いつ意識を手放したのか全く記憶がない。 とにかく此処から出ようと起き上がる前に右手を掴まれた。 「まだ夜中だ。寝てて良い」 「お気遣いありがとうございます。安眠出来る自分の部屋に帰りますね」 「俺と一緒では安眠出来ないのか?」 「何言ってるんですか出来る筈ないですよ」 「何故だ」 「ご自分の行動覚えてます?寝てるからって勝手に人の身体触るとか、ほんと今すぐにでもブタ箱にぶち込まれてきて欲しいです」 どこまで触られたかわからないのが余計に腹立たしい。 沸々と込み上げてくる怒りも 「…下着を外しはしたがそれ以上の事は何もしていない。名前が起きたら怒るだろうと我慢した」 眉を下げた表情は、一応嘘ではないものだと知り、少しは鎮まった。 「勝手に外してる時点で我慢が出来ているとは思えないんですけど」 いや、良く考えればそこまでしつつ待てが出来たのは凄い…のかも知れない。 絶対に認めないし褒めないけども。 小さく咳払いをする姿に別の事を思い出した。 「体調は?大丈夫ですか?」 「起きてすぐお前が用意していた薬を飲んだら楽になった」 「それなら良かったです。咳も少し落ち着きましたね」 さっきまでの姿と比べると、明らかに生気を取り戻している表情にひとまずのピークは越えたのだろうと未だ右手を掴み続ける左手を退けた。 「でも少し良くなったからって油断しないでくださいね」 横たわる冨岡先生の身体を跨ぐ訳にもいかず足元へ移動してから降りようとすれば 「帰らせない」 背中に圧し掛かる力に負けベッドに突っ伏す。 つい「ぐぇ」と蛙が潰れたみたいな声が出てしまった。 good boy 「…重いんですけど。調子が戻るとすぐにそれですか」 「俺が寝ている間、ずっと傍で付き添っていたのだろう?」 「傍には一切居なかったです。冨岡先生が勝手にダイニングに来ただけですよ」 「やはり名前は俺の事を放っておく事が出来ない。風邪を引いて正解だった」 「喉元過ぎれば熱さを忘れるってやつですね。さっきまで瀕死だったくせに…」 弱ったままだった方がまだ可愛げがあった。ほんとに。 「…ゴホッ…!」 「ほら、また咳出てきてますよ。言っときますけど今回は特別ですからね。私のせいで色々ご迷惑をお掛けした自覚があるのでせめてものお詫びです」 「迷惑を掛けられた覚えなど一度もない。謹慎も体調不良も、それを理由としてお前に近付ける。俺にとってはまたとない福徳だ」 「…見方を変えるとそうなるんですね。ほんとに冨岡先生の世界は楽しそうで羨ましいです」 普通に考えたら踏んだり蹴ったりなこんな状況でも、私が居る、ただそれだけで前向きに捉えるこの人は冗談抜きで称賛に値すると思う。 あぁ、そうだ… 思い出して勢い良く頭を上げた私の後頭部、何かがぶつかって 「…っ!」 振り返った先鼻を押さえる冨岡先生に、その顔面に頭突きを食らわしていた事を知る。 「あ…すぐ後ろにいたんですか?」 「鼻が多少通るようになった分、名前の匂いを堪能しようと思った」 「それはすみません。今のはわざとじゃないです」 「わかってる」 懲りずに頭に埋めてこようとする顔に 「冨岡先生聞いてくださいよ。今日あの子に会ったんです」 そう話を切り出せば若干眉を寄せたのがわかった。 組み敷いていた力が抜けたのを感じそこから抜け出すとその場に座る。 「覚えてますか?イジメを隠蔽…、してしまった彼です」 「お前がそうした訳じゃない」 その一言で覚えてはいるんだなと判断をして続ける。 「彼が、居たんですよ。偶然にも」 口に出している今も信じられない。 「話は出来たのか?」 「はい。少し一緒にお茶して、近況とかを聞く事が出来ました」 言葉に出してから、だから此処に来るのが遅くなった事を悟って不機嫌になるかも、と浮かんだ杞憂も、黙って次の言葉を待つ冨岡先生に続けた。 「彼が今プロを育成するゲームチームに入ってると聞きました」 「何だそれは」 「冨岡先生もやってたあのゲームアプリにそういうものがあるらしいんです。ご存知でした?もしかしたら冨岡先生も不死川先生も彼とマッチした事があるかも知れないですね」 そう考えるとなかなかに世間は狭いのかも知れない。 「俺はそこまであのゲームをやり込んでいる訳じゃない。不死川なら詳しいかも知れないが…」 途端に盛大に咳き込むものだからそこでふと我に返る。 「…すみません。まだ本調子じゃないのにこんな話に付き合わせて。夜中のテンション程怖いものはないですね。帰ります」 「帰らなくて良い。名前の話なら夜通しでも聴く」 「いえ、それは流石に申し訳ないですし帰りたいんで帰ります」 そっと左頬を撫でる右手が首筋に移動してきて肩が震えたものの 「キスをしたい」 今度はその一言に心臓が震えた。 「…駄目です」 「駄目ではない筈だ」 「何言って…「お前が本当に俺を嫌がっているならどんな手を使ってでも既にこの場から去っている」」 覗き込んでくる瞳に逃げるように顔を逸らしても合わせてこようとする視線に眉を寄せる。 「冨岡先生が先程まで死にそうだったので帰れなかっただけですし、漸く帰れると思ったら寝技決められたんで動けなくなっただけです」 「…では、今はどうだ?」 ……今、は? 「逃げようと思えば逃げられる筈だ」 拘束どころかその右手はただ添えられているだけで、私が本気で拒否をすればこの人がしつこく追ってこないのもわかっている。 じゃあ、どうして? 「…夜中のテンションついでに、話しても良いですか?」 「いちいち許可を取らなくて良い。名前の話ならいつ何時だって聴く」 「…相変わらずブレないんですね」 右手を下ろした冨岡先生に苦笑いをしながら、視線を下へ落とした。 「冨岡先生、言いましたよね?私が誰も信用してない、自分を隠そうとしてるって」 「…あぁ」 完全に的を射てる、そう認めざるを得なかった。 あの時言われた全て、一字一句違えず『私』という存在を的確に表していて、初めてその洞察力に畏怖を覚えた。 「今も、後悔しているからです」 いくつかの選択肢を間違えた事で、それはもう、本当にわかりやすく、取り返しのつかない程に全部が壊れて、あの人が言っていた通り、物事の判断に感情は要らないのだと思った。 「私は…自分が生徒を苦しめた事実を、今もずっと、忘れてはいけない」 「それはお前が「私の判断が間違っていたのは変えようもない事実なんですよ」」 眉間に皺を寄せる冨岡先生に、苦笑いを返すしかない。 何もそんな辛そうな顔をしなくて良いのに、と。 「それなのに、忘れそうになる自分が…、楽しいと思う自分が嫌なんです」 キメツ学園に来てたった数ヶ月の間で薄まっていきそうな記憶を忘れてはいけないと、自分の脳に、心に、反復し言い聞かせている。 投げ捨ててしまいたくなる痛みをずっと持ち続けると果てない後悔に呑まれながら強く決めた。 彼に会って、尚の事そう、改めて思う。 笑顔を向けられたからと言って、何もなかった事になる訳じゃない。 許されるなどと、一瞬でも期待をしてはいけない。 今でも彼があの時の事を思い出して心を痛めるのならば、私はそこでずっと頭を下げ続けなければならないし、彼がこれからあの出来事が原因で苦しむ未来があるのならば、ずっと謝罪し続けなくてはならない。 それが私に出来るせめてもの贖罪なのだと。 「私は自分が大嫌いですし許せません」 感情に流されて間違った。 もう二度と同じ道を辿らないように繰り返し言い聞かせても、また流されてしまいそうになる。 「だから、他人を寄せ付けない事にしました」 関わりを断って、敬語を貫く事で距離を置く。 時々無性に、全てから目を閉じて耳を塞ぎたくなる私の心を、冨岡先生は『壁』と称したけれど、それも的確な表現だった。 意識して酷く高い壁を作らないとこの人は軽々と越えてこようとするから。 「俺は名前が好きだ」 「そういう事じゃなくて私が言いたいのは…「好きだ。愛してる。名前が欲しい。名前の全部が欲しい」…話を聞いてくださいよ…」 「だから諦めて離れろという話なら聞いても意味をなさない。自分の事を嫌いだろうが、過去を後悔していようが俺がお前を好きなのも事実だ」 「ご自分が惨めだとか…不毛とか思いませんか?たまにふと自分何やってんだろう、みたいに正気に返ったりしませんか?」 「微塵も思わない上に常に正気なため返るものもない。実際、惨めでも不毛でもないからだ」 「……ホント冨岡先生って強靭ですよね」 「何故かわかるか?」 「強靭な理由ですか?」 「違う。何故俺が此処まで断言出来るかだ」 考察するのに視線を動かしたところで 「お前は確実に俺を好きになり始めている」 心臓が跳ねた上に息まで止まってしまった。 「随分自信満々に言いますね。その豊かな空想力と自意識の高さを分けていただきたいです」 「空想ではない。事実だ。俺の事が好きだろう?」 「好きじゃないです。全く、微塵も好きではないです。ちょっと…また圧かけてくるのやめてください」 段々と近付いてくるものだから逃げるために自分の顔を両手で隠す。 「全くというのは嘘だ。少しは俺の事を好いている」 「……わかりました。じゃあそういう事にしときましょうね。確かに大嫌いとかではないですよ。人間としては微妙ですけど、犬として考えたら1ミリくらいなら好きな方の部類に入るんじゃないですか?」 これ以上否定すると武力に出られそうなので妥協案で乗り切る事にするも 「……名前が…俺を好きだと…」 噛み締めるように呟く嬉々とした顔に遮っていた両手を下ろした。 「…またそうやって自分の中で都合よく変換する…」 「俺も好きだ」 「"も"って何ですか"も"って。今のは流石に聞き捨てならないですよ。違いますからね?私好きだなんて一言も…」 手を引っ張られその腕の中へすっぽりと収まったかと思えば頭を何度も這う左手。 「……何で撫でてるんですか」 「愛情表現だ」 「反対な気がするんですけど。これじゃ私が犬みたいになってます」 「……そうか。犬の愛情表現はどういうものだ?」 何でわざわざ、しかも躊躇いもなく犬になりたがるんだろうかこの人は。 「…まぁ、擦り寄るとか…鳴くとか、じゃれる、とかですか?」 「それだ」 「…どっ」 あっという間に組み敷かれて天井を仰いだ私の首筋を滑る舌の感触に勝手に鳥肌が立つ。 「…っ何を…!」 「犬の愛情表現だ」 「愛情というより発情では…?」 「違う。飼い主にじゃれている」 「飼い主じゃないですってば。野良犬に噛み付かれてる気分ですよホント」 「…ゴ、ホッ!ゲホッゲホッ!」 「またいきなり動いたりするから…」 顔を背け咳き込む姿に溜め息が出た。 「……けほっ…」 小さく咳をした後、漸く落ち着いてきたのか苦しそうに息をする背中を右手で摩る。 「…大丈夫ですか?」 冨岡先生が僅かに目を見開いたのも一瞬、真剣な表情で下げてくる顔に、摩っていた手が自然に止まった。 「…好きだ」 口唇が触れ合う直前、呟いた言葉にゆっくり目を閉じる。 「………」 それも数秒で離れ、目を開けた私を見つめてくる群青の瞳から逃げるように逸らした。 背中へ添えていた手でその顔を遮ってから口を開いた。 「離してください」 「嫌だ」 一気に寄せてしまった眉に、優しく落とされた接吻の後、向き合った瞳が温かいものだと気付く。 大人しく身を引いた冨岡先生を横目に、すぐ身体を起こすとベッドから抜け出した。 「ちゃんと寝てくださいね。あとカットフルーツ、冷蔵庫の中に入ってるんで賞味期限切れる前に食べてください」 そこまで言ってから「あ」と声が出た。 「…どうした?」 「ちょっと待っててください」 鞄、は確かダイニングに置いたままだった気がする。 床に放置したままだったその中から一枚紙を取り出すと寝室へ戻った。 「これ、不死川先生から預かってきたんですけど、校閲お願いします」 「……」 この薄暗い中で読もうと細める目に 「目が悪くなりますよ」 ついつい口が出る。 「もし月曜も体調が優れないようでしたらポストに入れておいてくれれば私が渡しておきますので」 「休まない。俺が持っていく」 「そうですか。そうしてくれると有難いですけど…。何でそんな険しい顔してるんですか?」 「嫉妬をしている」 「…何処に嫉妬する要素が…?仕事の話しかしてないんですけど…」 「それはわかっている。だがお前は胡蝶の次に不死川と仲が良い。俺がお前の事を好きな以上、若干の嫉妬心を抱くのは当然の摂理だ」 「まぁ…気持ちはわか…りたくないですけどわからなくもないです。でも特別仲が良い訳でもないですよ。不死川先生って誰にでもあんな感じじゃないですか」 「それも頭ではわかっている。しかしやはり2人きりで会うのは許可できない」 「まず2人きりで会ってませんし会いもしません。どうしたんですか急に…。嫉妬深い束縛男みたいになってますよ」 「俺は前も言ったがお前が男と2人で会う時点で無理だ。その点について名前はどう考える?」 「…え?まぁ、理由もなく異性と2人で会うのはどちらかと言えばナシだと思いますけど…いきなり何の話してるんですか?」 「付き合うに当たって価値基準の摺り合わせをするに越した事はない。浮気の定義については同意見で安心している」 余りにも情報が多過ぎて、すぐに脳が処理し切れない。 「…つきあうに?あたって?」 「そうだ」 「情報を整理するために一応訊きますけど誰と誰がですか?」 「俺と名前だ。価値観の相違を知る所から始めた方が良いと考えている。ゆくゆくは結婚するにして折衷案を必要とする時に役立つだろう」 「すみません、全く記憶がないんですけど、そんな前向きな人生計画いつ検討しましたっけ?」 「先程お前は俺を好きだと言った。それで十分だ」 与えられる理解しがたい情報を懸命に噛み砕こうとした脳は、完璧に停止するしかなかった。 既に価値観の相違があり過ぎる (思い込みって最強かも知れないですね…) (やはり俺が名前の部屋に住む方が現実的だろうか) (的どころか全てが現実じゃないんですけど) [ 35/220 ] [*prev] [next#] [mokuji] [しおりを挟む] [back] ← ×
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