good boy | ナノ
「校閲を頼む」
右側から差し出された一枚の紙。
それが冨岡先生からの物なのは見なくてもわかるが、一度ペンを走らせていた手を止めると視線を向けた。
群青色の瞳はパソコンへ向けられたままで、合う事はなかったが
「わかりました」
両手で受け取れば、その手がまたキーボードを叩いていく。
真剣な横顔の邪魔をしないよう、早々に書類へ目を通した。

ここ最近は、今のような状況が続いている。
作成を依頼した職員会議の資料は、私が予想していたよりも遥かに順調なペースで進み、三分の一までを仕上げる事が出来た。
折角頑張ったのだからと「この資料は冨岡先生が作成してくださいました」と報告程度ではあるが口添えをすれば、会議を終えた教師陣に次々と労いの声を掛けられていて、その表情は若干ではあるけど、照れているようだった事を思い出す。

自分が作った書類を、教師陣が真面目に読み込み、努力した結果を認めて貰える。
目に見える成果と経験は、冨岡先生にとっても心に響くものがあったのか、書類作成を自ら買って出るようになった。

「今現在、俺の好感度はどれくらいだ?褒美を貰える程には溜まったと思うんだが」

まぁ、私がそうだと思いたいだけで、この人の根本は全く、これっぽっちも変わってないんだけども。


good boy


「その努力の賜物を昨日、ご自分で全部薙ぎ倒したのをお忘れですか?」
返す言葉を失ったのか、聞こえないふりを貫こうとしているのかは判断しかねるが、とにかく黙り込んだ右横に溜め息をひとつ。
冗談で言った好感度の石積みは、一週間を過ぎてもまだ続いているらしい。
こうして仕事モードに入ってくれるようになったのは良かったんだけども、その反動というやつなのだろうか。
祝日だった昨日、買い物帰りに鉢合わせたエレベーターで突然暴走したものだから、折角少しずつ積んできた小石は跡形もなく崩れた。
そこまで考えて思うのは、この石は好感度というより、信頼度を表しているのかも知れない。

「何度も言いますけど冨岡先生の場合落差が激しいんですよホントに。小石散らばり過ぎて足の踏み場もない位になってますよ」
「そうか、わかった。待ってろ。今からその小石を拾い集めてくる」
脈絡もなくいきなり立ち上がるものだからつい怪訝な顔になってしまう。
「何するつもりですか?」
「校内の見回りだ。今日はまだ回ってないだろう?お前の代わりに俺がしておく」
「…そうしていただけると助かります」
けど、と続けようとした言葉は
「くしゅん!」
突然のくしゃみに驚いた事で止まった。
声を掛ける間もなく二回三回と続いた後、小さく鼻を啜っている。

「…もしかして冨岡先生、花粉症ですか?」
「外気に対し身体が過敏に反応しているだけだ」
「それを花粉症っていうと思うんですけど…」
「これまで一度もなった事はない」
「突然発症するのが花粉症の厄介な特性ですよ」
「…くしゅッ!」
「ほら、鼻垂れてますし…」
ポケットティッシュを渡せば間髪入れず鼻を咬む姿に苦笑いをするしかない。
「薬とか飲んだ方が良いんじゃないですか?放っておくと悪化しますよ」
「良い。俺は花粉症などではない」
返却してこようとするティッシュと塵紙を右掌で制止した。
「いえ、良いです。差し上げます。そしてゴミはご自分で捨ててください」
「…良いのか?」
だから何でそこで、と思い掛けた思考は途中で放棄する。
「どうぞ。ポケットティッシュなら予備も引き出しに入ってるので」
「そうか」
ジャージのポケットへいそいそとしまう右手が何となく嬉しそうで、こういう所も変わらないなぁと思ってしまった。

* * *

私の斜め後ろの椅子が動いたのは、先程渡された書類の校閲を終えたと同じ頃。
気配は感じながら赤ペンの蓋を閉めた所で
「アイツ大丈夫かァ?」
不死川先生の言葉に振り返った。
「アイツとは?」
「冨岡だよ冨岡ァ。くしゃみ連発しながら歩いてたぞ?」
あぁ、と苦笑いをするしかない。
「多分花粉症なんですけど、認めないんですよ。何なんでしょうね?あの頑固さ」
この時季になると冨岡先生だけではなく、たまに生徒でもそういう頑なさを持っている子がちらほら現れるのを無意識に思い出す。
「あぁそりゃァ、認めたら負けみたいな考えなんじゃねェのォ?」
「誰と戦ってるんですか」
「花粉野郎と?」
つい小さく噴き出してしまった。
「マイクロの世界に勝つ術はなさそうですけどね」
それこそ元凶を根絶やしにするしかなさそうだ。
途方もない労力と人件を使うだろうけど。
「そういやお前よォ」
「何ですか?」
校閲を終えた資料を右のデスクに置いてから不死川先生を見る。
「冨岡からのアレどーした?」
アレ、というのが婚姻届を差しているのを理解した時には眉間に皺が寄っていた。
「家にあります」
「書いたのかァ?」
「書いてないです。一文字も書いてないです。何でそんな事訊ねるんですか?」

保証人欄の件について、不死川先生に説明を求めたのは次の日の朝。
冨岡先生へのバレンタインプレゼントの報告と共に口火を切った私の顔はご本人曰く恐ろしかったらしく
「だってアイツすげェ真剣に頼んでくっからよォ…」
バツが悪いといった口調で頭を掻いていた。
不死川先生を責めても意味がないとそれでこの件は一切話題にしないと決めたのだが、まさかまた蒸し返してくるとは思わなかった。

「さっきアイツ言ってたぜ?もうすぐ苗字と出しに行くって」

もう何ていうか、能面になるしかない。
何処からどうそうなって、何をどうしたら良いのか、順序立てて考えるのすら馬鹿らしくなってくる。

「暖かくなってきた上に花粉という敵の襲来で更に脳細胞が死滅してるんですかね。冨岡先生の妄言なんで真面目に捉えなくて良いですよホントに。常に戯言しか言わないんで」
「お前も冨岡に対してだいぶ丸くなったけどよォ、そういう所の当たりは相変わらず強いのな」
「当たり前です。全力で否定していかないといつの間にか外堀埋められて取り返しのつかない事態になりそうなんで」
「そうかァ?今もだいぶと「言わないでください」」
逃げ道が徐々になくなってきているのは冷静に考えて、そう判断せざるを得ない。
「認めたら負けってやつだよなァ」
ギッと音を立てて背もたれに体重をかけると頭の後ろで手を組んだその表情はあっけらかんとしている。
そう、あっけらかんとしているものだから

「お前冨岡の事、実は結構好きだろ?」

何を言っているのかを考えるのを止めてしまった。
「は?」
驚きの余り一文字しか返せないし、何を言っているのか未だに理解出来ていない。
「いや、だから苗字、冨岡の事好きだろっつってんだけど」
「そうですか。遂に不死川先生まであちら側に行かれましたか。こんな殺伐とした世界じゃ常人の精神では生き辛いですもんね。何処か狂ってないと世の中渡っていけませんよね。ご愁傷様です。常人の世界は私にお任せください。不死川先生の分まで平和に生きます。安らかにお眠りください」
「オメェ、たまにすっげェ事真顔で言い放つよなァ」
「最初に爆弾投げてきたのは何処の誰ですか。熨斗つけてお返ししただけです」
「爆弾投げたつもりは」
その言葉が途中で止まったのは、職員室に引き戸が引かれたと共に
「クシュンッ!」
響いたくしゃみのせい。
「…あー、まァ良いや」
早々に会話を切り上げるとデスクに向かう不死川先生と入れ替わるように戻ってきた冨岡先生が椅子へ座る。
「……ズズッ…ティッシュはまだあるか…?」
明らかに苦しそうな鼻声が聞こえ、引き出しを開けるとすぐにそれを取り出した。
「大丈夫ですか?病院行った方が良いですよ。早た「早退はしない。仕事がある」」
参った。此処でまた変な頑固さが出てきてしまった。
鼻炎薬なんて持っていない上に保健室にも常備されていない。
せめてもの気休めに使い捨てマスクくらいならと考えるも、珠世先生は校外学習の付き添いのため丁度出払ってしまっている。
マスク1枚なら事後報告でも許されるかと椅子を引くと立ち上がった。
僅かに感じる違和感に眉を寄せたのは一瞬。
「何処に行く?もう昼食の鐘が鳴る」
冨岡先生の言葉に力を弛めると椅子をデスクの隙間にしまう。
「…お手洗いです」
そうして返事を聞く前に職員室を後にした。



教員用の女子トイレを出て職員室へ向かいがてら、つい下腹部を押さえる。
予定より早く月のものが来てしまった。
これは非常にマズイ。
三段目の引き出しに常備していた生理用品を思い出すも、確か2日前に相談しに来た生徒へ渡したのが最後の1つだった。
補充を忘れていたわけではないが、外装が見えないようひとつひとつ梱包している途中のまま、家に放置してしまっている。

職員室へ戻れば、既に各々それぞれに昼食にありついていて、胡蝶先生に相談してみようかという選択肢は早々と諦めた。
自分のデスクへ戻り財布を手にすると持参した弁当をかっこんでいる後ろ姿に声を掛ける。
「すみません不死川先生、私ちょっと外出します。昼休みが終わるまでには戻ってきますがもし何かあったらLINEください」
「…あ?あァ、わかった。気ィ付けろォ」
また不思議そうな顔はしているものの、短い返事に軽く頭を下げると職員室を後にする。
冨岡先生はきっと今頃、いつもの場所でいつものようにパンを齧っているんだろうかと考えた。

* * *

職員室の戸を開けたのは昼休みが終了する約10前。
急ぎ目にはしたが予定よりも早く戻って来られた事に安堵しながらデスクへ戻った所、その右隣はまだ戻ってきていないようだった。
「戻りました」
不死川先生にそう声を掛け、中身が見えない黒いビニール袋の中から、鼻炎薬、若干値が張る箱ティッシュ、マスク、ワセリンを取り出す.
「おぅ…ってお前、冨岡のためにわざわざ買い出し行って来たのかよ」
…絶対言われると思った。
「急遽ドラッグストアに行かなきゃならなくなったんでついでの買い出しです」
「………」
黙り込む不死川先生を余所に隣のデスクへそれを置けば
「…あー」
納得したような声がした事で視線を向ける。
ビニール袋を見つめている辺り、状況を正確に把握したらしい。
「しっかし用意が良いなお前。このワセリン、鼻に塗る用だろ?」
スッと椅子が動いて、四角い箱を手に取る。
恐らくわざと話を逸らしたんだろう。
言及してこないのは正直言ってとても有難い。
「良くわかりましたね」
「アイツらが風邪引いた時に良く塗ってっからよォ」
アイツら、とは多分とは付けるが九分九厘弟さんの事だろうと考える。
「ひとつあると重宝しますよね。私の弟も良く使ってます」
「…何だァ苗字にも弟居んのかァ」
あぁ、そうか。
冨岡先生以外の教師陣は知らないんだったっけ。
「居ます。その弟が慢性鼻炎持ちなんですよ。割と幼い頃から花粉症を併発したのを近くで見てたので、今の冨岡先生の苦しみもわからなくもないってやつです」
「あー、成程…」
腕を組んだ不死川先生がまた変な事を口にする前にデスクへ向き直そうとするも
「お前やっぱ丸くなったよなァ」
感嘆に近い口調で言うものだから動きを止めた。
「そこまでしみじみと言う程尖って見えてました?」
「尖ってるっつーか、何だ。前のお前だったらはぐらかして話題変えてただろ?ぜってぇこんな話してねぇよなァって思ってよォ」
「それは先程不死川先生が良くわからない勘違いをしていらっしゃったので、経緯の報告をしないとまた面倒な思い違いが」
「悪ィ先に謝っとくわ。後ろがすげーやべェ」
その不死川先生の忠告は、突然上方一点を見つめる瞳に言葉を止めたと同時だった。
何事かと振り向くより遥かに早く喉元を絞められ、息を止めた後で気付くジャージの袖。

「…何してるんですか。首絞まるんですけど。此処が何処かわかっていての行動ですか?」
「2人で仲良く…ズズッ…何を話していた…」
「特に仲良く話してた訳ではないですし、取り立てて報告する内容もないです」
「俺が不在になる昼食時は危険だ…ズッ…」
「危険なのは今人の首にホールド決めてるご自分ですよ」
「何を話していた?」
「不死川先生が冨岡先生と同じく強靭な狂人の世界に旅立っていかれたのでお見送りをしていました。良かったですね冨岡先生、仲間が増えましたよ」
「苗字テメッ」
「随分楽しそうだな…」
更にグッと絞まる力に意外と本気で怒りで満ちている事を知る。
表情が窺えない事で完全に油断していた。
「ちげェからッ!ちったァ落ち着け!苗字がお前のために買ってきたんだっつの!コレ!」
指差す先を追ったのが顔を上げた気配で知る。
「お前のためにコイツ昼飯も食わなかったんだからな!」
また余計な餌を撒かないで欲しいと言い掛けた言葉は
「……そうなのか?」
途端に弛まる力に、これはこれで救われたのかも知れないと考え直した。
「必要な物を買いに行ったついでです」
完全にその手が放された事で安堵したのも束の間、デスクに置かれたままだったビニール袋を開くと覗き込む。

「…そうか、生理か」

項垂れるしかない私の耳に、デスクへ戻っていく明らか気遣いしかない椅子の音が入ってきた。


そこに配慮というものは


(何で口に出すんですか…)
(辛いか?保健室に行くなら俺も)
(まずご自分から垂れる鼻を心配してください)


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