good boy | ナノ
全く以て無意味な勉強会も、騙し騙しで何とか前半を終え、10分間の休憩が入る。
目を開けたままほぼ意識を飛ばしている冨岡先生に「お手洗いに行ってきます」と声を掛けてから女子トイレへ向かった。

手を洗ってからハンドタオルで水気を取り鏡に映る自分の姿を見る。
先程噛み殺した欠伸のせいで潤った目尻を人差し指で擦った。
化粧が崩れていない事を確認してから多目的室へ戻ろうと廊下を出た所で
「名前!」
一番見たくなかった顔と出くわしてしまった。


good boy


「さっき後ろ姿見えてさ、あれ?名前かな?って思ったらやっぱそうだった!」
人当たりの良い軽やかな口調は変わっていない。
「…お久しぶりです」
軽く頭を下げ、足を動かそうとした時
「いやぁ、良かったよ元気そうで」
これまた人の好い爽やかな笑顔に、あぁ、そう。そんな感じ?そうやって笑い掛けられるんだ。元気そうで良かったとか言えちゃうんだへーそう。と一瞬で考えた。
それでも一言も口になんて出してたまるものかと
「えぇ。お陰様でとても元気です」
貼り付けた笑顔で答えてやった。
「勉強会とかほんと大変だよな。俺もさぁ」
話を続けようとする背中からその名を呼ぶ声が飛んでくる。
「あ、呼ばれちゃった…!悪い!またな!名前!」
わかりやすく慌てたように走っていく姿に軽く頭を下げてから呟いた。
「…その顔を見る事が二度とないよう心の底から願ってます」
「……。今の男は誰だ?」
「…ぎゃぁ!」
背後からヌッと出てきた姿に思わず出た悲鳴。
急いで振り返れば眉間に皺を寄せた冨岡先生が居た。
「ビッ、クリした…!何やってるんですかこんな所で」
「待てど暮らせど帰って来ないので探しにきた」
「言う程長い時間でもないと思うんですけど。というか1m以内に近付くなって言いましたよね」
「………」
1歩後ろに下がる姿を確認して、漸く落ち着いた心臓に息を吐く。
「さっきの男は誰だ」
本当この人って自分が気になった事は答えを得るまで食いついて離さないな。
「元同僚です」
「取って付けたような嘘には騙されない」
「いや、本当なんですけど。まごう事なき事実ですよ」
「察するに元恋人か」
「ご自分の中で答えが出てるんならわざわざこちらに訊ねないでください」
変な所で鋭いのは野生の勘だったりするのか、と考えながら足を進める。
「確信的に言ったんじゃない。元恋人なのか?と訊問している」
「…まぁ、平たく言えばそうです。あんまり思い出したくないんで出来ればもう訊かないでくれませんか?」
先程入室証を渡してくれた受付の女性が事務的に頭を下げたのにつられて頭を下げてから多目的室へ入れば
「…皆さん戻ってきてますかね?そろそろ再開してよろしいですか?」
既に殆どの教員が着席していて、目立たぬよう小走りで席へと着いた。

腕時計を確認してあぁ、あと1時間以上もあるのかと小さく息を吐く。
最近忘れていた胃の痛みが再発しそうでまた右手を腹部へ当てた。
「本日は少し志向を変えてみまして、これからの将来を担う若い!そこにいる皆様の事ですよ?」
明らかに初老の教師陣を5本指で差していくとお決まりの笑いが起きる。
バカみたいって最初見た時寒気がしたな。
「若い先生達と同世代の意見も聞いてみようと思いまして、ここからはこの方にお話を伺ってみようと思います」
そうして紹介された名前に息を止めた。
鳴り響く拍手の中、登壇したのは先程二度と視界に入る事がないよう願った姿。
これはもう、確実に胃痛が起こる。
「私のような若輩者が神聖な場に立つ機会をいただけるのは夢のようです。私は、生徒との距離を限りなくゼロにしたい人間です。勿論良い意味でですよ?時には友達のように、時には父親のように、教師という垣根を越えて何でも相談出来る、そんな人間でいたいと常日頃から思っています。今まで本気で生徒と向き合ってきて…」
まるで品行方正が認められたような口調だがこれはタダのコネだ。物凄い分かりやすい出来レース。
闇の組織の重鎮、彼の父親の力だ。
壇上で最高の笑顔を見せているその姿はきっと敷かれたレールをはみ出さず、綺麗に出世していくのだろう。
別にそれはいい。人が全て平等であるべきとは私は思わないし生まれ持った力は遺憾なく使えばいい。それがカネでもコネでも使う権利があるのだから。
だけど、それでも…

「ありきたりな言葉ですが、僕は絶対にイジメは許しません」

そのセリフだけは、どう考えてもこの人が言っていいものじゃない。

胃痛を通り越して込み上げてくる吐き気に左手で口元を覆った。
もしかしてこのまま1時間以上、虫唾しか走らない話を聞かないといけないというのか。
無理だ。絶対無理。
でも此処で席を立ったらまた教育委員会に目をつけられる。もうこれ以上下手な事は出来ない。
だからといって聞こえないふりも出来ない。嫌でも耳に入ってくる声が脳で認識されてしまう。
止まりかけそうになる思考を必死で巡らせた。止まったら終わるのが、自分の中でわかっている。

やばい、本当に吐きそうだ…

瞬間、右手の甲に触れた温かさに息を止めていた事に気付いた。
「……冨岡先生…?」
顔を動かした事で腹部を擦っていた筈の自分の右手が無意識にジャケットを硬く握りしめていたのを知る。
力を緩めたのを見計らうようにその左指が絡まってきて、反論しかけたと同時だった。
「身体は近付いてはいない。だからセーフだ」
壇上を真っ直ぐ睨みながらも力強く握られた手。
「いや、アウトですよ完全に。急にどうしたんですか」
「完璧な死角を見つけた。後ろには誰もいない。前からも壇上からも気付かれる心配もない」
「そんな事ずっと考えてたんですか?」
「無駄話を聞くよりかはよっぽど有意義だろう」
「どっちもどっちな気がします」
それでもいつの間にか治まっていた吐き気に小さく息を吐いてから気付いた。

もしかして、冨岡先生…

「僕の話だけより、折角だから他の学校の話も聞いてみたいですよね?んーと、じゃあ…キメツ学園の苗字先生」

急に名指しを受けて反射的にその手を振り解いた。
「キメツ学園でのイジメ対策とか、どうしてますか?教務主任としてどのように教師へ指導されているのか知りたいですね」
「…はい」
慌てて立ち上がるが急に振られた焦りや何やらで頭が回らない。
爽やかな笑みを崩さないその表情が、とてつもなく憎らしく思った。
私を指名したのはわざとだ。
此処には罠しかないのに、こんな所で気を抜くんじゃなかった。
いや、そうじゃない、今は答えを用意しなくちゃ。言い負かすほどの、完璧な答えを。
そう思うのに、頭が真っ白のまま働かない。
立ち尽くす私に、段々と騒めき出す会場の雰囲気が更に焦りを誘発させる。
駄目だ。本当に全く何も浮かばない。
スッと立ち上がる右隣が目端に見えた。
「個人的な主観での説明では説得力はないように思うので、同僚の自分からの報告で良いだろうか?」
「…構いませんよ?どうぞ」
何を言い出すのかと動けないままその横顔を視線だけを向ければ、小さく息を吸って短く吐く。
「前置きとして我がキメツ学園においては、陰湿なイジメは横行していないと判断している。認知をしていないのではなく、はっきりとないと断言が出来るのは…苗字教務主任が学校中の全てを把握しているからだ」
今ちょっと、名前で言い掛けたなこの人と思ったが、それでも今まで見た事がない姿に黙ったまま見つめた。
「常に教師の動向に目を見張り、生徒への細やかな気配りも忘れない。問題が発生した際には客観的かつ冷静に話を聞き、事実のみを掬い上げる。常に自己の感情を挟まない姿は、同じ教師として敬意を表する。その公平さから生徒達からも教師からも信頼は厚く、今はキメツ学園にとって居なくてはならない存在だ。彼女がこの学園に来てくれた事を、同僚として感謝している。以上だ」
殆ど私に対しての褒め言葉になってないかと眉を寄せるも、初めて聞いた冨岡先生の心の内に息が止まっていた。
「…へぇ。そうなんですねわかりましたありがとうございます。じゃあ次に…」
早々に話を変えるあの人は望まない言葉と結果に苛立っているのだろうというのが窺える。
早口になっているのがその証拠だ。

そうして何とか乗り越えた勉強会という名の災難に、バッジを返して早々に外へ出る。
有難い事に、あの見たくない顔と顔を合わせる事はなかった。

「凄いですね。いつの間にあんな弁が立つようになったんですか?」
「名前の真似だ。見ていたら覚えた」
「それはあんまり覚えない方がいいと思いますけど…。可愛げがなくなりますよ」
「可愛げなど俺には元々皆無だが、名前は違う。十分可愛い」
間髪入れずそう言い切る姿に、思わず苦笑いが零れた。


少しずつ成長してる


(今度は敬語で言えたらもっと良いですね)
(あんな奴にそんなもの使う必要はない)
(…あ、わざとだったんですか)


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