good boy | ナノ
階段の中央、座り込んだ体勢から見る光景は、住み慣れた家のはずであっても真新しい視点だ。

上から聞こえる会話に息を潜めながら、そんなことを思いつつ階段に刻まれた古い傷を見つめる。

ここに住んだ当初、存在していなかったたくさんの傷は、私達がここで暮らしたという証になるのかもしれないなんて、どことなく感傷的なものが過ぎったのは、

「俺は頭が良くないから、いっつも迷惑かけてる」

弟の心の奥底にあるものを、初めて聞いたからだ。

「だから迫害の標的にされていることも報告しなかったのか」

断定的な言葉で返すこの人は、どこからどこまでを正確に見抜いているんだろう。

「言えるわけねぇじゃん。ただでさえ仕事で忙しいってあんま連絡もないし…」

私には見えなかったもの。見ようと、しなかったもの。

「帰ってきても口うるせぇし、俺が中学で揉め事起こしてるなんて知ったら、多分すげー怒るし、そんで…またすげー迷惑かける…」

この子はこの子なりに考えていた。"姉"のことを。

「迷惑をかけるのは、姉弟なら当たり前だ」
「それが嫌なんだよ!」

叫び声のあと途切れた会話に乗り出そうとした身を止めたのは、おおよそ不釣り合いな嘲りだった。

「……今、笑っただろ!?」
「怒るな。馬鹿にしたわけじゃない」

何を言い出すのか私にも予測ができず、ただ耳を傾ける。

「やはりお前は名前に似ている。そう思い安心していた」

きっとその言葉は、あの子の心を解すのに充分すぎるもの。そう、沈黙が告げている。

私に似ているなら、嘘偽りなく真っ直ぐに向かってくるこの人に屈しないはずがない。

扉が開いたあと、

「…入れば?」

ぶっきらぼうながら招き入れる声に、これ以上はここにいるべきではないと判断して、そっと階段を下りる。

冨岡先生ならきっと、弟の全部を救ってくれる。私にそうしてくれたように。

そんな安心感を得ながら向かったリビング。さっき嘘を吐いてくれた通り、洗い物を済ませてしまおうとスポンジと洗剤を手に取った。

調理器具と3人分の食器を洗い終えるのに多少長い時間をかけたのは、思考を働かせ続けたかったからかも知れない。

これまでのこと、これからのこと、そして―…

ドタドタッ!

床が抜けそうなくらいに音を立てる人物はひとりしかいない。

また呆れから窄めた目は振り返るより早く、

「姉ちゃん!アイツと結婚なんか絶対しない方がいい!!」

さきほどとは打って変わって血の気が引いている表情に、また新たな火種が生まれたことを察知してしまい、能面になるしかなかった。


good boy


「…で、何を言って何を言われたんですか…?」

全く悪びれた様子のない目の前の顔と、横で不機嫌そうにそっぽを向く顔を見比べては溜め息を零す。

「名前をどうやって幸せにするのか。具体案を訊かれたためそれに答えただけだ」

その解答だけで、余り褒められた内容ではないというのは容易に汲み取れた。

「マジでこいつヤベェよ…」

この子がドン引きしてるくらいだから相当だ。

「冨岡先生」
「何だ?」
「あんまり弟に過激なことを教えないでいただけませんか?大人ぶってはいますけどまだ中学生になったばかりなんですから」

つい、いつものように苦言を呈してしまったけれど、

「はっ?大人ぶってなんかねぇし!」
「まだ子供だと侮らない方がいい。中学になれば生殖機能は十二分に発達している」

同時に返されて、どちらにどういう顔をすればいいのか全く思考がつかない。

「……冨岡先生」

ひとまずこの人はこれ以上喋らせてはいけない。絶対に。
かといってここで私が大きく反応するのも色々と拗れる原因になるので、目だけでそれを伝える。
不満げながらも黙り込んだことで、一応理解はしてもらえたのだろう。

「そういえば、どうするの?」

自然と話を別方向に誘導するため、主語を省いて問い掛ける。

「何が?」

不機嫌さを纏うものの、表情は純粋な疑問を向けてきていた。

「一緒にゲームしてた子達。二学期からまた会うんでしょ?」
「……まぁ?」

他人事のように煮え切らない態度に、付け加えたくなる小言は呑み込んで続ける。

「先生には私から報告しておくけど、様子を見てもらうしか今のところできないと思う。基本的に学校外で起きたことには関与したがる教師はいないから現状を打破するのは難しいし、先生に知られたとなるとさらに悪質な「わかってるようっせーな」」

これはまた失敗だった。
どうにも頭ごなしに言いくるめるのが癖になっている。

「どうにかするよ」

その台詞をいつも聞いているからか。
どうにかすると言って、正直どうにかした試しがない。こちらが何度助言しても聞かなかったことで悪い結果、例えば忘れ物をしただの、本当に些細なことだけど。

そんな些細なことでもできなかったのだから。

そう言いたくなる気持ちはぐっと呑み込む。

「…そうだね。わかった」

私がこんなにあっさり引き下がったのは、初めてかも知れない。
わかりやすく驚いている顔に、何とも言えない気持ちにはなった。

「もし、どうにかできなかったら相談して。いつでも、朝でも夜中でも待ってるから」

本当ならそうして、この子の気持ちを汲んで信じてあげるべきだった。ずっと前から。

"お姉ちゃんだから"なんて張り切り続けている幼いままの私を見抜いたからこそ、冨岡先生は弟の心の奥を聞かせてくれたんだ。

変化しない姉と、変化していく弟がこれ以上、擦れ違わないように。

「……。わかったよ。どうにかできなかったらな」

視線を合わせることなく言い放つ姿は、いつも通り生意気でしかないのに頬が弛んだ。

全てが上手くいったわけじゃない。
それでもこれからは、少し歩み寄れる気がしている。

「…時に訊きたいのだが」
「何ですか?」
「指輪はどこにやった?」

相変わらず脈絡もなく違う話題を振ってくるなこの人。

「指輪ですか?」

自然と見つめた左手に思い出す。

「あぁ、洗い物をする時に外しました。失くさないようにこっちに…」

ポケットに入れるのも心許ないと、拝借した小皿。それを取ろうと立ち上がったところで目を疑った。

「……え?」

──…ない。

「え!?」

とっさに床を這ったのは、落ちていないかを確認するためだけれど、それが無意味であるのはすぐに気が付いた。
器にしていた小皿は上にあるのだから、指輪だけが落下することなど到底考えられない。

もしかしたら弟が下りてきた時に、無意識のうちに回収した?

念のためポケットを確かめてみたけれど何も入ってない。

「ないのか?」
「……ない、です」

サァッと音が聞こえるくらい、血の気が引いていく。

どうしよう。今日買ったばかりなのに。というか買ってもらったのに。お揃いなのに。

まさか、失くすなんて―…。

いや、止まっている場合じゃない。どうにかして見つけ出す。ここにあるのは確実なんだから、見つからないはずがない。

ひとまず自分の行動を振り返って、触れたところ全てをくまなく見て回る。

「俺も探す」
「お願いします」

床は冨岡先生に任せて、念のため排水溝の中も確認してみよう。

「あの、さ」

後ろから聞こえた声に、耳だけを傾ける。

「あのさ、姉ちゃん」
「何?聞こえてる」

正直振り返ってる時間すら惜しい。早く見つけて安心を得たい。

だって―…。

「指輪、俺が持ってる」
「そうなの?わかった」

つい脊髄反射でした返事のあと、立ち上がる冨岡先生の動きで我に返った。

「…え?」

排水溝の蓋を持ったまま首を後ろに動かす。相当に引き攣った顔をしていると自覚はある。

「どっかに、落ちてた?」

そんなはずがないのは罰が悪そうな表情でわかる。わかっているけど、一応訊ねる。頭ごなしはいけない。
案の定首を振っているので、十中八九間違いない。

「ごめん。隠してた」
「……。なんで?」

頭ごなしはいけない。ひとまず蓋を閉じよう。この湧き出てくる怒りにも蓋を…

「姉ちゃんが、めちゃくちゃ大事そうにしてたから」

ブチッ。

どこかで何かが切れた音がしてる。

一気に溢れる言葉を捲し立てようと一度思い切り吸った息は、

「ただいま〜」

暢気な声で開けられた扉に遮られた。

* * *

「ふーん、そんなことがあったのねぇ」

事の一部始終を知ったというのに、帰ってきた時と同じくらい暢気な声で返してくる母から受け取った食器を拭きながら溜め息をひとつ。
同時に落とした視線は、左手に光る指輪を捉えて少し冷静に考えた。

「もしかして、わざと私達だけにした?」
「はい、早く拭いて頂戴」

遠慮なく渡される大皿に眉を寄せはしても、抗議はせずそれを受け取る。

「お母さんじゃないの。気付いたのはお父さん」

忍び声でそう言われ、背後の気配を自然と探った。

テーブルを挟んで斜め向かいに座っている父と冨岡先生は、食後のお茶片手に細々と話をしている。
その会話の内容といったら、これでもかというくらいチグハグでぎこちない。

「義勇、くんはそっかぁ。お姉さんがいるんだね」
「はい」
「へぇ、そっかぁ」
「他に訊きたいことがあればどうぞ」
「あ、えっとー…。どうかなぁ?お母さん、何かあるかな?」

主に父親が。

方や冨岡先生は堂々たる振る舞いだ。

予期せぬ形での顔合わせとなったというのに、この人は動揺するどころか待ってましたと言わんばかりに完璧に挨拶をこなしてみせた。きちんと敬語を駆使して。
それを見ていた弟が「こいつ猫被ってんぞ!」なんて言うものだから、笑いを堪えるのに必死だったのを思い出す。

その弟は今、お風呂に入っているので今この場はとても静かで、私もその間にこれまでの経緯を報告することができた。

「えぇ?いきなり言われても考えてないよ〜?」

そう言いながらも考えるように天井を見つめると、
「あ、じゃあ」
と、前置きして水を止める。

「名前のどこが好「全部です」」

思い切り食い気味で答えたな、この人。

「全部、かぁ」

父親はわかりやすく圧倒されてる。
でもその反応も当たり前か。冨岡先生に耐性がない場合はこうなっておかしくない。

「ここはちょっとなぁ…みたいなところはないの?例えば口が達者で頑固なところとか可愛げがないところとか」

何だろう。母親にここぞとばかりにチクチク刺されている気がする。事実なので反論しようもないけど、若干耳も心も痛い。

「口が達者なのはそれだけ知識と教養があるということで、頑固とは言い換えれば自分を持っている。そういうところも可愛いと認識しています」

相変わらずブレないんだけど、親の前でこうもハッキリと言われるのは気まずいというか気恥ずかしいものがある。

「だから全てなのかぁ」
「そうです」

良くわからないけれど、父親が納得している様子は同性ならでは何かがあるのかも知れない。

「名前は?義勇くんのどこが好きなの?」

期待に満ちた目を向けられて、うっと喉を詰まらせた。
これはもしかしなくても答えなきゃいけないのか。
そんないきなり訊ねられてもどこが好きなんて―…

「……。犬っぽいところ」

すぐに思い付いたそれを口にすれば、両親の困惑した顔が見える。

「名前って犬好きだったか?」
「さあ?そこまでじゃなかった気がするけど…」
「本当は昔から飼いたかったとか…」
「え?そうなの?」

薄々気が付いてはいたけれど、どうして私が冨岡先生にある程度耐性がつくのが早かったのか、今はっきりわかった気がする。

この2人もどこかしら常人とズレているからだ。そのお陰で話を逸らすこともできたけど。

布巾を掛けてから時間を確認する。そろそろ帰らないと。

そう思ったと同じタイミングで、お風呂から戻ってきた弟と目が合う。

「何だ、まだいたのかよ」

その悪態がとっさに出たものだというのが何となくわかったので、目くじらは立てないでおく。

「もう帰るよ」
「え!?帰るの?」

驚いたのは弟じゃない。隣でエプロンを取る母親だ。

「…え?」
「え?だってご飯も食べたし、泊まっていくのかと思って」
「…いや、それはないでしょ…」
初対面でいきなり泊まるなんてさすがの冨岡先生も

「俺は構わない」

まさかの即答だった。

「じゃあ泊まっていって」
「そうします」
「ちょっと冨岡先生、着替えも何も持ってきてないんですけど」
「そう言うと思ってね〜」

嬉々としだす母親に嫌な予感がする。

「さっきお父さんと一緒に買ってきたの」

ビニール袋から取り出すのはスウェットと男性ものの下着だ。

「サイズがわからないからとりあえずМとL買ってきたんだけど、どう?義勇くん入る?」
「大丈夫です」
「いや、心配するとこそこじゃないんだけど…」
「想像していたより義勇くん背が高かったからLLも買ってくればよかったかなぁ」
「お父さんもそこじゃなくない?」

色々突っ込み所が満載なのに全く追い付かない。
冷蔵庫から麦茶を取り出す弟へダメ元で助けを求める視線を送ってみても、諦めれば?と冷たい表情が告げている。

「じゃあお風呂入ってらっしゃい」
「ありがとうございます」
「名前、タオルとかの場所教えてあげて」
「…え?あ、うん」

つい返事をしたせいで、その流れに乗るしかなくなったことに溜め息が出た。


すごく普通に馴染んでる



(タオルはここで、シャンプーとかは好きに使ってください)
(一緒に入らないのか?)
(……入るわけないじゃないですか)


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