「お願いだから戻ってきてよ。俺の元に」 それがどういう意味を示すのか無駄に深く考察してしまったのはもう職業病に近いのかも知れない。 額面通りに言葉を受け取って、はいそうですかと終わらせられない案件は多い。 自分の気持ちも冷静に客観視出来ない生徒達なんかは特にそうだ。 言葉の裏にある感情を、訴えを掬い上げなきゃいけない。 教師になるという事は、私の中でそういうものだと思っていた。 理想論だけではどうにもならない。 そう、わかってるからこそ、彼が、彼女が何処かで躓いた時や立ち止まった時、誰かが手を差し伸べるべきなのだとずっと考えてきたし、教職というものは、それを実現出来るものだと少なからず希望があった。 その希望も、わかりやすく逆らえない縦の圧力でグシャグシャに踏み潰されてしまったんだれども。 good boy 「…居なくなってわかった。俺、名前の事、本当に…本気で好きだったんだって」 嗅ぎ慣れた筈だった匂いは遠い昔のようなのに、実際1年も経っていないという事実に私自身が驚いてる。 「随分と都合が良い頭ですね。失った事を後悔しているのならそこでずっと立ち止まって死ぬまで反省していたら?」 緩んだ腕から抜け出すと距離を取った。 泣きそうな顔をしているのは本気なのか演技なのか考察しようとした頭を止めたのは、もはやどっちでも私には関係ない事だったから。 「珍しいですね。もしかして傷付きました?」 「そりゃ好きな人にそこまで言われたら傷付くよ…」 「イジメを揉み消した彼の顔は覚えてます?今の貴男とは比べ物にならない程傷付き絶望を抱えてました」 「…それを蒸し返すなら名前も共犯じゃないか」 「その通りですよ。私と貴男で彼の心を殺した」 「そんな大袈裟な言い方しなくてもさ…」 「まだ自分が犯した罪の重さがわからない?私達は人一人の人生を狂わせたのよ」 それなのにまぁ、随分と勝手な事を宣ってくれる。 私が戻らない事で、もしくは罵倒する事でこの人が後悔し傷付き続けるのならずっとそうしてあげたいくらいだ。 二度とこの人の前に姿は見せたくないしその姿も見たくないので実際にそんな事はしないが、気持ちの面ではという趣旨だ。 「…あぁ…。そっか」 急に笑顔を深める表情が何を思うのかもどうでも良いので考えないが、つい怪訝な顔をしてしまった私に答えるように 「ごめん」と一言断ってから続ける。 「いや、だって変だからさ?脅迫状まがいの手紙を送ったとはいえ、何でそんなに名前が俺に対して敵意を向けてくるのか、何をそんなに必死なのか考えてたんだ。で、今何となくわかったよ。もしかしてその暴力沙汰は生徒の虚偽だったりして?」 一応語尾は質問の体をしているが確信を持っている。 まぁ私が仕組んだの何だの言っていた訳だから少し考えればその可能性に気付くのも無理はない。 仮に暴力事件が真実で、それが教育委員会によって問題にされた事に気付いたのなら、此処を訪ねている理由はひとつしかない。 冨岡先生への"処分の軽減"だ。 それでもその類の旨を一切要求しない私が何を考えているのか断片的な言葉で繋げたのだろう。 「そういう頭の回転だけは速いですよね。それに伴う人の感情は理解出来てませんけど」 「嫌味な言い方するよなぁ。理解はしてるけどさほど重要視してないだけだよ。感情論は非効率過ぎるだろ?」 「効率を求め過ぎるとまた失敗しますよ、あの時みたいに」 「そういえばあの時は名前の感情で助けられたもんな」 ほんと、そうやって人畜無害みたいな体をして嘲る笑顔が腹立つ。 「助けてあげようか?俺が親父に口添えすれば処分は免れるよ」 「そうする事で貴男が求める見返りは?」 「流石名前、話が早い。でもさっき言ったよ?俺の元へ戻って来て欲しいって」 「矛盾してますよね。感情論は重要ではないのでは?」 「これは感情論とはまた違う。名前を手に入れたいという立派な目的だ。その為に使える手段を提示してるだけ」 「その要求については残念ながら私も既に拒否という形で回答しています。交渉は決裂ですね。さようなら」 「…じゃあ懲戒処分で良いのかな?」 突然の言葉に一気に眉が寄る。 「…今度は脅しですか。良いですねそうやってコロコロ変われて。その無分別な言動がもはや羨ましくなってきました。私も同じく監督不行き届きで解雇って所ですか」 「名前の事はしないよ。さっき言ったじゃん好きだって。こっちにまた戻ってもらうから」 「コネがあるって素晴らしいですね。そんな生き地獄を味わうならそうなる前に依願退職するので大丈夫です」 「出来ないよ。っていうかさせない」 真剣な表情は恐らく本気だと思う。 キメツ学園の校長にまで息が掛かっているのはそれで窺い知る事が出来る。 「謹慎が1週間だっけ?その後冨岡は処分、名前は此処へ異動。俺にとって最高のシナリオはそれかな」 「私にとっては最悪なシナリオでしかないですね。そこまで冨岡先生を敵視する理由は?暴力事件を起こしていたとして、それが冤罪だとしても貴男には何一つ関係ない筈ですよね?」 「あいつ俺の事ずっと睨み付けて喧嘩売ってたんだよ。それだけならまだしも名前の理解者ですみたいな発言してさ、単純に気に食わないってのが理由かな」 「…喧嘩を売ってたというより威嚇していたの方が正しい気がしますけど…あの人の場合」 つい口を突いて出た一言も 「…あいつ、名前の何なの?」 その質問に、どう答えればいいのかものすごく考えてしまった。 懐いてくる野良犬、と言っても確実に理解はされない。 無難に同僚だと返そうとした所、先に口を開く姿に言葉を呑んだ。 「まさか付き合ってるとかじゃないだろ?あんな頭の悪そうな男と」 「……。貴男にそれを答える必要性を感じません。冨岡先生を巻き込むと言うのなら私はこの1週間で抗う道を探します」 今度こそ本当に歩き出す私の背後で 「そんな道、ないと思うよ」 小馬鹿にした声は知らぬ存ぜぬで歩を進めた。 * * * エレベーターのボタンを押して明日から何をすべきなのか思考を巡らす。 通常の業務を疎かにする訳にはいかないため、当然動ける時間は限られてくる。 今から解決へ続く最短の道を選べるよう計画を立てておかないと、と考えを巡らせた。 静かに開いたそれから降り、いつものように鍵を取り出しながら向かう505号室。 その扉の前、しゃがみ込むと膝の上で両腕を抱える人物を視界に入れた瞬間、足を止めた。 その寂しそうな横顔に驚きと呆れ以外の何かを感じたのは疲れてるせいかも知れない。 「…何、してるんですか?寒くないんですか?」 「名前が帰ってくるのを待っていた。寒いか寒くないかと訊かれれば寒い」 「わざわざ玄関の前で待つとか段々犬化が進んでませんか?そういう扱いをした私が言うのも何ですけど冨岡先生は本来人間ですよ?犬ではないです。気を強く持ってください」 「人間であるという自覚は持っている。しかしお前がこんな時間になっても家に帰らないのは初めてだ。LINEをしても既読もつかずどうしたのかと考えていた」 「あぁ…、立て込んでて見るの忘れてました」 「残業か?」 「そんな所です。そのままだと風邪引きますよ?早くご自分の部屋に戻った方が良いかと。あと単純に私が入れないんで邪魔です」 未だに玄関の戸を塞ぐ存在はそう言っても立ち上がろうとしない。 それ所かその憂いが更に強くなった気がする。 「…今日お前は、珍しく早抜けしたと不死川が言っていた」 その言葉で、だからか、と納得した。 「正確には早抜けではなく外出からの直帰です。賃金が発生しない立派なサービス残業ってやつですよ」 「…何処に行っていた?」 「生徒の家庭訪問です。っていうか寒いんで早く家入りたいんですけど。ほんとに退いてくれませんか?話ならあとでLINEで聞きますから」 無理に外に居続けたせいで悪寒がしてきてる。 早々に温めないと手遅れになりそうだ。 この状況で体調を崩してる場合じゃない。 「…わかった」 渋々立ち上がると玄関から離れる姿と入れ替わりに玄関の鍵を開けた。 「冨岡先生も風邪引かないように…」 言い終わる前に左横から抱き締められて言葉も動きも停止するしかない。 「……冷たい」 「今日はそれほど冷たくあしらってはいないつもりなんですけど」 「違う。身体が冷たいと言ってる。家庭訪問ならばこんなに冷える筈がない。本当は何処へ行っていた?」 両腕に籠る力と髪に埋める顔を感じながら、その物理的な温かさで悴んだ身体がほぐれていく。 「冨岡先生への謹慎と誤解を解く方法を探していました」 結果的には無駄足どころか状況は更に悪化してしまったんだけども。 間違えないよう選択肢を選んでいるつもりなのに、上手く立ち回れない自分に本気でうんざりする。 こんな事になるならばあの時、駆けつけた不死川先生に煙草の件だけでも報告しておけば良かった。 そしたらこんなに覆すのが容易じゃない案件にはなっていなかったかも知れない。 「私のせいでこんな目に遭わせてしまってすみません」 「名前のせいだとは露程も思っていない。俺の事を考えるのは良いが望むものとはだいぶ違っている」 「この状況を何とも思わないんですか?」 「謹慎になったからと言ってお前に会えなくなった訳じゃない。そう考えると何も変わらない。寧ろこうやって帰りを待つ事が出来るのはなかなかに新鮮だ」 「…思考がほんとに犬のそれになってますよ…大丈夫ですか?」 「大丈夫じゃないと言ったらよしをくれるのか?」 「いや、それはあげませんけど」 顔を上げたかと思えば左耳に這ってくる舌に身が縮む。 「好きだ」 「…わかりました。それはもうわかってるんで急に耳元で囁くのやめてください」 完全に不意打ち過ぎて心臓が止まるかと思った。 抜け出そうとその腕を掴んだ瞬間、身体が翻ったかと思えば玄関へつく背中。 見上げた先には冨岡先生の顔で押し返すには冷え切った手の動き出しが遅かった。 せめてもの抵抗で顔を逸らした私にその動きが止まる。 「キスをしたい」 「駄目です。離れてください」 「この前は許したのに今日は駄目な理由は何だ?」 「この前って…。あのパンくず付けてきた時ですか?あれは完全な気の弛みからきた事故ですよ事故。許してないです。いつまで待っていてもその時は来ないと思いますよ?もう諦めた方が自分のためかと」 「…何処に行っていた…!?」 突然強めた言葉に背けていた顔をそちらへ向ければ怒気に満ちた瞳。 「…どうしたんですか急に…」 「あの男の所か…!?」 野生の勘は鋭いと良く言うけども、此処まで鋭いのは人間ではこの人だけかも知れない。 「黙ってないで答えろ…!」 「どうしてそう思うんですか?」 「口調がいつもと違う。あの男と同じになっている」 私自身が全く気が付かない僅かな変化を嗅ぎ付けるのはまさに犬並みだ。 察知能力がケタ外れ過ぎる (気のせいじゃないですか?) (認めないのならその身体に訊くまでだ) (完全に悪役の台詞ですよそれ…) [ 24/220 ] [*prev] [next#] [mokuji] [しおりを挟む] [back] ← ×
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