good boy | ナノ
戸惑いや不安がないわけじゃない。
だけどそこで何もしなければ変わらないから、どうにか前に進む道を模索する。

かといって未知なるものに耐性が低いというのは自己認識していて、楽観的にもあまり考えられない性分なので、結局のところ大事なのは傾向と対策だ。

"猫の飼い方"

太ゴシック体で銘打った非常にわかりやすい本を図書室から拝借して、仕事の合間に要点を纏めていたところ、後ろから

「試験勉強してるみてぇ」

ボソッとそんな声が聞こえたけれど、

「名前にとってはそれくらい重要なことだ」

なんて、私が振り向くより早く冨岡先生が答えていて、それもまぁあながち間違いじゃないかと思ったりもした。

そう、とても重要なことだ。

何故ならひとつの命がこの手に委ねられるのだから。

大袈裟かも知れないけれど、無知より怖いものはないとは良く言ったもの。

情報を頭に入れれば入れるほど知識としてついてくるもので、鳴き方や仕草ひとつ取っても色々な意味があるのだと知ってから、格段に猫との意思疎通がスムーズになった気がする。
私が気付くと、猫も心なしか嬉しそうに見えるのは錯覚かもしれないが、とにかく全てが手探りだった頃より余裕は出来た。

その余裕が更に猫にとって心地好いものになったのかはわからないけれど、ゴロゴロと喉を鳴らしては膝の上に乗る姿は可愛いの一言に尽きるし、締りのない顔にもなってしまう。

それを見つめる冨岡先生の面白くなさそうな表情も、あまり気にならなくなった。

"飼いたい"と豪語した手前、猫と私が親密になるのは仕方ない。

そんなような内容をブツブツと呟いては、自分に言い聞かせているのを目撃したのは数日前のこと。
本人なりに折り合いをつけようと頑張っているようなので、私も余計な口出しはしないようにしている。

本音を言えば、理性と本能の間で葛藤している姿はなかなかに面白いものがあるし、猫は猫でそんな冨岡先生の気持ちを知ってか知らずか、暢気に「みゃあ」なんて話し掛けてる上に、懐いているから微笑ましくもある。

こうやって、2人と1匹で暮らすのも、きっと楽しいんだろうな。

段々と気持ちがそちら側に傾いていっているのを自覚したのは、猫がここに来て、再度迎えた週末の事だ。


good boy


「…にゃあ」

少し高めの、甘えているような声が聞こえて、自然と目蓋を開けば目の前には三角の鼻が至近距離にある。

「……」

状況を把握している間に摺り寄せてくる頬がくすぐったいのだけはすぐにわかった。

「…どう、したの?」
「ぐぅん」

答えるように鳴らされた喉を寝惚けながらも撫でてみる。

いつの間にベッドに上がってきたのだろう。全く気配を感じなかった。

カーテンの隙間から見える日差しに、ひとつの考えが浮かんだ。

「もしかして、起こしてくれたの?」

その問いには何の返答もないまま、床に着地するとリビングへ向かっていく足取りは軽い。

今、何時なんだろう?

沸いた疑問を解決するため手にしたスマホで、先程の猫の行動が裏付けられた気がする。

平日であればアラームがとうに鳴っている頃だ。
猫は時間を正確に把握している、なんてどこかで見たのを思い出した。

もしかしてではなく、確実に起こしてくれたのではないか。
まるであの鳴き方は「起きないと遅刻するよ」なんて、言ってくれたような気がしてる。

折角の休みだから遅起きしようなんて思っていたけれど、こんな目覚め方なら心地好い。

勝手に綻んでいく顔が強張ったのは、

「にゃー」

明らかに猫ではない鳴き声と、拘束される身体に嫌な予感がしたからだ。

「…起きてたんですか?」
「今、起きた…。名前の声が聞こえればすぐに目覚める」
「それは、すみません」

ギュウッと込められる両腕に、少しばかり顔が歪む。

「寝起きのところ大変申し訳ないのですが、出来れば力を弛めていただけると助かります」
「何故そんな他人行儀な物言いをする?」
「…私も寝起きで頭が回ってないんですよ。思考が働かない時ほど防衛本能が働くんでしょうね」
「さっきの猫と態度が全く違う」
「……もしかして、怒ってます?」

返答がない。
それが多分、答えなのだろう。
何て声をかけようか考えていれば、

「…にゃー」

擦り寄ってくるどころか、このまま潰されそうなほどの力に息を止めた。

これは参った。確実にご機嫌を損ねてしまっている。
何とか宥めようと試みようとしてみるも、腕と胸板に挟まれて身動きが取れず苦しいどころの騒ぎじゃない。

「…痛いっ」

漸く出せたのは、その一言。

一瞬にして弛んだ力に、大きく息を吐いた。

「…悪い」
「いえ…。大丈夫です」

言葉を続けようにも、また籠もる腕の力にドキッと心臓が跳ねる。

「今の言い方は可愛かった」

今度は優しく包み込むように抱き締められて安堵はしたけれど、困惑もしてしまう。

「…そうですか?」

自分では良くわからないが、冨岡先生のツボに入ったらしい。
髪を撫でる手はどこか満足げだ。

こうして撫でられるのもくっつくのも悪い気はしないどころか、素直に嬉しいので大人しくそのままジャージに顔を埋める。

「また寝るのか?」

優しい声が近くで響くのも、あぁ、好きだなと顔が綻んだ。

「もう少し、眠れる気がします。昨日寝不足なので」

顔が見えないからって素直じゃない返答はもはや癖で、

「…そうか」

それを簡単に見抜いては受け入れてくれるこの人は、本当にすごいと感じる。

撫でる手の動きにつられて閉じそうになる目蓋は、トンッと音を立てて乗っかってくる重さで止まった。

「みゃーお」

鳴き声がした方へ顔を動かせば、器用に四つ足を揃えて座る猫。

「ぐぅぅん」

大きく喉を鳴らしては、冨岡先生の腕へ顔を擦り付けた。

「……。起きろって言ってるみたいですね」

一瞬窄められた群青色の目も、もうひと鳴きしては執拗に擦り付けてくる顔に観念したらしい。
私から手を離すと小さな頭を優しく撫で始めた。

「餌が欲しいんだろう」

若干呆れながらの口調に三角の耳が動いたと思えば、間髪入れずにベッド、というか人間の上から降りていく。
ケージに向かっていくピンと伸びた尻尾がどうにも嬉しそうに感じた。

「良くわかりましたね」
「かんこうだ」
「……はい?」

一瞬で当て嵌められない漢字に疑問符が飛び出したものの、

「お前は起きると真っ先に猫の飯を用意し水を換える。それを把握した上での行動だろう」

その言葉で、あぁ"慣行"か、なんてようやく納得した。

「成程。だから起こしにきたんですね」

さっきの鳴き方は「起きないと遅刻するよ」ではなくて「早くご飯頂戴」の方だったか。
猫の気持ちというのはなかなかに難しい。

「折角名前を堪能していたというのに…」

またブツブツ言いながらも、私が抜け出せるように弛めてくれる腕はわかりやすくて笑ってしまいそうになった。

「…冨岡先生って」
「……何だ?」

訝しまれてるのに、それが可愛く見えるのは少し不思議かも知れない。

「あの猫のこと結構好きですよね」

耐え切れず噴き出した私に、ますます目を窄めるとまた容赦なく抱き締めてくる腕は察するに照れ隠しか。

「キャットセラピーか」

頭上でボソッと呟いたその声は少し寂しそうなものだったのに、また頭を撫でる手は先程より優しい。

「あの猫はお前にとって癒しになる。そう判断した」
「…"私のため"ってことですか?」
「最初はそうだ。だがあいつは俺にはできない名前の感情を、表情をいとも簡単に引き出す。それはお前の中で必要なものだと思った」
「最初は、というと…?」

少し浮ついた気持ちを抑えつつ訊いた。
だけど、もしかしたら私が感じていたことは、間違いじゃないかもしれない。そんな期待を持ってる。

「俺の見たことのない名前を見せる猫の存在は俺にとって必要だと感じている」

相変わらず、"私基準"の言い方にはどうも呆れを通り越して笑ってしまうけれど。

「それでしたら同じ理由ですね」
「どういう意味だ?」

とくん、と少しだけ心音が上がったのをすぐ近くで聴いた。
きっと自覚があるから、敢えてその言い方にしたんだろうか。

「あの子は私が見たことのない冨岡先生の感情や表情も見せてくれますから、私にとっても必要だということです」

弛んだ腕の隙間から見上げた顔はこれでもかと驚いていて、それでもすぐに嬉々としていくから、こちらまで釣られてしまう。

それこそ照れ隠しに胸に埋めようとした顔は、ベッドに押し付けられた背中で叶わなくなった。
近付いてくる口唇を見つめながら下ろしかけた目蓋は、

「ぐーぅうんっ」

まるで怒っているかのような籠もる鳴き声で止まる。

ベッドの縁にかけられた前脚と、じっと見つめる丸々とした瞳は、どうも罪悪感に呼び起こしていった。

「ご飯、あげてきます」
「…わかった」

素直に身を引いた冨岡先生も、どこか罰が悪そうな顔をしているから、きっと思うことは同じだろう。
それでも一瞬の隙を突いた触れるだけのキスはやっぱり、らしいと言えばらしい。

「ごめんね、今ご飯準備するね」

今やケージの外が定位置になった飲み水を片手にダイニングキッチンへ向かえば、大人しくついてくる小さな四つ足と、その後に続く欠伸をしている冨岡先生。

ふと振り向いたところで、何故かまた顔が綻んだのは、嬉しいとか幸せとか、そういう類の感情なのだろうと噛み締めた。

* * *

休日。といっても、ゆっくりできるわけじゃない。

平日では回り切らない家事というタスクをこなさないと、後々自分の首を絞めるというのがわかりきっているので、ひとり無心でそれを片付ける。
気が付けば夜になっていて、また明日がくる。

そんな日々を送っていたことを懐かしく思うけど、そこまで昔の話じゃないか、なんて、洗い終えたばかりでまだ水分を含んだタオルを手にしながら考えた。

今は、そう。少し、いや、だいぶ違う。

「冨岡先生、それ、取っていただけますか?」
「これか?」
「ありがとうございます」

最近では何をするにもひとりではない。
絶妙な高さにある物干しから洗濯バサミを取ろうと手を伸ばす必要もなければ、届かないと踏み台を取りに行くこともなくなった。

取り立てて言えばそれだけのことなんだけど、カリカリと窓に爪を立てては、開けてほしいとアピールしてくる小さな存在で、無心になることもない。

「すぐに終わらせるからね」

ガラス越しに合った目をゆっくり細めてから、少し急ぎ目にそれを干す。
しっかり皺を伸ばしきれてないTシャツも、まぁ部屋着だからいいか、なんて楽観的に考えるようになったのは、確実に今、1人と1匹がいるからだろう。

ひとりだった時は家事だけしていれば良かった時間も、今はそうではないことを嬉しく思ってもいる。

仕事で構ってあげられなかったぶん、今日は猫のために丸々時間を使おうか。

自然とそんなことを考えている自分がいて、少し不思議な感覚を覚えた。

「それで全部だ」

空っぽになったカゴを覗きながらの報告を受けて、最後に手にした靴下を洗濯バサミに挟んだ。

「窓開けるぞ」
「はい」

わざわざ次に起こす行動を声として出すのは他でもない。
窓の向こうで待ち構えている猫が飛び出していってしまわぬよう、万が一を考えてのことだ。

スッと開けられた隙間から案の定ベランダへ踏み込もうとする前脚が着地する前にその身体を両手で抱く。

「駄目よ。危ないから」

こちらの言っている意味が理解できているかは不明だが、大人しく身を任せているので通じているということにしておこう。

冨岡先生が内鍵を閉めるのを確認してからそっと床に下ろせば、逃げるどころか足元に擦り寄ってくる姿に頬は弛んでいく。

「遊ぼうか」

増えに増えた猫じゃらしへ視線を向けつつ、その頭を撫でれば、心なしか目を輝かせた気がして、あぁ、この顔、少し冨岡先生に似てるかもなんて思った。


遊んで休憩して、時々冨岡先生までじゃれついてくるのを受け流して、コーヒーを片手に他愛のない話をしたりする。
そんな穏やかな時間を過ごして、気付いたのはもうすっかり外が暗くなっていることだった。

陽が短くなったとはいえ随分早く感じたのは、それだけ充実していたからか。

ぼちぼち夕飯の支度に取り掛かろう。

そんなことを思いながらも、背中にに感じる体温から離れるのが名残惜しくもなっている。
膝の上に乗る温かさも同様だ。

後ろから伸びる左手は腰に回されていて、右手は器用に猫の頭を撫でている。

さっきから会話という会話はなくとも、こうして触れているだけで満たされるものがあるのも確かだ。

できるならもう少し、こうしていたい。

立ち上がろうとする意思は挫かれて、今日はもう夕飯も適当なものでいいか、なんて自堕落な思考に溺れそうになる。

しかしそれを阻むように鳴った2回のチャイム。

心当たりがある訪問者を確認しようにも、モニターには映し出されていない。

「…出てきますね」

重い腰を渋々上げて、玄関へと向かった。
その間に色々なことを頭に過ぎったのは、どこかでやっぱり、予測していたせいなのか。こればかりは自分でも説明がつかない。

「はい」

開けた先で、にっこりと微笑った奥さん。

「こんばんは〜!また猫ちゃん見にきたんだけどいい?」

極めて明るい声を発しているのに、全身を包む真っ黒い衣服と、首元を飾る唯一の白いパールを目に止めて心がざわついたのも、多分、どこかで予感をしていたからだと思う。


きっとそういうことなんだろうって


(どうぞ。お上がりください)
(ありがと〜!あ、その前にこれ、塩掛けてくれない?)
(……。どう、掛ければ(適当にぱぱぱ〜ってやっちゃって!))


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