good boy | ナノ

痛い。

心の中で冷静にそう思いながら腹部を擦る。
暫くして治まった波に手を放すとマウスを動かす事に集中した。
いや、正確に言うと集中『したい』。
目端に入るコクリコクリと動く頭へ視線を向ければ、ポヤポヤという効果音が似合う程に半分意識を飛ばしている冨岡先生。
先程までは鼻を垂らしながらも威勢は良かったが、対花粉用の薬を飲んだ事で諸症状は一時的に治まり、今現在その代償の眠気が襲ってきているらしい。
正直、その抗えない眠気が他人事ではないので寝ないでくださいと声を掛ける事も憚られる。
原因は違えど、私も同じようなもので、重い目蓋を辛うじて開けながら画面を見てはいるが全くと言って良い程に頭は回っていない。
このまま眠って良いと言われたらその場に突っ伏してしまう程の眠気のせいで、後ろを通りかかった宇髄先生の
「お前ら寝不足になる程派手にヤッたのか!?」
期待に満ちたからかいにも力ない否定を返すしか出来なかった。


good boy


私達の反応に面白味を感じなかったのかその姿が大人しく去った後
「…眠い」
「眠いですね」
「…怠い」
「怠いですね」
同調しかない会話を交わす。
駄目だ。今完全に目を閉じてしまっていた。
「コーヒー淹れますけど冨岡先生も飲みます?」
「…飲む」
完全に寝惚けた声ながら返ってきた返事を聞いて立ち上がる。
職員室と繋がる給湯室の棚から冨岡と名前が貼られたカップを手にした所で一瞬止まったもののコーヒーを淹れると席へ戻った。

「どうぞ」
「っ!」
完璧寝てたなこの人。
動いた事で多少覚醒した頭でそう考えながら椅子へ座ると同じタイミングでカップを持つ右手を見た。
「そういえばそれ、飲み口欠けてますね」
先程見た時、どうしようか迷ってとりあえずそのまま使ってみたけども、何かにぶつけたのか5mmほど欠損している。
「この間洗った時だ」
「新しいの買わないんですか?」
「忘れていた」
「まぁ毎日使う訳でもないですしね」
この人が自分でコーヒーを淹れる事なんて皆無に等しい。
常に不死川先生か私のついで、というおこぼれを貰ってるためだ。
不死川先生に淹れて貰うようになったのは割と最近の事。
自分のカップを手に給湯室へ向かおうとした姿を冨岡先生がじっと見ていた所、圧に負けたのか
「…何だよ飲みたいならテメェでやれやァ」
そう言いながらも見つめ続ける群青色に見事に絆されていたのを苦笑いした記憶がある。
不死川先生も私も、コーヒーを淹れる事はするが、カップを片付けるのは一切手は貸さないようにしているので欠けていた事には今の今まで気が付かなかった。
一口飲んでからあぁ、そうだ、と思い付く。

「カップ買ってきましょうか?」
冨岡先生からすれば突然に感じるであろう提案にその顔が若干驚いている。
「誕生日プレゼントです」
自分で言っておいて、今更感が拭えないとも思うけども、もう2月もあと数日で終わるというのに、未だ冨岡先生に何も渡せていない。
思い付いたものを提示してみても、いつものように打てど響かずで、それならばと勝手に選ぼうとしたが、年始と違って何を見ても単純にしっくり来るものがなかった。

「いや、良い」
目が醒めたのかいつも表情に戻っている横顔がカップを口に運ぶ。
またひとつ選択肢が消えた事で考えを巡らす前に
「欲しい物は決まった」
短い一言を聞いてつい警戒を強める。
「何ですか?」
「パソコンが欲しい」
…意外と、と言ったら失礼だけど、本当にちゃんとしたまともな希望で正直驚きしか出て来ない。
「パソコンがあれば家でも仕事が出来る。わざわざ此処で名前を付き合わせずに済むと考えた」
「…それはまぁ、確かにそうですね」
そうなんだけどもパソコンって結構なお値段だよな、というのは心の中で思う。
でも、これまでの恩と明確な理由を考えると値打ち分の価値は大いにある。
「わかりました。どんなのが良いとかあります?」
「まずそこの見解に行き着く程知識がない」
「…そうですね」
それもまぁ、そうか、と小さく頷く。
「デスクトップ型とノート型ならどちらをご所望ですか?」
暫く待っても答えがない事で言葉を続ける。
多分この人鼻づまりと薬の副作用で完全に頭が回ってない。
「此処にあるタイプと私がいつも家で使ってるタイプです」
「…どう違う?」
「特筆すべきなのは持ち歩きが出来るか出来ないかですね」
「悩むな」
「どうぞ熟考なさってください」
どちらが良いかを考えると、持ち歩く事もないだろうし、慣れる、という一点に於いては冨岡先生の場合、デスクトップ型の方が良い気もする、と思いながらコーヒーを飲むとマウスをクリックした。
あぁでもそうするとあの殺風景な部屋の何処に配置するかが問題になるか。
見た限りそれ用の机なりを用意しないと置き場所の確保は難しそうだ。
「名前はどちらが良い?」
「そうですね」
考えていたそのままを口にしようとしたが
「俺の部屋に教えに来るか、俺がお前の部屋に享受を受けに行くか」
その言葉に能面になってしまう。
「どちらも嫌です。何で教えるの前提なんですか。いや、それは百歩譲って良いんですけど絶対何か企んでますよね?」
「そんな事はない。単純に部屋を行き来する労力を案じている。お前の負担にならない方法を取りたい」
「…それならどちらも選択出来るノート型一択になるのでは?」
「やはりそうか。ならそれにする」
本気かどうかは定かではないけれど、納得している横顔に小さく息を吐いた。
動機はどうあれ、傾向は素直に上進と言える。
「今度付き合ってくれないか?」
一瞬またふざけた事を言い出したのかと思ってしまったが、口調でそれとは意味合いが違う事に気付いた。
「何処にですか?」
「家電量販店だ」
「良いですけど私もそんなにパソコンに詳しくはないですよ?」
「それは店員に訊けば良い」
「まぁ、そうですね」
何だろう。こう言ってはなんだけどすごくちゃんと会話をしてる気がする。
「今日仕事終わったら行きます?」
「良いのか?」
「えぇ。思い立ったが吉日と言いますし今日はそれ程忙しくもないので」
「体調が芳しくないんじゃないのか?」
こちらを見ると眉を下げるその表情は憂慮そのもので、返す声色を意識してしまった。
「絶好調とは言い難いですが絶不調という訳でもないのでお気遣いなく。冨岡先生こそ大丈夫ですか?」
「名前の薬のお陰でだいぶ落ち着いた」
「それなら良かったです」
正直落ち着き過ぎな気もしなくもない、というのは口に出さない事にする。
鼻炎薬というものが何で出来ているのか成分表を隅から隅まで熟読したくなる程に、冨岡先生が普通でまともなのが正直恐ろしい。
普段余り薬を飲まないから余計なのか、効き目が顕著過ぎる。
と、いう事は学校に居る間、常に鼻炎薬を与えておけば良いのでは?と、会話が途切れた事でまたポヤポヤし始める横顔を眺めながら、そんな非現実的な事を考えてしまった。

* * *

「気になったのあります?」
「…何が違うのかさっぱりわからない」
家電量販店の一角、並べられたメーカーも規格も全く異なるノートパソコンと睨み合いながら珍しく途方に暮れているのも多分花粉と薬のせい。
「店員さんにお勧め訊いてみます?」
「あぁ」
辺りを見回した所で制服に身を包んだ背中に近寄ると
「すみません」
そう声を掛けた事で振り向かれた短髪。
「いらっしゃいませ〜」
流れ作業のような野太い挨拶が私を見た瞬間、驚きに満ちていた。
「…苗字、じゃん」
「………」
さて、どなただろうか。
顔を見ても思い出せないのは多分、最近会った事がないためだ。
「すっげ久し振り!お前何この辺に住んでんの!?」
凄い純粋に懐かしがられてるけど全く覚えてない。
「…あ、えぇ。お久しぶり…」
敬語を使って良いものかすら迷って言葉を止めた所で
「パソコンについて訊ねたい」
目の前にぬっと出て来た青みがかった髪が視界を遮った。
「パソコンをご希望ですか?デスクトッ「ノート型だ」…ご希望のクロック数とかコア数とかは?」
「それが全くわからないので訊ねている」
「わっかりました!じゃあ使用用途教えてください」
「文書の作成」
「仕事用って感じっすか?」
「主だって言うならそうだ」
一応、きちんと意思疎通が出来ている二人の背中を見ながら、記憶を巡らせるがその人物が誰なのかを気付いたのは、会計の時。

此処に来る前、前以ってATMから下ろしておいた現金を出そうとした所で遮る冨岡先生のせいで勃発した攻防に
「…ふははっ!」
独特の笑い声で僅かに記憶の底が揺らいだ。
それでもまだ定かじゃなかったその人物は、折半という形で手を打った私達に
「仲良いっすね〜」
そう言うと拳を突き出して親指だけを立てる動作を見せた事で完全に記憶が蘇る。
通りで名札を見ても気が付かなかった筈だ、と頭を軽く下げ、家電量販店を後にした。


「さっきの男は誰だ」
その言葉でノートパソコンとWi-Fiのルーターが入った箱を涼しい顔で抱えながら隣を歩く顔を見上げる。
どんな形であれ訊かれるとは思っていたので準備していた答えを口に出した。
「小学校の同級生です。4年生の1学期まで一緒のクラスでした」
「良く覚えてるな」
「まぁ、そうですね。特殊なんで。彼の場合」
「好きだったのか?」
ピリ、と張り詰めた空気を醸す右横から目を逸らす。
「男女だというだけでそうやってすぐに恋愛に結び付けるのは余り関心出来ません。逆の立場だったら冨岡先生どう思います?」
「俺の過去に於いては名前が憂慮するものは何もない。これから先もお前が不安要素と感じるものは全て断つ」
「…訊くだけ野暮でしたね」
「あの男とは何があった?」
「特別何があった訳ではないんですけど」
記憶を巡らせたのは取っ掛かりを探すため。
「私が教師を目指したきっかけは覚えてますか?」
「覚えている。名前の事は何一つとして忘れないと言った」
「その揉めたという子がさっきの店員さんです」
まさかこんな所で再会するとは思わなかった。
「あいつが名前を傷付けたのか」
「昔の話ですしもう何のわだかまりも残ってないんで蒸し返して問題にしないでくださいね」
「それなら何故仔細まで覚えている」
「覚えてるというか、思い出したという方が正しいんですけど…」
一度言葉を止める私に群青の瞳が向けられる。
「半年程後で彼のご両親も離婚してるんですよ」
ジメジメとした梅雨の時季だった。
下駄箱で靴を履いていた所、彼と鉢合わせた時
「俺もうすぐ転校すんだ」
突然そう言われ「そうなんだ」としか返せなかった私に、寂しそうに笑いながら、両親の離婚を告げてきた。
また「そうなんだ」としか言えなかったのを覚えてる。
「あん時はごめんな」
それだけ言うと傘も差さず走っていった背中は、もしかしたら泣いていたのかも知れない。
結局その後は碌に会話もしないまま、引っ越していって、言葉の意味を理解したのは、母親が旧姓へ戻した事で彼の苗字が変わったと風の噂で聞いた時だ。

「同じ痛みがわかる、という事か」
逸らされた瞳はどことなく寂しそうで、苦笑いをするしかなくなってしまう。
「そんな大層なものでもないです」
その眉が完全に下がって足を止めてしまう前に
「ほら早く帰らないとセットアップする時間なくなっちゃいますよ」
一息でそう言うと背中を軽く押した。

* * *

リビングのテーブルの上、先程購入したばかりのノートパソコンを睨み合う冨岡先生を横目に入れながらスタートアップガイドを読み込む。

「そうしたらルーターのパスワードを入力する画面が出ると思うんですけど」
「…これか」
「そうです」
「パスワードは何だ?」
「ルーターの裏面に書いてあります」
部屋の隅に設置したその機械へ近付くとしゃがみ込む背中へ言葉を続ける。
「暗号化キーとかKEYとかそういう表記だと思うんですけど」
「この羅列か」
「読み上げていただければ入力します」
「わかった」
冨岡先生の言葉に合わせて英数を打ち込みながら左端に入るドラセナが心なしか大きくなってる、そんな事を考える。
背中に感じるのは開け放たれた寝室のベッドから覗く犬の視線。
「以上だ」
「ありがとうございます。…繋がりました」
戻ってきた冨岡先生と入れ替わり、隣へと移動てからも、どうにも気になって仕方ない。
そっと振り返ればムスッとした表情と視線が合った。
もしかして冨岡先生、あの犬といつも一緒に寝てるのだろうか?
ついその光景を想像した瞬間、頬が弛んでしまう。
「何かおかしいか?」
「…いえ、何でもないです」
大人しいとは言え、余計な事は言わない方が良い。
何処でスイッチが入るかわかったもんじゃない。
「これでひとまずの設定は完了したので、あとはメール機能とか…使います?メールとか」
「今の所予定はない」
「じゃあそれは追々必要になったらという事で」
時計を確認してから鞄を手に持つ。
「帰るのか?」
「帰ります」
意外に時間が掛かってしまった。
さっさとシャワーと食事を済ませなければ明日に響く上に、大人しい内に帰らないとまた痛い目に遭いそうな予感がする。
「…くっしゅ!」
響いたくしゃみと同時、仰ぎ見た天井で遅かった、そう思わざるを得ない。
「痛いんですけど…何でこういきなり…」
「好感度の石は何処まで積まれた?」
「今日は優秀だったんで結構積みましたよ。腰の辺りまでですかね?」
「ならばその辺りまで好きにして良いという事だな」
「そんな条件認めてないです」
「大丈夫だ。生理の時に無理矢理するような真似は流石にしない。その代わり舐め「今ので一気に崩れ去りました。積む石も積む気力も一切なくなったんで賽の河原はこれにて終了とします」」
駄目だこの人、いくら積んでも自分から全部薙ぎ倒しにかかってる。
ホントに無駄な努力でしかない。
「…そうか。なら今はこの状況を惜しむ事なく堪能しよう」
落ちてくる顔に、ヤバイ完全にヤク切れだな、と傍から聞いたら語弊しかない事を思った。


どうにかを与えないと


(まず鼻炎薬飲みましょうね)
(後で…クッシュンッ)
(ほら辛いですよ。飲んだら楽になりますよ)


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