good boy | ナノ
冷静に考えて寒いなって思う。
それはまぁ日に日に季節が変わっているから当たり前なんだけども。
今年はずっと迷っていた一人用炬燵を買おうかな、と思い切り睨む群青の瞳を見ながらぼんやり考えてしまった。
それもすぐ止めたのは私が黙り続ける事で更に険しくなっていくその顔に気付いたためだ。


good boy


「もしかして冨岡先生、一日中家に居たんですか?謹慎させられているとはいえ少し外の空気を吸ったりしないと気が滅入って思考力が鈍りますし思い込みも激しくなりますよ」
「鈍ってなどいないし思い込みでもない。寧ろ今完全に冴えわたっている。あの男の元へ行っていたのだろう。正直に言え」
両側から掛けられる圧ならぬ両手に逃げ切れないのだろうな、というのを嫌でも感じる。
「…行きましたよ」
次の言葉を紡ぐ前に近付く顔を右手で制止した。
「言えと言われたんで事の詳細を説明しようとしてる所なんですけど。早まって噛み付こうとしないでください」
「お前があの男と会ったという時点で許せない。無理だ」
すぐに右手を掴んで退かすその表情は更に怒りで満ちていた。
「必要があったので会わざるを得なかっただけです。話を聞かないのならもう帰って良いですか?」
忘れてた悪寒が再発しているのは寒さのせいなのかこの人が放つ怒りによるものなのかはわからないが、明日からの事を考えると此処でこうして時間を使うのも無駄な気しかしない。
未だひしひしと怒気を放ちながらも黙り込んだのが聞く耳を持ったというのを確認して口を開いた。
「冨岡先生が窓から降りてきた時、後ろに居た生徒の事は覚えてますか?その子の家庭とあの人の家庭に繋がりがあったんです。冨岡先生が暴力を振るったと嘘を吐かせたのは、あの人なんじゃないかと訊ねに行っただけです。でも私の深読みによる勘違いでした。そこに関しての誤解は解けたので何故彼が嘘を吐いたのか別の角度からアプローチを掛けようと考えています。以上が今日の概要と明日からの方針です」
簡潔に事実のみを伝えたがその怒りが治まる気配がない事に気付く。
「あの男に何を言われた?」
「そう訊かれても一字一句は覚えてないんでそれを答えるのは正直難しいです」
「では何をされた?」
一瞬、ほんの僅かだ。
眉毛が反応してしまった。
普通ならば誰も気付かない程の神経の動きも今目の前に居る存在にはそれが命取り。
別の話題へすり替えようと考えを巡らせる前にまた噛み付こうとしてくる顔を押さえようとした右手はいとも簡単に掴まれ押し当てられる柔らかい感触に目を見開くしかない。
それでも残った左手で退けようと顎に触れた瞬間押さえられた。
両手の自由を失ったのを見計らったように離された口唇が動く。
「何をされた?」
「少なくとも今より危機的状況ではなかったというのは確実に言えます」
「キスを、したい」
「…は?何言ってるんですか?たった今無理矢理しましたよね?冨岡先生痴呆入ってます?」
「無理矢理では意味がない。合意の上でしたいと言っている」
「意味がないと思うならしないで欲しいんですけど。合意はしません。離してください」
掴まれてる両手首の力は加減されていて痛くはないが、だからといって抜け出すのは困難だ。
「もしかして合意が取れるまでこのままで居るつもりですか?」
「そのつもりだ。そして合意が取れるまで何度でもする」
「…何ですかそ…」
また重なる口唇に息を止める。
それもすぐ離れ、至近距離で合わせてくる群青の瞳に逃げ場がない事を悟った。
これはもう観念するしか道がないのだろうと口に出そうとした時、ゾクッと走る悪寒と共に
「…へっくしゅんっ!」
突然のくしゃみで思考を止める。
「……あ」
目の前の顔に思いっ切り掛けてしまった。
「…すみません。押さえようとはしたんですけど両手が使えなかったもので…」
一応咄嗟に顔は逸らそうとしたものの間に合わなかった。
流石に怒られるかと思いきや
「この状況でくしゃみをかけてくるとは…」
どうしてか感心してる。
「わざとじゃないですよ」
続けようとした言葉より先に垂れてきそうな鼻をズズッと小さく啜った。
「寒いのか?」
「だからさっきからそうだって言ってるじゃないですか。冗談抜きで風邪引きそうなんですけど…」
また鼻を啜る私にその眉が急に下がる。
「一度で良いからよしが欲しい。今日はそれで我慢する」
「…冨岡先生、私最近思う事があるんですけど言って良いですか?」
「何だ?」
「段々要求がエスカレートしていってません?」
「そんな事はない。気のせいだ」
「いや、絶対気のせいじゃないです」
「キスしたい」
「……ほんと人の話…ズズッ…」
此処で攻防を続けるよりそろそろ限界を超えて垂れてくる鼻の方が今はとても重要だ。
「わかりました一瞬ですよ一瞬だけよしとします」
言い終わる前にもう一度押し付けられるそれに眉を寄せる。
それでも割って入ってくるヌルッとした感触で反射的に歯を立てた。
勢いよくそれが離れたかと思えば驚きに満ちた顔。
「…っ…!まさか名前に噛み付かれるとは思わなかった…」
「…命の危機を感じると人間でもそういう行動を取るんですね。私も初めて知りました」
人と言えば良いのか犬と言えば良いのか、とにかく誰かに噛み付いたのなんて初めてだ。
「そこまでして良いなんて一言も言ってません。もう二度と何があってもよしなんてしませんから。10秒数えるうちに離さないと本気で蹴りますよ。10、9、」
「…名前」
「…7、6」
「名前」
「…何ですか。今度は錯乱戦法ですか?」
「違う。鼻水が垂れてる」
慌てて顔を背け鼻を啜るも下を向いてしまった事でそれは止まらない。
「だから離してくださいって…」
言い終わる前に左手が自由になったかと思えば人中、鼻の下を拭うジャージの袖に眉を寄せた。
「何、してるんですか!」
慌てて退かそうと左手で掴むけれど、それで退却するような人でもない。
「何処で拭いて…!」
「ティッシュを持っていなかった」
「いやそういう問題じゃなくて!今時小学生でも袖で鼻水拭くとかやんないですよ多分ですけど…。しかも自分のならまだしも他人…っていうか痛っ…ちょっと、擦り過ぎですって!もう良いですから!」
ただでさえ硬い生地なのに何回も拭うものだからヒリヒリしてきた。
漸く離されたそれを左手で押さえる。
鼻は落ち着いたが今度はその痛みに眉を寄せた。
「止まったか?」
覗き込んでくる瞳に一歩引こうとしてしまったが、これ以上は下がれない。
「お陰様で。いや、元々は冨岡先生が引き留めたのが原因なんですけどね」
「お前が勝手にあの男の元に行ったりするからだ」
「その前から既に立ち塞がれてたのは記憶違いですかね?」
「忠告しておく。二度とあの男と会うな」
「冨岡先生に言われずとも私だって会いたくないですよ」
「それなら良い」
口調はきつめだったがいつの間にか先程の怒りは鎮まってはいるらしい。
よしが効いたのかは良くわからないが。
右手が解放された事で漸く部屋に入れると安堵したのは気が早かった。
鼻を押さえていた手を退けると至近距離で見つめてくる深い青に息を呑む暇もなく口唇が重なる。
優しく絡まる指の温かさにゆっくり目を閉じた。

* * *

眠い怠い眠い。
わりと毎日、起き抜けの頭でそう考えている。
このまま学校休みにならないかな、とか教師のくせに学生と同じ事を考えたりもするしこのまま二度寝したいのは今現在も全く同じ。
ただ違うのはそれが気分の問題ではなく、完全に身体の不調からくるものだという。
怠い眠い怠い。
そして頭が痛い上に寒気もするし、喉と鼻の奥の違和感が半端ない。
完全に風邪を引いたと認めざるを得ない朝の5時半。
だからといって完全に動けない訳でもないので昨日纏めておいた燃えるゴミを片手に玄関を出たと同時、右からガチャッと同じ音がした。
私の姿を認識した両目がわかりやすく驚いている。
「…おはようございます」
ゴミ捨てに行くだけだと油断していた。
冨岡先生に顔を向けないように挨拶する。
もう昨日くしゃみを掛けた時点で手遅れかも知れないけども。
いや、くしゃみだけじゃなくて…。
思い出すと同時に益々そちらに顔を向ける事が出来なくなる。
あの時、一瞬、ほんの一瞬、思考が止まってしまった。
それでも懲りずに舌を進入させようとしてくるので我に返り思い切り突き飛ばしてから部屋に逃げたんだけども。
それ以上追ってくる事はなかったためその後は大人しく自分の部屋へ帰ったのだろう。
「…どうした」
「何がですか」
「声が違う」
「やっぱりそうですよね。それは自覚してます」
単純に鼻が詰まってるのと喉がイガイガするのでいつもより枯れてるのは先程発した挨拶ですぐにわかった。
といってもそれほど顕著なものじゃないのにこの人が気付いたのは何ていうか…もうわざわざ考えるだけ野暮な気がする。
「今更な話ですけど、私恐らく風邪引いたんで近付かない方が良いですよ」
施錠しようと鍵を挿し左へ捻った後抜こうとする手を掴まれた事でそちらへ顔を向けてしまった。
見上げる前に視界に入れた地面に置かれたゴミ袋で冨岡先生も同じ用件だった事を知る。
「大丈夫か?」
少しは昨日の責任を感じるのか珍しい気遣いと額に触れる右手に意識していないのに眉が寄るのはもはや癖になってる。
「一応訊きますけどそれゴミ持ってた手ですよね?」
「違う。ゴミを持っていたのは左手だ」
「そうですか。その左手は今現在私の右手を掴んでるんですけどね」
「少し熱い。熱は測ったか?」
「ゴミ捨てに行ったら測ろうと思ってたんでまだです」
とりあえず忘れたら困る案件から片付けようといつもより早くそれを最優先にさせた訳だがまさか全く同じタイミングでこの人と鉢合わせるとは。
「俺が捨てておく」
その左手が持っていた袋を素早く掻っ攫ってから意味に気付いた。
「良いです別に」
「警戒しなくても漁ったりはしない」
「いや、そこに関しては流石に警戒してないんですけど…え?漁りたいんですか…?」
思いっ切り引き攣った顔をしてしまった私にその眉が下がる。
「そんな事は微塵も思っていない。ただゴミを漁り情報を得る人間が居ると昨日テレビで観た。名前が同じくそれを観ていたなら警戒されるのではないかと先に口に出しただけだ」
「あぁ…そういう事ですか。すみません、私それは観てないんで純粋にただ冨岡先生がヤバイ思考なのかと思ってビックリしました」
「そこまで思考はヤバくない。それを踏まえ俺が捨てておく」
「いえ良いです。そんな重病でもないですし自分の事は「良くない捨てておく。お前は家に入れ」」
言葉を強められて黙ったのは、正直、素直に有難いと思ったからだ。
また此処で攻防するほどの余裕と元気は持ち合わせていない。
「……。ありがとうございます。お願いしても良いですか?」
「わかった」
私が折れた事に満足したのか両手に袋を持つとエレベーターへ向かう背中を見送ってから部屋へと戻る。
出来る事ならこのまま再度ベッドに沈んでしまいたいがそれが出来る筈もなく、手を洗ってから薬と体温計を手にリビングへ腰を下ろす。
ピピピッと知らせる液晶を眺めてから溜め息を吐いた。
「すっごい微妙…」
思わず口を突いた独り言が思ったより大きくなってしまう。
表示される数字は37.0℃。
だからさっき冨岡先生は『少し熱い』と表現したのかと納得しながらキメツ学園へ向かう準備を始めた。

* * *

"捨てておいた"
一言のLINEを確認したのはデスクに就いてからだった。
"ありがとうございます。助かりました"
そう返し画面を消し校閲の書類を手に取る。
昨日此処を出た時点より倍には増えているそれに小さく溜め息を吐いたのはマスクで若干遮られた。
「苗字。これ教材の配送控えだ」
スッと右横から出された伝票から自然とその顔に視線を上げる。
「…宇髄先生」
「珍しいな。風邪か?」
相変わらず教師らしくないというか、派手な恰好をしてるなと思いながらそれを手に取る。
「えぇ、ちょっと…。代わりに受領してくれたんですか?ありがとうございます」
「通り掛かったからついでな。とりあえず廊下に置いといたが中に入れた方が良いなら運ぶぜ?」
「いえ、そのままで大丈夫です。助かります」
「冨岡が居ないとこういう時困るよなァ」
ニヤニヤしている表情に目を細める。
私と冨岡先生の仲を完璧に楽しんでるのがわかるからだ。
確かにあの人は、教務主任宛に来た荷物を職員玄関の入口、もしくはその階段の下から職員室までいつも運んでいた。
一度としてそれを頼んだ事はない。
寧ろ断り続けていたのにも関わらず、ずっとそうしてくれていたのは伝票に私の名が記されている。
それだけが冨岡先生が荷物を運ぶ理由だった。
こうして過去形で言うともはや居ない人みたいだな、とふと考えてしまった。

どうするの?
頭の中で自分の声が響いた。

「…どうすんだお前」

宇髄先生の言葉に一点を見つめたままだった視線を動かす。
右隣、今は此処に居ない主の椅子を引き乱暴に腰掛けると私へと向き直った。
「冨岡の謹慎、相当ヤバイとこにまで話が進んでるって噂で聞いたぜ?今回ばかりは懲戒解雇は免れないってホントか?」
さっきとは違う真剣な表情から校閲の書類へ視線を向けて答える。
「まだ辛うじて、ですが道はあります」
「…そうか。だったら尚更そんな事してる場合じゃねぇな」
書類を取り上げる右手を追えば、その瞳と向き合うざるを得なかった。
「こんな誤字脱字探す地味な仕事優先してないでド派手に冨岡救おうぜ!」
「…声がデカいです宇髄先生」
「道があるならお前に任せた!これは俺が責任持ってド派手に直してやるぜ!」
「派手には直さなくて良いです…」
話を聞いてるんだが聞いてないんだが素早く動く右手に多少心配になりながらも
「…ありがとうございます」
小さく礼を述べた。


立ち向かうは一人じゃない


(…あ?はいふって配布か?配付か?)
(この場合は配付です。…本当に大丈夫ですか?)
(大丈夫に決まってんだろ!俺を誰だと思ってんだ!)


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