good boy | ナノ
いい予感がしないっていうのは間違っていた。
正確には"嫌な予感しかしない"が正しい。

人間の本質はそう変わらない。私も冨岡先生も弟もだ。

それは抗いようのない真理なのに楽観的に構えたのは、これもまた人間の習性というものか。

結果として、今このリビングには険悪な雰囲気しかない。

「どうぞ」

一応実家でありながら、勝手に淹れたことに後ろめたさを感じる麦茶を目の前に差し出すも、冨岡先生が見つめるのはテレビに向かう弟の丸まった背中。

「お前!そっちだって!そう!そこ!殺せ殺せ!」

ヘッドホンまでしたその姿はコントローラーを必死で連打しながら、何とも物騒なことを喚き続けている。

「…すみません」
「構わない」

やっぱり来なきゃ良かった。

そう思わざるを得ないのは、私達の存在を全く意に介さない態度の悪さにある。

面倒くさそうに玄関を開けたあと、私達を見た瞬間に放たれた一言。

「は?なんでいんの?」

生意気な弟なのは重々承知していたけれど、ここまであからさまな態度は初めてで、一気に眉を寄せた私とは違い、冨岡先生は涼しい顔のまま、

「挨拶に来た」

そう静かに返していた。

「2人ともいねーし」

それだけ言うとリビングに戻っていく背中に続いたのはいいが、話し掛ける前に装着したヘッドホンは未だ1回も外されてないし、外そうとする気配もない。

来てしまったものは仕方がないとしても、上がらないでそのまま帰れば良かった。

といっても、麦茶を飲み出す冨岡先生は帰る気はないらしい。
何も言わないけれど、その気概的なものは伝わってくる。

「ああっ!クソ!!死ねッ!!」

ひと際大きな叫びとヘッドホンを投げつける行動に、我慢できず口を開いた。

「死ねって言わない」

返答はないまま消されていくゲームに、更に眉を寄せる。

「誰かと喋ってたんじゃないの?」
「……友達」
「やめるならやめるって言わないと、急に切ったら「うっぜえ」」
これはもう、完全なる反抗期というものなのか。
「勝手に来たと思ったら説教かよ」
「説教しに来たわけじゃないけど、いくらなんでもちょっと目に余るよ。どうしたの?お正月に会った時はそんな「うるっせーな!帰れよ!」」

バンッと投げつけたコントローラーに続き勢い良く立ち上がると、不機嫌さを全面に押し出して階段を上がっていく。

「…ちょっと!」
「追い掛けない方がいい」

冷静に諭されて、上りかけていた頭を自覚した。

「……すみません」
「名前が謝ることじゃない」

恋人とはいえ、わざわざ人の家で姉弟喧嘩なんて見せられたくもないだろうに、それでも全く気分を害した気配も見せないのは流石としか言いようがない。

「敬語を使わないお前も新鮮でいい」

どこかズレた回答は苦笑いするしかないけれど。

ただその言動に救われたのも確かだ。

「帰りましょうか」

ここにいても仕方ない。今度はきちんと考えた上で出した提案は受け入れられる。
そんな期待をどこかで持っていたから、間髪入れずに返ってきた、

「まだ帰らない」

駄々っ子のような台詞には、いささか疑心が沸いた。


good boy


「かいつまんで要約すると、こんな感じです」

弟との関係が今までどのようなものだったか簡易的に説明したあと、冨岡先生は小さく相槌を打つとまた麦茶を飲む。

正直、何を考えているかまではその表情からは掴めない。

だけど多分、私と考えていることは同じだろう。

どうして弟がそこまで敵愾心を見せるのか。

さっきも言った通り、正月に帰省した際には生意気な面はあれど、あそこまでハッキリ私を拒絶するほど酷いものではなかった。
どちらかと言えば、お年玉を貰えるまではこちらの機嫌を損ねないことを徹しているような強かさも垣間見えた。

では、何故?

ゲームが上手くいかなかったとか、小言を言われたからとか、そんな小さなことじゃない。
その態度は、顔を見た瞬間から始まっていた。

考えると、ひとつの答えに行き着く。

「入学祝いに何もしなかったからですかね……」

心なしか落とした肩が上がらないまま、重い溜め息を吐いた。

「弟は今年から中学か」
「そうです。てっきり入学祝いをせびってくると思ったんですけど、何も言ってこなかったので私も忘れたままになってしまって…」

だからふてくされている。その可能性はなくもない。
これは私がきちんと謝らなければならない案件かもしれない。

「…ちょっと話してきますね」
「何をだ?」
「お祝いの言葉のひとつもかけてなかったと思い出したもので」
「やめた方がいい。火に油を注ぐだけだ」
「……。話し合いでは解決が難しいほどに拗れてますか?もしかして」
「俺からはそう見える」
「……そうですか」

それなら納得もする。
あの子の鬱憤がどれほどのものか量れないのに、一方的な謝罪とその場しのぎの言葉で済ませるのは、それこそ関係が悪化する要因になってしまう。

「どうすればいいと思いますか?」

迷いも揺らぎもしない群青色へ、素直に頼ってみる。

「……そうだな」

一度視線を左上に動かしたあと、真っ直ぐに見据えられたと同時に出された発案は、どうにもやはり常人では理解しがたいものだと思った。

* * *

ミシッとしなる音で、階段から誰かしらが下りてきたことを知り、覗き込んでいた冷蔵庫を一度閉める。

「どうでしたか?」
「要らないと言っていたが、最終的には食べると確約をさせてきた」
「…無理強いしてないですよね?」
「してない」

本当かどうか定かではないけど、ここで詰問しても仕方がないのでもう一度冷蔵庫の扉を開けた。

「…お昼ご飯、何作りましょう」

さっき母親に確認したところ好きにしていいと許可は得たけれど、そこまでごっそり食材を使うわけにいかないので、どうにか必要最低限を考えはする。
次に引き出した冷凍庫にご飯があるのを確認して、また一度閉めた。

「炒飯はどうですか?」
「食べる」

即答する姿に苦笑いをして、手を洗いながら懐かしさを噛み締める。
居住していた頃は台所に立つのなんて限られた時だけだったけど、それでも思い出はここに数え切れないほど溢れているから、自然と表情は弛まるばかりだ。

と、今は感傷に浸っている場合じゃない。冨岡先生の作戦通りに事を運ばなくては。

「ちゃちゃっと作っちゃいますね」

冷凍ご飯をレンジで解凍している間に、具材を切ろうと取り出したネギとハム。ついでに卵も溶かしておこうと段取りを考えているところで掴まれた腰に、身体が勝手に跳ね上がった。

「…何してるんですか」

妙に低い声になってしまったけれど、隠せないくらいには呆れてる。

「名前の尻に俺のイ「だから状況説明ではなくて」気にしなくていい」

このままという選択肢は選べないので、胸を触ろうとする手を止めた。

「気にします。家じゃないんですからやめてください」
「家だが?」
「そういう意味でもなくて」
「抗うな。これも作戦の内だ」

耳元で囁く声が、どういう意図かはわからない。
それでも、

「何してんだよ」

飛んできた声に、心臓まで飛び跳ねた。
一層不機嫌さを増した顔を振り返った先で見る。

すぐには離れようとしない身体をどうにか引き剥がしたものの、何と答えたらいいかわからず言葉に詰まった。
身内というだけで、これ以上にないほど居た堪れなさを感じてしまって、どうにもやりづらい。

「恋人同士なら不思議でもないだろう」

涼しい顔で言ってのける冨岡先生は、ご自分が告げた"作戦"を忠実に遂行している最中なんだろうけれど、どうにも弟の精神を逆なでしているようにしか見えない。
案の定、顔を歪ませるとダンッ!と大きく踏み込む階段の音に溜め息が出た。
名前を呼ぼうとしたと同じタイミングで、

「上に戻るのか?それなら尚俺にとって都合がいい」

またとんでもないことを言ってくれたと目玉が飛び出そうになる。
それでもその"作戦"は功を奏し、その身をリビングに留めることができた。

ガンッ!バンッ!

大きな音を立てて椅子に座る行動は、全く以て褒められたものじゃないけれど、"名前は何も言うな"と釘を刺されていたのを思い出して、挟みたくなる口をどうにか噤む。

険悪なムードの中、無言で作らなくてはならない炒飯は正直あまりうまくいったとは言い難い代物となった。


「母さんの方が美味い」

だろうね。
言い掛けた一言は咀嚼をしたあと、一緒に呑み込む。

「名前の炒飯は相変わらず美味い」

隣で堂々と宣う冨岡先生は"作戦"なんだろうけども、更に悪化していく空気は耐えがたいしとても帰りたい。

「煽ってんの?姉ちゃんそんな飯作るの上手くないし」
「それは昔の話だろう?今の名前は何を作っても俺の口に合う」
「は?」
「何だ?」

かち合った視線からバチバチと火花が聞こえたのは気のせいだと思うことにしたい。
このパターンの敵対は、正直想定していなかった。

何も聞こえない。無になろう。

そう決めて黙々と炒飯を口に運ぶ。

「反抗の標的を俺に向けさせればいい」

冨岡先生はそう言った。
要は人身御供を作るのだと。
この子が冨岡先生を敵として認定することによって、私への敵愾心は少なからず薄れる。
それがあらかたの狙い。

そして続けた。

「ここでお前が撤退するのは問題を後伸ばしにするだけだ」

だから敢えて、冨岡先生は嫌われるような方向へ持っていってるんだけども、同じようにこちらを睨んでくる目は、どうにも何かを言いたげに見えて仕方ない。

それでも終始文句を言いながら、綺麗に平らげた食器を黙ってシンクにまで下げる姿は贔屓目か、偉いとも感じていた。
お昼は自分でどうにかすると豪語していた割には、という付加価値がついての話だけど。

しかし無言で丸める背中がゲーム機の電源を入れた瞬間に、溜め息に変わった。

ごちそうさまは?歯磨きはしないの?

そう言いたくなるのをどうにか堪える。

ヘッドホンを装着するなり、恐らく友達の名前を呼ぶのはとても楽しそうなもので、それならもう仕方ないと諦めるべきかと、もう一度溜め息を吐いた。

口に運ぼうとしたスプーンは、力なくその場に置くことしかできなくなって、これまでを鑑みる。

「私が口うるさかった反動でしょうか」

そう、口を突いて出ていた。

思えばあの子が物心ついてから、私は色んな"駄目なこと"を教えてきた気がする。
これをしては駄目、あれをしては駄目。それをしなくては駄目。
先回りすること。それが本人にとってプラスにならないと知ったのは、本格的に教員を目指してからだった。

だけど知ったところで過去に戻ってやり直すことはできないから、弟という、個人を立てるように努めるようにはした。

だけど、その結果はどうだろう?

「マジでお前早く死ねよ!」

笑いながらそんなことを平気で発する人間になってしまっている。

両親が甘いぶん、私が悪者になってでも教えなくては思った。
でもそれはただの自己満足で、今背を向けているあの子には響くどころか、更に意固地になる理由を与えてしまったのかもしれない。

カランッと音を立てて置かれたスプーンに、一点を見つめていた視線を動かす。

「名前が悪いわけじゃない。そこまで深く考える問題でもないはずだ」

考えが読めないまま立ち上がるその姿を眺めた。
食べ終わった食器をシンクへ置くと、水に浸け終えてから、こちらを真っ直ぐに見る。

「名前のアルバムが見たい」

これはまた突発的な、と思い掛けて、いや、違うなと思い直す。
それはこの人が多分、ずっと望んでたことだ。

「いいですよ。2階ですけど」

また何か言われるだろうか、と弟の背中へ視線は向けはしたものの、何をそんなに気遣っているのだろうとそれを剥がした。

出て行ったとしても、元々は私の家でもあるわけで、親に了承も取っている。
弟の機嫌を窺う必要性はないはずだ。
それは冨岡先生も感じているようで、階段を上っていく背中に続く。

一応、
「2階行ってくるね」
そう声掛けはしたけれど、聞こえているかはわからない。


上がった先の1室、扉を開けるとまた懐かしい匂いがした。
だけど冨岡先生のご実家とは比べ物にならないほど、こじんまりとした家だなと思い返してみる。
これでも父親が子供たちのためにと必死で買った一軒家だけど、そろそろ色んなところにガタがきていると感じたのは、階段と開けた扉の傷み具合からだ。

「ここは名前の部屋か?」
「元、私の部屋ですね。今は母親が使っていて、荷物だけは押し入れにしまってあります」
「そうか」

物珍しいのかキョロキョロと辺りを見回す動作はどうにも犬に見えて笑ってしまう。
本物の犬なら、最大限に鼻を動かしてそうだ。

「これです」

あらかた揃っているだろうアルバムをごっそり取り出して、床に置いてみる。
すぐに胡坐を掻くとページを捲っていく瞳はキラキラとして、それにも口角が上がる一方だ。

「あんまり楽しいものはないですよ?」

そうは言ってみたものの、丁寧に1枚1枚眺めていく真剣さに、邪魔をしないよう様子を眺めることにする。

「……かわいい」

時折聞こえる独り言には、また笑ってしまう。

終始穏やかだった空気は、その眉を寄ったことで一変する。

「前にお前は…」
「はい?」
「男の背中を流すのは初めてと言っていたが……、嘘だったのか」

沈んでいく声と表情に一体何があったのかとその手元を覗き込んで目が窄んだ。
こんな写真もあったのか。
懸命に泡を背中に擦りつけている幼い自分を見ても、全く記憶にない。

「それ父親ですよ。しかも3歳の時って書いてあります」
「俺が初めてじゃ…「家族以外では初めてです!ってことにしておきましょうね!」」

このまま臍を曲げられると色々と面倒なことになりかねないので、先に進むことにする。

「あ、これ幼稚園に入園した時です」
「……小さいな。可愛い」
「…ありがとうございます」

何とか話の切り替えには成功したけれど、この写真も記憶はない。
というか今までまともに見返した憶えさえなかった。

「父親か。名前に似てるな」
「そうですか?」
「あぁ。面影がある」

入園式で隣にいたその人物は、入学式の時にはどこにもいなくて、そういうことなのかと答え合わせをしている気分になる。

私は過去を思い出すことを無意識にやめていた。多分、その存在と別離した時から。

「ここか」

表情を窺おうとするより早く、指先が写真の私を撫でた。

「お前の…、人生の岐路は早すぎるな」
「そんな大袈裟なものでもないですよ」

汚れひとつない黄色い帽子を被ったその子は、笑っているつもりなのだろう。

明らかに強張っているのに。

「でも当時は、必死だったんでしょうね」

泣かないように。心配をかけないように。

断片的にしか蘇らない過去の中で、それだけは必死で考えていたのを思い出す。

まるでそんな私をねぎらうように、いたわるように撫で続ける指に零れるのは涙じゃなくて笑顔だ。

「撫でるなら実物にしてくれませんか?」

冗談混じりに出した台詞に、驚いた表情を見る。

「珍しいな」
「猫だって甘える時は甘えますよ」
「……可愛い。そんないじらしさどこで覚えた?」
「どこぞの犬の真似をしただけです」

優しく、ゆっくり撫でる手が気持ちいい。
閉じたくなる瞳は、抱き締める力に気付いて迷うことなく素直に閉じた。


まるで猫のように擦り寄る


(かわいすぎる。我慢できない)
(駄目です。我慢はしてください)
(さすが猫だ。気ままなのがいい)


[ 175/220 ]
[*prev] [next#]
[mokuji]
[しおりを挟む]
[back]
×