good boy | ナノ
"待て"の合図も虚しく噛み付かれた口唇に、そこまで悪い気がしないのは惚れた弱みなんだろうけど、勢い良く開けられた扉と、

「離れろッ!!」

聞こえてきた怒声には、どうにも罪悪感が沸き上がる。

私より早く反応した割に、すぐ解放しなかったから一瞬ではなくばっちり見られてしまったことにも気まずさを感じた。

「何か用か?」

淡々と言い放つ冨岡先生は"作戦"を続行しているのだろう。
だけどこれは流石に…。

「何してんだよ!」
「名前のアルバムを見ていた」
「ちげーだろ!?今っ!」
「キスしていただけだ」
「だけっ…!」

どうにか宥めようと名前を呼ぶ間にも、腰に伸びてきた手に身体が竦む。

「きめえんだよ!帰れっ!!」
「キモくはない。人間の本能だ」
「ちょっと、冨岡先生」

まだ中学1年生に理解しろというのが無理な話。
口を出すなと言われていても、今はこの場を穏便に収めないとますます拗れそうだ。

「姉ちゃんに触んなっ!!死ねよ!!」

浴びせられた三文字に、カッとなった瞬間にはその頬へ平手打ちしていた。

「他人様になんてこと言うの!謝りなさい!!」

自分の行動に後悔したのは、すぐあと。

睨んだ目が、これほどになく憎悪を宿しているのを見た瞬間だ。

去っていく姿を追おうとした時には、すでに隣の部屋を閉める音が聞こえていた。


good boy


取り返しのつかないことをしてしまった。そう思う。

これまで説教は何度も、それこそ何十回でも足りないくらいしたことはあるけど、手を上げたのなんて初めてだった。

しかも、怒りの感情に任せて。

最低な行為すぎる。もう何も言い訳もできない。するつもりもないけど。

リビングで項垂れ続けるしかない私をよそに、冨岡先生は涼しい顔で新しく入れた麦茶を啜っているだけで、何も言わない。

「……。すみません。ホントに」

それだけしか言えず、また項垂れる。

暫し間を置いたあと、静かにコップを置いた音が小さく聞こえた。

「まだ、わからないか?」

ゆっくり顔を上げた先で、群青色とかち合う。

「最後の台詞が弟の本音だ」
「死ねっていうのがですか?」
「違う。その前だ」

言われてから、思い返してみる。

「姉ちゃんに触んなっ!!」

蘇ってきた怒声に、ひとつの可能性が浮上した。

「……。もしかして、あの子が反抗してたのって…」

私が冨岡先生を連れてきたから?

「そうだ。ただでさえ正月から帰ってこない、連絡も寄こさない大好きな姉がある日突然男を連れて帰省してきた。これは機嫌を損ねるどころの騒ぎじゃない」
「…大好きなって、私達は冨岡先生と蔦子さんのような姉弟関係ではないですけど…」
「心中など弟にしかわからないだろう」

言い切られてから、確かにそうだと納得した。
どうにも家族というものは一番近くにいるせいか、無意識のうちに自分の物差しで量るようになってしまう。
それ故に拗れる関係性を教師として見てきた筈だったのに、何故か自分の立場になると、俯瞰的な捉え方ができなくなってしまっていた。

「反抗はお前に対する愛情の裏返し。俺にはそんな風に見えた」
「だから、焚き付けたんですか?」
「そうしないと形として出てこない。名前の弟なら尚更だ」
「……。それはまぁ、否定しないでおきます…」

確かにあの子も自分のことを話すのは得意ではないし、心の内側を見せるのも苦手で、それ故に昔から人間関係で損することも多かった。

だから、傷付かないように教えてきたつもりだったのに。

「何故溜め息ばかり吐く?」

無意識に吐いたそれに気付いたのは、訊ねられてからだ。

「説教なんてできる立場になかった。そう感じています」
「名前の説教は痺れるものがあった。弟はいつもああされているのか。羨ましい」

こちらが真剣なのと同じように言い放つ姿に、また肩を落とす。今度は何というか、別の意味で。

「あの平手打ちもなかなかにいい。俺もされたい」

言葉の一切を聞こえなかったことにして、まだ繋がったままのゲームを消そうと立ち上がった。
コントローラーを持った瞬間、隣に置かれたヘッドホンから漏れた声を聴く。
画面を見れば、それがまだ友達と繋がっているのを示していた。
複数人の会話が気になって、おもむろに片耳へあてたヘッドホン。

『戻ってくんの遅くね?』
『なー。今度こそ的にしようと思ったのに』

弟の名前を呼ぶ2人の声は、悪意に満ちていた。

『今度こそ潔く死んでくれよ〜?』

さっきと同じだ。
カッとしたままヘッドホンを装着しようとしたところで、奪われたのに気が付いて振り返る。

「俺がやる」

敢えて忍び声なのは、私の意図を的確に読んでいるからだろう。
お願いします、という意味を込めて頭を下げた。

無言のままで押された決定ボタン。

『お、来た来た!』
『まーた懲りずに殺られにきたな〜?』

まるで待ち構えてたかのようにスタートさせるのをテレビの画面で目視し、ヘッドホンから漏れる音で聞いた。

どうして冨岡先生にその場を任せたか。それは甘えもあったし、必然でもあった。

"togi"

今はもう遥か昔のように懐かしく感じるアカウント名。それを思い出したからだ。

同時に脳裏に浮かぶ笑顔は、今も仲間と協力して、このゲームを純粋に楽しんでいる。

だからこそ思った。

どうして弟は、攻撃的な言葉しか発さないのだろう、と。

比べても仕方のないことなのに、どうしてこんなに違うのかと思ってしまった。

それが良くないことだとわかっていても。

考えていたからか、ヘッドホンを差し出され、
「終わった」
そう声を掛けられるまで、状況の把握を怠っていたのに気付いた。

この状態で、冷静な判断ができない―…。

一瞬で怯んだ私に構わずヘッドホンを装着させる冨岡先生は、それも予測していたのだろう。

『何お前!ぜってー今チート使ったろ!?』
『垢バンさせてやっからな!?』

画面を見れば弟のアカウントが優勢だと告げている。

ふっと息を吐いたのは、もはや開き直りだ。

「弟がお世話になっています」

言い放ってしまった。こうなればあとは野となれ山となれ。

「随分と物騒な言葉が飛び交ってましたね」

空気が変わったのが嫌でも感じる。

『冗談ですよ!』
『そうそう!俺ら仲いいから!そう言い合えるっていうか!』

慌てて否定をする2人をよそに、ブツッと切れたひとつのアカウント。途端に舌打ちする音が聞こえた。

『アイツ逃げやがった…!』

微かにそんな言葉も拾った気がする。

成程。何となくだけど関係性が見えてきた。

「仲がいいなら安心しました。弟も口が悪いので貴方達を傷付けていやしないかと心配になったのですが…、どうやらそうではないようですね」
『そうですよ!』
『俺ら毎日遊んでるもんな?』
『おう!』
「そうですか」

どうしてあの子があんなにイライラしていたのか。今ようやくわかった気もしてる。

「そうやって毎日、複数でひとりをターゲットにしてるのね」

敢えて低い声を出した途端、切れた回線に溜め息混じりでヘッドホンを取る。

ひとまずアカウント名を押さえておこう。
あとは名前を調べて学校へ報告する。現時点で出来るのはそれくらいしかないけれど、問題が起きる前の情報共有は必要不可欠だ。

「弟は迫害されていたのか?」
「今現在はそうでしょうね。いじめ…、といってもまだ序の口の範囲になりますが」
「今現在というのはどういう意味だ」

さすがは冨岡先生。僅かな違和感を簡単に拾い上げてきた。

「弟の他に3人いましたよね?」
「あぁ」
「さきほど喋っていたのは主にこの2人ですが」

画面のログにあるアカウントを指差してから、今度はその下を示す。

「この子、冨岡先生がプレイしている時、一言でも声を発しましたか?」
「……いや、むしろくだんの2人に一方的に指示されている印象を受けた」

少し空いた間。動いた眉は、今までの情報からすべてを繋げ理解したのであろうと窺えた。

「こいつは前の標的だった、ということか」
「恐らくその可能性は高いと思います」

いじめというものは、原因や契機は違えど、辿る道はほぼ同じ。
そこに加害者がいて、被害者が作られる。周りは傍観だ。その他大勢はそこに加わろうとはしない。

下手に止めになど入ったが最後、次のターゲットにされるのを知っているから。

加害者側に遠回しに加担することはあっても、被害者側にわかりやすく寄り添うなど、よほどの賢者か愚者でない限り、しようとも思わない。

しようと思わないんだ。普通の神経なら。

「名前の弟だけあるな」
「…それも否定しないでおきます」

恐らくあの子は脊髄反射で突っ込んでいったのだろうから、賢者ではないけど、愚者でもないか。
傍観者よりかはよほど血の通った人間に思える。

「ちょっと話してきます」

動かした足は、

「俺が行く」

それより早く立ち上がった姿で止められた。

「……。大丈夫ですか?あの子相当怒ってましたし…」
「だから俺が行く。このまま敵対されていては結婚の障害になりかねない。弟に恩を売る絶好の案件だ」
「…それ、口に出さなきゃカッコイイんですけどね…」

まぁそれも今に始まったことじゃないんだけど。
聞こえてるんだか聞こえていないんだか、階段を上っていく背中をひとまずは見送ってみた。

何だかんだ言って、冨岡先生なら上手く誘導もしてくれるだろうし、解決にも導いてくれる。そんな期待をしているのは確かだ。

あの子の気持ちを的確に読んだのは、きっと"弟"という同じ境遇であるからというのも大きい。

私には推し量れない感情も、掬い上げてくれそうな気もしている。

階段が軋む音がしなくなってから数分、気になって上を見上げた。

どんな話をしてるんだろう?

きっとあの子が部屋に招くわけがないので扉越しに話しているだろうから、もしかしたら聞き耳を立てれば聞こえるかもしれない。

そっと階段の下から耳だけを向けてみるけど、ボソボソとした声しか入ってこない。

そういえば冨岡先生がいつも誰かと話し合ったり説得する時って、私が見えないところでしてるから一度も見たことがない。

それを知覚した瞬間、俄然興味が沸いてきてしまう。

少し迷った挙句、抜き足差し足で階段を進んだ。

近付くにつれ聞こえてきた声に、階段の半ばで静かに屈む。
まだ少し遠いけれど、これ以上進むと冨岡先生に気付かれそうだ。

「奴らは俺が完膚なきまでに叩きのめしておいた」

事実なんだけど、ここぞとばかりに主張している台詞に笑いそうになってしまうのを耐える。

「はぁ!?余計なことすんなよ!」

案の定、扉越しに答えている弟の声はここにいても良く聞こえた。

「本当に余計なことだと言えるのか?」

瞬時に核心へ触れる冨岡先生は正直的確すぎて、恐怖に感じることがある。
私にしか発動しないなんて言っていたけれど、最近は周囲すべてに反応しているのを自覚しているのかしていないのか。

「余計だろ!?そんでアイツがまたからかわれたらどうすんだよ!」
「それはないと断言できる」
「なん「名前がいるからだ」」

止まった会話に、私まで息を止めてしまった。

「名前が事実を知った今、どんな手を使ってでもお前、そしてお前の友人をも護るだろう」
「そんなことっ」
「できる。実際に俺は間近でその場面を何度も見てきた。名前は一度決めたことを曲げない。たったひとりの弟のためなら尚のことだ」

蘇るのは、今までのこと。
随分と様々な問題にぶつかってきたけれど、そのどれにも、冨岡先生がいたことを改めて実感した。

「だから俺は、名前を護るのだと決めた」

今この人は、どんな表情をしているのだろう。

「お前にとってもただひとりの姉だ。それをどこの馬の骨かもわからない男が現れては逆らい困らせたくもなるだろう」

わからない。けれどきっと、昔を思い出しているのかもしれない。

「俺も、そうだった」

桜の雨の中で見た、寂しくも儚い横顔を思い出して胸が痛くなる。

それが弟に伝わるはずはない。事情を知る筈もないからだ。

なのに黙り込んだことで重くなった空気を感じる。

「だからお前に約束する。決して名前を泣かせるような真似はしない」

じんわりと温かくなる心は勝手に涙を誘うから、天井を見上げた。
そうやって、誰を相手にしても変わることのないこの人が好きなのだと、改めて実感もしている。

「…したらどうすんの?」
「しない」
「だから!したらのはな「しない」」

溜め息を吐いているであろう弟は、いつだかの自分のようで笑いそうになってしまう。

この人に"たられば"など通用しない。
断言したことはそれこそ、絶対に何があっても貫くからだ。

そろそろ弟の方が不利になってきたのを感じ、立ち上がりかけて止まる。

「だから安心してこれからも俺に反抗してくればいい」

言葉すら、出なくなってしまう。そんなことを言われてしまったら。

恩を売るなど、どこの世迷言。

そうやって全部を背負っていこうとするから駄目なんだと、一体何度言えばわかるのか。

「……あんた、姉ちゃん、いるの?」
「いる。今は結婚して子供も産まれた」
「嫌じゃなかった?」
「聞いてたか?だからお前の気持ちがわかると言った」

下りた沈黙に、さっきまでの殺伐とした空気は感じられない。
本当にこの人は、どれだけ深く人の心を読むのだろう。

「どれだけ八つ裂きにしたいか心中察して余りある」
「俺そこまで言ってないんだけど…」

…いや、読んでるのではなく経験からかもしれないけど。特に今回の場合。

「本来ならば、俺にとってお前も八つ裂き対象だ」
「はぁ!?」

これはまた大きな暴走を始めたと、止めに入ろうと踏み込んだ瞬間に鳴る音で眉を寄せる。

「自分のために叱るという選択をする人間は貴重な存在だ」
「だから何だよ!」
「俺が言っている意味をもう既にわかっているはずだろう」

一呼吸置いた後に、言葉が続く。

「お前は、名前に良く似ている」

それは、弟にとってどれだけ残酷なものか。私にすら計り知れない。

父親が違う。

別段、隠していたわけではなかった。
だから私が小さい時の写真も今そのまま残っている。
なかったことにする方が、子供にとって良くない。恥ずかしいことではないと両親が判断したからだ。

ある程度世の中を知った私にとっては、賢明な決断だと感じた。

自分達の感情より子供のことを優先させるのは、なかなかにできることじゃない。

だけど何も知らず産まれた弟にとって、それは歪みでしかなかった。

肩身が狭いのは言うなればこちらのはずなのに、汲み取ってしまったんだろう。

いつからか、その溝が深いものとなっていくのを知っていながら、直接的な否定を聞いてしまうのは怖くて距離を置いた。

お互いに。


「似てない!」


その叫びで我に返る。

そうだ。今は―…

「姉ちゃんはいつもすげぇから!母さんにも父さんも言ってる!姉ちゃんは頭いいって!…俺なんかとは、大違いだ……」

弱々しくなっていく言葉のあと、

「ようやく本音を出したか」

優しさで満ちた柔らかい声色に、胸がいっぱいになる。

同時にここで聞き耳を立て続けるのは申し訳なく感じて、足を動かした瞬間にひょこっと出てきた顔とそこに留まるよう指示する手に、静かに座り直した。


すべてお見通しというわけ



(……。そういえば姉ちゃんは?)
(ここにはいない。下で洗い物をしてる)
(よかった…)


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