good boy | ナノ
通常、動物を拾った際、所有主の有無が明確ではない場合、警察に遺失物として届けなくてはならない。

そう、貸主の奥さんは教えてくれた。

動物病院でその件に関して触れられなかったことを訊ねれば、

「"義務"を伝えると二重三重に捨てられるから」

その言葉にやりきれないながら納得もした。

だからこそ、飼い主が権利を放棄したというのは、こちらとしても面倒臭くなくて丁度いい。

通常の手続きを踏んだ場合、所有権がこちらに移るのは仮としても2週間後、正式には3ヶ月後と法律で定められているためだ。

だから冨岡先生は明言された時点でその場を後にしようと決めていたのだろう。

私がどうにか、飼い主と暮らせる道を模索しないように。

冷静になってみればわかる。

例え私ひとりがいくら努力しようと、あの状態で猫を戻すのはとてもじゃないが無理だ。

細かい状況までは聞いてなくとも、それだけは容易に察せられる。

"捨てた"

そうはっきり言われた方が、確かにまだ猫のためだったのかもしれない。

それはそれで、人間の勝手だと憤りは湧くけれど。

「冨岡先生に助けられて、あの子は良かったですね」

きっとあのままだったら、命を落としていたかもしれない。

それもまた結果論に過ぎないのだけど、心の底からそう思う。

「飼う意思は決まったか?」

その質問には、また目を伏せてしまった。

「そこまでの覚悟はまだできてません」

現実を考えると、どうにも尻込みはしてしまう。

今はっきり言えることといえば―…

「"迷い猫"から"里親募集"に切り替えるべきなのは間違いないでしょうね」

明日、悲鳴嶼先生には申し訳ないけれど再度相談をしてみよう。
胡蝶先生にも。今からLINEを送って、明日直接謝って、あとは野球部の生徒にも、あまりあの場所に近付かない方がいいというのを傷付けないよう説明して…

ドンッ。

いつの間にか下を向いて歩いていたと、何かに頭をぶつけたことで気付く。
それが冨岡先生の背中だというのは、見上げたことで知った。

「あ〜、お帰り〜!」

その先から聞こえた声に顔を横にずらせば、マンションのエントランス前で立っている奥さん。

「…こんばんは」
「今日も遅いのねぇ。先生って大変!」
「あの…」
「ちょっとだけ猫ちゃん見に来たんだけど、ダメ?」

小首を傾げられて、思わず冨岡先生と目を合わす。

「…いえ、大丈夫です」

その後でそう答えたのは、目線だけで承諾を貰ったからだ。


「ただいま〜」

敢えて電気を点けておいたリビングを開ければ、四肢を伸ばして寝ている姿が目に入る。
ピクッと立った耳のあと、ゆっくり立ち上がり伸びをした。

「あら、寝てたの〜、いい子ね〜」

ニコニコとしながらその場に屈む奥さんに、

「今お茶淹れますね」

鞄を置きながら声を掛ければ、

「あ〜いいわいいわ。すぐ帰るから」

そう言うとケージ越しに猫の顎へ触れる。

"すぐ"というのが本人にとってどれくらいの時間かわからないので、最低でも30分は覚悟しておいた方が良さそうだ。

「どう?何か進展あった?」

ワクワクした表情を隠すことなく訊ねられて一瞬迷ったものの、ご好意に甘えてるこの立場で下手に誤魔化すことは失礼だと思い、ありのままを伝えることにした。


good boy


「あら、捨てられちゃったのか〜。やですね〜、人間は勝手で」

そう言いながら猫を撫でる奥さんは笑顔だ。

「大変申し訳ないのですが、この猫をもうしばらく「いいよいいよ〜。大丈夫」」

想定していたよりも遥かに快く、そして即承諾していただけたことに驚きつつ、頭を下げる。

「ありがとうございます」
「でも多分里親探すのは難しいよ〜?」
「それは、何故でしょうか?」
「まずはね、大きさ」

ついその身体をマジマジと見るけれど、答えは出ない。

「半年でこの大きさだと成猫になったらこのケージに入るギリギリってところかな。オスならもっと大きくなるかも」
「そんなに、ですか?」
「なるなる。大型猫って見たことない?大きい子はこーんなでかくて7kg以上とかザラになるよ」

広げられた両手と告げられた数字に、勝手に眉が寄っていた。

「大きい、ですね」
「大きいよ〜。軽く犬」

今まで遠巻きにこちらを眺めていた冨岡先生が僅かに反応した気がする。

「でもまぁ言っても猫だから?そこまで手は掛からないけど」

手が掛からない、というのはあくまで経験者としての話なんだろう。

例えば、冨岡先生と私が飼うとして、それはこの子にとっての幸せになり得るのだろうか。

「もしかして、ちょっと飼ってみようかなとか思ってる?」

顔を覗き込まれて、ドキッとした。

「いえ、そこまでは…」

強い否定も肯定もできない私の横で、奥さんが動かす指に釣られ前脚がぺシぺシと動いた。

「どっちにしろ暫くここにいるなら遊び道具みたいなものも用意した方がいいかもね。ずっとこの中じゃストレス溜まるだろうし」
「……。そうですね」

そうか、遊び道具。全く思いつかなかった。

「じゃあ帰るね」

そう言って立ち上がる姿にも、驚きはしている。
ここに来てから10分も経っていない。

「…ありがとうございました」

だけど、大切なヒントはたくさん与えられた。そう思う。

「また見にきていい?」

玄関前で訊ねる奥さんには、

「えぇ、またいつでも」

社交辞令ではなく、心からの言葉が出せた。


静かな音を立てて閉まった扉のあと内鍵をかけようと伸ばした手は、重苦しくなる背中を支えるように玄関へつく。

「…どうしました?」

敢えて質問で返せば頭の上に乗る、恐らく顎であろう感触に視線を向けた。

「貸主に里親を打診しなかったのは意外だった」

あぁ、やっぱり何となく読まれてたか。

「そうですね。正直悩みました」

何となく落とした視線で、思い出した鍵を動かす。

「でもそうすると」
「他人の私生活に入り込む」
「……そうです。良くわかっていらっしゃいますね」
「名前のことなら全てわかる」

それが冗談とか大袈裟とか、笑って済ませられないのがこの人の怖いところ。

多分、里親をお願いすれば、前向きに検討してくれるとは思う。

だけど、それには動物アレルギーのご主人の存在を無視できない。

あれだけ喋ることが好きな奥さんがこれまで一度も語りたがらない事情に、猫のためとはいえ踏み入ることは正直気が引けた。

里親探しに切り替えたのはまだほんの少し前だ。他の里親が現れる可能性もゼロじゃない。

だからまだ、様子を見ることに決めた。

それにもし、私達が飼えるなら―…。

いや、それもまだ、確実には決められない。

犬のような人間を飼うと決めた時だって、あれだけ熟考したんだ。

本物の猫となれば、それ以上に悩み惑う。

その一生を左右するとなれば尚更。

「冨岡先生っ…?」

背中にかかる体重が増えたと思えば、這っていく両手に身体が跳ねた。

「何事にも懸命に向き合い妥協しようとしない名前は好きだ」
「…それは、ありがとうございます」
「だがそれで蔑ろにされるのは面白くない。不愉快だ」
「……。それは、すみません」

参った。全て見抜かれてる。

息を吐こうとしたところで反転する視界は、いつの間にか群青色に固定されていて全てが止まった。

「ひとりで悩むな。俺がいるだろう」

見開いている間に近付いてくる顔は、てっきり口唇を重ねるのかと思いきや、頬へと擦り寄ってくる。

「俺は名前の飼い犬兼恋人だ。こうして癒すこともできる」
「……そうですね。髪の毛がすごくくすぐったいですけど」
「長毛種だからな」

どこまでが本気かわからないけれど、冨岡先生が犬だったら確かに毛は長そうだな、なんて、とてもどうでもいいことを考えてしまった。

* * *

職員玄関に貼られた、"猫飼いませんか?"

その太字もすでに見慣れたものとなったと感じたのは、わざわざそこに目も気も留めなくなった自分に気が付いてからだ。

あれから1週間が経つけれど、里親を名乗り出てくれた人はひとりもいない。

飼いたいという生徒や教師はいたけれど、やはり現実を考えると厳しいという判断に至るようでそこから話は動かないまま。
周りにも聞いてみる、そうは言ってくれたがこれまで有力な情報も入ってきていない。

ここまでくると、やはり私達が飼うべきなのかと気持ちが傾いていたりする。

その証拠に、スマホの検索バナーには"ペット可 物件"だの"猫 飼うには"だの、そんな履歴が増えた。

「今日は寄らなくていいのか?」

横からかけられた声に足を止める。
立ち止まっているその顔が分岐先を見ていたからか、意味はすぐにわかった。

「今日は…、大丈夫です。ちょっと買い過ぎたので」
「そうか」

歩き始めたジャージ姿に倣えば、おもむろに繋がれる手は私より温かい。

「夕方は少し冷えてきましたね」
「寒いか?それならもっとくっついていい」
「いえ、私は大丈夫なんですけど、あの子が大丈夫かなと思いまして。電気カーペットみたいなものとかやっぱり買った方がいいんでしょうか?昨日ペット用品で見ましたけど」

突然力強くなった手に言葉を止めた。

「すみません」
「怒ってはいない。まさか名前がそこまで猫に対し過保護になるとは思わなかっただけだ」
「そこまで過保護なつもりはないんですが…」

そういえば、不死川先生にもそんなようなことを言われた気がする。あれは冨岡先生に対してだけど。

「毎日ホームセンターで猫じゃらしや間食を買い込んでるのはどう説明する?」
「それは…、有難いことに残業を免除されてるので、今までの反動のような気がします」

事情を知っている教師陣、特に悲鳴嶼先生が率先して仕事を代わってくれていることで、奇跡の連日定時上がりが可能となっている。
その時間の余裕から、少し買い物に走ってしまっている自分は否めない。

黙ってしまった横顔を窺うも、確かに怒ってるわけではなさそうだ。

「冨岡先生も欲しいですか?おもちゃとかおやつとか」

だからそう、敢えて犬扱いでふざけてみたのに、勢い良くこちらを見る。

「そういうプレイがし「違います」」

そういうプレイってどういうプレイなのか。僅かながら疑問は残ったけれど、口には出さないことにする。

こんな風に2人で家路につくのも、もう慣れたもの。

見えてきたマンションに入って、ポストの確認をしてエレベーターに乗る。

そういえば奥さんがこれまで冨岡先生と私の関係を知らなかったということは、この防犯カメラは見られてはいなかったんだなと、ふと思った。
だけどその事実は本人に言わないでおこう。
家以外の密室は、未だに身の危険を感じる時があるからだ。

「今日はどうします?」
「行く」
「わかりました」

505号室を開錠して扉を開く。

「どうぞ」
「先に入っていい」
「ありがとうございます」

このやりとりも何度目か。もう定番化している気がしなくもない。
そうして真っ先に明るくしたままのリビングへ向かう。

「ただいま、寒くなかった?」

見つめてくるまん丸い目がゆっくりと瞬きをして、私もわかりやすいようゆっくり目を瞑る。

猫にとってこれは友好的な挨拶のようなものらしい。

ケージを開ければそこから迷うことなく出てきて、部屋をウロウロする。

それは自分の縄張りを確認するためだと調べて知った。

一通り歩き回ったあと、ぐるん、と喉を鳴らしてこちらに頭を摺り寄せてくるのは―…

「可愛いね」

思わず口に出して、その頭を撫でる。

ぺシぺシと叩いてくる肉球に応えるため、ここ数日で買い込んだ猫じゃらしで、一番食い付きが良かったものをひとつ手に取った。

すぐにそれを追い掛けては、パクッと噛み付く姿も可愛い。

「明日は休みだから一緒にいられるね」

何も考えず出した台詞で、背後からの圧がとてつもなく強くなったのに気が付いた。

振り返れば、明らかに拗ねた顔。

「……すみません」

じとっとした視線に耐え切れず、猫じゃらしを目の前にぶら下げてみる。

「冨岡先生も遊びます?」

冗談のつもりだったのに、

「俺は犬だ。猫じゃない」

その言葉と共にぺシッと叩かれたことで鳴った鈴の音に苦笑いが零れた。



「やはり飼うべきだと思う」

いつか絶対言われるだろうだなと思っていたことを真剣な表情で告げられたのは、夕飯を食べ終えてすぐのこと。

「そうですね」

足元で横になってる姿を踏んでしまわないように気を付けながら食器を片付けようと立ち上がれば、まるでわかっているようにその後をついてくる。
それが可愛くない、なんてそんな真逆のことを思えるはずもない。

最初こそ未経験で未知数故の戸惑いは徐々に薄れてはきているし、こうしてケージの外にいても、突拍子もない行動は減ったように見受けられる。

「ここは乗っちゃ駄目よ」

そう言えば、まるで言葉をわかっているように、その場でじっと待機しているからだ。

今もそうして、四つ足を揃えてこちらを眺めている。足元を包むようにくるんと丸まっている尻尾も可愛い。

「あと数日しても里親候補が見つからなかったら飼う方向へシフトチェンジしましょうか」

初めて出した前向きな提案に、少しばかり驚いているのを気配で感じた。
同時に立ち上がったのも、こちらに近付いてくるのも感じたけれど、食器を片付けることを優先させる。
どういう行動を起こしてくるかはわからなかったので、そっと包み込まれた背中には多少なりとも心臓が動いた。

「名前はどうする?」
「まだ気が早くないですか?」

一応牽制はしてみるけれど、まぁこの分では数日のうちに里親が見つかるのはそれこそ奇跡が起きないと無理な気はしてる。

「…名前だけでも聞いてくれば良かったですね」
「新しくつけた方がいい。その方がこいつも新しい人生を歩みやすいだろう」
「……。そうですね」

新しい、人生か。

確かにそうかもしれない。

この子にとっては"捨てられた"。
その事実も記憶も一生消えないかもしれないけれど、せめてこれからは―…

「ポチはどうだ?」

胸を触りながら、しかも耳元で囁くように言い放った冨岡先生の思考を全て理解した気がする。



確実に色々根に持たれてる


(やっぱり怒ってますね)
(心当たりがあるならそうだ)
(ありすぎてどれが(全部だ)…すみません)


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