good boy | ナノ
彼を見送ってから時計を確認する。
40分近く話し込んでいたのに気付き、未読のままだったメッセージを確認しようとトーク画面を開く。
"構わない"
たった一言のそれは冨岡先生からのもの。
先程店に向かう際
"帰るのが1時間くらい後になりそうです。すみません"
と送っていたためだ。
買い物の時間を考えると軽く提示した時間は超えるなと画面をタップすると
"今から買い物して帰ります"
それだけ送信してから、ドラッグストアと隣接するスーパーへと向かった。


good boy


とりあえずこの数日を乗り切れるような物を買い込んだ袋を抱え、エレベーターに乗る。
スポーツ飲料水のせいでなかなかに重さがある
袋の負担を軽減するため右手から左手へと変えた。
5階で降り、自分の部屋を通り過ぎた角部屋の呼び出しボタンを押す。
2回鳴ったチャイムの後、それほど間を開けず扉が開けられたのを認識し
「…遅くなって」
すみません、と言い切る前にその両腕に包まれていた。
「…名前…」
荒い息遣いと全身に感じる熱さに眉間の皺が増える。
「冨岡先生、ちゃんとモニター確認してから開けました?」
「…ない‥」
「確認もせずいきなり抱き着いてくるとかもし私じゃなかったら確実に事件へ発展してますよ。気を付け」
言い終わらないうちにほぼ力技で玄関へ上がらせられたかと思うと共に扉が閉まった。
「…ゲホッ…」
「無理しないで寝ててください。これ置いたら帰るんで」
「帰らないで…欲しい」
掠れた声に、この人思ったよりも相当弱ってるんだな、と考える。
「わかりました。とりあえず冨岡先生は布団に入りましょうね。上がっても良いですか?」
「当たり前だ。訊く、までもない」
緩まった腕から抜け出し
「お邪魔します」
一言断りを入れてから足を踏み入れた。
「冷蔵庫開けて良いですか?」
「都度確認をとらなくて…良い。自分の家だと…思ってくれて、構わない」
「いや、そこまでは思いたくないんで大丈夫です。もはやそれがお気遣いでないのも知ってますが、一応そうとして受け取っておきますね。ありがとうございます」
買ってきた食品を詰めようと単身用に丁度良い冷蔵庫を開ける。
正直冨岡先生のイメージで想像していたよりそれは大きめで、きちんと冷凍と野菜室がついている引き出しに、冷凍類も買ってくれば良かったかなと思いながら飲み物をしまっていく。
「…冨岡先生?」
名前で疑問を表したのは腰に回された両手とまたも頭に埋める鼻の感触に気付いたからだ。
「…冷たい…気持ち良い…」
「人の身体で器用に冷暖取るのやめてもらえませんか?」
今の冨岡先生の体温じゃ外を歩いてきた私は確かに心地好い温度なのかも知れない。
要冷蔵のものを一通り入れてから冷蔵庫を閉め、薬と水枕を袋から取り出す。
冷却シートも買おうか迷ったが、これまでの発熱時の記憶を辿ると水枕の方が体感的に効能があるような気がしたためそちらを選んだ。
「あれから何か口にしました?」
「…ない」
「お粥温めます?それとも「要ら、ない…」食欲ないんですか?」
黙って頷くのを頭で感じる。
「そしたらもう薬飲んでとにかく寝るしかないかと。今水枕作るんで横になって待っててください」
「嫌だ」
また駄々っ子が始まった。
「一度部屋へ氷取りに行きたいんです。離さないならそのまま帰りますよ」
私の言葉に反論はせず渋々腕を緩める冨岡先生に
「すぐ戻りますから。布団に入っててくださいね」
念を押してから一度部屋に帰ると袋状になった枕に氷と水を詰め、タオルを巻いて早々に右隣の部屋に向かう。
ついチャイムを押そうとした手で扉をノックし部屋へと入った。
そこにその姿はなく、きっと開け放たれた扉の向こうに居るのだろう。
「…失礼します…」
小さく断りを入れてから恐る恐るそこへ踏み入れる。
更に続く奥の部屋に進めば壁沿いに設置されているシングルベッドで横になる冨岡先生を発見した。
「冨岡先生、頭上げられます?」
静かに開く瞳に傍へしゃがむと、言う通りに動いた頭を支え布団の間へそれを差し込む。
弱々しく閉じられる目に溜め息が出た。
「だから風邪引いたら辛いですよって言ったのに…」
完全に眠りには落ちていないのを感じて小さく声を出す。
「では、私は帰りますね。お大事になさってください」
預かった検定表を思い出したけど、薬すら飲めないこの状況では確認など無理だろうと諦める事にした。
土日のどちらかで回復したら渡せば良い。
立ち上がろうとした所で突然左手を掴まれて心臓がドキッと音を立てた。
僅かに開かれた微睡んだ両目はこちらを捉えている訳ではないのに、その右頬に添えさせると、まるで安心したように徐々に目蓋が落ちていく。
その後すぐ聞こえてくる寝息に小さく息を吸って吐いた。
右手の力が抜けていくが、今此処ですぐにこの手を離すと起きてしまいそうで暫くそのまま動かずにいる事にする。
手持無沙汰に部屋を見回しながら、殺風景だなぁ、という感想をひとつ。
必要最小限の物しか置かれていないのは、きっと引っ越して間もないという、それだけが理由じゃない。
この人は服装もそうだけど、物に対して頓着がないのだろう。
それでも壁に貼られた我妻くんが撮った写真はひと際目立っていて、本当に飾っていた事に驚いた。
それにしても同じ間取りにも関わらず、そこに住む人間が違うとこんなに見える風景も違うのか不思議な気分になる。
冨岡先生に視線を戻し、完全に力の抜けた右手からそっと左手を抜いた。
身動ぎしないその姿は、完璧に眠りに落ちたと思う。
初めて見る無防備な寝顔に、勝手に弛む頬を隠さなかったのは、誰にも見られていないという安心感からだ。
目に掛かる長い前髪をそっと除けてからその額に触れるだけの接吻をする。

何を、してるんだろう、私は。

突然正気に返った。
いや、今のは深い意味はなくて。可愛いなとは思ったけどそれは何と言うかペットとしてって事で、要は犬に対して寵愛に近いものだ。飼ってはないけれども。
「…ほんと、何やってんだろう…」
頭の中で必死に言い訳してる自分が滑稽過ぎて、小さく呟く。
寝室を後にし、わかるようにキッチンに薬と常温かつ未開封の水を置いておく事にした。
起きた時にすぐ食べられる状態でお粥かフルーツ缶か、何かを用意しておこうとも考えはしたけれど、いつ目覚めるかわからない状況で現実的ではない気がして手を出すのはやめる。
玄関に置きっぱなしだった鞄を持ってから、どうやって施錠しようか肝心な事が抜けていたと気付いた。
鍵が手元にあれば戸締りをしてドアポストに入れるという事も出来るけども、その肝心な鍵が何処にあるのかわからない。
一応靴箱の上も確認したが、それらしきものは見当たらなかった。
冨岡先生が気にはしないだろうというのはわかってはいるけども、流石に何処にあるかも見当もつかない中で家探しをする訳にも、折角眠ったその弱った身体を起こす訳にもいかず、選択肢はそのまま鍵を掛けず帰るか、家主が起きるまで此処に残るかの二択になった。
可能性を考えるとわざわざピンポイントで5階の右端の部屋を狙う人間などは居ないとは思うけれども、万が一の事を考えると大丈夫とは一概に言い切れない。
普段の冨岡先生ならともかく、今の弱り切った姿で何か遭った時に対応出来るかと言ったらそれも無理だろう。
でもだからと言って此処に残って朝まで起きてこなかったとしたらそれはそれで私が辛い。
1時間、いや2時間…それくらい待っても起きなかったら申し訳ないけれども起こして鍵の在処だけ教えて貰おう。
そう決め、ダイニングの床に座った。

* * *

持ち出しを許可されている校閲書類を片付け、自分の部屋から持ってきたノートパソコンとデータが入っているUSB、そして悲鳴嶼先生から送られてきたファイルを表示するスマホと見比べながら作りかけだった書類を片付けていく。
一定期間操作をしないと消えるその画面に何度も付け直すのが面倒になり、設定から自動ロックを解除する。
パソコンを直に床へ置いているため、どうしても悪くならざるを得ない姿勢は時折伸ばしつつ何とか誤魔化した。
ピロン、と音を立てたスマホに一度手を止めると画面を確認して頬が弛むのを感じる。
"苗字先生、今日はありがとうございました!楽しかったです!"
考えるより先にすぐに文字を打っていた。
"こちらこそありがとう。会えて嬉しかったです。今度は何か美味しいものでも食べに行きましょう"
送信をしてから、あぁまた敬語で送ってしまった、と後悔するも付いた既読に諦める事にした。
"はい!楽しみにしてます!"
きっと彼も画面越しに少しは微笑ってくれていたりするのだろうか。
返信するのは止めたものの、画面を見つめる目を離せない。
まさかこんな日が来るなんて思ってもみなかった。
「…くっしゅ!」
冷えてきたせいか急に出たくしゃみに自分の部屋からブランケットを持ってこようかと考えたと同時、温かい何かが両肩を包んだと思えばその上から伸びてきた両腕に息を止めていた。
「……起き、ました?」
「…何、してる…こんな所で、座り込んで…風邪、引く」
「片言になってますよ。大丈夫ですか?私よりご自分の心配をなさってください」
温かいと感じたのは、先程まで冨岡先生が掛けていた毛布。
通りで熱を持っていた訳だと納得した。
パソコンの画面で確認すれば1時間半弱が経っている。
「起きたら訊ねようと思ってたんですけど、鍵何処ですか?閉めて帰るんで貸していただけると助かります。もしくは今出ていくので閉めて貰いたいんですけど」
「……スー…」
「え?まさかこの状態で寝…は?嘘ですよね?冨岡先生?」
右肩に乗る頭が徐々に落ちていくのに気付いて振り返るとそれを支えた。
お陰で抱き締める形になってしまって眉を寄せる。
中途半端に起きるくらいなら、ベッドに潜ったままでいて欲しかったんだけども、と今更考えても仕方ない。
完全に力が抜け切ったこの人を寝床まで運べるだろうか。
一度その身体を離し、立ち上がり両腕を引っ張るもビクともしない。
早々に無理だと諦めて傍らに座る。
「こんな所で寝たら治る所か身体痛くなりますよ…」
返事が帰ってこないのはわかってはいても言わざるいられない。
せめてマシになるように毛布を敷くと冨岡先生の身体を押す。
寝返りも手伝って辛うじてその上に乗ったのに息を吐いてからまた勝手に入っては悪いとは思いながらも、掛け布団と水枕を取りに寝室へ向かい、布団を冨岡先生へと掛け、水枕を頭の下へ置いた。

それで、私はこの状況でどうすれば良いのだろうと考える。

次にまたこの人が起きるまで待っていたら明日に支障を来すのは確実だ。
お風呂にも入りたいし夕飯だって食べたい。
だからといってこのまま放置するのは…と考えてまた悪循環だなと早々に考える事をやめた。
申し訳ないとは思うけれど、これ以上此処でこうしてる訳にもいかない。
何かあればすぐ隣だし、LINEというツールもある。

帰ろう。

そう決めてパソコンを閉じて借りていた電源を抜く。
熱は大丈夫だろうかと額に軽く触れれば、汗ばんでいて少しは身体の外に発散出来ているのだろうと安堵した。
荷物を纏めて玄関の戸を開こうとした時
「…名前…」
名前を呼ぶ声にビクッとしたものの、それが寝言というのはすぐにわかってドアノブに力を入れる手が完全に迷っているのに気付き息を吐く。
そのまま眠る姿に後ろ髪を引かれながら、扉を閉めた。

* * *

「…重い」
電気ストーブを抱えながら独り言を呟く。

私は今日まで、こんなお人好しではなかった気がする。
いや、隣でなかったら絶対にこんな事はしていないと言い切れる。

シャワーを浴び、冷蔵庫に残っていたものを胃に詰め込んで再度訪れた506号室。
変わらずダイニングで寝そべる姿に持参したストーブをコンセントを差し点ける。
夜が深くになるにつれ冷えていく空気にせめてもの気休めになればと点けてみれば確かに気持ち的に少しはマシになった気がする。

さて、どうしようかと若干冷たい壁に寄り掛かるとこれまた持参したブランケットに包まった。
流石にもう仕事をする気にもならない。
LINEを眺めながら、あぁ、そういえばまだあの『答え』を返していなかった、と思い出しそのトーク画面を開いた。

謹慎を解いた理由

更に私を苦しめるため?
冨岡先生を泳がせるため?
こちらが全く太刀打ち出来ないような処分名目を作るための時間稼ぎ?
それともただの気紛れか

いや、正直に理由を考えるより何故私にそれを問いかけるのか。
そっちの方が重要なのかも知れない。

明らかにこちらが不利な状況で、立ち向かえるのはあちらの弱みを握る事で相殺させる。
それが一番だ。
ただ、
"冨岡の謹慎が解けた理由は何だと思う?"
この言い方だけで此処を証拠として残さないようにしているのはすぐに窺える。
LINEで攻防を続けるのは無意味だ。
それならやっぱり、また会いに行くしかないのか。



「…ん」
淡い微睡みから目をゆっくり開けたその先、薄暗い中こちらを見つめる冨岡先生の顔の近さに反射的に身を引いた瞬間、ゴッ!と音を立てて後頭部を強打した。
「…いっ!…」
全く状況が把握出来ないまま頭を押さえれば
「大丈夫か?」
落ち着いた声が飛んでくる。
「大丈夫じゃないです…」
一体何にぶつけたのかと振り返るとそこには白い壁。
もう一度向き直すと冨岡先生。
「…どうなってるんですかこれ」
「起きたら名前が座ったまま寝ていたのでベッドまで運んだ」
「で、冨岡先生も一緒に入ったって事ですか?」
「そうだ。勘違いする前に言っておくが、やましい事は何もしていない」
「…それは、気を遣っていただいてありがとうございます」
そこまで言ってから背中の違和感に気付く。
「という事はホックが外れてるのも冨岡先生の仕業ではないって事ですよね?」
わかりやすく泳いだ目の後
「やましい事は何もしていない」
言い切った一言に項垂れるしかなかった。


微塵の後ろめたさも感じない


(私が寝てる間に何したんですか…)
(最初にキスをしたが起きなかったため)
(やっぱり良いです聞きたくないです)


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