これ以上はキリがないと、文字を入力していた両手を止める。 あとは明日の自分に頑張って貰おうと保存をしてからパソコンをシャットダウンさせた。 黙ってスマホを操作している横顔に、そういえば、と口を開く。 「冨岡先生、傘持ってきてます?」 未だシトシトと降り続く雨に凌げるものがないと帰路に着くのは難しいと言えるため訊ねれば、途端に増える眉間の皺に答えを聞く前に続けた。 「貸出用のがあるんで大丈夫ですよ。ちょっと待っててください」 職員室から続く備品庫、束ねられた色とりどりの傘からどれが良いかと何本か見繕う。 無難に黒と紺に絞り目に付いた3本を持って戻るとそれを差し出した。 「どれが良いですか?」 そう声を掛ければ、画面を見ていた視線がこちらに動く。 持っていた右手をズラした事で僅かに見えた映像に「あ」とつい声が出た。 「冨岡先生もオンラインゲームとかやるんですね」 「……。不死川がやっているのを見てダウンロードしてみた」 「そうなんですか」 そういう類の事には興味がなさそうだと思っていたけれど…と、話が脱線してしまった。 「傘、どれにします?」 「どれが一番大きい?」 「大きさですか?一応紳士用なんで大きめに作ってあるとは思いますけど…そんなに変わらないんじゃないかと」 一応比較しようと3つとも開いてみるも、顕著な違いは見られない。 「強いて言うならこれです」 視覚の錯覚もあるかも知れないが紺色の1つを選ぶ私に 「ならそれが良い」 即答する冨岡先生にそれを渡すと、使わなかった2本の傘を備品庫へ返しに行く。 戻ってきた時には既に上着を羽織り、帰り支度を済ましている姿に、私も上着と鞄を手に取った。 good boy 職員玄関から出て階段を下りながら、鞄から折り畳みの傘を出す。 「何をしている」 「何って、傘出してるんですけど」 「必要ない」 「はい?まさか病み上がりに濡れて帰れって言うんですか?それは流石に鬼畜の所業だと思いますよ」 「俺が名前にそんな事をさせる筈がない。これに入っていけ」 軽く上げた右手には、先程冨岡先生に渡した紺色の傘。 意味を理解するのにだいぶ時間を要した気がする。 「あぁ、冨岡先生が濡れて帰るんですか。若い時ってそういうのも楽しかったですよね。お元気なのは良いですけどあんまり無茶しない方が良いですよ。もう10代じゃないんですから」 「それも違う。一緒に差せば良いと言いたい」 「…まぁ、そうですよね。そういう意味だろうなっていうのは薄々気が付いてはいたんですけど、そうする意味がわからないです」 「名前と相合傘をしたい。単純明快な理由だ」 「単純明快なのは良い事ですね。でも私はそうしたくないんでお断りします」 だから一番大きい傘、なんてものを望んだのか。 階段を下りてそれを開こうとする前に右手を掴まれたかと思えば、半ば強制に冨岡先生の傘へ入れられる。 「…強引過ぎません?そんなに相合傘がしたいんですか?」 「一緒に帰路につけるこれまたとない貴重な機会だ。別々の傘では意味がない」 「…そうですか…」 「諦めるのが早いな。もっと嫌がるかと思った」 「だからまだ本調子じゃないんですってば。しかも嫌がった所でやめてくれるとは思えないんで…。もっと逆らったら解放してくれます?」 「無理だ」 「でしょうね…」 会話をしている今も手を引いてグングン歩いていく姿に小さく息を吐く。 「せめて手は放してくれませんか?」 こんな所を誰かに目撃された日には、と思うだけで恐ろしい。 せめて言い訳が立つ要素だけは残しておきたい。 大人しく放れる手に右斜めにある顔を見上げた事でその右肩が濡れているのを知った。 「冨岡先生、こちらに寄せ過ぎです。肩入ってないですよ」 「名前を雨に打たせる訳にはいかない」 「雨の日はどう頑張っても濡れるのが当たり前ですし、そこまで気を遣ってくれるなら自分の傘差させて欲しいんですけど」 「…濡れる…」 「何でそこだけ繰り返すんですか…」 「名前の口からとてつもなく良い単語を聞く事が出来た」 「……セクハラの域を遥かに超えてます。ほんとに何でそうなるのか…。冨岡先生一度脳ドッグとか受けた方が良いですよ。絶対異常見つかりますから。そしてそのまま入院してください」 「照れてるのか。可愛いな」 「私今月中に引っ越しますね。短い間でしたが隣人としてお世話になりました。これからは仕事場で同僚としてだけのお付き合いをよろしくお願いいたします」 「…悪かった。調子に乗り過ぎた。傘から出ようとしないでくれ」 右腕を掴まれて、寄せていた眉を緩める。 先程手を放して欲しいと言ったからなのか、すぐにそれを放すと黙って歩き出す姿に小さく息を吐いた。 「さっきも雨に降られてるんですから、これ以上ぬ…、冷えるとほんとに風邪引きますよ」 「そんなに柔じゃない。結局お前の風邪も移らなかった」 また歩き出す冨岡先生についていきながら考えた。 「今思うと自分から風邪引きに行くのもなかなかに凄い思考ですよね。独り暮らしの体調不良は結構辛いですよ?買い物とか家事とか疎かになりますし」 「その点は心配していない。名前が居る」 「は?何で私が出てくるんですか」 「俺が動けなくなる程の体調不良に陥ったらお前は絶対に放っておけない筈だ」 「まさか看病しろっていうんじゃないですよね?絶対しませんよ」 「…しないのか」 「だから何でそこで…」 驚くんですか、という言葉を止めたのは、これまで冨岡先生にして貰った事を思い出したためだ。 流石に此処で突っぱねるのは、不義理過ぎると自分で思う。 「買い出しくらいなら行きますけど」 「………」 足を止めたかと思えば突然傘の柄を渡してくる右手に訳もわからず受け取ってしまった。 かと思えば1人雨に打たれる光景に理解が追いつかない。 「何してるんですか冨岡先生。弱い滝行みたいになってますけど」 「決まってる。風邪を引きたい」 「何で自分から引こうとするんですか…自虐的過ぎません?」 「自虐じゃない。名前に看病して貰いたいという目標故の手段だ」 「看病するとは一言も言ってませんしその手段が強引なんですってば…」 余計な事を口走るんじゃなかった。 ほんとに何でこう、この人はいきなりフルスロットルになったかと思えば勝手にK点を超えていくのか。 とにかくその頭に傘を差す。 「言っときますけどそれで風邪引いても私は一切関与しませんよ」 「何故だ」 「何故って自己責任だからです。そんなのいちいち面倒見てられません」 「名前が俺を放っておける訳がない」 「だからその自信はどこから来るんですか。放置しますからねほんとに。何なら弱った所を段ボールに入れて遠く見知らぬどこかの原っぱに捨てに行きます」 「お前はそんな非情な事はしない。例え見知らぬ土地に放置されても自力で帰る」 「冨岡先生、最近私が甘いと思ってませんか?今までのは体調が優れなかっただけで全部許したわけじゃないんで」 「……。何故だ」 「だから…」 続く言葉を紡ぐ前に右手首を掴まれた。 その勢いで傘が落ちたにも関わらず、群青の瞳は私から一切目を逸らさない。 「何故また突然分厚い壁を作る。何故全てなかった事にしようとする」 「冨岡先生との隔たりは元々とてつもなく分厚いです。雨が冷たいんで早く帰りませんか?折角治りかけた風邪が悪化しそうなんですけど」 「悪化した時はまた俺が介抱する。話を逸らそうとするな」 「…そういうのが」 心が痛いというのが今正に的確な心境だと言える。 「迷惑なんですよ。もしかして冨岡先生、私が好きになるとでも希望抱いてました?そんな事…」 瞬きひとつせず真っ直ぐ、本当に真っ直ぐ私を捉えるものだから、言葉を止めてしまった。 「…続きはどうした」 「…いえ、もう良いです。帰ります」 「帰らせない。言いたい事があるなら今此処で全て聞く。言え」 「…流石は鋼のメンタルですね…。少しは傷付いたりしないんですか?」 「些細な心の機微などもはや問題じゃない。俺はお前の全部、全てが欲しいと言った。だから今ぶつけてくる言葉も感情も受け入れる」 「受け入れてくれるって事は諦めてくれるんですよね?私と一切関わらないでくださいって言ったらそうしてくれますよね」 「それは無理だと前から言っている。言葉を受け入れはするが実際の行動に移すかどうかは別問題だ。名前から離れる道は選ばない」 「どうしてもですか?」 「どうしてもだ」 「…冨岡先生、日に日にメンタルが強化されていってる気がするんですけど…。何をどうやって鍛えたらそうなれるんです?私にとって切望の境地ですよ」 「常日頃名前の事を考察している。名前も俺の事だけを考えれば良い。至極単純で簡単な事だろう」 「…それが普通の人間にはとてつもなく難しい事なんですよ。ほんと、好きなものだけを考えて生きていけるならどれ程良いか…」 「俺の事だけを考えていたいと言うのか」 「違います。断じて違います。何勝手に勘違い…」 また噛み付いてきそうになる顎を押し返してから眉を寄せた。 「させませんよ」 左手首を掴む手が、いつもより優しい、というか弱い、気がする。 「…くっしゅ!」 出たくしゃみに眉を寄せた。 それは私じゃなく冨岡先生から出たもの。 その髪から滴る雫が地面に落ちるのを無意識に目で追っていた。 「話は終わりです。これで風邪引いたらホントに笑えませんから帰りますよ」 手首を掴んでいた手が緩むのを返事だと解釈して、傘を拾い上げる。 「…ほら、また肩震えてるじゃないですか」 「問題ない。武者震いだ」 「この状況で奮い立つ何かがあるとは思えないんですけど。明らかに寒さからくるものですよね」 もうこの際置いて帰ろうかと先に歩き出した私に少し遅れてついてくる肩が濡れないように一応気を掛けてみる。 いや、もう全身濡れてる時点で無意味なのはわかっているんだけど何となくだ。 「俺が持つ」 「良いです。冨岡先生はもう一切何もしないで黙って歩いてください」 その言葉の言う通りにしたのか、マンションに着くまでその口を開く事はなかった。 * * * 「…はっくしゅ」 今日はずっと治まっていたはずなのにまた出てきた。 濡れたマスクを早く捨ててしまいたくてエレベーターのボタンを押す手を速める。 「冨岡先生、帰ったらすぐお風呂入って温まった方が良いですよ」 「名前も入るのか?」 「入ります。このまま悪化するのは避けたいんで」 黙ったままの背中につい眉を寄せた。 「…一応訊きますけどまさか変な事考えてないですよ?」 「考えていない。名前の入浴シーンを想像していただけだ」 「考えてるじゃないですか。良くそんな事本人を前にして言えますね」 「変な事じゃない。自然な欲求だ」 「まぁ、それはそうかも知れませんけど冨岡先生の場合ダイレクトに出し過ぎですよ。もっとこう包み隠すとか…」 エレベーターに乗り込む冨岡先生に続く。 「寒い」 「そうでしょうね。あれだけ雨に打たれれば寒いと思います」 「そういえば…先日身体が冷えた時は温めると良いと言っていたな」 「言いましたね。だからお風呂入っ…」 閉まるボタンを押す前に、抱き締められていて息を止めた。 「…何してるんですか」 「寒い」 「それはわかりましたし寒いのは私も同じです」 「そうか。それなら丁度良い」 「冨岡先生のお陰で更に寒くなったんで全く丁度良くないです」 明らかに私よりその身体の方が冷え切っているのが伝わってくるものだから反射的に背中を摩りそうになったがそれをすると確実に自殺行為になりそうなのでやめておく。 「物理的に温めたいのなら私で暖を取るより部屋に入った方が早いですよ」 「物理的かつ精神的に温まる名前が一番良い。このまま動きたくない」 「その言い方まるで炬燵みたいですね」 そうだ。思い出した。今年は炬燵を買おう。 次の休みに見に行ってみよう。 ホームセンターなら置いてあるだろうか? 階数ボタンを押していなかった事に気付いて5のボタンを押す。 ズズッと鼻を啜る音が聞こえた。 「ほら、部屋までもう少しなんですから頑張ってください」 「帰りたくない」 「そういう台詞は女の子が言うと可愛いんですけどね。駄々っ子してないでしっかりしてください」 「名前と一緒に居たい」 「気持ちはわかりました。また明日元気だったら会えますよ。今日はちゃんと家帰ってあったまって…」 身体が離れたかと思えば塞がれた口唇に動きを止めるしかなかった。 マスクを外されたのも気が付かないほどの早業に抵抗しようと上げた右手と同時、僅かに音を立てて開いたエレベーター。 前に立つ左隣、504号室の隣人とがっつり目が合ってしまった瞬間、思い切り冨岡先生を突き飛ばしていた。 まさか目撃されるとは (何を見ている。見世物じゃない) (すすすみません!) (それ完全に逆切れですよ…!) [ 32/220 ] [*prev] [next#] [mokuji] [しおりを挟む] [back] ← ×
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