんの服破いて無理矢理シようとしてたんですよ〜!」」
職員室中に響く声に、姿を消せるのなら今すぐ消えたい、そう思う。

「そうか!ついにど派手にヤッたか冨岡ァ!」
何故か宇髄先生、席を立ち上がる程喜んでるし…。
「有り得なくないですか〜?苗字さんかわいそ〜」
呼び方から察するに、今彼女の中で一番の敵意は冨岡先生に向いている。
だから私への嫌悪が和らいで…

いや、違う。
何かが違う。

この言い方からするに、冨岡先生が示したのも、またごく一部の彼女だ。
全てじゃない。

思わず答えを求めようと右横を見たけれど、その表情は全く変わらないもので、正直何を考えているのかわからない。

「…大丈夫かァ?」
「……。え?あぁ、はい」
深く考えを巡らせていたせいで不死川先生の声にすぐ反応出来なかった。
「まさかとは思うけどよォ、大爆発したんじゃねェよなァ?」
呆れにも似た三白眼が冨岡先生に向けられる。
「していない。俺が名前の嫌がる事をしないのは不死川も良く知ってる筈だ」
「そりゃァまァな。見た所苗字もケロッとしてるし」
「え〜でも私ホントに見たんですよ〜?」
「そりゃ多分いつもの奴だろォ?犬と飼い主の日常だと思え」
「何それ〜実弥先生意味わかんないです〜」

普通の会話の筈なのに、心がざわつくのを感じる。
多分、彼女は…

いや、多分じゃない。
でも、まだわからない。

グルグル回る思考に、相当疲労している事を自覚せざるを得なかった。



「これが契約書の控えと、月々の支払額、あと回収と納品のスケジュールです」
宇髄先生のデスクの上にそれを並べると、軽く目を通していく斜め上から眺める。
「この納品ん時の立会いはよ?」
「まだ時間が決まっていないので未定のままですが、会長は来るでしょうね」
もはや新とつける気力もない。
まだ今年度は終わっていないのに我が物顔で踏み荒らそうとしていくのは確かに冨岡先生が言う通り、犬に近いかも知れないとふと考えた。
「会長が来んなら俺も出っから安心しろ」
「ありがとうございます。正直すごく助かります」

私だけでは会長の暴走を止められないと判断したのは、悲鳴嶼先生と宇髄先生。
この数時間で実質的な窓口を宇髄先生に変え、私はひとまずLINEの籍だけはそこに置いておき、直接的な関わりを持たなくて良くなった。

「お前、会長みたいなタイプと相性悪いんだなァ」
ケラケラと笑うものだから目を伏せるしかない。
「私のせいで仕事を増やしてしまって申し訳ありません」
下げた頭に、プッと噴き出す音を聞いて顔を上げる。
「何マジに謝ってんだ。ほんとクソ真面目だなお前」
フーセンガムを膨らませたかと思えばすぐに割る姿に眉が寄る前にその口が動く。
「人間には適材適所っつーモンがあんだよ。寧ろ今まで苗字が何の衝突も軋轢も起こさず次々起こる問題を捌けてたのか、俺にはそっちの方が不思議で仕方ねェわ」
「運が良かったんでしょうね」
「実力だろ。そこは派手に認めてやろうぜ?自分の努力をよ」
こういう事が嫌味なくさらっと言える辺りが宇髄先生がモテる所以なんだろう。
「ありがとうございます」
素直に頭を下げるだけにした私をじっと眺めたかと思えば
「しかしお前、そうしてると冨岡に抱かれた後みたいだな」
真顔で言い放つものだから無表情で聞こえないふりを貫くしかなくなる。
「つーのはまぁ冗談だが、お前ら気を付けろ」
突然真面目になる声色に逸らしていた視線を戻した。
「何をですか?」
「実習女だよ」
何処となく張り詰めた空気に息を呑む。
「やけに冨岡とお前の仲を気にしてるから何か目的でもあるのか訊いたんだよ。そしたらアイツ何て答えたと思う?」
「……。正直全くわかりません」
これが昨日まで…いや今日の午前までだったら、冨岡先生へ好意があるからという回答一択だったけれど、今はそう断言が出来ない状態だ。

「"修復出来ない位めちゃくちゃに壊したいんです"だとよ」

意味を理解した途端、背筋へ悪寒が走るのを感じる。

「アイツは多分、お前が思うよりヤベェ」

重い口調でそう言うと並べられた書類を手に取ると整理し始めた。
「ま、お前と冨岡なら大丈夫だと思うが、気は許すなよ?」
「…ご忠告ありがとうございます」
頭を下げてから自分のデスクへと戻る。
宇髄先生は、何処まで把握しているのだろうと疑問を抱くと共に、何というか、彼女に感じた恐れ…、恐怖心に近い何かの輪郭だけは、見えたような気がした。

* * *

何度かの添削を繰り返して、漸く形になってきた"国語科学習指導案"を読み込む。
火曜日には、この内容を基に彼女は人生で初めて教鞭をとる。
その経験の可否は先の教師人生を大きく左右するので、念には念を入れてあらゆる可能性を考慮して計画を作り上げた。

単元名は"古今和歌集に学ぶ"
この題材は、彼女自らが選んだもの。
「私長編ものより短編集みたいな方が好きなんですよね〜。読むの楽だし〜」
これもまた、仲違いが起きる前に聞いた台詞だ。

まず授業の掴みとして、恐らく誰もが一度は耳にしているであろう
"わが君は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで"
その和歌を掲示し、知っているかを問う。
想定の答えは大半がイエスとなる。
その流れの中でそれが国歌であること、もしかしたら古今和歌集という単語も出てくる可能性も考慮した次の発問は、では作者は誰かと話を進めていく。
これには明確に答える生徒は少ないだろうと予想し、作者が不明な事実から、この和歌が載っている古今和歌集の作者は1人ではない、という話へ持っていく。
そして、そもそも和歌とはどういうもので、この古今和歌集が作成された経緯や時代背景を質問を交え、生徒達と対話していく。
授業の後半は、グループごとに分かれ、話し合いで好きな和歌を2つ選び、音読してもらうという、シンプルかつ目的をわかりやすいものにした。
それでも初めての授業でこれだけ出来れば優秀だと言える。
彼女は人の心を掴むのが上手いので、これ位の事なら造作なくやってのけるだろう。
その時間には教頭に立ち会って貰い、私ではない第三者、そして目上の人物として評価をして貰う予定でいる。
それが彼女の中で大きな自信に繋がるからだ。

今ざっと読み込んでみた所、穴はない。
彼女にとって想定外の事が起きても、私が思いつく限りの対処法は別紙に添えるつもりでいるが、使うかどうかは彼女が決める事なので、それ以上、今の私には力になれない。
念のため後で悲鳴嶼先生にも確認して貰おうと一度引き出しにしまってから題材になる古今和歌集を開いた。
現役の頃と言ったら語弊があるけれど、昔は良く読んでいたな、と若干よれた付箋の束に触れる。
そうだ。生徒達に好きな和歌を訊くだけではなく、彼女にも1つ選んで貰うのもありかも知れない。
そしたら少しは彼女の輪郭も見えてきそうな気が…


「………」
何だろう、誰かの声がする。
すごい温かい…

「名前」

優しい声がすぐ傍で聞こえて、目蓋を開いたと同時、目の前にある群青の瞳に大袈裟ではなく身体が震えた。
「…え…!?あれ?」
辺りを見回せば変わり映えのしない職員室で、両手に持ったままの本に、いつの間にか意識を飛ばしていたであろう事を気付く。
「寝るなら保健室のベッドが良い。俺も行く」
「…いえ、大丈夫です」
仕事中に寝るなんて相当疲れてると思いながらこめかみを押さえた。

淡い微睡みの光景が突然、鮮明に脳内を駆け巡っていく。

「どうした?」
「…何でも、ないです」

小さく頭を横に振るのは、それを意識の外へ追いやるため。

その腕に包まれて、子供みたいに眠っている自分。

うたた寝してしまった上にそんな夢を見てしまったのは、この身を包むジャージのせいだ。
物理的な温かさもあるけれど、原因はきっとこの匂い。
動く度に鼻を抜けていく香りが、常に冨岡先生がすぐ近くに居るような錯覚を起こさせてる。

未だ見つめてくる群青色の瞳に、心が読まれそうで自然なふりでその視線から逃げた。


心底の願望なのか


(起こしてくださってありがとうございます)
(起こした訳じゃない。キスしようとしただけだ)
(益々場所と立場の分別がつかなくなってきてますね)


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