すっかり陽が落ちた職員室。 事務方の先生から最後の戸締りを任されてから数十分は経ったように思う。 通常の就業時間と違い、ひっそりと静まった空間の中、パチ、パチ…とキーボード叩く音を主に右耳で聞きながら、ボールペンを滑らせていく。 えーと、あと資料に組み込むのは何だっけ?と手を止めた所で 「…入力し終えた」 その報告に視線を上げた。 「じゃあ此処の余白に、前年度との対比を入れたいんで…USB…持ってませんよね?」 困惑している表情にちょっと待っててくださいと断りを入れてから引き出しを開ける。 カナ子ちゃんの笑顔を視界に入れ、微笑ましい筈なのに、つい怪訝な顔をしてしまうのはそれに挟まれた婚姻届なるもののせいだ。 「受け取らないのなら破る」 という何とも斬新な脅しに屈した訳だけども、受け取りはしてもそれに記入する、とは一言も口にはしていないのでまだ逃げ道は存在している。 こういうの何ていうんだっけ?そうだ、踏み絵に近い脅しだな、と受け取りながら考えたのを思い出す。 USBを手にしようとした所で先に口を開く冨岡先生。 「胡蝶のプレゼントは何だった?」 その言葉に、またも顔を顰めてしまった。 good boy 「クッキーでした」 短く答えてからUSBを差し出す。 「これ、そう…差し込んでもらえます?」 「何処にだ?」 僅かに身体を引いてパソコン全体を見回す動きに腰を浮かす。 「そちらにUSBポートがあるんで…」 冨岡先生の右側はこちらからでは見えないため乗り出した途端、胸へ触れる左手に動きを止めた。 「ふざけた事したら終わりにしますからねってさっき散々言いませんでした?冨岡先生、承知しましたよね?」 「言った。承知もした。目の前に出されるとつい手が反応してしまう」 「そこを理性というものが抑えるのではないかと思うんですけどね」 未だ置かれる手を剥がしてから、面倒ながらも一度後ろを通るとその右側へ回り込んだ。 「これがUSBポートです。それを此処に挿入してください」 「……!」 弾かれたように驚いている表情に、あぁ、避けていた単語を口にしてしまったと後悔が押し寄せるも、大人しく差し込む右手に小さく息を吐く。 一応、この資料作成を始めるに至って言い聞かせた言葉は今効いてはいるらしい。 本当の思惑がどうか定かではないが、資料を作るために残りたいという、珍しく仕事熱心になる姿に、絶対に仕事以外の言動をしないという条件で付き合う事にした。 あれから、もう少し考察をする事で、どうしたらこの人が暴走をしないかという解決策を若干ではあるけども、見出した気もしている。 そもそも冨岡先生の問題は"私にしか重きを置いていない事"にある。 自分の置かれた状況や立場を教え込めば、少なくとも危険が多い学校内で暴走するまではいかなくなるんじゃないか、そう考えた。 これまでもこの人はここぞという時はきちんと仕事をこなしているし、意識をそちらに回せない訳じゃない。 という事は、常にそちらへ向けさせ、仕事の事だけで頭をいっぱいにさせれば良い。 最初こそぎこちなかった両手も、なかなか飲み込みも早く筋も良いため、もう少し慣れたら私が担っている仕事を冨岡先生に任そうという施策をしていたりする。 これが上手くいけば、ふざけた事をされなくなる上、仕事も減るという、一石二鳥の作戦だ。 指示通りに進めていく横顔は真剣そのもので、いつもこうだったらずっと一緒に居ても良いのになぁ、と考えてから心の中で首を横に振った。 ずっと一緒に居ても良いって、何それ。 それじゃあまるで… 犬として、って事だ。そうそう。 飼い犬くらいなら… 「…名前」 「な、何ですか?」 「…此処の行だけ何故かズレる」 そうだ、今は仕事の事だけを考えないといけない。 変な所で見透かされてまたおかしな事になったら困る。 「…ホントだ。何ででしょうね?ちょっと良いですか?」 何も言わず椅子を引いたその隙間に入るとマウスを動かす。 段落設定を動かしてしてみても修正されないな。 「名前は仕事に集中している俺が好きか?」 「好きか嫌いかで分類しなきゃいけないのなら前者です」 他に設定は動かしてないし、これは多分…。 「俺もそうやって仕事に夢中になっている名前が好きだ」 「それはどうも、ありがとうございます。すみません、折角入力していただいたんですが、一度この行だけ削除して良いですか?すぐに打ち直すので」 「構わない」 「ありがとうございます」 一度ゴッソリと消去してから、先程冨岡先生が入力していた通りに文字を埋めていく。 「多分これでズレる事はないかと、思うんですけど…」 「お前の手捌きは速いな」 「毎日やってたら嫌でも速くなります。要は慣れですね」 「しかも打ちながら会話が出来る」 「それも慣れですね。人間慣れれば何でも出来るようになります。冨岡先生だって1ヶ月後には物凄い速さで書類作るようになってるかも知れないですよ?」 「そうしたらお前の力になれるだろうか」 止めてはいけないと思いつつも、勝手に力が抜ける両手と同時に、思わずその表情を窺ってしまう。 訴えるように見つめてくる群青色に答える言葉を模索するより先 「そうですね。とても助かります」 素直にそう答えていた。 「そうか」 嬉しそうに細める瞳に頬が弛まっていくのを感じながら、最後の6文字を打った所で椅子を後ろに引く。 「あとはこのまま打てば大丈夫だと思います」 言うや否や椅子を戻すとまた真剣に文字列と睨めっこする横顔に小さく微笑ってしまう。 「最初から根を詰めすぎると疲れちゃいますから、今日はあと1行打ったら終わりにしましょうね」 「…わかった」 言われた通りに、キリが良い所まで打ち終えた右手が、上書き保存をするのを横目で見ながら、あぁ、そうだと後ろを振り返る。 置いたままの紙袋を手に取ると椅子から立ち上がる冨岡先生へ差し出した。 「これ、不死川先生が持って帰って欲しいと言ってました」 先程話した時より若干増えたその包み。 一瞥する事もなく上着を羽織る表情は全く変わらない。 「俺は要らないと言った」 「このまま此処に置いといても正直困るんですが、いつもはどうしてたんですか?」 「実家だ」 「あぁ、成程。1人じゃ食べ切れませんもんね。この量は」 「去年まではそこまで多くもなかった。何故か今年は飛躍的に増している。正直迷惑でしかない。お前は嫉妬しないのか?」 「しません」 言い切ったのは失敗だった。 またシュンと眉を下げる表情につい申し訳ない気持ちになる。 「生徒からチョコを…まぁチョコだけじゃないですけど、贈られるという事は単純な恋愛以外の感情もあると思うんですよ」 「恋愛以外の感情…?」 「例えば尊敬、思慕、感謝、これらを年に1回しかないイベントを通して伝えたい、或いはただ単に喜んで欲しい、これはその生徒達の想いの塊だと私は考えているのですが、どうでしょうか?」 今まで向けられなかった視線がその紙袋へ落とされたのに気付いて続ける。 「だからこそ今年は贈られる量が増えたのではないかと。全部が全部、冨岡先生が疎ましく思うものではないと考えてみませんか?」 「お前は、どんな時でも平等に優しいんだな」 「優しくはないですが等しくあろうとはしています。唯一の取り柄がそれなので」 「…わかった、実家に持って行く」 「全部ですか?」 「全てを消化出来ないとわかっているため、最初から一切手は付けない」 「…成程」 表情は変わらないものの、その柔らかい雰囲気に口角が上がってしまう。 「冨岡先生こそ優しい人だと思いますが」 「………」 突然詰めてこようと一歩踏み出す足に気付いて両掌を向ける。 「そこまでですよ。それ以上近付くと今まで冨岡先生に対して積み重ねてきた好感度が音を立てて崩れますからね」 「…それは今どれ位溜まっている?」 「小石5個分です」 「…それだけか」 「それだけです」 「明らかに少ない」 「そうなんですよ。さっきまでは結構積んでたんですけど、図工室での事故で全部薙ぎ倒されちゃったんでまた1から積み直してる所です」 「それは何処まで積み上げればお前の全てが手に入るようになる?」 「さぁ?それはちょっと良くわ「何処まで積めば良い?」」 冗談で言ってるつもりなんだけども圧が強い。 しかしこれは、上手い抑制になるのでないかと気付いた。 「此処が地面だとすると…」 足元を指差してから天を仰ぐ。 「この学園の屋上位ですかね」 「高過ぎないか?」 「そうですか?この間までは届きそうだったんですけどね」 「それはいつの話だ?」 「ドライヤーで攻撃した時です」 「ちく「それはもう良いです言わないでください。ほら、また小石がひとつ落ちました」」 呆れ顔で見つめる私に、その瞳が考えたかと思えば、何かを納得したように小さく頷く。 「そうか。お前が嫌がる事をしなければ良いのか…」 「それ今気付くんですか?人として最低限の礼儀だと思うんですけど…」 「とにかくその好感度を崩さず溜め続ければ良いんだな?」 俄然やる気に満ちた瞳…と言っても多分誰にも伝わらない程の変化なんだけども、とにかく火は点いたらしく苦笑いをしながら頷く。 「そうです。頑張ってください」 帰り支度をしながら、ふと思い出した存在。 引き出しを開けると鞄にしまうカナ子ちゃんの笑顔を不思議そうに見つめている。 「持って帰るのか?」 「はい。此処に置いておくよりかは家にあった方が安全なので」 「紛失を避けるためか」 含み笑いをするものだから冷たい視線だけを向ければ、これは不味いと思ったらしい。 またいつもの表情に戻ると何も返す事なく立ち上がり上着を着る。 「そういえば胡蝶先生にバレンタイン贈るように言ったの、冨岡先生だったんですね」 「推奨した訳じゃない。喜ぶだろうかと訊かれたのでそのままを答えただけだ。バレンタインだというのはお前に聞くまで失念していた」 「そのお陰で私は胡蝶先生にコレを戴けた訳ですね」 取り出したアイシングクッキー。 何度見ても嬉しさが込み上がってくるそれを掻っ攫おうとする右手に警戒を強めた所で、それも不味いと察したのか引っ込める手に安堵の息を吐いた。 「1枚、食べます?」 「名前にしては珍しい提案だな」 「冨岡先生の口添えで戴いたものですから、お裾分けするのが道理ではないかと思いまして」 綺麗に結ばれた紫のリボンを解くと個別に包装されたクッキーを机に並べる。 「どれが良いですか?」 先程までは見えなかった後ろの3枚、内2枚はこれまたとても繊細に描かれた蝶だけど、1枚は… 「これが良い」 容認するより先にそれを掴んでいく左手を止める間もなかった。 個装を開けようとするのだけは辛うじて間に合って掴む右手に力を込める。 「選ばせておいてすみませんがそれは返していただけませんか?」 「何故だ」 「何故ってわかってて持っていきましたよね?」 間違いじゃなければその1枚のクッキーには "苗字先生 大好き" そう書かれていた筈。 「俺はこれを食したい」 「明らかな嫌がらせですよ」 「嫌がらせじゃない。胡蝶がお前に対する尊敬、思慕、感謝を俺が食す事でその想いを消化すべきだと考えた」 「胡蝶先生の大好きにそこまで深い意味はないですから大丈夫です。返してください」 「胡蝶にはなくともお前は後生大事にするだろう?」 図星を突かれ眉を寄せるしかない。 思わず弛めた手の力に、気付いたらクッキーを齧る光景に息を止めた。 「冨岡先生!?」 消えた自分の苗字に眉を寄せた所で 「ん」 それを銜えたまま顎を差し出す姿に視線を落とす。 返して欲しければ自分から来いという意味合いなのはすぐにわかった。 「…良いです」 本当は物凄く悔しいは悔しい。 胡蝶先生から貰える大好きなんて、きっとこれから先あるかどうかわからない程に貴重なもので、それこそ部屋に飾っておきたい位のものだった。 「…そうか」 一度口から放したクッキーを容赦なく齧っていく。 「美味い」 煽るように言う言葉も聞こえないふりをして残った4枚を鞄の中にしまうも、可愛い字で書かれた"大好き"はどうしても譲れず、砕かれてしまう前に噛みついていた。 パキッと音を立てた瞬間離れはしたものの、口唇は確実に触れ合っていたのも感触でわかっている。 「…名前からキスをしてくるとは思わなかった」 「キスはしてません。胡蝶先生の大好きを奪われる訳にいかなかっただけです」 本当は、大事に大事に取っておきたい。 だけどそれが出来ないのなら冨岡先生に消化される前に自分の口に収めてしまいたかった。 「お前が自分から攻めてくるとは、胡蝶の力は尊大だ」 「そうですね。そのお陰で冨岡先生への好感度も小石1つ分になった訳ですけど」 「何故一気に3つも減った?」 「わかりませんか?」 間髪入れずグッと喉を鳴らし押し黙る姿に苦笑いが零れる。 「自覚を持てる分救いはあるかも知れませんね。最初と違って」 言葉の意味を理解したのか決意を強めた瞳に見つめられ 「わかった。最短で屋上分積んでやろう」 自信満々に宣言する冨岡先生に期待を込め苦笑いだけを返した。 ある意味賽の河原かも (頑張ってください) (達した際には婚姻届を書いてくれるか?) (そこはちょっと…熟考したいです) [ 69/220 ] [*prev] [next#] [mokuji] [しおりを挟む] [back] ← ×
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