「胡蝶先生、コレ、バレンタインのお返しです」
職員室の人影がまばらになった頃を見計らって、こっそり耳打ちすると片手で余る紙袋を差し出した。 散々迷った挙句、見つけたのは入浴剤。 瓶の中に入った紫色の蝶はバスぺタルという代物で、湯船に浮かべて楽しんだり、泡風呂に変化させる事も出来るらしい。 それを見た瞬間、これはもう胡蝶先生に贈るべきだと迷わず購入していた。 「あら、気にしなくて良かったのに〜。私が勝手にあげたくなっただけなんだから」 ふふっと小さく笑う姿だけで癒される。 「でも嬉しいわ。ありがとう」 受け取ったのを確認して頭を下げると印刷室へ向かおうとした。 「…あ、苗字先生」 珍しく引き留めてくる声に少し驚きつつ振り返れば 「今日仕事終わったら一緒にあのお店行かない?」 また突然のお誘いに一瞬固まってしまったものの、考えるより先に頷いていた。 good boy 「やっぱり美味しいわね〜。此処のサングリア」 ニコニコとしながらグラスをもう一度傾けるとテーブルの上に置くのを眺めながら、私も自分のグラスを口に運ぶ。 此処に来たのは何ヶ月振りだろう。 あれから私も、多分胡蝶先生も足を運んでいなかったと思う。 それでも全く変わらないその雰囲気に、何処か親しみも感じるし、その時LINE交換をしたんだよなぁと思うと、遠い昔の事みたいに思えて妙にしみじみとしてしまった。 「マルゲリータでーす」 颯爽と白く丸い皿を置くとすぐに違うテーブルへ給仕に向かう背を見送って口を開く。 「コレ、切っちゃいますね」 「えぇ。お願いするわ」 両掌を合わせる動作が可愛いなぁと思いながら、ピザカッターを手に取ると生地の上へ滑らせた。 「美味しそうね〜」 「そうですね」 このピザ、前回頼むかどうか悩んでやめたんだよなぁ、と交わした会話を思い出す。 2等分になったピザを、更に4等分へしていった所で 「苗字先生、大丈夫?」 突然された発問が何に対してのものか、考察する間もなく言葉が続いた。 「実習生の子と、上手くいっていないみたいだから…」 その台詞云々より、胡蝶先生の笑顔が消えてしまった事に胸が痛む。 心配と迷惑を掛けてしまっているという事に申し訳なさが先に立った。 「大丈夫です。こうなったのも自業自得なので」 きっとあの時、余計な事を言わなければ、彼女は今も私達がそういう仲であると勘違いしながらも、敵視してくる事はなかっただろう。 他人に理解されがたい事案だと知っていた筈なのに、馬鹿正直に話してしまったのは、心が鈍っていた証拠だ。 胡蝶先生を始めとした教師陣のように、奇妙な関係を温かく見守ってくれるような人達ばかりじゃないのは、わかっていたのに。 一瞬彼女にも、"理解を求めてしまった"。 「私で良ければ、話してみてくれない?少しはスッキリするかも知れないわ」 「……」 いつもの癖で断ろうとした言葉を喉で止める。 「人に話したり、言葉にする事で見えてくるものもあるでしょう?」 優しく諭すような声色と笑顔に、それもそうかも知れないと要点だけを摘んで伝える事にした。 彼女に冨岡先生との仲を誤解された際、私の煮え切らない態度が彼女の倫理観にそぐわなかった事で勃発してしまったこの軋轢。 胡蝶先生は真剣は表情で聞き入った後 「そういう事だったのね〜…」 小さく呟くと、自然と自分の顎へ手を当てた。 「でもそれって、そんなに怒る事なのかしら?」 首を傾げた動きが何とも可愛らしい。 「だってそれは苗字先生と冨岡先生の問題でしょう?」 言われてみれば確かにそうだ、と考え込む胡蝶先生と同じく思考を働かせる。 彼女は明らかに冨岡先生の心情を気に掛けていた。 もしかしたら自分が似た経験をしたからなのか、それとも 「義勇先生の事、私が貰いますから」 あの言葉が全ての禍根だったのだろうか。 「冨岡先生は何て言ってるの?」 疑問で満ちた瞳を受けて、反射的に目を伏せる。 最後に言われたその台詞を思い出したのがたった今しがたの事だったので、胡蝶先生に伝えるタイミングを逃してしまった。 「…特に何も…。というより此処までの詳細は話していません」 「あら、それで納得してるのかしら?珍しいわね〜」 最近、胡蝶先生もあの性格を把握しているようで心底驚きを隠せないと言った表情をしている。 「納得してはいないと思うのですが、私が介入しないようお願いしています」 それもいつまで持つか。 だからこそ早く自分の中にある筈の答えを見つけなくちゃならない。 「でも考えると…、冨岡先生から口添えして貰った方が、彼女も納得して一番の解決になるんじゃないかって私は思うのだけど、どうかしら?」 そう言うとグラスに口をつける胡蝶先生から、8等分にしたまま放置していたピザへ視線を落とす。 その提案は尤もだ。 きっと私が望めば、冨岡先生は助けてくれる。 味方をしてくれる。 変わらず、今までと同じように。 でも… 「それって、良いんでしょうか?」 質問に質問で返してしまった事で胡蝶先生が言葉に詰まったのに気付いて、続く言葉を発した。 「都合が良すぎると思うんですよね。いつも拒否してるくせに、いざこういう自分が困った時だけ利用するのは…」 「利用なんて…、冨岡先生はそんな風に思わないわよ。きっと喜んで力になってくれると思うけれど」 「…そうなんですよね」 そう。 そうなんだ。 そんな事を思わないと 嬉々として全力で守ってくれると わかっているから 「だからそれじゃいけないと思うんです。私、冨岡先生の事どう思ってるのか、正直自分でも全然…わからないんですよ」 彼女に言われてから、ずっと考えている。 ずっと答えを探してる。 冨岡先生とどう向き合うべきなのか。 この先どう関わっていけば良いのか。 私は、どうしたいのか。 「考えれば考える程、堂々巡りのまま答えが出ないんです。それって私の中で気持ちがな「苗字先生?」」 上げた視線の先には、それはとても綺麗な笑顔。 「何も今決めなくたって良い。私が此処でそう言ったの、覚えてる?」 「…えぇ、覚えてます」 あの時は、私に対しての気持ちがいつまで持つか、なんて軽く考えていたのに、今はその不変さで完全に圧されているというのが現実。 「きっと今も、そうなんじゃないかしら?答えが出ないなら、出るまで待てば良いのよ〜?その内自然と出てくるわ」 「…でもそれじゃ」 言葉を止めたのは、笑顔を深めるその表情が強く訴えかけてくるのを感じたから。 「苗字先生はどうして今、そんなに答えを急いでいるの?」 何もかもを見透かしたような、核心を突いた言葉に、何も言い返す事が出来なかった。 * * * 集合ポストを開け、ほぼダイレクトメールとチラシしかないそれを手に取ってからエレベーターへ向かう。 どうして、急いでいるのだろうか。 このままじゃいけないと気付かされた。 それが契機だったとしても、私はどうして…? 駄目だ、考えても本質に近い所までは辿り着きそうになるのに、何かが邪魔している。 だから余計に答えを焦って探してしまう。 これはただの悪循環だ。 意味を成さない負のループ。 ふぅ、と息を吐いた所で開いた扉にエレベーターを降りる。 鍵を取り出しながら進めた数歩先、玄関先で丸まっているジャージ姿に息を止めた。 いつかと同じ、寂しそうな横顔も一瞬、すぐこちらへ向ける瞳が何処となく安心している。 「…何してるんですか?」 「パソコンの使い方を訊こうと思い待っていた」 「辛くないんですか?鼻」 「薬は効いている」 「効いていてもその間に接種した花粉は体内に蓄積されていくんですよ。気休めでもせめてマスクとかで防がないと悪化する一方ですし、薬を飲んでも意味が」 細めた目が嬉々としていて、言葉を止めると小さく息を吐いた。 「わからない事というのは?」 「USBを挿したは良いが何処から開くのかがわからない」 「それでしたら…」 答える前におもむろに鞄からスマホを取り出すと画面を確認する。 「どうした?」 「いえ、もしかしたらLINEをしたのに私が気付かなかったから此処で待っていたのかと思いまして」 「お前が胡蝶と何処かに行ったのは知っていたためLINEはしてない」 「それでしたらわざわざ此処で待つ必要もなかったんじゃないかと思うんですが」 途端に黙り込む姿に続けようとした言葉を喉で止める。 待って、いたかったんだろうな、この人は。 連絡もしてこなかったのは、邪魔をしたくなかったんだろうな。 それがわかるから、早く答えを… 「疲れているのなら明日で良い」 立ち上がると自分の部屋に帰ろうとする背中を引き留め掛けて、出しかけた言葉を違うものへ変換した。 「あとでLINEして良いですか?ビデオ通話なら画面も見られて説明しやすいので」 振り向いたその表情が驚いている。 「良いのか?」 「構いません」 「ならば頼む」 それだけ言うと部屋へ入っていく冨岡先生に続いて鍵を開けると自分の部屋へ入った。 恐らく花粉まみれの全身を洗い流し、髪を乾かしてからまだ若干冷えるが暖房器具を付ける程ではない温度に炬燵へ潜り込む。 個人トーク画面を開いてビデオ通話を押すと、すぐに繋がった事に驚きつつ声を出した。 「お疲れ様です。遅くなってすみません」 『画面が真っ暗だ』 「それは意図的なものですね。フロントの方に切り替えて炬燵の上に置いてるので。冨岡先生の顔は良く見えてますよ」 『お前の方の景色が見たい』 「景色ですか?何も変わり映えはしませんが…」 スマホを立てると私から真正面を映してみる。 『名前がいつも見ている風景か。なかなか斬新で良いな』 「喜んでいただけたのなら何よりです。今パソコンの電源は入ってますか?」 『あぁ』 返事の後、ガタガタと音がしてから映るのはデスクトップの画面。 「見えました。USBは挿さってます?」 『挿したままにしてある』 「でしたら画面の…」 何処から飛べば一番わかりやすいかを考える。 「画面の一番下に色んなアイコンが並んでるのわかりますか?WordとかExcelとか」 『…これか』 僅かに画面が揺れて、白い矢印が左から右へ動いていく。 「そうです。その左から3番目にある黄色いファイルみたいなのがあるんですけど、そちらをクリックしていただいて…」 無言で動いていくカーソルとカチッという音で開かれた新しいタブに目を凝らす。 「デバイスとドライブという真ん中の項目に"T-scend"と表記されているのがわかります?」 『わかる』 「それがUSBメモリです」 『…これがそうなのか』 顔は見えずとも、若干驚いているのが口調で伝わってくる。 『USBという名で出てくるものだと思っていた』 「USBメモリでもそのメーカーによって表記は様々なんですよ。挿してみてわからなかったら一度抜いて挿し直すのが一番わかりやすいですが、USB本体も見れば同じ単語が書かれてたりするのでそれもヒントになりますよ」 カチカチというクリック音の後、表示されるツール画面の後に空いた間。 『何処に何があるのかわからない』 途方に暮れた声にもう一度画面へ目を凝らした。 「そもそも何のファイルを探してるんですか?」 『キメツ学園の平面図だ』 「それでしたらその画面の一番右上に検索バナーがあるので、探したいファイルの名前、今この場合は"キメツ学園平面図"と入力してみてください」 恐らく右手だけで操作してるのだろう。 ゆっくり打ち込まれていく文字を見守る。 『…出てきた』 「出てきましたね」 『…これだけか?』 「これだけです。やってみると案外簡単じゃないですか?」 『名前の教えが簡潔かつ的確なためそう感じる』 「これ位の事なら誰が教えても大差はないと思いますよ」 本当に大袈裟なんだから、と苦笑いが零れた矢先 『胡蝶とは何処に行っていた?』 突然の発問につい身構えてしまったが素直に答える事にした。 「居酒屋に行ってました」 『…そうか』 また画面が揺れたと思えば切り替わったカメラの先、映し出される冨岡先生の顔に油断していた心臓が音を立てる。 『それは同僚としてか?』 間髪入れず訊いてくるものだからまともに考える時間がなかった。 「…まぁ、そうですね」 『それなら俺も同僚として名前と呑みに行きたい』 「それは…ちょっと、というかだいぶ意味合いが変わってくるんじゃないですか?」 『何故だ』 「何故って…」 『お前は胡蝶に同僚以上の感情を持っているだろう?それは俺とお前の関係と何が違う?』 一瞬言葉に詰まってしまった。 いくら私が胡蝶先生を"好き"だと言ってもそれはもう本当に次元が違う、憧れに近しいもので、それ以上の何かを望んでいる訳でもない。 胡蝶先生は当たり前に私の事を同僚としてしか見ていない。 「冨岡先生の場合、そこから先を強引に越えようとしてくるじゃないですか」 『強引に越えようとしたのは一度だけだ』 「いつです?」 『乳首を「ホントに本気でふざけてますよね?」』 何度思い出させれば気が済むんだこの男は。 『ふざけてはいない。あの時は力技でイケるのではないかと、思い切り鳩尾を蹴られるまで正直思っていた』 「逆にあの時だけなんですか?今まで結構な被害を受けてきてると思うんですけど」 『お前は胡蝶が好きで、俺はお前を愛している』 「…言葉の重みに差があるのは気のせいですかね?」 もうわざわざ話を戻す気にもなれない。 質問で返した筈なのに 『同じ好意ならば俺と胡蝶は対等で在って良い筈だ』 返ってきたのは全く違う言葉。 だけどそれに依って、今までずっと探しても掴めなかった最後の理由を見付けた、今、そんな気がしている。 『明日、呑みに行かないか?』 問いに対する答えを模索しながらも、全く別な事を考える。 それはずっと奥底で感じていた不安定。 そう その想いを受け入れたら 均衡が崩れそうだ (2人きりじゃなければ良いですよ) (何故胡蝶と条件が違う) (ご自分のこれまでを顧みてください) [ 75/220 ] [*prev] [next#] [mokuji] [しおりを挟む] [back] ← ×
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