good boy | ナノ
「冨岡先生は体調不良のため、お休みです」

朝イチ、教頭の報告に、あぁ…と納得しているんだか呆れているんだか良くわからない感嘆が心の中で出た。
「やっぱり昨日雨に濡れたのが原因かしら?」
「…うむ…、心配だな!」
胡蝶先生と煉獄先生の会話を耳に入れながら、作りかけだった大掃除の役割分担表を進める。
あれから504号室の住人に威嚇し続ける冨岡先生を抑えつつ、見苦しいものをお見せして申し訳ございません、と何度も頭を下げてから逃げるようにエレベーターを降りた後、またも駄々をこねる冨岡先生を半ば強引に部屋に押し込めて私も家へと入った。
それから一切の連絡を取っていなかったため、体調を崩したのも今の今まで知らずにいた。
それこそ望み通り風邪を引いたのならLINEのひとつも来てもおかしくなさそうだけど…。
もしかして連絡ひとつも出来ない程弱ってる、とか?
一瞬そう過ぎるも、学園には連絡を入れている事から、全く動けないという訳でもないと思う。
それにしても見事に体調不良を引き起こすとは。
昨日の冷え切った身体を思い出して、つい眉を寄せた。
もしかしたら本当に、私の風邪が移ったのかも知れない。
というか、そもそも冨岡先生が風邪を引きたがったのも、昨日の私が余計な事を口走った挙句、傷付けようとしたからそうなってしまったのであって、また元凶が自分だという事に気付いた所で重い溜め息が出そうになった。

突き離せば、もしかしたら私の元を去るんじゃないか。
そんな期待が僅かながらあった。
そしたらあの人にも悪の組織にも不必要に目を付けられる事もなくなる。
そう考えたものの、結局その真っ直ぐな両目に口を噤むしかなかった。
あぁ、そういえばその事に関して冨岡先生に謝ってないな。
いや、謝ったら理由を訊かれるか…。

一旦手を止めてスマホを取り出すとLINEを開いた。
出てきたトーク画面を認識して眉を寄せる。
"冨岡の謹慎が解けた理由は何だと思う?"
その一文を確認したのも昨日の夜、寝る前の事だ。
未だ返していない返事はもう少し深く考察する余地を残しているためだ。
戦略も決めず馬鹿正直に向かっていく訳にはいかない。
トーク画面を冨岡先生へと切り替えてタップする。
"おはようございます。体調不良だと聞きました。大丈夫ですか?"
出来るだけ簡潔にそれを送るだけ送ってから画面を消した。


good boy


やっと半分、溜まっていた仕事が片付いた気がする。
その分校閲の仕事が同じくらい増えたんだけども。
ずっと同じ姿勢でいたせいで凝り固まった首と肩をほぐすために軽く動かしてから右横を見た。
空っぽのデスクにすぐ視線をパソコンの画面へ向けると入力する指を動かそうとした所で
「苗字」
後ろから飛んできた不死川先生の声に振り返る。
「コレ、頼まれてくれねぇ?」
「書類ですか?」
「土日の内に冨岡に確認して貰いたいんだわ。期限週明けなんだよ」
差し出された陸上運動検定表の文字に受け取ろうとした手が一瞬迷った。
「LINEで画像を送った方が早いのでは?というかこれ冨岡先生の仕事ですよね?」
「それもう1回やって失敗した。あいつパソコンからきしだからこういうのいつも俺が作ってんだよ」
「そうなんですね。それは初耳でした」
そういえば冨岡先生がパソコンを触ってる所なんて両手で足りる位しかない気がする。
「わかりました。…けど確認して貰えない程寝込んでたらどうします?」
「…あー、そん時は…もうしゃーねぇな。そのまま印刷かけるから良いわ」
「了解しました」
ったく、あいつ戻ってきたと思ったらよォ、と小さく呟きながらデスクに戻っていく不死川先生から視線を外し、今しがた受け取ったばかりの検定表を鞄へしまった。


"大丈夫だ"
"大丈夫じゃない"
どっちなんですか、とつい心の中で突っ込みを入れてしまうも、既に2時間前の時刻にすぐに何と返そうかを考える。
"余り酷いようなら病院で診て貰った方が良いですよ"
それしか思い付かずそのまま送ればすぐに着信を告げる画面に眉を寄せながら席を立つと職員室を出た。
「お疲れ様です」
一言で出た向こう側、咳払いが聞こえるのを耳に入れながら使用していない会議室へと入る。
「…大丈夫ですか?」
『大丈夫じゃない…』
電話越しにでもわかる鼻声に引き戸を閉めながら続ける。
「何か食べました?」
『粥は少し食べた…』
「薬は?飲みました?」
『飲んだ』
「熱はあります?」
『38.5℃だった…ゲホッ…ゴホ…』
「冨岡先生…、私より酷い風邪の引き方してません?」
少なくとも私のは重点的に鼻にくるものだった。
電話口で響く咳のような症状は出ていない。
それならやっぱり雨に濡れたのが主な原因だったりするのだろうか。
考えても正解は出ない事なのに無駄に思考が働いてしまった。
「早くても夕方過ぎになりますけど…何か買って持っていきましょうか?」
『…名前が良い』
「お粥が家にあるなら飲み物、カットフルーツとか…あと薬、冷却シート、そういうの家にあります?切らしてないですか?」
『名前が居れば…ゴホッ…何でも良い』
「とりあえず目ぼしいもの買って玄関に下げておきますね」
『…会いには、来たくないのか…』
明らかにトーンダウンした声。
「いえ、そういう訳ではなくて…。冨岡先生、その状態で他人に会うの単純に考えてしんどくないですか?一応私なりの気遣いのつもりなんですけど」
『名前は俺にとって他人ではないし、それは気遣いにもならない。寧ろ逆だ』
「…おかしいですね、私にとって冨岡先生は赤の他人なんですけど。まぁ良いです。わかりました。少しだけ顔は出します」
『…ゴホッ…!待って、る…』
「段々声が掠れていってますよ、もう喋らなくて良いです。とりあえず切りますけど、帰る時また連絡しますからちゃんと寝てくださいね。失礼します」
返事を聞かないまま通話を終了させて溜め息をひとつ落とした。



「お先に失礼します」

残っている教師陣に挨拶をして早々に帰路へ向かう。
まだ溜まったままの仕事の山は今は考えない事にする。
職員玄関からの階段を下り、すっかり陽が落ちた空の下、門へと向かい、いつものように開閉した。
定時で帰るとは言え、冨岡先生はこの数時間1人でずっと風邪の諸症状に耐えているのだろうかと考えながら数歩進んだ先

「…苗字、先生…?」

名前を呼ぶ声は今でも鮮明に残っている。
驚きの余り、暫く身動きすら出来なかった。

「…ひ、久しぶりです!」

そう言って下げた頭、その髪はあの時より短く、上げた顔つきは9ヶ月という空白期間でだいぶ大人びたものになっていた。

「…背、伸びたね…!」

漸く出てきたのはそれだけ。
意識しても平静を装う事が出来なかった。


「苗字先生、お願いです…助けてください…」

私を最後の希望として縋ってきたあの震えた手を、怯えた瞳を、忘れた事なんてない。

「…ホントだ…!苗字先生が俺よりちっちゃくなってる!」
驚いた後、すぐにへへっと笑うその顔に、思わず目を逸らした。

「先生、今、キメツ学園で働いてるんですね」
「…えぇ」
今度はニコッと笑う表情は男の子、というより男の人という表現に近いと考えた瞬間、更に経ってしまった月日を感じざるを得ない。
浮かぶ疑問は山ほどあるのに、口を突いて出てこなかった。
元気だった?なんて私が訊ける立場になく、どうしてこんな時間にこんな所に?なんて尋問に近い事もどの口が言う?と心の中の自分が止める。
下を向いたまま言葉を探し続けるしか出来ない私に
「…苗字先生。時間、ありますか?」
突然の問いに彼の表情を窺い知るため顔を上げざるを得ない。
「折角偶然会えたんで…少し、話したいなって思って…」
「……」
勿論、と言い掛けて頭の隅で冨岡先生の存在を思い出す。
まだこれから帰るという連絡は入れていない。
少し、少しだけなら…
「是非、私も話したいです」
心の中で冨岡先生に謝罪しつつ頷いた。

* * *

「お待たせいたしました。コーラとホットコーヒーです」
チェーン展開しているレストランの制服に身を包んだ女性はそう言うと慣れた手つきで私と彼の前にそれぞれのコップとカップを置いていく。
「ありがとうございます」
小さく頭を下げた私につられるように会釈をする彼を眺めながらも、実感が湧かずに居た。
まさかまた会う事が出来るとは思わなかったのもある。
それより何より、彼が私とこうして話す機会をくれるとは微塵も思っていなかった。
「飲まないんですか?」
「…あ、うん。飲みます」
スティックシュガーを持つ自分の右手が小さく震えているのに気付く。
どうしよう。緊張してきた…。
何を、話せば良いのかわからない。
あの時の事を、もう一度きちんと謝るべきだとは頭ではわかっている。
でもそれを蒸し返したら、彼からまた笑顔が消えてしまうんじゃないか。
そして何より、情けない事に返される言葉に怯えてる。
謝って許される筈がないのに、自分が楽になりたい一心で、彼に謝罪という善意を押し付けて良い筈がない。

「苗字先生。俺、最近ゲームチームに入ったんですよ」

話を切り出した彼に、僅かに視線を上げる。
「ゲーム、チーム?」
「前に俺がハマってるってゲームアプリの話したの覚えてますか?」
「…はい」
覚えてるどころか毎週そのアカウントを確認しては動いている事を確認して安堵している、とは言えない。
「それの中等部チームなんです。結構…いろんな条件とか試験とかあって難しいって言われてたりするんです」
「そんな難関なチームに入れたなんて凄いですね。アプリゲームにも試験とか推薦とかあるのも初めて知りました」
まるで受験のようだと思った所で
「あ、アプリはゲームの一部なんですよ!」
続く言葉に首を傾げるしかなかった。
「本格的になるとパソコンに繋いだり専用ゲーム機に繋いだり…。俺、今アカウント連携させてパソコンからやってて」
黙って頷く私にその表情が更に嬉々としたものへ変わる。
「今はまだ全然だけど…続けてたらプロゲーマーになるのも夢じゃないんです」
正直その類の世界には疎いため、全部を理解出来る訳じゃない。
それでも興奮気味に語るその瞳が光を宿していて、それだけで胸の奥が熱くなる。
「…あ、俺の話ばかりで…ごめんなさい…」
「いえ、聴いていて楽しいです」
「苗字先生は、元気でしたか?」
突然の質問に、なんて返して良いか迷った挙句
「……えぇ」
短く返事だけを返す。
「良かったぁ」
安堵したように笑顔を見せる彼に、また考えようとした所で
「あ、コーヒー、飲まないんですか…?」
先程と同じ言葉に、少し軽くなった心で
「…話に夢中ですっかり忘れてました」
苦笑いをすれば、彼は眉を下げながらも笑顔を返してくれた。



「またお越しくださいませ〜」
感じの良い笑顔に背を向けて、出入り口のドアを押す。
チリンチリン、と立てた音は
「…いいんですか?俺、払わなくて…」
その声に掻き消された。
「コーラ代くらい出させてください」
「……ありがとうございます」
穏やかに笑うその表情に頬が弛む。
あれから更に彼の近況やキメツ学園の事をお互い話し合い、彼が近くを通り掛かったのも、そのゲームで知り合った友人を尋ねたためだったというのを聞き、彼の中でそれが大きな支えになっているのだと改めて知る事が出来た。
「駅まで送ろうか?」
「大丈夫です!途中で本屋にも寄りたいんで!」
「…そう。気を付けてね。防犯ブザーは持ってますか?」
「持ってます。苗字先生、そういう所変わらないですけど…」
一度止めた言葉に何を言われるのか意識的に構える。
「何で時々敬語になるんですか?前はもっと…」
噤んだ口が何を言いたいかはすぐにわかった。
「…すみません。最近敬語を使うのに慣れてしまっていて、咄嗟に出るのがこっちの方が楽だったり…、するの。距離を置こうとしている訳じゃないから気にしないで」
「……そう、なんですか。ごめんなさい、俺変な事聞きました…」
「気にしてくれた、のよね。ありがとう」
どうにも意識しないと前のような話し方が出来ない。
「あの、またこうやって話せませんか…?」
突然の問いにまたすぐに答える事が出来なかった。
「苗字先生と話すの、やっぱ楽しくて…たまにでも良いんで…」
「私で良ければいつでも。…LINE交換します?」
「良いんですか!?」
「勿論」
嬉しそうに綻ぶあどけない笑顔にスマホを取り出すとそれを交換した後、駅へ向かう背中が見えなくなるまで眺める。

結局、何も言えなかった。
あの時の事を口にするのを多分、彼は意図的に避けていたように思う。
それは私も同じで、もしかしたらそれを見抜いていたから何も言わずに居たのかも知れない。

今しがた登録した彼のLINEアイコンは、そのゲームのキャラクターになっていて、自然と頬を緩ませる。
生きがいを見つけキラキラとした目を思い出しては、とても眩しくて綺麗だったと思いを馳せた。


その笑顔が曇らないように


[ 33/220 ]
[*prev] [next#]
[mokuji]
[しおりを挟む]
[back]
×