good boy | ナノ
少し歩いた所で、後ろからついてくる冨岡先生と向き合うように振り返った。
「私は学校に戻って報告書を書くので、冨岡先生は直帰していただいて構いません」
そうして頭を下げる。
「…あと、ありがとうございました。色々と。助かりました。お疲れ様です」
そっけない言い方しか出来ない自分は本当に愛想も可愛げもないと思う。
そうして学校へ向かう道のりを、またついてくる姿に足を止めて振り返った。

「冨岡先生の家もこちらの方向ですか?」
「違う」
「聞いてましたか?直帰の意味わかります?わかりやすく言うとハウスですよ。ハウス」
「何度も言うが俺は犬じゃない」
「似たようなものなのでは?ご自分の家にお帰りなさい」
両手でシッシッと払えばまたその顔が悲しそうなものになる。
「少しでも一緒に居たいと思うのはそんなに駄目な事か」
「わかりました。わかりましたからそんな落ち込んだ顔しないでください。今のは全面的に私が悪かったです。学校まで一緒に行きましょうね」
先程の恩もあるため、これ以上無下に出来ずそう言ったのは、失敗だったと思う。


good boy


「…あれ」
開いている筈の職員玄関が閉められていた事で、つい疑問が口をついた。
いつもならば誰かしら休日を割いているのに。
少し考えを巡らせてから、今日が連休の中日だという事の気付く。
自分は仕事だと意識があったため、完全に失念していたが教員は完全に休日だ。
それでも私には校長から任されている鍵がある。
念の為いつも持ち歩いていて良かった。
ガチャッと音を立てて開いた扉に直帰せずわざわざここまで来たのは無駄足ではなかった事に安心した。
「どうぞ」
先に冨岡先生を通し、靴箱で内履きに履き替えてから、職員室の電気を点けて自分のパソコンを立ち上げる。
起動するまでの時間に、あぁそうだと思い出した。
「冨岡先生。研修手当てはご存知ですか?」
途端に眉を寄せる表情に、自分の引き出しから一枚の紙を取る。
「要は研修や勉強会で休日出勤した分の給与です。申請するのに必要な書類があるので今此処で書いてください」
「わかった」
右隣のデスクにそれを置けば、自分の椅子へ腰掛けるのを横目に、ファイルから報告書のテンプレートを出した。
月並みの言葉を並べて月並みの言葉で締める。
変わるのは軽い内容と日付、出席者の名前くらい。
「書き終わったら帰って良いですからね」
「まだ褒美を貰っていない」
その言葉に顔を上げる。
「あぁ、コーヒー奢るって言いましたよね。自販機じゃ味気ないし、せめてコンビニ…」
「やはり名前が良いと言ったらどうする

「駄目です」
「…物理的な意味じゃない。話が聞きたい」
「……話?何のですか?」
相変わらず伝わりにくい言い方するなこの人。
「名前の話だ。あの男と何があったのか」
「そんな事気になります?」
「気になる。さっき思い出したくないと言っていたので訊かないでおこうとも思ったが、無理だった」
「そこ気を遣ってくれるんですね…」
もっと気遣う所があるだろうに。
まぁこの人がズレてるのは今に始まった事じゃないけれど。
「だが話したくないと言うのなら、もうこれ以上訊くのはやめる」
「…冨岡先生ってほんとそういう所律儀ですよね」
「名前にしつこいと思われ嫌われるくらいなら気にはなるが何も知らないままでいた方がマシだ」
「いや、もう…だいぶしつこいとは思ってますけどね既に」
走らせていたペンが止まったのがわかりやすいなと思いながらパソコンの画面へ視線を戻し、キーボードを叩く。
何も言わなくなってしまった冨岡先生が少し不憫に感じて、静かに口を開いた。
「…付き合ってたんです。数ヶ月だけですけど」
正確には3ヶ月か。今思うと短いどころか一瞬としか思えない。
右側から視線を感じたが合わせる事なく続ける。
「ある日、あの人が受け持っていたクラスの1人からイジメの相談を受けました。何故私に相談したのかと訊けば、彼、泣きながら言うんですよ。担任に訴えても見て見ぬふりで助けてくれないって。全てを無下にされた事で誰にも相談出来ず2ヶ月間、ずっと死ぬ事だけを考えていたそうです」
今思い出しても、息が止まりそうな程に胸が痛む。
きっと私に声を掛ける事さえ相当の勇気を振り絞ったのだろう。
それこそ、命を絶つくらいと同じ勇気を。
「すぐに問いただしました。本当なのかと」
「…認めたのか?」
「認めましたよ。それはもう、あっさりと。今からでも遅くない、事実を認め謝罪しよう、私のその言葉には一切聞く耳を持ちませんでした。だから教育委員会で役員を務めていたあの人の父親に告発したんです」
教育委員会全体に向けて告発をしなかったのは、どうにか良い方向へ向かって欲しかった。曲りなりとも恋人だったからだ。
「その後どうなったと思います?」
「揉み、消された…?」
「そうです大正解。結果私は異動という名の左遷。あの人は今も変わらず出世街道をばく進中。これがキメツ学園に来た概要です。他に何か訊きたい事は?」
全く違う事に思考が向いていても書類は作れるらしい。
いつの間にか完成していた文面を印刷しようとマウスを動かした。
「…そのイジメにあっていた生徒はどうなったんだ?」
「保護者の方には事前に全てお話していたので、私の異動が決まったと同時に逃げるように引っ越していきました。生きているという事以外、今何処に居てどうしているかは正直わかりません」
生きている、というのがわかるのは、当時彼が唯一の生き甲斐としていたスマホゲームのアカウントが今でも動いているから。
何かしら打ち解けられる取っ掛かりを探していた私に、彼が教えてくれたもの。
オンラインで見えるそれは、今も彼がそのゲームをプレイをしている証拠だった。
定期的にそれを確認しては、生きているという事だけでも安堵している。
きっと、ただ掻き回しただけで、何も出来なかった私をご両親も彼本人も恨んでいるだろう。
「冨岡先生はさっき、私の事自分の感情を挟まないって言ってましたけど、実は全然、凄くないんですよ」

本当に、本当の意味で彼の事だけを考えていたらもっと違う道を選んでいた。
守ろうと思ってしまった。
好きだったから、あの人の事が。
間違いのない人間は居ないって、せめてやり直せればそれが一番いいんじゃないか。
だからすぐに公にしなかった。
彼の心はきっと、あの時から動いてないだろう。
一生癒える事のない傷を抱えたまま、苦しんで生きていく。

「最後の最後で、彼の心を踏みにじったのは感情に左右された挙句、選択肢を間違えた私です」

だから、思い出したくなかったんだ。
果てしない後悔が押し寄せるから。

勉強会ってめんどくさいねって2人で訪れたあの会場の匂いも、どうしてそんな事したの、と責めたあの人の部屋も、申し訳ございません、頭を下げた後のご両親の非難に満ちた表情も、先生、やっぱり無理だったんですか?そう言った彼の絶望に満ちた姿も、いいです。俺はもう大丈夫なんで。諦めしかない別れの笑顔も、忘れてはいけないのに、思い出すのが辛くて忘れてしまいたい。

ガガッとコピー機が動いたのを聞いて、席を立つ。
「…俺はその場面を見ていないから何も言う資格はないかもしれないが…、それでも…1人でも味方になった教師が居たという、その事実は消えない。結果だけじゃなく恐らく、それはその生徒の救いになる、と俺は思う」
勉強会の凛々しい姿は何処へいったのか、たどたどしく言う冨岡先生に苦笑いが漏れたのは、懸命に元気付けようとしているのが伝わってきたからだ。
「そうですね。そうだといいですね」
今しがた印刷を終えたばかりの書類を手に席へ戻ると、冨岡先生のデスクへそれを差し出す。
「此処に判子貰えますか?」
置いた人差し指の横に黙って判を押す姿に
「冨岡先生が気に病む事ではないです」
それだけ言うと自分の判子を隣に押して教頭の机へ向かいプラスチックの籠の中へ入れた。
不備がなければこのまま受理されるだろう。
「申請書は書けました?」
「無理だ」
「無理って…そんな難しいものじゃないと思うんですけど、何処がわからないんですか?」
置かれたままの書類を確認しようと近付いたのが、それこそが失敗だったと思う。
「…冨岡先生?」
名を呼んだ頃には左手を引かれ、跨る形でその膝に乗っていた。
「…何してるんですか!?」
立ち上がる前に腰を掴んだ両手にまるで逃がすまいという執念を感じる。
「話だけで我慢しようと思ったがやはり無理だった。名前が欲しい」
「は?何を急に…何て事言ってるんですか!?」
余りにも予期せぬ不意打ちに声が裏返ってしまった。
「急じゃない。ずっと考えている。名前の全部だ。全てが欲しい」
愛おしそうに耳を撫でるその右手に何でそこまで私にこだわるのだろうと目を伏せた。
「無理です」
「どうすれば頷くようになる」
「無理なものは無理です」
「何故だ。お前の言う事はこれでも聞いている方だ。1m以内に近付かない約束も守ったしあの男を殴りたい衝動も抑えた。今日だけで言えば褒められる事しかしていない。本来ならもっと褒美を貰ってもおかしくないくらいだ」
「それは確かに…、そうですね。偉いですね。コーヒーじゃなくて高級ジャーキーにしましょうか?」
「だから俺は犬じゃない。そんなものでは喜ばない」
真っ直ぐ私を捉える群青の瞳に耐えられず目を逸らす。
「そう、ですね。ご褒美でしたっけ?」
自分で思ったよりも遥かに冷たい声が出た。
「わかりました。良いですよ別に。そんなに欲しいなら差し上げます。減るものでもないし」
冨岡先生が驚いたのは、見なくてもわかる。

何でこの世の中は、こんなに生きにくいのだろう。
馬鹿みたいに融通の利かない人間だと自負しているし、例えそれが報われなくてもそれで良いと生きてきた。
肩肘張って、それで残ったものって何だったのだろう。
自分の正しいと思った道を迷わず進めるような、それこそ冨岡先生みたいに突き抜ける程の強さがあったら良かった。
考えれば考える程、今の私には何もない。
何もないなら、いっそもう…

「…何か、勘違いしているようだが、俺が欲しいのは名前の身体だけじゃない。言葉の通り全部だ」
左耳を這う舌に思わず出そうになった声を抑えると同時に固く目を瞑った。
「俺の事しか考えられなくなるくらいに全部、全てが欲しい。だから今はその時が来るまでこうして待てをしている。それこそ飼い主に従順な犬のようにな」
「…ご自分で認めてるじゃないですか。犬だって…」
「今決めた。名前を手に入れるためなら番犬にでも忠犬にでもなってやる」
首筋を舐められたせいで勝手に肩が震える。
かと思えばすぐに広がる鋭い感覚。
「…いっ、た!」
今もしかしなくてもこの人…
「噛みっましたね!?い…っ!またっ!!」
「そんな気もないくせに誘いに乗ろうとするからだ。人がどれだけ我慢してると思っている。次はない」
「…わかりました!!わかったから噛むのやめてくれませんか!?」
「マーキング中だ。黙ってろ」
そうして這う舌に洩れかけた声を必死に押し殺すしかなかった。


まさに狂犬にふさわしい


(…冨岡先生、怒ってます…よね?)
(当たり前だ。怒らない方がどうかしている)
(…すみません…)


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