最初から最後まで、埋められた左側の欄に眉を寄せる事もなくただ眺める。 冨岡先生のお父さんとお母さんのお名前を初めて拝見したなぁとか、そんな事を考えていた。 ご丁寧に印まで押してある。 「本当は指輪も贈ろうと考えていたが、一生身に着けるものとなると名前が本当に気に入った物の方が良いだろうと、ひとまず婚姻届だけにした」 「クリスマスでも迷ったって言ってましたもんね」 「今の俺に何ひとつ迷いはない。結婚しよう」 「出来れば迷って欲しいんですけどね。本当にこれで良いのか都度振り返って確認して欲しいんですけどね。いや実際振り向いてもしょうがないんで。そういう意味じゃないです」 言われた通り後ろを向いたかと思えば、戻す瞳が疑問に満ちていて、溜め息が出る。 「そしてすみません。お断りします。どうぞそのまま背中にお納めください」 使い方が間違ってるのはわかってるけども、つい口に出ていた。 この人私が破れないようにこのデザインをわざわざ探し出してきたな、と考えると同時、上げられる口角に警戒してしまう。 「本当に納めて良いのか?」 妙に意味深だと感じたのも束の間、見せつけるように広げられた二つ折りの片方。 埋められた保証人の欄に、そういう事か、と妙に納得した。 good boy "胡蝶カナエ" "不死川実弥" それぞれ全く異なる筆記体で書かれた名前。 先程、不死川先生が煮え切らない態度で私に訊ねてきたのはこれだったのかとすぐに合点がいく。 余る余白にはネズ美を始めとした主要キャラがデフォルメされて描かれていてますます可愛さが募るも、見つめてくる群青色に敢えて眉を寄せる。 「わざと胡蝶先生に書かせましたね」 「そうだ。胡蝶に書かせればお前は絶対破る事も拒否する事も出来ないだろうと考えた」 「拒否はしますよ」 「ならば此処で俺が破「ちょっと待ちましょうね!何もそんなにすぐ判断を急ぐ必要はないのではないかと!」」 冨岡先生の作戦に嵌められているのはわかっているけど、止めないという選択肢はない。 「…胡蝶先生はわかるにしても、何で不死川先生まで…」 「不死川の活躍なしでは此処までお前との距離を詰められなかった」 「詰めたつもりも詰められたつもりもないんですけどね」 苦し紛れに出した言葉を拾うその瞳が距離を詰めてきて身を引いた。 「強がる必要はない。お前はあの時、俺に抱かれても良い、そう思った筈だ」 「誕生日といういつもとは違う雰囲気に流されそうになっただけです。今思うと冷静な判断が出来ていませんでした」 「それでもお前は懸命に俺に応えようとしていた」 「だからそれが冷静じゃなかったと…」 落ちてきそうなキスに言葉を止めれば、その表情が楽しげで眉を寄せる。 「今も受け入れようとしている」 「してません。思い込みです」 強く睨んでもその嬉々とした瞳が怯む事はなく、更に詰めてくる距離にドンッと扉が音を立てた瞬間 「何か…今、聞こえなかった?」 声の幼さから恐らく生徒であろう声を耳に入れる。 「しゃがめ」 指示された通り咄嗟に小さくなる私の目の前、同じように気配を消しながらも外側の様子を探るように向ける鋭い目。 この状況を見られてしまった時に備え、違和感のない言い訳を探すけれど、ドクドクと速くなる鼓動は治まらない。 「何やってんだよー!早く行かないと煉獄先生の授業始まるぞ!」 若干遠くから聞こえたその声に 「今行く!」 すぐ近くで響く返事と共に走っていく足音が遠ざかった事で心の底から安堵の溜め息が出た。 同時にキスをしてこようとする顎を押し返す。 「…こういう薄氷を踏むような行為はやめていただけると助かります。いつとは断言出来なくとも確実に罅割れを起こすので」 「覚悟を決めるしかないな」 「教員を辞める覚悟ですか?」 「違う。俺と共に生きる道を、だ」 「特に変わり映えしないと思うんですけど」 「少なくとも今のような危険な道を歩く必要はなくなる」 制止していた手首を掴む動きに眉を寄せる。 「お前が俺を受け入れれば、目撃されるリスクと隣り合わせの中、人気がない所を探さずとも済む」 「…それ完全に冨岡先生の主観から来る言い分ですよね」 「そうだ。だが純然たる事実でもある。生徒に見つかりたくなければ俺を受け入れた方が得策だ。そうしたら俺も今のような無茶はしない」 覗き込んでくる群青の瞳に、視線を落とすと考える。 まぁ、考えなくても多分言う通りなのはわかってるんだけど。 「結局、出席出来たんですか?」 全く違う話を振ったのも主語を省いたのも敢えてだ。 「何の話だ」 案の定、皺を作る眉間に続ける。 「お姉さんの結婚式です」 「…心配していたのか?」 弛まる表情に視線を落とした。 「それはまぁ、そうかと。たかが勉強会のために身内の祝い事を犠牲にするなんて馬鹿げてますし」 「お前はやはり優しいな」 「優しいというよりどちらが優先かを考えれば自ずとそうなります。で、大丈夫だったんですか?」 「式には出られた。昔の話だ。気にしなくて良い」 「それより遥か昔の私を救い出した人物の台詞ですかね?」 「それはお前だからだ。俺の過去など」 反射的に両手でその頭を下へ押し込んでいた。 「…何をする」 「いえ、こうやれば物理的に黙るかと思いまして」 目線より低くなった頭を認識してから手を弛める。 「私より何倍も冨岡先生の方がご自分の傷に疎いのでは?というか自ら敢えて抉ろうとするのが厄介ですね」 「名前がすぐに気が付く故何も問題はない。俺達は常に有無相通ずる事が出来ている。これ程に共存共栄出来る他者はこの先現れる事はないだろう」 「まだ20年ちょっとの人生ですよ?決め付けるのは早計ではないかと」 「ならば俺が死ぬ時に、同じ台詞を言わせてくれ。お前に出会えて良かったと」 「言いたい事は色々あるんですが、とりあえず看取られるのが前提なんですね」 「犬は寿命が短いと聞く」 「それ流石に冗談ですよね?本気で言ってないですよね?」 「死後、お前にはずっと俺の事を想い未亡人として生きていって欲しい」 「結構重たい事をサラッと望んでくるのやめてください」 「愁傷の未亡人か…悪くないな」 「どんな想像してるのか何となく予想は付きますけど、その時には冨岡先生亡くなってる設定なの忘れてませんか?」 「そうか…。いや、すぐに転生すれば好機はある」 まるで当たり前に出来るみたいな言い方してるなこの人…。 これまたやりかねないと思わせるのが凄いけれども。 「冨岡先生が転生する間、傷心に耐えられず誰かに絆されるかも知れませんけどね」 「駄目だ」 グッと頭を上げてきたものだから、自然と押さえていた手が放れる。 また詰めてくる距離に眉を寄せるけど、その群青は真剣なもので笑いそうになってしまった。 「でしたら来世と言わず、今世ちゃんと傍で見張っていれば良いのでは?」 「……名前…」 わかりやすく驚きに満ちていく瞳に、笑いが堪えられず誤魔化すために視線を落とす。 「お前が望むのであれば1000年でも2000年でも生きる」 「そこまで生きてても今度は逆に私が死んでると思います」 「そうなったら転生する名前を待つ」 「途方もない上に不可測的じゃないですか?大体、冨岡先生って輪廻転生とか信じてます?」 「全く信じていない」 「きっぱり言いましたね。まぁ、そうだと思いましたけど」 「しかし名前となら盲信しても良い。現世だけではなく来世も共に在れると考えれば、これ程幸せな事はない」 真剣な瞳に一瞬怯んだものの、突き出される婚姻届に眉を寄せる。 「そうと決まれば善は急げだ。今日提出しに行こう」 「はい?何の話ですか?」 「お前は先程、死が2人を別つまで共に居ると言った」 「そんな結婚式の誓いみたいな事は言ってないですね」 「少なくとも俺に共に居て欲しいという意味だった」 「あれは喩えですよ喩え。もし、万が一まかり間違えてそうなった時の話をしたんであって断定的なものじゃないです。風情がある冗談だと捉えていただきたいですね」 「冗談だとは捉えない。あれは間違いなくお前の本音だ」 一切揺らぎのない真っ直ぐな瞳に息を止めたと共に、重ねようとする口唇を避けようと後ろへ逃げたものの、ゴンッと扉が音を立ててだけで回避は望めない。 「…っ…ん…」 容赦なく咥内を犯していく舌に息が上がった頃、鳴り響く放送が自分の名を呼んでいるのを酸素が足りないせいか、ぼんやりとした意識で聞いた。 * * * "問題提議及び、解決策の立案、実施" 多忙という理由から作成を疎かにしていた学園マニュアルを作成しながら、そう、この解決策こそが問題なんだと溜め息を吐いた。 このまま冨岡先生のペースに流されるのはとても危険だ。 本気でそう考えている。 さっきも生徒に見られていたら…。 あの状況で尤もらしい言い訳をした所で誤魔化しは効かなかった、確実に。 体育館へ向かったきり行方不明だと心配され呼び出されるわで明らかに業務に支障が出てしまっている。 これはとても、非常に不味い。 どうにか解決策を早々に練らないといけない。 此処まで来たらただ回避を選び続けるのではなく、何か違うものを武器として持たなくてはならない。 一回まず冷静になって考えよう。 まずは問題定義だ。 何が問題なのかを認識する事から始めるとする。 「俺とお前の間に何も問題などはない」 つい思い出してしまう台詞に眉を寄せた。 問題なのは、勘違いをして1人で突っ走っていく性格と、あとは本当にふざけた事を真顔で何の恥ずかしげもなく宣ってくる事。 そして場所や立場を弁えないで触ってくる事。 大きく分けてこの3つ。 この内の、前2つは何とか回避と反撃を返せるようにもなったが、武力行使、これが本当に一番の問題。 武力には武力で対抗しようとしても上手くいったのは最初のマイクで殴打くらいで、最近ではあちらも警戒をしている上に、いつでも武器が手に届く範囲にある訳じゃない。 こうなったら前の冨岡先生のように竹刀を持ち歩こうかと非現実的な事を考えるも、全く太刀打ち出来ないだろうというのは自明の理だ。 どうにかせめて、最低限で良い。 学校ではそのスイッチが入らないようにしたい。 「俺を受け入れた方が得策だ。そうしたら俺も今のような無茶はしない」 まぁ、そうなる訳で、それはそれで問題だ。 受け入れる、という事は必然的に冨岡先生と付き合う、という選択をする事になる。 付き合う…?私と、冨岡先生が…? いや、ないな。それはない。 まず想像が出来ない。 それなら百歩譲って飼い犬として接する方がしっくりくる。何となく。 思わず文字を打つ手を止めた。 …私もしかしてホントに冨岡先生の事、犬としてしか見てないんじゃ…。 だから付き合う事が想像出来ないのかも知れない。 最初こそ全く可愛げがなかった存在も、最近ではまぁまぁ微笑ましいなって思う事も増えたけど、それって恋愛感情より不器用な末っ子体質なのが放っておけない、という気持ちの方が先立つ。 これは、とてつもなく相手へ失礼に当たるのでは? 付き合えないならやっぱりそれなりに、話が通じなくても宣言はしなくてはいけない、そう思う。 いや、それで効く筈もないのはわかってるんだけども。 「苗字せんせっ」 ポン、と叩かれた肩に思考が止まる。 その主が誰かはすぐに把握出来たので、脈打った心臓を整えながら振り返る。 顔を認識するより先に、差し出された両手に収まっている代物に目を止めた。 「さっき放課後って言ったけれど、誰も居ないから今渡しちゃうわね。どうぞ〜」 綺麗な笑顔からまた手元へ視線を落とす。 「…これ、胡蝶先生が描いたんですか…?」 透明なフィルムの中、5cm程の綺麗な丸に描かれた紫の蝶と、もう一枚には"苗字先生 いつもありがとう"といつか見た筆跡で書かれた文字。 その後ろにも何枚かの存在を確認するが、どんな絵柄なのかは今此処では判断出来ない。 「そうなの〜。確か、アイシングクッキーって言うのよね。私もしのぶから聞いて初めて作ってみたのだけど、難しいのねぇ。あんまり上手く出来なくて…ごめんなさい」 「とんでもないです!凄く…綺麗で、食べるのが勿体なくなっちゃいますね。ありがとうございます。本当に…嬉しいです」 「喜んで貰えて良かったわ〜」 両手を合わせてニッコリと微笑う表情を直視出来ず、受け取ったばかりのクッキーへ戻した。 「あ、お返し、何が良いですか?」 「良いのよ〜。私が苗字先生に贈りたかっただけだから」 頬が自然と弛んでしまう。 それが深い意味などないのはわかっていても、嬉しいという気持ちが心から湧いてくる。 「あ、でも、ありがとう、じゃなくておめでとう、の方が良かったかも知れないわね」 「…と、言いますと?」 …嫌な予感がする。 「冨岡先生と結婚するのでしょう?今日の朝聞いてビックリしたわ〜。証人なんて初めてだから書くの緊張しちゃったけど…。おめでとう、苗字先生」 ただただ純粋に掛けられるおめでとうがこんなに複雑に感じる事はなかなかないだろう。 「あれは冨岡先生が勝手に書いたもので…私は承諾も何もしていないんですよ」 「あら!そうなの…?ごめんなさい、私また勝手に…」 「胡蝶先生の、そのお気持ち…というか胡蝶先生が居るだけで私はとても嬉しいので、お気になさらないでください」 僅かに下がった眉も、私の言葉が効いたのか穏やかな表情に戻った。 途端にクスクスと小さく笑い出すものだから目が点になってしまう。 「冨岡先生もこの間そう言ってたわ〜。私がいつものお礼に何かプレゼントしたら迷惑かしら?って訊いたらね、私が居るだけで喜ぶって。何だか嬉しくなっちゃって、丁度バレンタインだし、だから苗字先生にこれ作ってみたの」 変わらずのんびりした口調はこれ程になく可愛いものの、また複雑な感情にならざるを得なかった。 此処でも思わぬ伏兵が (他に何か言ってませんでした?) (ん〜と、そうねぇ。結婚式では司会をして欲しいって言ってたわ) (全力で断っていただいて大丈夫ですからね) [ 68/220 ] [*prev] [next#] [mokuji] [しおりを挟む] [back] ← ×
|