ここ数日ですっかり見慣れたものとなっていた貼り紙を剥がしながら、校内を廻る。 意外に時間がかかるうえに、地味に大変だと感じていたところで、 「里親が見つかって本当に良かった」 最後の最後まで付き合ってくれる悲鳴嶼先生の表情は穏やかそのものだ。 たくさん迷惑はかけたけれど、結果的にその笑顔を見られたのは良かった。 「悲鳴嶼先生って、本当に猫がお好きなんですね」 「猫は最強な生き物だと思っている」 ポケットからぶら下がる猫のキーホルダーへ視線が止まって、私まで笑顔になったのは、その気持ちがわかるようになったからだと思う。 今なら猫をモチーフにしたものには敏感に反応しそうだし、何なら悲鳴嶼先生のように集めたくなってしまうかもしれない。 それくらい、猫というものは可愛い。 これはもう真理だ。 その存在を前にして平静を装うのは無理だし、だらしなく顔は綻んでしまう。 一度魅了されると虜になる気持ちを今、嫌でも実感しているし、ちょっと物足りなくもなっていた。 一緒にいれば情なんてどうせ湧くものなんだから、これでもかと可愛がって、何ならあのフワフワの毛並みをこれでもかと堪能すべきだった。 そんな後悔を、していなくもない。 「これで全部です」 高等部に貼られた最後の1枚を剥がして、目が合った猫の写真。 今頃何してるのかな、なんて思いながらそれを指で擦った。 ザラザラとした感触は、ほんの少し寂しさを募らせて、あぁ、あとで冨岡先生の髪を撫でさせてもらおうなんて考えついた自分には、やっぱり笑ってしまう。 「どうしましょうか?これ」 そうして訊ねたのは、抱えた束の行き場。 本来なら必要がなくなった掲示物は処分する規定になっている。 この貼り紙も然るべき方法を取らなくてはならないのだけれど、どうにも捨てるという選択肢は憚られた。 悲鳴嶼先生は暫し考えたあと、こちらの気持ちを推し量ったように、 「備品庫に保管するのはどうだろうか?」 そう提案してくれて、ただただ頭を下げる。 「ありがとうございます」 悲鳴嶼先生には、本当にいつも助けられてばかりだ。 「後学のために残しておくのは悪いことではない」 私が必要以上に気にしてしまわないよう短く、それでいて適切な言葉を選んでくれる優しさは本当に"お父さん"みたいで、もしも本気で猫を飼おうと思ったら、また悲鳴嶼先生のお力を頼ろうと密かに思った。 good boy 掲示物を片手に、高等部の廊下を進んでいたところ、 「あ、苗字先生〜っ!おはようございま〜す!」 後ろから声を掛けられて、立ち止まる。 その姿に少し目を見開いたのは、授業の合間を縫ってこちらから訪ねようと思っていたためだ。 「おはようございます。朝練ですか?」 一応質問として口にはしたけれど、白いユニフォームを纏っているあたり確実にそうだろう。 「そっす!いやぁ、猫の飼い主見つかって良かったっすね!」 にかっと笑いながら、袖で拭う額の汗に努力の証を垣間見た。 「えぇ。情報をくださったお陰です。ありがとうございました」 「え!?俺何もしてないっすよ!?」 頭を下げてから上げた先では、ブンブンと両手を振っている。 詳細を話すべきか迷っていたが、このままうやむやで終わらせよう。無垢な姿にそう結論づけた。 しかし、ひとつ、忠告に近いことは口にしなければならない。 「教えてもらったあの場所なんですが…」 少し歯切れが悪いながら出した言葉は、 「あ!それなんすけど!」 急に上げられた声によって止められた。 「俺あそこに住んでるおっさんと仲良くなったんすよ!」 思いっ切り寄せそうになってしまった眉は何とか抑えるけれど、戸惑いはしてしまう。 大丈夫なのだろうか? 正直心配の方が先にきてしまうのは当然といえば当然か。 私は今、正反対のことを提案しようとしていたのだから。 「…それは、どういった経緯で?」 それでも頭ごなしの否定をしてはいけない。 ひとまず話を聞いてみるために質問で返す。 「この間学校終わってからいつもの感じで壁打ちしに行ったんすけど、そしたらちょうどおっさんが帰ってきて鉢合わせたんす」 首を縦に動かす間にも話は続いていくので、黙って耳を傾けた。 「最初睨まれたんでやべって思ったんすけど、野球やってるのか訊かれてそっすって答えたらキャッチボールしようって言われて…、それで色々話してるうちにって感じで…?何か野球好きみたいっすよあのおっさん。父親が少年野球のコーチやってたとか何とか言ってったっけなぁ?」 そこでようやく、繋がりが見えた気がする。 「あのでっかい壁もおっさんのお父さんが自分で作ったらしいんすよ〜。すごいっすよね。今度また練習付き合って貰うんす!」 「…そうですか」 教師としての立場上、そして経験上、未成年があそこに近付くのは教育的に良くはないものだと勝手に思い込んでいたけれど、どうやらそうでもなかったらしい。 あの中年男性は、野球に打ち込むこの子を見て亡き父親との記憶を思い出した。 そこに自分を重ねたのかまでは推測しかないけれど、きっとどこか、心は救われたのではないだろうか。 そう、思いたい。 「仲良くなれたのなら良かったです。だけど何かあったらすぐに相談してくださいね」 「うっす!」 拳を作っては差し出された腕。 瞬きで応えた私に、その顔がにかっと笑う。 「知らないんすか?挨拶っすよ肘合わせるんす!」 「…肘、ですか?」 戸惑いながらも同じように出してみれば、コツンッと肘同士がぶつかりあった。 「成程。見たことはあります」 実際にやってみたのは初めてだ、なんて思った瞬間に何か寒気を感じたのは気のせいだろうか。 「じゃ、俺着替えるんで!」 「えぇ」 去っていく背中を少しの間見送って、私も踵を返そうとしたところで、 「うぉっしゃあぁ!苗字先生にタッチ成功〜!」 叫んだかと思えば走り出す姿に一瞬ぽかんとしてしまった。 しかしすぐ辺りを執拗に見回してしまったのは何というか、防衛本能のようなもの。 まだ登校時間には少し早いことからまばらにしかいない生徒は不思議な顔をしているけれど、幸いにも一番聞かれてまずい人物は近くにはいないようだ。 いや、まだわからない。そこらへんに身を潜めている可能性もなくはない。 警戒を怠らず早足で向かった備品庫。 扉を閉めてから、念のため施錠すべきかと思いはしたがそれはそれで嫌な予感がしたので、そのまま空いている段ボール箱へと掲示物を入れた。 多分、憶測だけれど、もし近くで見ていたとして来るとしたらこのタイミングなはず。 高まった緊張感と扉に向けられた意識は、箱を閉め、しまい終わるまで何事もなかったことで弛まっていった。 感じた寒気は気のせいだったのか。 それならそれで杞憂に終わって良かった。 ただ肘が触れただけといえ、見られていた、もしくは叫びを聞かれていたら大惨事どころじゃない。 ふぅ、と息を吐きながら、完全に気を抜いたまま扉を開けた先、 「…………」 青いジャージに一瞬、時が止まった。 「やっぱりいましたか…」 諦めに近い台詞と共に見上げたのは、とんでもない形相。 明らかに感じる身の危険に閉めようとした扉はあと少しのところで筋張った手で止められた。 「さっきのは何だ?」 「……何がでしょう?」 「とぼけるな。身に覚えがあるから警戒していたのだろう?」 参った。それも見抜いていてのこのタイミングでの登場か。 「冨岡先生が嫌がるであろうということに関して身の覚えならありますが、私にとっては教師と生徒のコミュニケーションとして捉えているのでまず解釈が違」 言い終わらないうちに力任せに入ってきては施錠する速さはさすがだ。 これはまた、怒りを鎮める折衷案を考えないと確実に色々な問題へ発展する。 「それなら俺とのコミュニケーションはどう取る?」 参った。質問の意味が全くわからない。 訊き返す暇もなく積まれた段ボールに押し付けられたのは想定内だとしても、そのまま動きを止めたのはどうしてか読めない。 見つめてくる群青色に、何故か心臓が速くなった。 「…どう、とは?」 「猫、生徒、そして他人との接し方は見て理解した。それなら俺とはどう接する?」 「…何、言ってるんですか?」 「お前ならわかるはずだ」 考えようと頭を捻るけれど、どうにもしっくりくるものがなく首を傾げる。 「……ちょっと、良くわかんっ」 口が塞がれたと気付いた時にはぬるりとした舌が絡んできて、目を瞑った。 「…んっん」 身体を撫で回す両手をどうにか払おうと力を入れるけれど、足の間に入ってこようとする指に勝手に身体が跳ねる。 だけどそのお陰か、口唇は離れた。 「服の上からでも、いい反応だ」 耳元で囁く低い声がわざとだとわかっていても、勝手に何かが込み上げてくる。 「…駄目、ですよ…!ん…っ」 牽制をしてるはずなのに、はっきりと触られないもどかしさで目を硬く瞑った。 「…腰が動いてる」 「動いて、なっ」 「動いてる。感じてる証拠だ」 「違っ!」 ガリッと音を立てた首筋が噛まれていると知った瞬間、その身体にしがみついていた。 「やっ、痛っ!」 耐え切れず零した声に、離れていく顔は嬉々としてこちらを覗き込んでくる。 「何、っですか?」 「可愛い」 気恥ずかしさで反らそうとした目は右手に掴まって、出来もしない後退りを試みた。 「その甘い声を出すのは俺にだけだろう?」 考えている間にも見つめ続けてくる群青色の真剣さに、その言葉の意味をほんの少し、わかった気がする。 「当たり前じゃないですか…」 思わず呆れ声になってしまったけれど、胸元に擦り寄ったのは言葉以上に伝えたかったからかも知れない。 「随分素直だな」 いつもより弾んだ声に感じたのも気のせいじゃないと思いたい。けれど脱がそうとしてくる手はどうにも許容できなかった。 「駄目ですってば」 「駄目じゃない」 「…なんっ!」 必死に抵抗しても抗えないと察したのは、下着のカップをずらす指を見たあと。 「…んんっ」 露わになった先端に吸い付く口に成す術なく声を殺した。 まさか、本当にこのままする気じゃ…。 そう思ったところで、直される下着と服に思考が追いつかない。 「…期待したか?」 また耳元で囁く声に我に返ったけれど、熱くなっていく顔はこれほどになく恥ずかしいものがある。 「してま「しただろう?」」 耳に這う舌の感触に鳥肌が立つのを誤魔化すように目を瞑った。 「……可愛いな」 ちゅぅ、と音を立てて耳に落とされたキスのあと、離れるその顔を見ることができないまま服を直す。 「完璧にからかってましたよね」 それがわかっているからちょっと、というか、だいぶ悔しい。 「本能と理性の間で葛藤する名前を見るのは楽しい」 「そういうのを悪趣味って言うんですよ…」 否定ができないところがまた頭が痛いところだ。 てっきり怒ってるかと思ったのに、まさか逆だったとは。 早々に逃げることにしよう。 じゃないと… 「悪趣味じゃない」 また良からぬことが起きそうで仕方がない。と思った時には腰を掴まれて、ドキッとしてしまった。 しかも顔がこれでもかというほどに近い。 「ちょっ「俺にだけしか見せない姿だからだ」」 覗き込んできた群青色の真剣さに、思わず吹き出しそうになる。 「…ホントに、独占欲が強いですね」 「これでも前よりおおらかになった方だ」 「……まぁ、そうですね」 擦り寄せてくる頭のくすぐったさに目を細めてから気付く。 そうやって、私が寂しくないようにさせてくれているのだと。 だから私は素直にその頭を撫でることができる。 「偉いですね、義勇は」 離れた顔が驚いている間にその口唇へ一瞬だけキスをした。 「……今度は俺を理性と本能の間で翻弄するつもりか?」 「違います」 くんと押し付けてこようとする顎を手で押さえて、あぁでも、違うってわけでもないか、なんて考える。 「私だけにしか見せない姿なんで」 まるっきり同じ台詞を返して、首元に押し付けて顔を隠した。 どうしても少しばかり、気恥ずかしさは残る。 「…やっぱり猫だな」 小さい笑声が聞こえてきたかと思えば包み込んでくる両腕はとても優しくて、その言葉のおかげか、ふとあの可愛らしい顔を思い出した。 胸が痛くなるよりも先に、こんな風に抱き締められて幸せを感じてるといいな、なんて、心の底から願う。 これまでとは違う。けれど新しく、幸せだと、楽しいと、思えるようなことをたくさん見つけて生きていってほしい。 それは猫だけじゃなくて、奥さんも。 そして、命を棄てるという選択肢しかできなかった、あの男性も。 「……。何を考えていた?」 「さすが反応が早いですね」 「俺以外のことを考えるな」 「考えますよ」 「駄目だ」 強くなった締め付けに息苦しさと嬉しさが入り混じる。 「人の幸せを願うことは悪いことじゃないですよ。ひいては自分の幸せにも繋がりますから」 「そんなものは願わなくていい。名前は俺が幸せにする」 参った。 また盲目的な部分が出てきた。 今の言葉自体は、言われて悪い気はしないけれど。 「幸せにって、もうなってますけど?」 耐え切れず笑みが混じりながら返せば、咄嗟に身体を離してまじまじと見つめてくる視線に笑ってしまうと思った矢先、 「今日結婚するということか?」 真顔になってしまった。完全に。 「はい?」 「幸せにすると言った俺にお前はもうなってると答えた。結婚を了承したということになる」 「……それはちょっと、というかだいぶ違いますね。幸せになる=結婚というのはちょっと視野が狭すぎませんか?」 「プロポーズの定番だろう?」 「いや、そうなんですけど…」 「ついに苗字を共にする時がきた」 「ちょっと、冨岡先生?私の話聞いてます?」 こちらの問い掛けには一切応じず、自分の世界に入ってしまわれたその遠い目を呆れながらも見つつ、まぁいっかなんて思ったのは、結婚という段階に進んでもいいという顕れだろう。 その前に同棲からか。 なんて現実的に考えて、どうせならペット可能の物件がいいなと思った辺り、私も随分本気なのかも知れない。 そんなことを考えながら帰宅したマンション。 掲示物が張られている一角にいつもは止めない足をしっかりと立ち止まらせた"今月よりペット可にします!!"という太字。 「…奥さん、思い切りましたね」 私の言葉に、珍しく冨岡先生も僅かに眉を動かしている。 「そうだな」 これならわざわざ新しい物件を探すこともないかもしれない。 そう思った瞬間、 「荷造りをしておく」 そう言い放った冨岡先生はやっぱり常人ではないと改めて思い知らされた。 実は心を読んでいるのでは? (まだ確定的ではないですよ?) (しかし最近は505号室がほぼ生活拠点となってる) (……それも、まぁ否定できないんですけど…) [ 194/220 ] [*prev] [next#] [mokuji] [しおりを挟む] [back] ← ×
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