good boy | ナノ
「USB渡しておくので失くさないでくださいね」

ほぼ無理矢理薬を飲ませた後、距離を取りながら差し出した手首ごと持っていこうとするのに眉を寄せる。
「これ以上攻防する程の元気はないんですが」
「今月は酷いな。予定よりだいぶ早いからか?」
「そうなんですよ。いつもよりちょっと重くて…って何で冨岡先生がそれ把握しているんですか」
「やはりそうか。最近予測の精度が増してきたな」
納得したように腕を組む表情は得意げなもので、眉を寄せるしかない。
「もしかして毎月来る日調べてるんですか?ドン引きどころの騒ぎじゃないんですけど…」
「覚えているだけで調べてる訳じゃない。お前は生理前になると僅かながら胸がふくよかになり終わると通常のサイズに戻る。そこから予測を立てているだけだ」
「…どっちにしろ恐怖なのは変わりないですね」
まさか知らぬ内に生理周期まで察知されていたとは思いもしなかった。
「カイロは持ってるか?」
「カイロ?…は持ってないです」
「生理痛が酷い時は温めるのが良い。カイロがないのならペットボトルにお湯を入れたものでも効き目がある」
「確かにそんな類の話は聞いた事がありますけど、冨岡先生かなり詳しいですね」
「姉が寝込むとそうしていたのが記憶に残っている」
「あぁ…お姉さんですか。寝込む程酷いんじゃ心配にもなりますね」
「痛みを理解出来ないならば出来ないなりの気遣いを忘れるなと良く言われていた。それを今遺憾なく発揮している」
「お姉さん、本当にしっかりした考えの方なんですね」
だから弟である冨岡先生がぶっ飛んだのか、ぶっ飛んでるからしっかりしたのか。
こればかりは考えてもわからない。
「名前が望むなら俺が一晩中その身体を温めても良い」
「いえ、良いです。本当に。お気持ちだけで十分です。お気持ちも余り戴きたくはないですけど一応受け取っておきます」
「何故だ」
「明らかに下心しか見えないんで。冨岡先生と一晩中一緒とか死ぬ未来しかないじゃないですか」
「いくら俺でもお前が辛い時に自分の欲求を満たすような勝手な事はしない」
「先程何て言ったか覚えてますか?」
「あれは冗談だ。何なら今から試してみるか?」
「いえ、大丈夫です帰ります」

そんな会話をし、逃げ帰る事には成功した数日後。
経過観察の結果、冨岡先生が薬で大人しくなるのは8時間前後。
そこから徐々に言動が普段のものへなっていく。
今の所、この間のように急に覚醒する事は起きていないし、本人も花粉には相当参ったらしく、切れたと思うと自主的に薬を摂取しているので、問題は起きていない。


今日も朝からポヤポヤしながらもパソコンへ向き合っていて、こんなに連日平和なのは此処に来て初めてなのではないかと嬉しさを噛み締めている。
ミクロンという世界に私の味方は居たのだと、今少し、いやだいぶ、花粉に感謝している。

「本日から本校でも実習生を迎える事になりました」

校長の言葉に思考を止めてそちらへ視線を向けた。
この年度末の時季に実習生なんて前代未聞な試みだ。
教頭に促され、自分の名を告げる可愛らしい声と、まだ着慣れていない雰囲気を感じるリクルートスーツに初々しさを感じた。

「今日から1ヶ月、よろしくお願いしますっ」

これまた可愛らしい笑顔が頭を下げて、教師陣で拍手を送る。

「苗字先生」
「はい」
「彼女の教育係をお願い出来ますか?」
「わかりました」

特に断る理由もないので頷いたものの、校長の表情は何処か晴れないのが気になって言葉を続ける。

「珍しいですね。この時季に教育実習を実施するの」
「…それは」
「あ、私のお母さん教育委員会の監事なんで」
明るい声色に思わず眉を寄せそうになってしまう。
「いわゆるコネってやつで〜す!」
右手を上げるとウィンクをする姿に、短い平穏だったと目を細めるしかなかった。


good boy


教育委員会がわざわざキメツ学園に送り込んできたのかと、完全に身構えた私を余所に、彼女はその特有の明るさと人懐っこさで1日目にして個性的な教師陣の懐に入り込んでいった。

「名前先生〜これ、なんか玄関で渡されたんですけどぉ」
苦しそうな声に、文書を打っていた手を止めれば、すぐ傍で指定伝票と大きく書かれた段ボール箱を抱えた姿。
「此処まで運んで来たんですか?重かったでしょう」
「めっちゃ重いです!」
今にも滑り落としてしまいそうな両腕で支えようと立ち上がったと同じく、スッと箱を攫っていく冨岡先生。
「わ〜お、ありがとうございます義勇せんせ!」
教材置き場へ向かう背中から視線を彼女へ戻す。
「業者から届いた荷物はその場に置いておけば誰かしらが運んでくれるから大丈夫ですよ」
「あ、そうなんですね〜。名前先生宛だって書いてあったから持って行かなきゃって思って…」
「ありがとうございます。でも無理はしないでね」
「はぁい」
返事の後えへへ、と微笑う表情は無邪気で嘘がない。
まだ4日しか様子を見ていないが、懸命に教育現場を走り回る姿は好感が持てる。
仕事に対しての姿勢も真っ直ぐなもので、スポンジみたいに色んな事を吸収していくのは冨岡先生に少し似てると思った。
「それはそうと三限目は悲鳴嶼先生の補佐をお願いしたと思うんですが、何か問題でも起きました?」
「あぁ!忘れてました!お父さんとこってどこでしたっけ!?」
「一緒に行きましょうね」
「ありがとうございますっ」
Wordを保存してから立ち上がると、丁度戻ってきた冨岡先生と目が合う。
「伝票ありがとうございました」
「何処へ行く?」
「竈門くん達のクラスに案内してきます」
「それなら俺が行く。お前は仕事があるだろう」
「じゃあ…、すみません良いですか?冨岡先生に案内をお願いしても」
私を見つめる瞳が笑顔へと変わって
「だいじょ〜ぶですっ」
大きく頷いた事で、群青色へ視線を戻す。
「よろしくお願いします」
「あぁ」
「待って〜!義勇先生足はやっ!」
職員室を後にする2人の背中を見送った後、期限が迫る書類を片付けてしまおうと椅子へ座った。

「苗字よォ」
後ろから飛んでくる呼び声に振り向く前に続いた
「お前、甘くねェ?」
その言葉の意味を考察しながらそちらへ向き合う。
「すみません、考えても何に対しての指摘なのか、わかりかねます」
「アイツだよ実習生。あんな緩くて良いのかよォ」
不死川先生の言わんとしている事が漸くわかった所でパソコンへ向かい直した。
「本人なりに頑張っているので良い傾向だと思うのですが、何か問題でもありますか?」
「初っ端から慣れ慣れしすぎねェかァ?」
困惑している口調に苦笑いが零れる。
不死川先生が言いたいのはこうだ。
何処の世界に教師陣全員を名前とあだ名で呼び始める実習生が居るだろうか、と。
彼女が実弥先生と呼んだ時、明らかに狼狽えた後「生徒が真似すっからやめろォ」と牽制していたのを思い出す。
「他人の懐に入り込めるあの無邪気さは目を見張るものがあります。伸ばしていけば教師としての強味になると思いますよ」

それが例えば、誰か特定の人物だけに対してのものだけなら苦言も呈さなければとも思うが、彼女の場合、そこに隔たりがない。
ただ長い名前は覚えられないらしく、煉獄先生は髪型から連想したライオン先生、伊黒先生はそのままヘビ先生、宇髄先生は既存のあだ名で輩先生、悲鳴嶼先生は雰囲気そのもののお父さん、と次々と決めていった。
それでも誰の反感も買わなかったので、そのまま見守る事にしたのだけれど、胡蝶先生をカナエ先生と呼んで笑顔を返されていた時は、その器用さがとてつもなく羨ましくは思った。

「…お前、何も思わねェの?」
訝る口調に思わず振り返る。
「それは何に対しての話ですか?」
目が合ったのは数秒。
「…だからァ」
すぐに向けられる背中の後
「いや、良いわ」
会話を終わらせようとしているのを気付いて、私も自分のデスクへ向かい直した。

* * *

「名前先生〜、こーえつを〜お願いしま〜す」
間延びした声が右からしたと思えば、冨岡先生の前を遮って紙がひらひらと動いていて、明らかに困惑している横顔に思わず頬を弛めてしまう。
プルプルと震える手からそれを受け取った。
「ありがとうございます。出来れば次から席を立って渡せれば良いですね。冨岡先生も仕事をしているので」
「すいませ〜ん、義勇先生寝てたっぽかったから良いかなぁって」
多分それは間違っていない。
彼女の左手が通っていった時、驚いて肩を揺らしたのは見なくともわかった。
「寝てはいない」
そう言うと日誌を書く手を再開させる動き越しに彼女と目が合って、お互いに笑う。

何も問題はない。
正直、その時は心の底からそう思っていた。



「義勇先生の事、私が貰いますから」

そう言って、私に背を向けた彼女との争いが勃発してしまったのは、それから1週間が過ぎた時。

五限目の間に校内の見回りに向かおうとする私に、冨岡先生がついて来ようとするのを、まだ薬が効いている頃だろうと許した所、連れ込まれた美術準備室で久し振りにその攻防は起きた。

「…名前」
スチールの棚に押し付けられたかと思えば見つめてくる熱を帯びた瞳に、思わず今が何時か考えてしまう。
「どうしました?」
まだ薬が切れる時間じゃない。
少なくともあと2時間は効いてる筈。
筈なんだけども、身体中を這っていく右手は紛れもなく現実でこれはマズイとその手を掴んだ。
「限界だ。お前が欲しい」
「またいきなりぶっ飛んできましたね。薬飲みに戻りましょうか」
「心配ない。効能ならまだ続いている」
「いや切れてると思います。じゃなかったらこんな事にはなってないので」
「切れてはいない。その証拠にくしゃみが出ていないだろう」
「…確かにそうですね」
これは、もしかしたら連日薬を飲み続けてるせいで徐々に身体が順応していってるという事か。
だとしたら完全に目測を誤ってしまった事になる。
大事故が起こる前にとりあえず宥めて逃げなくては。
「そういえば冨岡先生に作成を「黙ってろ。後で聞く」」
いきなり首筋に噛み付いてくるチリッとした痛みに肩が震えた。
「黙りません。誰が噛み付いて良いって言いました?」
「お前が悪い」
「何で私が…いっ…」
「最近俺が従順だと思って放っておいただろう」
「放っておいたつもりはないんですけど、きちんと会話というコミュニケーションはしてましたよね」
「ほぼ仕事の話しかしていない」
言われてみれば確かに。
いや、この人が大人しいと特に喋る必要がないからなんだけども。
「俺という愛くるしい飼い犬が居ながら新参者ばかり可愛がっている」
何を言ってるんだろうかこの人。
「もういちいち拾うのが面倒くさいので全部省きますが新参者ってもしかして実習に来た彼女の事ですか?」
「そうだ」
襟元を引っ張ると吸い付いていく頭が動く度、髪が顎を擽るものだから左手でそれを押さえる。
「撫でてくれるのか?久し振りだな」
「いえ、そういう訳じゃなくて…というか冨岡先生も彼女の面倒見てるじゃないですか」
「それはお前に褒められたい、その一心だ」
はぁ、と短い息を吐いたかと思えば胸に沈めてくる鼻を避けようにも後ろへ引けず身を縮込ませるしかない。
「名前の匂いだ。久々に嗅ぐ…」
「堪能してる所悪いんですけど放してくれませんか」
「嫌だ」
「また出ましたね駄々っ子が」
「駄々っ子になりたくもなる。あの女の事は褒めるのに俺の事は一切褒めない。お前の飼い犬は俺だというのに」
「冨岡先生、何気に彼女の事ご自分と同じポジションとして見てません?あの子は犬じゃないですよ?そして前提として冨岡先生の事飼ってませんからね?」
「あれはキャンキャンと誰にでも懐いていく小型犬に近い。飼い主以外にも甘えていく故、タチが悪く犬界の中でも鼻つまみ者だ」
ホントに何を言ってるんだろうかこの
人…?犬?
駄目だ良くわからなくなってきた。
此処まで強烈なのは久し振り過ぎて言葉が追い付かない。
「…まだ寒い日があるとは言え、暦上は春ですもんね」
そりゃ気も触れるかと遠い目をしてしまった。
「春と言えば花見だな」
「そうですね」
漸く顔を放したかと思えば服を脱がそうとする両手を掴む。
「もう少ししたら河川敷が桜で満開になる。一緒に観に行かないか?」
「花粉症の人が何言ってるんですか。この時季は大人しく家に籠ってた方が賢明ですよ」
「花粉症じゃない。ただ過敏になっているだけだ」
「まだ認めてなかったんですね。すみませんもう戻りたいんですけど」
「駄目だ。さっき言った筈だ。限界だと」
抵抗も虚しく服の中へ滑り込んでくる指先に息が止まった。
下着越しに触れる手は確かに本気だと思う。
「わかりましたご褒美ですねご褒美。最近あげてなかったですもんね。最近の冨岡先生、凄い仕事頑張ってました。偉いですね」
ヤバイ、背中のホックに伸びてきた。
「冨岡先生が色々手を貸してくださるのでとても助かってます。のびのび仕事が出来ます冨岡先生のお陰で。出来ればずっと続いて欲しいと思ってるんですけどこの気を揉まなくて良い平穏な毎日がッ…!」
人が喋ってる最中だと言うのに口を塞いでくるものだから侵入してくる舌を噛みそうになってしまう。
「…んんっ…」
寧ろそのまま噛んでしまえば良かった。
一瞬躊躇したのは最近攻防してこなかった事で起きた完全な気の緩み。
平和で良いと考えていたのに、これは思わぬ弊害だ。
どうにか抜け出そうとしても当たり前に力で勝てない訳で、息が苦しくなって来た頃
ガラッ
開けられた扉の向こう。
真新しいリクルートスーツを認識したと同時
「……え?えぇぇえええ!?うっそ!!すいまっっせん!!」
俄かには信じ難い光景を目にしているであろう瞳がこれでもかと見開かれている。
誤魔化しようがない状況に眉を寄せるしかない私に、冨岡先生もゆっくり口唇を放すが、胸を触る手はそのままなものだから全力でそれを払った。


何の言い訳も出来ない


(来たな小型犬)
(え?こが…?)
(名前みたいに呼ばないでください)


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