good boy | ナノ
ほくほくしている。もはや語彙力などなくてもいい。とてつもなくほくほくしている。最近で言えばここ一番の幸せだ。
訳もなく画面を眺めて嬉しくてにやける自分が居る。
胡蝶先生とLINEの交換したからだ。
アイコンが蝶になっている辺り、胡蝶先生らしいなって思う。
この間のお礼を送った時に返ってきたスタンプも蝶だった。
それを思い出しただけで幸せに浸れる。
もうこれだけでキメツ学園に来て良かったとさえ思えた。

「随分と機嫌が良さそうだな」

ただ1人、右隣の同僚を除いては。

good boy


「気のせいです」
一言だけを返してパソコンに向き合う。
メールで送られてきた書類を印刷へ回してそれを校閲するために赤ペンを取った。
「苗字。3番に電話が来てる」
後ろから聞こえる不死川先生の言葉に
「ありがとうございます」
答えてから受話器を上げる。
それはPTA本部、副会長から。
文化祭のボランティア募集についての書類を印刷したいとの内容だった。
「本日ですか?ええ、大丈夫です。いえ、こちらこそお手数をお掛けいたします。よろしくお願いいたします」
いつもと同じ挨拶を返し最後に「失礼いたします」と加えて電話を切る。
予鈴が鳴って、視線を動かした先に胡蝶先生の姿がない事に気付いた。
家の都合で休みだと聞いたのはそのすぐ後。
高等部のしのぶさんも、中等部のカナヲさんも予め入っていた連絡で欠席していた。
何かあったのではないかと、蝶のスタンプが押されたままの画面を眺める。
こういう時、訊ねるべきなのかそれともそっとしておくべきなのか、選択肢を迷う。
相手の状況が何も見えないのに訊ねるのは、ただの自己満足に過ぎない。
でももし万が一、少しでも気が紛れる事があるのなら、そうも考えてしまうが、結果として、最良の道を選べているかなんて相手次第なのだといつも思わされる。
そのまま文字を打てない画面を閉じた。

「お疲れ様でした〜」
5限目を終えたとほぼ同時に印刷と軽い話し合いが終わったコミュニティルームを出ていく本部役員を見送ってから資料を片付ける悲鳴嶼先生。
キメツ学園においてはこの人が一番重鎮というのだろう。人当たりの良さから教務主任と同じく教師とPTAとの橋渡しを担っている。
先程使ったばかりのホチキスやハサミを片付けながら、口を開いた。
「悲鳴嶼先生」
顔を上げた事を確認して続ける。
「胡蝶先生が何故、今日お休みなのかご存知ですか?」
不可解と言うように変わるその表情に言葉を付け足した。
「連絡したいと思ってるんですが、何かあったのではないかと思うとなかなか出来なくて…。せめて胡蝶先生が元気で居るならそれでいいんですが」
「…今日は、ご両親の命日だ」
その事実に、返せる言葉もなかった。
「特に口止めはされていないため話すが、胡蝶先生のご両親は不慮の事故で亡くなっている。まだ赴任してきたばかりの苗字先生が知らぬのは当然だろう」
「…そう、なんですね。教えていただいてありがとうございます。危うく無神経に何があったのか連絡してしまう所でした」
「力になれたのなら良かった。…鍵は…」
「大丈夫です。私が閉めておくので。お疲れ様です」
そう言って大きな背中を見送ってから、戸締りをしようと窓へ手を掛ける。
そんな事、知らなかった。
つい数日前一緒にお酒を飲んだばかりなのに、結局私の話ばかりで、胡蝶先生の話を何ひとつ聞こうとしなかった。
本当はもしかしたら、下らない色恋沙汰よりも聞いて欲しかった事があるんじゃないか。
窓から入ってくる突風にカーテンが揺れたせいで溢れていた涙が零れた。
私が泣いた所で、本当に何ひとつとして意味もないのに。
それでも胡蝶先生が此処に居たなら、綺麗な笑顔を崩さないまま「ありがとう」とその優しさをくれるのだろう。
無理矢理涙を止めてから窓を施錠しカーテンを閉めた。
そうして振り返った先、開け放たれた扉の前に立つ冨岡先生を認識してしまう。
いつからそこに居たかはわからないが、恐らく偶然通りかかったのだろう。驚いたような表情に出来るだけ平静を装った。
「お疲れ様です」
「何故…泣いている」
「泣いてません。気のせいです」
窓も閉めたしパソコンも印刷機ともう1つのコピー機も電源を切った。
あとはどう此処に立ちはだかろうとしている人物を避けて扉の鍵を掛けるかだ。
しかしそれも後ろ手で扉を閉めたと同時、パチンと響いた音に血の気が引く。
もしかしなくても内鍵を掛けられた音だ。
「ここPTA本部のコミュニティルームなんですけど。冨岡先生には用のない部屋ですよね」
「名前が居るならそこが何処であろうと関係ない」
「そこに山があるからみたいな言い方やめません?これ以上近付かないでください。待て。よしって言うまで待てですよ。待て」
両手で制すればその足が止まるのを見て、やっぱりこの人前世は犬だったんじゃないかと考えたのも束の間だった。
「ふざけるな。俺は犬じゃない」
逆鱗に触れてしまったのかいきなり窓際に追いやられ、その右手が威圧的に顔の横について正真正銘の壁ドンを受ける。
「すみません馬鹿にしてる訳じゃないですよ。ただ冨岡先生って犬みたいだなって思っただけです。どうどう」
降参するため両指を揃えて掌を見せるように小さく上げればその怒りはすぐ治まったのか、威圧的だった右手親指がもう伝っていない涙を拭うように私の頬を撫でた。
「何で泣いていた?」
相変わらず距離感ゼロの姿に、これはもう正直に答えないと此処から逃げられないだろう事を悟る。
「胡蝶先生のご両親の命日だと聞いたからです」
昨日も会ったのにその笑顔はいつもと変わらなかった。
きっと辛い思い出が嫌でも蘇ってきていた筈だったのに。
「胡蝶先生が今どんな気持ちで居るんだろうと考えたら勝手に涙が出ていました」
「…そうか」
だからこそあの穏やかな笑顔が一瞬でも曇ってしまわないように願いたい。
「私の事、相談してたんですよね?」
その一瞬寄った眉毛が明らかな肯定だった。
「やめてくれませんか?」
「嫉妬か?」
「全然違います。何ちょっと勝ち誇った顔してるんですか腹立つ」
嫉妬するなら寧ろ逆だ。こっちは2人で飲みにも行ったし間接キスもしてるしLINEだって交換してるんだからな、と口に出そうとしてやめたのは、自分でも余りにも気持ち悪い内容だったからだ。
「くだらない事で胡蝶先生に迷惑掛けないでください」
「そう思うなら俺と付き合えばいい」
「それとこれとは話が違います。胡蝶先生は私の癒しなんで困らせたくないんですよ」
「そんなに胡蝶が好きか」
「そりゃそうです。あの笑顔だけで生きていけます。私の原動力です」
「不死川ばかりだと思っていたが…ライバルは胡蝶だったか…」
「今何て言いました?見事に勘違いしかない内容が聞こえたんですけど」
「ライバルは胡蝶だと言った」
「そこ自信満々でもう1回言います?肩並べようとか思ってる時点で思い上がりも甚だしいですね」
そう言ってから、気付く。
「というか何かおかしくないですか?」
「何がだ」
「好きになるなら胡蝶先生じゃないですか?」
100人居たら100人が胡蝶先生を選ぶだろう。それくらいあの人は綺麗で優しい、魅力的な人だ。
「それをよくこんな綺麗でもなければ可愛げもない人間にこうも迫ってこられますよね。冨岡先生ってやっぱりどこかズレ…」
言葉を遮るように親指が動いたかと思えば頬を撫でる。
「名前は綺麗だし可愛い。誰かと比べる事に何の意味もない」
「…脳内フィルター凄いですね。そういう台詞言ってて歯が浮きません?いーってなりません?」
「強いて言うなら…」
「シカトですか。って今確実に胸見ましたよね?何ですか喧嘩売ってます?」
「気にするな。俺は小ぶりの方が好みだ」
「冨岡先生の好みは聞いてないです。聞きたくもないです」
ピロン、と短く音を立ててポケットの中のスマホに視線を落とす。
「…胡蝶に言われていた」
また急な話の再開にもう一度冨岡先生へ視線を戻した。
「余り攻めすぎると女は引いてしまう生き物だと」
「そうですね。そうだと思います。今実際取り返しのつかないほどにドン引きしてるんで」
「一応それを守ってきたんだが胡蝶がライバルになった今」
あれ?何かちょっと雲行き怪しくなってきた気がする。人の話聞いてないし噛み合ってない。
「俺は俺のやり方でお前を振り向かせる」
「何ですかそ…」
反論しかけた言葉も引っ張られた手に遮られた。
それはギュッと抱き締めるとかそんな可愛いものじゃない。効果音で例えるならメリメリとかギギギとかそういう物に近い。
「ちょっと…!凄い痛いし苦しいんですけど。せめて力の配分考えてもらえません?」
「それくらい俺が名前を想っているという事だ。その身で良く覚えておけ」
「いや絶対覚えませんよ。今日が終わる頃には忘れてやります。ついでに冨岡先生の記憶も綺麗さっぱり消えたらいいのに」
「相変わらず口が減らないな」
「そう思うなら離れてください。そしたらご希望通り一切全く喋りませんから」
頭に顔を埋めた気配がして眉を寄せた。
ほんとにこの人はそれが好きだなと考えたと同時。
「別に黙れとは言っていない。照れると饒舌になるのが可愛いと思っただけだ」
「…何言ってるんですか?誰が照れてると?妄想か何かですか?実は今寝てるんですか?まさか冨岡先生って夢遊病?」
「自覚がないならそれでいい」
口調からわかるその勝ち誇った態度。顔が見えない筈なのに笑っているのが想像出来る。
「わかりました。そちらがその気ならこちらも対冨岡先生用に切り替えます」
その胸に凭れるように一度頭を限界まで下げれば、その両腕が油断したのを見計らって間髪入れず勢いよく上げる。
ゴッ!と鈍い音が響いたと同時、冨岡先生の身体が見事によろけた。


ついに実力行使に出る


(早く離れないからですよ)
(…っ!…暴力はいけないんじゃなかったのか…)
(これは立派な正当防衛です)


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