good boy | ナノ
ソワソワしてる。今度は飼い犬じゃなく、私が。
1分置きに時間を確認してるせいで、正直目の前のカーソルは10分くらい前からそれほど動いていない。

秒針がきっかりそこを示したのを見てから、パソコンの電源を落とした。

「すみません帰ります」

一応定時と言えば定時だけど断りを入れたのは、いつもこの時間に席を立たない違和感と、単純に仕事が終わっていない罪悪感からだ。
案の定、珍しいと四白眼を強くした不死川先生が振り向きはしたが、これまでの経緯を知っているためか、
「ああ、お疲れェ」
悟ったようにそれだけを返してくれた。

「冨岡先生」

どうするかを訊ねようとしたところで、迷いなく立ち上がる姿に笑ってしまいそうになるのは何とか堪える。

「帰りましょうか」

コク、と動いた頭を確認して、職員室を出た。


仕事だから仕方ないとはいえ、半日近くケージの中に入れてるその存在が気にならないはずがない。
ご飯と水は多めに入れてきたし、室内も適温にもしてきた。だから大丈夫。

そう考えてはいるけれど、もし万が一があったらと思うと気が気じゃない。

自然と早足になったところで、

「俺が抱えた方が速い」

真剣に身体を攫おうとする手をすんでで回避した。

「いえ、そこまでは大丈夫です。それより冨岡先生に確認したいことがありまして」
「何だ?」

見上げた群青色の瞳はきっとこちらの想定通りの返答がくる。わかっていても口にせざるを得ない。

「もし本当に飼い主が見つからなかった場合、本当にあの猫を飼いたいと思いますか?」
「飼いたいと思う」

ジッと見つめるより早く返ってきた答えに、それが本気だというのを確信した。

「わかりました。それでは私達が飼うというのは最終手段とします」
「……いいのか?」
「手を尽くしても駄目だった場合、責任は取らなきゃいけませんから」

優先すべきはひとまず飼い主を捜すこと。
だけど同時に引っ越す物件の選出と、マンションの管理人へ一時的保護の許可も取らなきゃいけない。
許可が下りなかったら最悪実家に預けるしか道はなさそうだ。
だけど弟が鼻炎持ちだから、いい顔はされないだろうな。

とにかく目の前の問題をひとつずつクリアしていくこと。
先のことなんて考えたって意味がない。

勝手に険しくなっていた顔を意識して戻してから、歩くペースを合わせてくれている右横を見る。

「面白いのか?」
「…はい?」
「ニヤけてる」

その言葉でハッとしてしまった。
今度は敢えて険しい顔を意識する。

「…気のせいです」

言い切ったことで、それ以上の会話は続かなかったことに安堵もしている。

頭が勝手に考えてしまっていた。

猫を引き取るということは引っ越しを余儀なくされるわけで、そうなったら必然的に冨岡先生と一緒に住むことになる。

そんな未来も、いいかな、なんて。ちょっと浮ついたこと。


good boy


「ただいま」

玄関を開けて真っ先に向かったリビングに、光る両目を確認した。

「ごめんね、真っ暗だった」

スイッチを押したところで眩しそうに細める目もそこそこに、大きなあくびをした後で伸びをする。
どうやら特に変わった様子もないらしい。朝と変わらず元気そうだ。

「ぐぅん」

また鳴らした喉と共にカリカリと扉を引っ掻く動作にそこに屈む。

「出してほしいの?」

そうだ、と、目で訴えられた、気がする。
一瞬迷ったものの、猫砂はきちんと青い塊を作っているし、ひとまず開ける選択をした。
暫く優雅に練り歩いたあとで立ち止まったのは冨岡先生の前。

「何だ?」

膝を曲げてから差し出した手へ、猫はしきりにクンクンと鼻を動かす。

「にゃあ」

カプッ。

そんな効果音が聞こえてきそうなほど、見事に歯を立てられた人差し指。
てっきり機嫌が下降するかと思いきや、

「甘噛みか。名前にそっくりだな」

含み笑いをする顔を何とも言えない表情で見つめてしまった。
その間にも噛まれ続けているというのに、全く微動だにしない。

「痛くないんですか?」
「痛くない。じゃれているだけだ」

噛まれている方とは逆の手で頭を撫でる手は優しくて、その光景を微笑ましく感じた。

しかしそれも束の間、

ピンポーン、ピンポーン。

突然の来客に、ビクッと身体が跳ねる。
何故かってやましいことがあるからだ。むしろやましいことしかない。

もしかしたら誰かにこの猫の存在がバレた可能性がある。

だとしたら2回のチャイムも説明がつくし、このタイミングで鳴らされたのも、帰宅するのを見計らってのことかもしれない。

「俺が出る」
「いえ、私が出ます」

念のためモニターを確認しても、そこには誰も映ってない。
念のため、リビングの扉は完全に閉め切ってから玄関へと向かった。

「はい」

ゆっくり開けた先、鋭い眼光を受けて身構える。

「久しぶり。ごめんなさいね〜忙しいところ」
「…いえ、どうしました?」

にっこりと笑ってはいるけれど、どうにも警戒は怠れない。

ついさっき、会いにいかなければならないと思っていたから尚更だ。

このマンションの所有者である奥さん。何でも隣の一軒家にご夫婦で住んでいるらしく、何度か顔は合わせたことがある。
こちらはあまり存じ上げないが、あちらは私の情報を契約書で把握しているため、いつだか言われた。

「苗字さんって先生なんだね〜?うちの息子も先生やってるのよ〜。小学校のだけど」

世間話の一環として話し掛けられたその後、30分以上立ち話が続いたのを、今でも少し苦い記憶として蘇った。

とにかく喋ると止まらない。

なので許可を取りに行くのも、大幅な時間の余裕を持たなければならないと今日挨拶に伺うのは避けたのだけど、まさかそちらから訪ねてくるとは思わなかった。

「ちょっと住民からマンション内で猫の声が聞こえるって報告があって、一応こうやって訊ねて回ってるんだけどね。何か知ってる?」

直球の質問に、何て答えるべきか瞬時に考えてしまう。

これは本当に何も知らず訊ねられているのか。それともここに猫がいるとある程度、目星をつけた上での言動なのか。

多分、ここでの間違いは命取りになる。

「猫の声ですか…?」

どうにか少しでも情報を得るしかない。

「そうなの。外から紛れ込んできたんじゃないかっていうんだけど、訊いてみたらこの階で聞こえるみたいなの。どう?」

これは、どっちなのだろう。

聞いた。聞いてない。

どちらが正解なのか。

いや、もうここまで来たら誤魔化さずありのままを話すしかないだろう。
今日は上手く逃れられても、また明日どうなるかはわからない。
それなら正直に事情を話した方が、まだ理解を得られる気がする。


「……実は」

覚悟を決めて上げた顔は、遥か遠くを見つめる双眸と、

「あら〜!506の冨岡さ〜ん」

呼ばれた名前で、咄嗟に後ろへと向いていた。
状況を伝えようにも今この場では分が悪い。

「あれ?もしかして…?あら?」

左手を交互に見やる奥さんに関係を察知されたところで、やっぱりきちんと話さなくてはと向き合った時だ。

「猫ならここにいる」

言い放った言葉に、耳を疑った。

「…え?」

当たり前に奥さんも驚いているけれど、冨岡先生だけは全く動じてない。

「マンション内に迷い込んできていた。何度か外に出したが人間の出入りを利用して再度入ってくるため昨夜こちらで保護した。報告が遅くなったことは悪いと思っている」
「あらぁ、そうなの!?」
「獣医に診せたところ飼い猫の可能性が高いため今飼い主を捜しているところだ。できればこのまま保護することを許可してほしい」

堂々とした嘘と真実を織り交ぜた報告に面を食らってるうちに、核心に触れる冨岡先生はさすがだ。

「…ん〜、でもねぇ」

しかし顎に手を当てるその表情はあまりいいものとは言えない。

「一応ずっとペット禁止の規約でやってるから他の人達の手前、ちょっと…。ねえ?」

言い淀んではいるが、暗に認められないと伝えている。

「常にケージの中に入れ建物へは配慮している。万が一損壊した場合の賠償はするつもりだ」
「…う〜ん、でもねぇ、見付かるかどうかわからないんでしょう?」
「飼い主が見つからなければ里親を探す」

ん〜、ともう一度唸る姿は、心なしか先程より柔らかく見える。
そう感じた瞬間に合った目は、明らかに好奇心で満ちていた。

「猫、ほんとにいるの?」
「……います」
「今も?」
「います」

繰り返した瞬きのあと、
「見てもいい!?」
前のめりになる姿勢にちょっと身を引いたけれど、
「……。どうぞ」
断る理由もないのでそう返す。

「あら〜、可愛いっ!」

リビングに入るなり上げた声は、思わず冨岡先生と顔を見合わしてしまうほど予想外だった。

「猫、好きなんですか?」
「ええ、まぁねぇ。久々にこんな間近で見たわ〜。何歳?」

止める間もなく開け放たれる扉を見守りながら答える。

「お医者さんの話では生後半年ほどではないかと」
「半年〜!の割には大きいわね。成猫みたい。大型の品種かもね。顔つきと毛の感じはノルウェージャンかメインクーンの血筋かな」
「お詳しいんですね」
「昔、動物病院に勤めてたのよ。看護師だけどね」

初めて聞く事実に、思わず眉が動いていた。

「それが面白いんだけど!お見合いで知り合った旦那が犬猫アレルギーでね、勤務終わりに会ったらアナフィラキシー起こして救急車で運ばれちゃってさ〜!そっから動物とは関わってないのよ〜!」
「そうなんですか」

何となく背景が掴めた気がする。
マンションをペット不可にした理由も、渋っていたわりに好奇心に満ちていたのも。

「おいで〜。よしよしさせてくれる〜?」

キラキラとした瞳は猫が近寄っていったのと、その身体を撫でたことで更に嬉し気なものになっていく。

「人懐っこいのね〜。可愛い」

さすが慣れている。そう思わざるを得ない撫で方で、無防備に目を瞑る猫は確かにとても可愛い。
だけど、心配にもなった。

「…あの、大丈夫ですか?」
「何が〜?」
「ご主人が救急車で運ばれるほどのアレルギーなら「あ〜いいのいいの!」」

あっけらかんと笑っているはずのその顔が寂し気に見えたのは気のせいじゃない。

「もう家にいないから」

その一言に、一瞬迷いはしたけれど、
「そうですか」

それしか返せなかった。

邪推してしまいそうになる思考を、どうにか今ある問題に向ける。

「猫のことなんですが…」
「あ〜、それも大丈夫大丈夫!飼い主見つかるまではいいわよ〜」
「…ありがとうございます」

まさかこんな形で承諾を得られるとは思わなかった。
これは何ていうか、運命の巡り合わせなのかもしれない。

だけど、ひょいと猫を抱き上げた奥さんの寂しそうな表情と、

「やっぱ男の子か〜。通りで可愛い顔してると思った」

全くそぐわない明るい声に、少し違和感を抱かざるを得なかった。


「じゃあまた来るわね!」

なんて言われて、少しばかり感じる疲れを悟られないよう笑顔を作りながら見送る。
結局あれから40分ほど掴まりはしたけれど、さすがは獣医看護師、ところどころで知識を与えてくれたのはとてもありがたい。

「すみません、ご飯作りま、す」

玄関の扉を閉めて、振り向きながらの発言だったものだから、すぐ後ろにいた存在に息を止めた。

「…どう」

塞がれる口唇に一瞬瞑った目は、離れたことで開ける。
もう一度重なりそうなそれは手で押さえた。

「もしかして、怒ってます?」
「何故そう思う?」

ジッと見つめる群青色には嘘が吐けない。今更ながら、思い知ってる。

「もし飼い主が見つからなかった場合、奥さんに譲渡しようという気持ちが傾いているからですか?」

それが正直なところだ。
重度のアレルギーを持つご主人の詳細は訊いてはいないし、あちらも饒舌な割にはそのことに関しては触れてこなかった。
ただ言葉のニュアンスから"飼えるなら飼いたい"という気持ちは伝わってきたから、私もそうなるよう誘導をした節がある。
だから怒っていると思っていたけれど、

「違う」

ますます拗ねた顔に、正解がわからなくなった。

「じゃあ、何です?」
「俺ではなくあの貸主にばかり構っていた」
「まさかのそっちですか」
「偉いとも言われていない」

差し出してくる頭を見つつ、蘇るのはさきほど話した嘘の経緯。
あの助け船がなければ私は間違った返答をして、更にその場を拗らせていたかもしれない。

「偉い、ですね」

撫でた頭で漂ってくるその匂いに誘われるように、擦り寄った理由は良くわからない。

ただ、愛しいと思ったから。

それだけは確実だ。

「誘ってるのか?」
「そういうわけじゃないです」

毅然と返しながら頭を預けるのは矛盾してるのはわかっているけれど、ただ黙って寄りかからせてくれるから、そうしたくなる。

「考えてました。時折寂しそうな顔をする理由を」

訊けるほど図々しくはなかったから、気付かぬふりをした。

どことなく後悔しているような、そんな雰囲気は伝わってきたからこそ想像をしてしまう。

「旦那との確執がありそうだな」

落ちた沈黙で抱き締められるその力はいつもより強い。

「私が考察しても仕方がないですね」
「……良く俺が言おうとしたことがわかったな」
「何となく、力の加減でわかりました」

気になるか気にならないかを問われたら気にならないはずがないと返すだろう。
でもそれで私ができることと言ったら今のところ何もなくて、これから先あるかどうかも定かではない。
意識を向けるべきなのは、ガタガタとケージを鳴らしている存在だ。

「それなら次に望むこともわかるだろう?」

身体に這っていく手と嫌でも感じる熱視線。

「駄目です。ご飯作りますから大人しく"待て"していてください」

不満を訴える視線を感じながらそこから抜け出す。攻防の合間に鳴き出したのは猫だ。
何かを必死に訴えている。

「開けてほしいんですかね?」
「そうだろうな」
「お願いしてもいいですか?」
「わかった」

短いやりとりながらリビングへ向かう背中を見送って、キッチンに立つ。
最近、皆まで言わずとも意思の疎通が可能になったし、その頻度も増えたように思う。
そんな些細なことが嬉しいと思いながら、お湯を沸かそうと鍋を火にかけた。

聞こえなくなった鳴き声に、冨岡先生がケージを開けてくれたのだろうと暢気に考えながら冷蔵庫に向かおうとコンロに背を向けたときだった。

「飛ぶな!」

突然の叫び声と、ガシャンッ!と何かが衝突した音に振り返る。

一目散に逃げていく猫と、床にひっくり返る鍋を視界に入れて一瞬思考が停止した。
しかし鍋を拾い上げた右手が濡れていることに気が付いて駆け寄る。

「…大丈夫ですかっ!?」
「大丈夫だ。まだ温かった」
「でも念のため冷やした方が!」
「それより猫は無事か?間一髪火に触れる前に止められたが湯はかかったかもしれない」
「……。見てきます」

ひとまずタオルで右腕を包んでから、走っていったリビングへ向かう。
隅の方で縮こまりながら、まん丸い目でこちらを見つめる猫は怯えているように見えた。

「…大丈夫?」

できるだけ怖がらせないようにゆっくり近付いて、そっと背中を撫でる。
じっと見つめてはいるが動かないので、その肢体が濡れていないか確認した。どうやら被害はないらしい。

「猫にはかかってませんでした」
「そうか」

ダイニングに戻った先、床に零れたお湯を拭いていく冨岡先生に眉を寄せた。

「冷やしてないんですか?」
「さっきも言った。冷やすほどじゃない」
「それならせめて脱がないと」

休むことなく動かす手を止めようとしたところで、

「震えてる」

独り言に近い呟きを聞いて、咄嗟にそれを引っ込める。

怖いと、思った。

もしもあのまま猫がコンロに突っ込んでいっていたら、大惨事は免れなかった。
その点においては安心しているけれど、その小さな身体を護るため、冨岡先生が犠牲になった。

その事実を、脳が受け入れきれずにいる。

「ごめんなさい…」
「名前が気に病むことじゃない。事故だ」

そう言ってはくれたものの、自分の危機管理の甘さを呪うしかなかった。


完全に認識が甘かったとしか言えない


(今、氷持ってきます)
(いい。それより脱がしてくれないか?できれば全部)
(わかりました…って冨岡先生!?)


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