"もういないから" その言葉の真意を考えなかったわけじゃない。 どういう意味なのか、ふとした拍子に考察はしてしまっていた。 だからといって答えを得られるわけではないから、考えるだけ。 いない、というのはそのままの意味でしか捉えられないので、自然と選択肢は2つに狭められる。 離別か、死別か。 どちらにしても、おいそれと事情を訊ねられるものではないのは確かで、だから触れることをしなかった。 今、この時までは。 「あら〜、ちょっと大きくなった?」 嬉々としてそう言ったあと、綺麗な漆黒に毛が付着するのを躊躇うことなく抱き上げる奥さん。 爪でも立てられたら簡単に破れてしまうであろう黒いストッキングも気にする様子もなく床に座ると、その身体を膝へ乗せて頭を撫でる。 ゴロゴロと聞こえてくる喉の音に目を細めているのを、ただ眺めるしか最初はできなかったけれど、私達が無言のままでいる理由を気が付いたのか、 「やっと終わったのよ〜」 一際明るい声でそう言ったことで、なだらかに会話が始まった。 good boy 「気付いたら末期よ〜。緩和ケアしかないって言われたのが3ヶ月くらい前ね」 声色自体に変化はないものの、無理をなさっていないか気になって表情を窺ってしまうのは、あまりにも衝撃的な内容とはかけ離れた笑顔が取って作ったものに見えて仕方ないという心証によるもの。 奥さんは奥さんで、こちらが気負いしないようにしているのが伝わってくるから、余計なのかもしれない。 「だから"いない"と言ったのか」 冷静に答える冨岡先生が、今この時において救いになっているのは言わずもがな。 私は正直、どう言葉を出していいか考えるだけで精一杯だった。 「そうなのよ〜。何回も入退院繰り返してて、あの時は"もうこれが最後でしょう"みたいなこと言われたから、もう家に帰ってくることはないのね〜って」 少しだけその口唇が震えた気がする。 落ちた沈黙の中で、猫が鳴らす喉の音だけが響いた。 「……お悔み申し上げます」 人の心を一瞬で救えるような気の利いた、そんな魔法のような言葉があればいいのにと、時々思う。 普段、言葉を武器にしていても、こういう時に限って月並みのことしか出てこないのは、相手を傷付けたくないからなのかもしれないけど、結局それは自分の保身以外の何物でもない。 「ありがとう」 それでも微笑んでくれるのは、有難いことだと思った。 「ほんとにね〜、肩凝って疲れちゃったわ〜!お坊さんのお経長すぎて足痺れちゃうしさ〜!あ、知ってる?最近のお葬式ってね〜」 相槌を挟む暇もなく話し出した奥さんに安心したのも確か。 大人しく撫でられながら目を瞑る猫は時折耳をピクピクと動かして、まるでその話を聞いているようにも見えた。 「あらやだ喋りすぎちゃったわ〜」 我に返ったようにそう言ったのは1時間を軽く超えた頃。 転々と内容を変えていく話が息子さんの詳細に至り、親元を離れたのはいいけれど、いつまで経っても仕事ばかりで結婚をする気配どころか恋人もできないという、親にとっては気が気ではない問題に触れた隙を突いて、コーヒーのお替わりを促したことでピタリと会話が止まった。 「ごめんなさいね〜長居しちゃって!誰かと話すのって楽しくてついつい〜。そろそろおいとましなくちゃ〜」 笑っているのに、寂し気なものを感じたのは気のせいじゃない。 今までの人となりに触れれば、知っている。想像ができる。 きっと家に帰れば独り、静かな空間がぽっかりと穴を開けて待っているということを。 その時に湧く感情を私には想像しかできないけれど、もし今同じように"独り"になったら当然のように心細くなるだろう。 思わず冨岡先生の顔を見たのは、一瞬どちらかを秤にかけようとしたからだ。 それでも真っ直ぐ見つめ返してくる群青色は絶対に迷いがない。 心の中で謝意を呟いてから、猫を下ろそうとする動作を止めた。 「突然で申し訳ないのですが、私達から提案があります」 「なになに〜?」 速くなった瞬きは多分、一切この流れを想定もしていなかったのだろう。 「その猫の里親になっていただけませんか?」 直球でぶつけた言葉に、驚きで絶句する表情を見た。 「……。え〜!?でも、ねぇ?…いいのかしら?」 「あらゆる可能性を考えた結果この猫…、にとってそれが一番幸せなのではないかと結論が出ました」 ほんの一瞬、言葉を詰まらせたのはそれこそ感情を持ったせい。 息継ぎのふりをして誤魔化したけれど、横から感じる視線は確実に気付いてる。 だけど何も言わないのは、私の意思を尊重するということだ。 「私がこの子を〜…?」 態度こそ悩み惑ってはいるけれど、知ってる。 その表情だけで伝わってくるからだ。 嬉しいという感情が。 「動物に関しての知識はそれこそ申し分ないですし、里親になっていただけるととても助かります」 だから、私にできることはひとつ。 その背中を押すことだ。 見つめ合う猫と奥さんを、ただただ心を止めて見つめる。 「……実はねぇ」 こちらへ向けた顔は困ったような、それでいて笑顔が見え隠れしていた。 「何か動物、飼おうかな、なんて考えてはいたの。主人の四十九日を過ぎたらだけど。ほら〜、すぐに飼い始めたらいくらなんでも主人が可哀想かなぁとかね、思ってたから」 そうしてまた猫と見つめ合う。とても優しい表情で。 「でもこの子なら、主人も許してくれるかしら?」 だから私も笑顔を作った。 否定でも肯定でもない。その人の意思を尊重するために。 暫しの静寂が包んだあと、おもむろに動いた髭。 「んにゃぉ」 まるで返事をするような鳴き声に、奥さんの顔が綻んでいく。 「よ〜し、決めたっ!里親になるわ!」 決意に満ちた返答に、ホッとしたのは紛れもない本音。 「よろしくお願いします」 頭を下げて、上げた時には、どことなく吹っ切れた自分もいた。 * * * 「運んでくれてありがとう。助かったわ〜」 開いた玄関の中へ足を踏み入れて、抱えていたケージを置くのは冨岡先生だ。 その中には落ち着かない様子でウロウロとする猫。丸い目が更に丸くなっているから、少し緊張しているように見受ける。 「これが猫砂とご飯です。あとおもちゃも入ってるので…」 紙袋に入れた全ての道具一式を差し出せば、 「あら〜、随分買い込んだのね」 なんて笑われて、苦笑いが零れる。 「猫ちゃん、大事にするから」 だけどその言葉は、素直に有難いものとして受け取った。 挨拶を交わして、マンションへ帰ろうと歩き出す私の少し後ろを冨岡先生は何も言わずについてくるものだから、静かすぎて不気味だな、なんて失礼なことを考える。 「立派なお家でしたね」 さすがマンションを経営する地主と言えばいいのか。庭付きの広いお屋敷は、きっとあの猫が大きくなっても、のびのびと暮らせるだろう。 同時に、奥さんがあの場所に独りではなくなった事実も喜ばしいものだ。 「本当に良かったのか?」 何をどう考えても、これが最良の道だった。 「良かったんですよ。あの子にとっては」 選択は間違っていない。その自負もある。 だけどどうにも、心は切り離せないものだと実感もしてる。 「冨岡先生のご希望には添えませんでしたけど…」 「そのことならいい。名前が考え決めた事柄を受け入れるのが俺の役目だ」 「……。相変わらずですね」 きっと寂しいと思っている。それがどれだけのものかまではわからないけれど、別れ際、猫に触れた動作で伝わってきた。 私の手前、それを口に出すことはしないのだろうけれど。 「名前はどうだ?」 突然の質問に、止まった足は自然と振り向いていた。 「どう、とは?」 「今何を感じ、どういう感情が渦巻いている?」 「わざわざ訊かなくも冨岡先生なら「手に取るようにわかる」」 真っ直ぐな群青色は綺麗なのに、こういう時、少し怖くもなる。 全てを見透かされている、それだけじゃない。 「わかっているなら「言葉にしなくては意味がない」」 そうやって、私にとっての最良の道を強引に、抱えてでも歩ませようとするからだ。 今ここにある燻る感情は、時が経てば薄れる。 認めないようにすれば、なかったことになる。 無理矢理にでも蓋をしようとする私すらも見抜いて、そうして止めるから、怖いんだ。 「…先、歩いてくれませんか?」 だからせめてものの抵抗で、そう所望する。 何も言わず歩き出した後ろ姿についていきながら、ジャージの裾を掴んだ。 「……。ドッグセラピーです」 自分に言い聞かせるように呟いた一言で、皮肉なもので自覚してしまう。 情なんて、すでにどうしようもないくらい移っていた。 それこそ、初めて見た瞬間に。 整った顔立ちも、フワフワとした柔らかい毛並みも、まるで喋りかけるように鳴く声も、その存在を日がな一日考えていた。 出来ることなら―… 「一緒に暮らしたかったです。本音を、言えば」 現実を無視して言うならば、そうだ。 「ですが、余りにも不確定要素が多すぎました。なので仕方がないことだと割り切って…、割り切ったつもりでいたんですけど」 いつも、こんな奥底の想いなど誰にも話すことなく呑み込んで掻き消して、何もなかったかのように振る舞う。 気付かないふりをしていれば、傷は塞がるような気がするから、知らぬふりをする。 それが今ままでの私だった。 だけど、どうしてか。本当に参ってる。 「……どうにも、寂しくて…っ」 この人に出逢ってから、感情の起伏が激しすぎていけない。 ぼやける視界の中、動かなくなったスニーカーが辛うじて見えて立ち止まる。 何故、泣きたくなるのだろう。 きっと会おうと思えばいつだって会える。 奥さんとも連絡先を交換したし、何なら 「毎日猫ちゃんの写真送るわね〜」 そう、笑顔で言ってくれた。 それは私の気持ちを察してくれての行動だというのもわかっている。 最初に里親の打診をした時、ふたつ返事で受けなかったのもこちらへの配慮だというのはこれでもかと伝わった。 だから、蓋をすることで心が揺り動かないようにしたのに。 そしてそのまま、なかったことにしたかったのに。 零れ落ちそうになる涙を拭おうと手を離そうとしたと同時に掴まれて、ドキッとした。 引っ張られた腕は抵抗する間もなく前へと回されて、背中に寄りかかったことで一粒雫が落ちていく。 「…と「ドッグセラピーだ」」 腕へと優しく添えられる手に、その台詞に、笑顔が零れたのは、この人の不変に対する嬉しさなのかもしれない。 そういえば、前にもあった、こんなこと。なんて気楽に考えられるのは、あの時もこうやって、私の感情を消化してくれたお陰だ。 「良く効くドッグセラピーですね」 何の捻りもなく、思ったことを口にする。 目を閉じれば、温もりで、匂いで、その存在で満たされていく。 仕方がないこと。 世の中にはそんなことがたくさんあって、どうにも心のままには生きていけない。 だけど、だからこそだ。 諦めてしまうのではなくて、認める。 心のままに感じたことを口にして認めてあげることで、報われるものもあるんだと、またこの人に教えられた気がしてる。 「冨岡先生は寂しくないですか?」 だから訊き返してみた。 私を受け入れることで、行き場のない想いが燻って遺ってしまわないように。 そしてもし、同じ気持ちなら、寄り添えるように。 ぎゅっとしがみついた腕の力にそんな願いを込めてはみたのに、 「寂しくはない。お陰で思わぬ役得を受けられた」 そんなことを本気で言うものだから、笑いが堪え切れなくなってしまった。 同時に、心の中に溜まっていた黒く重いものが音もなく消えた。そんな感じがしている。 「猫じゃらし、ひとつくらい取っておけば良かったですね」 もう、そこにはいなくなる。 それを認めるのはどうしても悲しいものがあったから、全て、全部、奥さんに託した。 見る度に思い出して、寂しくなるのが嫌だったからだ。 だけど今、真逆のことを口にしたのは、前を向けている証拠だろう。 「思い出としてか?」 「いえ、飼い犬が遊ぶかなぁと思いまして」 完全に冗談で出したつもりの台詞は、 「名前が望むならそれもいい」 本気で受け入れようとするから、ついに笑いの発作が起きる。 それが止むまでの間にも、貸してくれている背中は温かくて優しくて、何故かまた少し、涙が出た。 感情が噴出すれば、その分スッキリもするもので、静まり返った505号室を見ても、そこまで喪失感はなかった。 関わった時間が短いからとか、そもそも本気で飼う気じゃなかったからとか、納得するために色んな理由を探そうとする思考はその都度、察知能力の高い飼い犬にじゃれられ遮られる。 だけどそのお陰で、本当に何も考えられずにいられた。 寂寥が顕著になったのは、就寝するために消灯しようとした時。 あの猫がいた時は、何となく真っ暗にするのに引け目を感じて常夜灯を点けていたことがふと蘇って、あぁ、本当にもういないんだと実感した。 「名前」 振り向いたと同時に、鼻先に触れる口唇。 「寝る前の挨拶だ」 思わず笑ってしまったのは、他でもない。 「…また、察知しましたね」 あの子がそうしていたように、全く同じことをしてくれたからだ。 いつもベッドに入る前、ぐぅん、と喉を鳴らし鼻先をくっつける。 それはまるで「おやすみ」と言われているようで、密かに嬉しさを感じていた。 ポンポンとあやすように頭に触れる手は、温かい。 ひとりじゃなくて良かった。傍にいるのが、この人で良かった。 本気でそう考えた時、寂し気な奥さんの顔が浮かんで、やっぱりこの決断は間違っていなかったのだと強く思えた。 「いつか」 考える前に言葉が出たのは、自分でも驚いている。 「犬とか、猫とか、飼えたらいいですね」 まだ見ぬ未来に馳せたはずの想いも、 「名前の一番は俺だ。でないと赦さない」 間髪入れずに返ってきた言葉に、呆れよりも安堵の方が遥かに勝っていた。 そこは不変で不動だろうな (今度おもちゃ買ってあげますね) (……いやらしいな、痴女か) (想像してるものが全然違います) [ 193/220 ] [*prev] [next#] [mokuji] [しおりを挟む] [back] ← ×
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