冨岡先生は、私に余裕がない時ほど突拍子のない言動をすることで我に返してくれる。 今まさに、それを感じていた。 「上しか脱がせてくれない…」 いや、多分、そう、だと思いたい、と弱気になるくらいにしょんぼりしてるように見えるのは気のせいだ。きっと。 「他にもかかったんですか?」 「あぁ。ココに」 「絶対嘘ですよね」 足の間に誘導しようとする手をどうにか振り切って、当てていた保冷材を動かす。 「それはもういい。触るならこっちにしてくれないか」 引き寄せられる腰には結構な本気度を見た。 「わかりました。これ当てましょうね」 保冷材ごと動かした手は、何故か避けられて目を窄める。 「どうしたんですか?」 「それはいい」 「冷たくて気持ちいいですよ?」 「やはり悪女か。発想がドSだ」 聞き捨てならない一言はあったものの、大人しく腕を差し出すようになったのでよしということにする。 だけど嫌でも視界に入る赤くなった腕に、また胸は痛んだ。 「すみませんでした」 「謝る必要はない」 リビングから聞こえてくる鳴き声にも申し訳なくなる。 またこんなことがあってはならないと、明らかに嫌がっているのを無理矢理ケージに押し込んだものだから、余計にその声が切なく聞こえた。 「もう大丈夫だ。外していい」 「……でも、まだ赤いですよ?」 「赤いのは冷やしたことによる副作用だ。お前の気が晴れるならと大人しく言う通りにしたが元々火傷もしていない」 「本当ですか?」 「本当だ」 じっと見る群青色に嘘はない。 納得はいっていないものの、そっとそれを外せば、腕を擦る動作を目端で捉えた。 片付けるとか、夕飯の支度を再開させるとか、動けばいいのにその場で床を見つめる私は、なんて卑怯なのだろうと思う。 「どうした?」 そうやって、心配そうな顔をして訊ねてくれるという確信があるからだ。 「…自信がなくなってきました」 弱音を言えば、否定をしてくれるのも知ってるからだ。 「名前が自己不信なのはいつものことだろう」 「……。その返しは想定してませんでした」 拍子抜けした私に、温かい眼差しを向けてくるのはきっと計算されているんだろうな。 「待ってろ」 それだけ言って、おもむろにリビングへ向かう背中を見つめる。 何をするのだろうと考えていれば、ガチャンと音を立ててケージが開いた。 「ぐぅんっ」 喉を鳴らした猫が背筋を伸ばしてから近付いてくる。 クンクンと動かした鼻は、手にしている保冷材に向けられた。 「これは食べ物じゃないのよ」 咄嗟に届かないように上げたはいいけれど、今度はその手に乗った温かい前脚に動けなくなる。 「んみゃあ」 「…何」 訊き返すより早く口に触れた鼻。 一瞬、目が点になってしまった。 グルグルと喉を鳴らすと、手に擦り付けられる頭を戸惑いながら眺めた。 「さすがは猫同士だ」 「何が…、ですか?」 「お前が好きだと言ってる」 「言ってるんですか?これ」 「鼻をつけるのはその証だ」 そう言いながら指の腹で口唇を拭ってくるあたり、冨岡先生は相変わらず冨岡先生なんだな。 「難しく考える必要はない。動物の行動が予想できないのは当たり前だ」 「……それは、まぁ、そうなんですけど」 「お前は今も予測に頼り過ぎてる」 図星だから、何も言えなくなった。 黙っている間にその両手に抱えられる猫を眺める。 「元気を出して。お母さん」 まん丸の目で見つめられながら出された声に、噴き出しそうになった。 「…何、勝手に言ってるんですか……」 「勝手じゃない。コイツもそう言ってる」 「言ってないと思います。しかも何ですかお母さんって」 「名前が母親で俺が父親だと考えれば色々な面について折り合いがついた」 「つけなくていいんですよそんなの」 1人と2匹の顔を見ては、溜め息が零れる。 「今更なんですけど」 「何だ?」 「冨岡先生の方が顔は似ていると思いますよ」 私の言葉に、こちらを向いていた猫の顔が本人へと向けられた。 「やはりコイツは俺達の…」 「いえ、絶対違いますから」 冷静に突っ込みはしたものの、堪え切れず笑ってもいた。 good boy 職員玄関に入った途端に目にした"迷い猫"の文字。 昨日胡蝶先生にLINEで送った写真が印刷されていて、さらに目は丸くなる。 "お心当たりのある方は悲鳴嶼まで" そう書かれている通り、作成してくれたのは十中八九悲鳴嶼先生で間違いないだろうな。 お陰で午前の授業を終える前に、学園中に猫の噂は広まって、その話で持ち切りになった。 「苗字先生、猫拾ったんですか〜?」 「見た〜い」 「家!?行きた〜い」 休み時間になった途端に続々と職員室へ押し掛けてくる生徒達を、冨岡先生が次々に追い払うのを苦笑いで眺めつつ、これもまた悲鳴嶼先生が登録しておいてくれた迷い猫、探し猫専用の掲示板を確認する。 何も来てない、か。 飼い主が探しているはずなら、どこかで何かしらの情報が上がってくるはずなのに。 いや、予測するのはやめよう。むしろこの思考は邪推だ。 あの子は"飼い主が待っている"その体で考え、動かないと。 飼い主がネットに疎いとすれば、真っ先に頼るのは…、警察? そうだ、警察にも行かなきゃいけないのをすっかり忘れてた。 昨日、貸主の奥さんに言われたんだった。 「名前」 名前を呼ばれたことで、反射的に顔を上げた瞬間に見る真剣な群青色の瞳にドキッとした。 「興味深い情報を得た」 「え?」 「飼い主を知っているかもしれ「はいはい!俺っす俺!」」 間に割って入るのは高等部の男子生徒。 確かこの子は…、野球部だった気がする。 「俺野球部なんですけど」 記憶は間違ってなかった。ってそこは今重要じゃない。 「近所に壁打ちにピッタリの場所があるんでいっつもそこで練習してるんすよ」 「熱心ですね」 「ウエ〜イ!褒められた〜!」 拳を天に突き出す姿に苦笑いが零れるも、 「続きを話せ」 冨岡先生の圧が強いものだから真顔へと戻す。 「そこに家があって、あーでもそこ結構なボロ家なんすけど…、そこで猫飼ってたっぽいんですよ。時々鳴き声が聞こえてきたりしてて」 うーんと唸ってから組んだ腕を見つめながら、次の言葉を待った。 「でもここ最近聞こえないんすよね。しかも猫のトイレっていうんすか?あの、粒々の、白くて」 「えぇ、おそらくトイレの砂で合ってるかと思います」 「それが外に捨てられてて、え〜!?って思ったんです俺」 成程。だから冨岡先生はこの情報を重要視したのか。 「それを目撃したのはいつ頃の話ですか?」 多分、これも予測になってしまうけれど、間違っていないだろう。 こういう時の冨岡先生の勘は外れたことがない。 「…えーっと、一昨日とか?いや、4日くらい経ってるかな〜?1週間以内なのは絶対っす!」 自信満々な笑顔に、ますます強い確証を得た。 「ありがとうございます。場所の詳細をお聞きしたいのですがよろしいですか?」 「よろしいっす!」 スマホから開いた地図を見せたことで、覗き込んでくる顔。 「うぉっ!」 かと思えば驚いたように身を引かれて、こちらがビックリした。 「どうしました?」 「いや!先生…っめっちゃいい匂いす「俺が聞く。お前はこっちに来い」」 ガシッと首根を掴むその表情は注視しなくてもかなりの不機嫌だ。 「なんすか!俺何もしてないっすよ!?」 「名前の匂いを嗅いだ」 「それくらいいいじゃないっすか〜!」 「駄目だ」 「だっていつもこんな近付けないんすよ〜?」 「当たり前だ。近付けないようにしてる」 「だったら今くら「許さない」」 反対側に回収されていった生徒が渋々従うのを目端で捉えながら、邪魔をしてはいけないとパソコンに向き合う。 ここで私が入っていくと拗れるどころか、更に彼へと被害が及びそうなので黙っておくことにした。 だけど、何と言うか。 「いいな〜!苗字先生の家とかめっちゃいい匂いしそうっすよね〜!」 「無駄口を叩くな。場所を示せ」 「想像するくらいいいじゃないっすか〜!」 「駄目だ。黙れ」 「俺も彼女欲しいっすよ〜ご利益くださいよ〜トミセン様〜」 「知らない。縋るな。俺は神じゃない」 続く言葉の応酬はじゃれついてるようにも見えて、微笑ましくもなる。 結局最後まで彼の無駄口が減ることはなく、冨岡先生も都度丁寧に拾っていくものだから、 「じゃ、俺戻りますっ!」 野球部で培われたであろう綺麗なお辞儀を見る頃には、どうにも笑いが耐えられなくなっていた。 「住所だ」 渡されたメモ紙を受け取った瞬間、それが噴き出す。 「ブフッ」 「笑うな。お前が面白がるせいで調子に乗っていた」 「それは…すみませんっ」 謝ったはいいけど、面白がるなというのが難しい話。 「なかなかのキャラですね。あの子」 「思春期の男を甘く見ない方がいい。奴らの妄想力は底がない」 「そこまで悪意は感じませんでしたけどね」 本当に、年頃の男の子なんだろうなという健全さを感じた。 だから冨岡先生も本気で怒ったりしなかったんだろう。 「残ってる仕事を回せ」 差し出された右手に、一瞬何のことかを考えたけれど、 「行くんだろう?」 そう訊かれ、すぐに頷いた。 同時にその意図が汲み取れたので、まだ手付かずの書類を手に取る。 「お願いします」 攫っていった瞬間からパソコンへ向かう横顔はとても頼もしくて、私も集中しようとひとまず仕事と向き合うことにした。 * * * 定時きっかりで職員室を出る。 連日それが出来るようになったことに、感謝しているし感動もしていた。 恐らくこのキメツ学園の教師陣がいなければ、そして私がその方々へ素直に頼らなければ、定時退社なんて夢のまた夢だっただろう。 「ここ、ですかね?」 スマホの地図と目の前の場所を見比べて、言葉に詰まった。 「臭うな」 クンと鼻を動かす冨岡先生に倣って息を吸ってから自然と手を当てる。 「…そうですね。ちょっと…」 ツンとした臭いというか、生ゴミ?いや、それよりもキツイ臭いがどこからともなく漂ってきていた。 "壁打ちするのに丁度いい"と言っていたのは、この不自然に立っているコンクリートの壁だろうか? 見た所広さはある敷地内には、お世辞にも綺麗とは言えない小さな木造建ての小屋。 空き地にも見えなくもないその場所は、あまり人が住んでいるような印象は見受けられない。 「あれが猫砂か」 「…そうですね。恐らく」 遠巻きに眺めたのは、他にもゴミらしきものが散乱していて、とてもじゃないが近寄りがたいためだ。 それでもここまで来て手ぶらでも帰れないので意を決して玄関らしき戸まで進む。 トン。 想定したより薄い感触に一瞬驚きはしたものの、加減をしつつ中へ聞こえるようノックをした。 中でミシッと音がしたかと思えば、扉とは思えないほど軽い音を立てて開いていく。 中年男性、と言えばいいのか。 「……。何ですか?」 伸びきった髪から覗かせた瞳が明らかに不審がっているので、ひとまず考察するのを止めた。 「初めまして、突然のご訪問で驚かせてしまい申し訳ございません。わたくし苗字と申します」 できるだけ柔らかく、丁寧な対応を心掛ける。 ここで一方的に接触を拒否されてしまうのは厄介なことになるためだ。 「役所の人?」 やくしょ?…役所か。いや、少し警戒が解けた今、ここはそういうことにしといた方が良いのか。 「書類ですよね?書きます。どうぞ」 誘導された中は、とてもじゃないけれど足を踏み入れたくないほどに荒れ果てていて、唖然としてしまった。 「いえっ、私達は」 どうにかここでの対話に徹しようとした思考は、すぐに冨岡先生に見抜かれたらしい。 間に立つと、 「猫について訊ねたい」 冷静な口調で男性を見下ろす。 一瞬その肩が震えたあとだ。 「……猫?何の話ですか?」 知らぬふりはしているが、明らかに狼狽えた返答が返ってくる。 「とぼけなくていい。調べはついてる」 全くわかってないのにカマをかけるのは多分、ここで間違いないという勘が働いてるからだろう。 さすが強靭な狂人だ。 その圧の強さからか、男性が口を割るのは早かった。 「しょ、しょうがないじゃないですか!うちじゃもう飼えないし!」 「……。やはり捨てたのか」 「捨てたって人聞き悪くないですか!?元々俺の猫じゃないんですよ!親父が飼ってて!」 「それならその父親はどこにいる?」 「…冨岡先生」 後退りする男性に更に圧をかけていく腕を掴む。 「恐らく」 私の視線に気付き動かした顔は、納得したように一歩後退した。 「親父、死んじゃったんですよぉ…」 クシャクシャと頭を掻く姿と同時に視界に入るのは、テーブルの上に無造作に置かれた骨箱。 「みんな疑ってきますけど俺ほんとに仕事できないし、猫なんか飼ってる場合じゃないんです…。捨てたのは悪いと思いますけど、あいつに餌やる余裕なんかないし、だったら野良になった方がまだ幸せじゃないですかぁ…」 やりきれないという言葉は、こういう時に使うのだろう。そんなことを思った。 伏せた目は、おもむろにジャージのポケットから出されたスマホで再度上げる。 「この猫を捨てた、所有する権利を放棄したという認識で間違いないか?」 「……。そうです」 「わかった。帰るぞ」 「え?書類は!?」 「俺達は役所の人間じゃない」 狼狽える男性をよそに、私の手を掴むと早々と歩き出す冨岡先生の顔は険しい。 「まだ話がちゃんと終わってませんよ…!?」 「終わってる。猫を捨てた。その言質が取れただけで充分だ。実質的な飼い主は死没している。あの猫がここに戻るのは無理だ」 「それはそうですが…!」 「あの男はお前の家族でも生徒でもない。そんな人間と他に何を話す必要がある?」 グッと強まった手の力に、我に返った気がした。 「…いえ、ありません」 冨岡先生は、助けてくれたんだ。 また私が何とかしようと思ってしまう前に。 自分が無情になることで、それを制した。 「警察に行く必要はなくなりましたね…」 所有者である飼い主が明確に権利を放棄をすれば、遺失物の取得届を出す必要はない。 それも貸主である奥さんが教えてくれたこと。 呟いた言葉に返ってくるのは指へ絡まる、同じ体温だった。 それなのにどうして悲しくなるのだろう (2週間や3ヶ月も待つ必要がなかったのは助かる) (冨岡先生、ちゃんと聞いてたんですね) (そこだけは耳に入った) [ 190/220 ] [*prev] [next#] [mokuji] [しおりを挟む] [back] ← ×
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