good boy | ナノ
さて、この状況をどう彼女にわかりやすく伝えるか。
今出来るフルパワーで思考を巡らせた。
のにも関わらず
「俺の名前に何の用だ」
「別に名前先生には用は…あの〜、輩先生が美術の…」
「言っておくが名前はお前の飼い主にはならない」
また全く良くわからない次元の喧嘩を吹っ掛け始めたものだから両掌を見せて遮る。
「冨岡先生落ち着いてください。どぅどぅ」
此処まで来るとこの人薬の飲み過ぎでヤバくなってるんじゃないかと本気で心配になってしまう。
「義勇先生怖っ。何かいつもとちがくないです?」
いいえ、これがこの人の本来の姿なんですよ、とは言いたくない。何となく。
通常状態が異常とか説明しても仕様もない。
「名前で呼」
更に威嚇しようとする腕を引っ張ると耳打ちをした。
「下手な事言わないでください。また面倒な事になります。今度こそ教育委員会に潰されますよ」
もしも彼女が母親に泣きつきでもしようものなら、喜々としてあの人の父親が出てくるだろう。
そしたらまた泥沼だ。もう絶対に、それだけは避けたい。
「あったあった、アクリルガッシュぅ」
私達を余所に、美術準備室の隅に置かれた段ボールへしゃがみ込む姿へ一度視線を向ける。
幸いな事に先程目にした光景をさほど、いや、全く気にしていないらしく、このまま穏便に終わらせたい。
「実習はあと3週間を切ってます。それまで彼女を傷付けるような事は何も言わないでください。わかりましたね。絶対ですよ。余計な事言ったら今後一切冨岡先生とは喋りませんからね。絶交ですよ絶交」
まるで小学生みたいな台詞だなと早口でそう言ってから考える。
しかし返事をするより早く
「…何これ重っ」
その呟きに反応し軽々と持ち上げる両腕に理解をしたのだと判断した。
「宇髄の元に運べば良いのか?」
「そうで〜す。義勇先生やっぱ力持ち〜」
早々と準備室を後にする背中を見送ってから、あの人宇髄先生の居場所知ってるのかな、とふと思った。


good boy


「で?で?で?」
スススッと寄ってきた彼女の瞳は好奇心に満ちていて、何を言わんとしているのかが何となくわかる。
自然と寄ってしまいそうになる眉間を意識して弛めた。
「学校内でこっそりイチャイチャなんて〜、名前先生、真面目に見えてケッコー大胆なんですね」
「イチャイチャしてる訳でも大胆でもないんですが…」
完璧に勘違いされてる。
まぁあんなシーンを見たら誰でもそう思うか…。
「もしかして付き合ってるの職場には内緒とかそーゆーやつですか?私誰にも言いませんよぉ大丈夫ですっ!」
右目だけを瞑って目配せしてくる姿は何と言うか、可愛らしいんだけども、内容が内容だけに笑顔で返せない。
「勘違いするのも無理はないと思いますが、私と冨岡先生は付き合ってないんですよ」
「おお?友達以上恋人未満ってやつですか?ワクワクしますね〜」
この子はそういう類の話が好きなのだろう。
キラキラと瞳を輝かせてる。
「いえ、そういうのでもなく…」
もう何と言ったらしっくり来るのか自分でもわからなくなってきたな。
確固たる関係性を提示した方が良いのはわかってはいるんだけども、明確なこれ、という言葉が出てこない。
「飼った覚えがない犬に追い回されてるだけです」
つい口に出した所で、ゆっくり首を傾げた彼女。
そういう反応になるよな、と思うも
「は?それってもしかして名前先生には気持ちがないって事ですか?義勇先生が勝手に付き纏ってるって?」
突然険しくなっていく表情に若干圧されてしまってすぐに答えられなかった。
「え?だってキスしてましたよね?さっき受け入れてましたよね?」
「受け入れては「受け入れてましたよ。私見ましたぁ。実は窓から覗いてましたぁ」」
さらりと衝撃の事実をぶつけてくるなこの子も。
「流石にアレ以上進んじゃうと私が入れなくなっちゃうんで邪魔しましたけど、本気で嫌がってなかったですよねぇ?私が来なかったらそのままシてたんじゃないですか?」
「してません。これまでもあれ以上の事を許した事はないです」
そうだ。
そういえば彼女は冨岡先生が暴走してぶっ飛んだ言動をしている時を一度も見た事ないんだった。
それなら尚更わからないだろう。
最初から今に至るまで何一つ漏らす事なく説明したってきっと理解はされない。
これはもう早々に不毛な会話を終わらせた方が賢明だ。
「これまでも…って何回もあんな事してるんですか?え?キッモ!」
吐き捨てられた言葉に、返事が詰まってしまう。
「その気もないのにそうやって目の前に餌チラつかせて寸止めとかすっごいサイテー。しょーじき幻滅しました。義勇先生が可哀想」

可哀想?
冨岡先生が…?

「苗字さんにそーゆー気がないなら」

あぁ、相当嫌われたなと何処か冷静に考える。
呼び方も声色も全然違う。

「義勇先生の事、私が貰いますから」

そう言って鋭い目線を向けた後、美術準備室を出ていった彼女。
その時は正直、浴びせられた言葉の意味を噛み砕くだけで精一杯で、最後の台詞が本気かどうかという考察をするのも忘れてしまっていた。

* * *

次の日から、彼女の態度は一変し、私の存在を拒否するようになる。
「義勇先生、左の人に確認お願いしますって渡してください」
明らかに私の耳に入る声量でそう言うと差し出す書類に、名前を呼ばれた人物は無言のまま流れ作業のように私へと運んでいく。
「…ありがとうございます。確認します」
そちらの方へ視線を向けてから"国語科学習指導案"のタイトルに自然と出そうになった溜め息を呑み込んだ。
まだ友好関係な時に決めたその選択教科。
教務主任になる前は何の教科を担当していたのか訊ねられたので答えた所
「じゃあ国語にしたら名前先生に教えて貰えますね〜」
そう言っていた無邪気な笑顔は、昨日の5限目から一切向けられなくなった。
まだ指導案を練っている最中なので教科の変更は出来なくもないと、これもまた友好だった時に伝えてある。
更に学習指導案がどんなものかと軽く例を見せた際
「私には作れない〜!名前先生教えてくださぁい!」
と言っていたのにも関わらず今これを渡してくるという事は、仲違いを起こそうとも途中で降りないという彼女なりの意思表示なのは伝わった。

でも、だからこそこの状態で私が教育係を続ける事は、果たしてプラスになると言えるのだろうか。

そこに感情を挟むと、上手くいくものもいかなくなるのはこれまでの経験で嫌という程思い知っている。

例えばこの授業の出だし、生徒達の心を掴む案はとても上手だけどその後が弱い。
掴みは良くても、規格的な発問をするだけでは予想外の答えが返ってきた時に、流れが止まってしまう。
ある程度の予測を立て、誘導出来る選択を用意しておいた方が良い。
それを直接アドバイスをした所で、私を敵と見做した彼女がそのまま素直に受け入れるとは到底思えない。
丁寧に添削したとしても、それを読む胸中は穏やかではないだろう。

端的に言うと、とてもやりづらい。

止めていた筈の溜め息を盛大に吐いてしまっていた。
「何ですかぁ。溜め息出ちゃうくらい出来が悪いって事ですかぁ?」
キッときつく睨んでくる瞳で我に返る。
「いえ、違います。全く別の事を考えてました」
「人が一生懸命作ったやつ見ながら違う事考えて溜め息とかすごい器用なんですねぇ」
「…そうですね。とても失礼な態度を取りました。すみません」
「謝って欲しい訳じゃないんで〜、別に」
ふいっと顔を逸らしたと共に冨岡先生の眉が徐々に険しくなっていくのを感じ、手元にあった付箋を剥がし走り書きしたものを彼女の死角を利用して椅子の座枠に貼る。
意図を察したのか落とした視線がそれを読み終えた後、私を見つめてくるものの応える事はせず付箋を回収すると小さく丸めた。

"何も言わないでください"

そう伝えたお陰か、またいつもの表情に戻るとパチパチとキーボードを叩く表情に安堵する。
非常にやりづらい。
改めてそう実感した。

* * *

付箋に書いた言葉ひとつで牽制出来たのはある意味奇跡かも知れないと思う程、冨岡先生を挟んで時折向けられる敵意は不死川先生まで届いていたらしい。
煉獄先生の授業へついていく彼女と同じくして、校庭へ向かう冨岡先生の姿が見えなくなった後の事。

「お前、あの実習生と何があったァ?」
スッと引いてくる椅子に苦笑いを溢した。
「完全に嫌われちゃいましたね」
学習指導案を出来るだけ丁寧に、それでいて嫌味にはならないよう添削していくのをその三白眼が見つめている。
「教育係代えた方が良いんじゃねぇ?」
「そうですね。本当はその方が彼女のためになるとは思うんですが、私からそれを提案すると更に波風を立てる事になりそうなのでまだ様子を見る事にしています」
恐らく私に嫌悪しかなかったら、彼女から校長に教育係の交代を直談判している筈だし、期日までまだ余裕があるこの指導案を早々に出してくる事もない。
敵意を向けてくるのは、私に何かしらの反応を求め、期待しているからだ。
やりづらいからと言って、この状況で彼女を無責任に放り出して誰かに任せるのは得策とは言えない。
「お前が良いなら良いけどよォ、その内冨岡が爆発すんぞ?」
「そこなんですよね」
そう、問題はそれ。
鼻炎薬と花粉の効能も手伝って、大人しくはなっているものの、昨日から徐々に薬については耐性がついてきてしまったらしく、ポヤポヤしている時が今日はほぼ皆無だ。
その状態で彼女と私の諍いに揉まれ、いつまでも我慢していられるとは思えない。
というか私が冨岡先生の立場だったら、間に挟まれ、中継ぎするだけでも勘弁して欲しいと本気でうんざりする。
それを考えると、早々にもう一度彼女ときちんと対話をする事が最善なのかも知れないけれど…
「とりあえず解決策を模索して何とかします」
「お前が言い辛ェんなら俺が言ってやろうかァ?聞いてて胸糞悪くてよォ」
「いえ、大丈夫です」
「…あ、そ」
素っ気ない返事でデスクへ帰っていく横顔が何処となく憮然としていて振り返る。
「お気遣い、ありがとうございます」
私の言葉に不死川先生は軽く手を挙げただけで仕事を再開させたので、私も止めていた手を動かす。

「義勇先生が可哀想」

脳内でその言葉が再生されて、僅かに眉を寄せた。

正直、何も言い返せなかった。
一晩経った今も、反論が見当たらない。
だからその敵意と直接向き合う事が出来ないでいる。

考えれば考える程、彼女の言葉は正論だ。
そう認めざるを得ない。

冨岡先生の言動は最初から今日まで一度たりとも揺らいだ事はないのに、私はどうなのかと突き詰めると矛盾ばかり。
誕生日なんかその究極。
何処かでそうなっても良いかな、と思っていたくせに、いざ未遂を起こしたらまた何とか逃げようとしてる。
矛盾以外の何物でもない。

餌をチラつかせて寸止め。
本当に全くその通り過ぎて、返せる言葉もない。

じゃあ受け入れるかといったら、また考えてしまう。
冨岡先生と付き合う、それが本当に想像が出来ない。
そう考えてる時点で答えは出ている。
それに、受け入れたら…

音もなく引かれた右横の椅子に心臓が跳ねた。
添削を再開させながら先程の思考も再度巡らせようとしても、何処まで考えたか全くわからなくなってしまっていて、早々に諦める事にする。
何か、何かこの矛盾の核心めいたものに辿り着きそうな気がしたんだけど

「どうして何も言わない?」

急に飛んできた声へ視線を向ける。
「何がですか?」
「あの小型犬だ」
「だから名前みたいに「何があった?お前が一切反論しないのは珍しい。教育委員会が絡んでる、それだけが理由ではないだろう?」」
鋭い群青の瞳に、この人には誤魔化しが効かないんだよな、と溜め息が零れた。
横目で見れば不死川先生の背中がこちらを意識していて、心配してくれているのだろうというのが伝わってくる。
さて、どう答えたら良いものか。
"国語教科学習指導案"と書かれた文字へ視線を落としながら言葉を探した。

「見事に痛い所を突かれまして「突かれた…?小型犬は女だった筈だが」そういう意味ではないです」
本当に大丈夫かな…この人。
「自分でも抱いていた矛盾を彼女が明瞭かつ痛烈に眼前へ提示してくれたので、それについて考察をしている所なんですよ」
答えが出るかはわからないけれど、多分もう、きちんと考えなければならない事なのだろうと彼女の言葉で気付いた。
「その内容は話さないつもりか?」
「そうですね。どんなに訊かれても答えるつもりはありません」

こればかりは、誰に話をしても仕方ない。
私の問題なのだから。

「わかった。ならば訊かないし触れない」
「そうしていただけると助かります」
「だがあの小型犬が余りにも吠えるようなら話は別だ。俺にも限界はある」
「わかってます。出来るだけ冨岡先生のストレスを最小限に抑えられるようには努力します」
「ストレス自体はお前に触れれば一瞬で消化される故、問題はない。寧ろこれは触り放題の好機として見ている。存分にストレスを与えてくれて良い」
「さっき触れないって言ってませんでした?」
「それは空気という意味だろう?物理的なものとまた違う」


どちらにも触れないで欲しい


(ちょっと不死川先生、助けてくれませんか?)
(……。無理ィ、頑張れよォ)
(不死川も応援してくれるのか)


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