good boy | ナノ
「いっただきまぁす」

朗らかな声が職員室に響いて、気付かれないようそっと視線を向けた先、色とりどりのお弁当を箸でつついていく横顔と共に、どうしても視界に入るのを避けられないジャージ姿を見止め、静かに自分の手元へ戻した。

心の中でいただきます、と呟いてから蓋を開けた瞬間から圧を感じる。
気が付いていないふりでやり過ごそうと適当に作ったおかずを口に運ぼうとした所で
「美味そうだな」
聞き逃しようのない声に動きを止めた。
「美味しくはないと思います」
何となく昼食を守るよう左へ移動させると声がした方へ気持ち、背も向ける。
それでも向け続けられる視線のせいで食べ辛くて仕方ない。
大体にして何で昼食の時間なのに此処に居るのか。
「何故俺が此処に居るのか訊かないのか?」
「花粉症が辛いからだと思いました」
出来れば彼女が見ている前で余り会話をしたくないので早々に答える。
「違う。先日俺が居ない間、お前は不死川と親しくしていた。会話をする事は許したがやはり2人きりは駄目だと改めて思い直したからだ」
「2人きりじゃないんですけどね。周りを見渡せば職員がわんさと居ますよ。その目には見えてないのかも知れませんが」
「この間のお前達は完全に2人の世界だった。もう二度とそんな光景を見たくない」
「そんな世界は何処にもないですし常にご自分の世界に入ってる方に言われたくないです」
2週間近く前の出来事を今更問題にしてきたのは、多分鼻炎薬についた耐性で頭が回るようになった事で思い出した、というのもあるけど、彼女と私の軋轢をすぐ傍で感じ取った事が大きく起因している。
冨岡先生なりに防壁を作ろうとしているのだろう。
それがわかっているから、尚更彼女の前で会話をしたくないのだけれど
「名前の玉子焼きを久々に食したい」
当たり前にここぞとばかりに攻めてくるものだから完全に背を向ける事にする。
「駄目です。ご自分の昼食を消費してください」
もし此処に彼女が居なかったら、この人の言う通りにしていたんだろうなと考えると、それってまた中途半端な事なんじゃないかと考えてしまった。

「義勇先生義勇先生、玉子焼きなら私のお弁当にもありますよぉ、どーぞぉ」

表情は窺えなくても一部始終を聞いていた事がわかる。
今此処で私が余計な事を言えば彼女か冨岡先生、或いはどちらもの機嫌を損ねてしまうのが火を見るより明らかなので大人しく箸を運ぶ。

「お前には言ってない」
「え〜?でも美味しいですよ?お母さんが作ったやつですけど」
「それなら尚更自分で食べろ」

後ろで交わされる会話に玉子焼きを食べながら、あぁ、今日はちょっと味が濃かったかなと心の中で呟いた。


good boy


数口食べてから、弁当箱に蓋をすると鞄へしまう。
そういえば仕事を忘れてしまっていたと引き出しからデジカメを取り出すと立ち上がった。
「何処へ行く?」
「卒業生の写真に収めるのを忘れてました。今日昼食時の様子を撮ろうと思ってたんです」
「仕事熱心ですね〜」
吐き捨てられた言葉に、何を答えて良いかわからずそのまま職員室を後にする。

高等部の校舎に向かおうと進んだ廊下の先、落ちている黒い輪っかに目を止め立ち止まった。
それがヘアゴムだと認識してしゃがんだ瞬間、背中に乗る重量に倒れそうになったのを何とか耐える。
回された両腕と匂いですぐ誰かわかる辺り、溜め息が出た。
そうじゃなくても抱き付いてくる人物なんて1人しか居ないんだけども。

「…何ですか」
「泣いているのかと思った」
「落とし物を拾っていただけなのでご心配なく。そして離れていただけるととても有難いです」
「本当か?」
「本当です。見てくださいこのゴム」
冨岡先生の視界に入るように上げた右手に勢い良く顔を上げた、かと思えば
「そっちのゴムか…」
明らかに落胆している態度に何を考えていたのかを悟ってしまった自分が恨めしい。
「昼食食べなくて良いんですか?」
「良い。小型犬がうるさくてまともに食せない」
「慣れない事をするからですよ」
いつもの通りいつもの場所でパンを食べてれば良かったのに。
「明日から弁当を作って欲しい」
「はい?」
「今日から俺も職員室で昼食を取る事にした。名前の作る弁当を食べたい」
「それは無理です」
「何故だ」
「とりあえず離れましょうか」
立ち上がろうと力を入れた私に誘導されるよう動く冨岡先生は心底解せないといった表情。
多分、この人を抑制しておかないと更にややこしい事になるだろう。
「お話があります」
私が畏まった事で、その空気を瞬時に察したのか、眉を寄せたのは一秒にも満たない。
「何だ?」
真剣な瞳で見つめ返されて辺りを見回す。
此処だと人目に付くな。
「集会室まで行きましょう」
そう言って歩き出せば、大人しくついてくる足音。
「一応誰かに見られても良いように面談という形にしたいのでそこの向かいに座っていただけますか?」
「わかった」
会議用の白い机を挟んでお互いにパイプ椅子へ腰掛ける。
「話とは何だ?」
「端的に言うと、彼女の前で私に仕事以外の話を振らないでいただきたい、学校で一切、何が起きても私に触れないでいただきたい、という趣旨です」
「そうする事でお前に何の利点があるか説明を求めたい」
「彼女の敵意が僅かながら緩みます」
何を何処まで話せば冨岡先生は納得するだろうか。
「あの小型犬は何を企んでいる?」
「…何も企んではいないと思います。自分の感情に素直に従っているだけで。単に考え方、価値観の相違から来る私への嫌悪ですから実習が終わり距離が出来れば、自然と彼女の中で消化されていくと思うので問題は今だけかと」
「その嫌悪とやらを向けられたお前の気持ちは何処へ行く?」
「そこは今論点にする所ではないです」
「俺にとっては何よりも重視すべき点だ。大事な飼い主が他の犬に吠えられているのをただ黙ってじっと耐えている状態で、更に行動を制限されれば必然的に守るのが難しくなる。その身を案じない方が無理な話だ」
「私は大丈夫です」
「お前は…」
言い掛けた言葉を止めたのは、きっと私を気遣っての事。
「わかった。それなら弁当を作るのはあの小型犬が去ってからで良い」
「はい?私作るなんて一言も言ってませんけど?」
「作らないとも言われていない」
「はっきり無理ですって言いましたよね?断言しましたよ」
「それは邪魔者が居る間は無理だという事だろう?その後なら問題はない筈だ」
そう言われればそうなんだけども、でもこれもまた…

「冨岡先生」

気付かれないよう机の下で両手を握る。
「最近仕事も落ち着いて、他の事を考える時間と余裕が出来たので、この機に冨岡先生との事を考えてみようと思うんです」
「共に生きる未来を、か」
含み笑いをしているのを真っ直ぐ見据えた。

「それも可能性のひとつとして考慮した私の身の振り方です」

いつまでもこうして、付かず離れずの距離を続けている訳にもいかない。
何処かで、そう考えていた。
だからこそ核心を突いた彼女の言葉に、今も何も言い返せないでいる。
それが意味するのは、私自身の中に明確な答えが存在していないという事。

「もう流されて選んだ道だと後悔はしたくないので、考える時間をください。自分が納得するまでとことん煮詰めてみたいんです。彼女の事もありますし、その間、ただの同僚として接していただけませんか?」

向き合う群青色の瞳がどれだけ私を想い、私の事だけを優先させてきたか、いちいち記憶を辿らなくたって知っている。
知っているから、今度こそ、きちんと向き合わなければならない。

「…わかった。お前が言うならそうしよう」
「ありがとうございます。とても助かります」
頭を下げたと同じく、聴こえる鐘の音に持ってきたデジカメが無駄になったと思うも
「悪かった。仕事の邪魔をした」
そう言って早々に集会室を出ていく背中を見送った。

* * *

"明日皆さんにクッキー焼いて持っていきますね〜"
賑やかなスタンプと共にLINEが通知を告げる。
今日がホワイトデーだという話題から宇髄先生が恋人2人に何を贈るだのという会話を経て、彼女が送信したそのメッセージ。
何故、教員のグループLINEに実習生が参加しているのかと言えば、彼女の歓迎会で不在だった不死川先生、伊黒先生、冨岡先生、そして私に煉獄先生が動画を送ろうとした所、彼女が参加したいと言うので追加したと悲鳴嶼先生が説明していた。
その彼女が言う『皆さん』というのに私が含まれていないのはわかっているため、返す事なくそれを閉じるとホワイトデーコーナーと掲げられた棚を隅々まで眺めながら胡蝶先生へのお返しを考える。
無難に消費出来るお菓子か、と考えるもそれだけではあのアイシングクッキーに対するお礼は全く伝わらない気がして、そこを後にするとエスカレーターを上がる。
形に残るものではなくとも、食べ物以外の何かかで、胡蝶先生が喜んでくれる何か、そんなものを探したい。
生活雑貨専門店に足を踏み入れてから、胡蝶先生にはやっぱり女子力が高い物が良いのではないのかと一通り見て回った所で、ふと目にしたお弁当コーナーで足を止めた。
冨岡先生には何を返せば良いのだろうと思考を巡らようとしたのを止めたのは、LINE通話を告げる音。
「お疲れ様です。どうしました?」
店内という事もあって小声でそれに応えれば
『お前がずっとグループLINEに現れていない事が気になった』
相変わらず抑揚のない口調に苦笑いをした。
「既読はつけてるので良いかと思いまして」
実際ここ最近、返事を返す必要がある話題は何処にもなく、毎日のように流れていく会話を読むだけ読んで閉じる日々が続いている。
私のそのスタンスは前から変わっていないのに、わざわざ休日の時間を割いてまで電話をしてくる辺り、冨岡先生らしいと言えばらしいのか。
『小型犬のせいじゃないのか?』
「特にそういう訳ではありません」
『ならば今…いや、何でもない。時間を取らせた』
それだけで終わった通話に、自然と溜まった通知を開いた所で、あぁそういう事かと納得する。
"カナエ先生アイシングクッキー得意なんですね"
"得意ではないけれど苗字先生はとても喜んでくれたわ〜"
"私にも作ってください〜!あと作り方教えて欲しいです!"
"今度私の家へ遊びに来る?"
"良いんですか!?"
盛り上がり続けている画面をそっと消した。

彼女の、そういう人懐こい性格は不死川先生に言った通り、良い方向に真っ直ぐ伸ばせていければ、教師としてとてつもない武器になる。
唯一の問題は、自分が理解出来ない世界に遭遇した時に直情で動いてしまう事。
それをどう上手く克服するか、そんな事を模索しても、今の私には助言出来る資格など、何処にもないのだと気付いてしまった。

* * *

「ど〜ぞ〜」
昨日LINEで言っていたクッキーを配って回る彼女を横目にキーボードを打っていく。
「義勇先生と実弥先生の分で〜す」
無言で受け取る右横と「…おぅ」と躊躇いがちな返事が後ろから聞こえる。
私の後ろを通り過ぎていく気配を感じた所で
「お前、苗字はスルーかよ」
不死川先生の憮然とした声に顔を上げた。
制止するより早く口を開いたのは彼女の方。
「え?だってLINEの返事も全然なかったから要らないのかなって〜」
「事務方にも用意してるくせにかァ?オメェ「不死川先生」」
画面を見つめたまま名前を呼べば、意味を悟ったようで盛大な舌打ちが聞こえた。
「…なんですかぁ?私が悪いんですか?」
「いいえ。私がきちんとLINEを返さなかった事が原因です。お気になさらないでください」
彼女を見上げながらそう言えば、不満げな表情がますます険しくなっていく。
「そういう何言われても全然平気ですぅって感じめっちゃキッモ」
「テメェなァッ!!」
勢い良く立ち上がった不死川先生に彼女がビクッと震えたのがわかった。
「不死川先生、皆さん驚いてらっしゃるんで」
一気に張り詰めた空気を嫌でも感じて、左手で落ち着くよう促せば、粗雑に座り直す姿を目端に入れながら睨む彼女と向き合う。
「私も人間なので、何を言われても平気だという訳ではありません。ですが、事仕事に於いては立場上毅然とした対応を心掛けています」
更に表情が歪んでいくのは、私が反論しているからなのか、全く違う要因なのはわからない。
だけどこれだけは敢えて苦言を呈さなければ。
また面倒な感情を呼び起こさせるだけなのはわかっているから本当は言いたくないんだけども。
「私達の問題で周りを巻き込むのは不条理ですから、それはやめましょうね」
「……っ!」
てっきりまた敵意が返ってくるかと思ったが、その右掌で自分の髪を整えると背を向けて去っていく彼女。
言葉の意味は通じたのかも知れない。
その安堵で溜め息が出そうになった所を寸でで止めた。

でも何か…
何か、今彼女の表情に…

「名前」
声がした方へ振り向けば
「書類が出来た。校閲を頼む」
差し出される紙に、思考が止まって、短く返事をしながら受け取った。


言いようのない既視感


(オメェ良くブチ切れなかったなァ)
(ひたすら我慢している。名前の言う事は絶対だ)
(大爆発すんじゃねェぞォ?)


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