いくらなんでも"遥か歳下"に牙を剥き出しにするような、そこまで躾のなっていない犬ではないし、飼い主に対する侮辱になるような真似はしない。 とか何とか、すごく冷静に言いながら、彼の涙が止まったのを見計らって引き剥がしに来た冨岡先生はやっぱり冨岡先生だった。 だけど、 「話なら俺も訊く」 そう言って椅子に座る横顔は優しいもので、彼もそれを感じたらしい。 ポツポツと話した内容は私が推測していたより、遥かに根が深いものだった。 簡潔に言えば、離婚原因は母親の浮気。 「お父さん、仕事で帰ってこないから…、他に好きな人ができたってお母さん言ってた」 しかし、結局その"好きな人"には離婚したと同時に別れを告げられ、この島に帰るという選択をしたという。 涙ながらに説明する彼は、どれだけその目で見たくないものを見てきたのだろうか。 冨岡先生と私の関係を周りが囃し立てた時、逃げ出したくなった気持ちを、初めてちゃんと理解できた。 戻ってきた子供達によって話は途中で終わってしまったけれど、これだけはわかる。 「これは私達がどうこうできる問題ではありません」 言い切った私の左横からすぐに 「そうだろうな」 抑揚のない声が聞こえた。 考えるために落としかけた視線は運転中のため、前に固定する。 たった数日で解決できるような、そんな簡単なものではない。できるとしたら付け焼刃の気休めだけだ。 それがわかっているから頭を抱えたくなる。 校長はこの家庭環境をどう見ているのか。 学校側が把握しているのと把握していないのじゃ今後が大きく左右される。 けれど私から報告するのは、また彼を大きく傷付けることになるかも知れない。 そうなった時、この場所から去る身では責任が持てなければ対処も出来ない。 だから、どうこうできる問題じゃない。そう判断される。 取れる行動と言えば連絡先を教えるくらいだけど、中高生と違いスマホを持たないあの子にとって連絡を取り合うこと自体が難しい。 どうにかあと2日で後任を頼める人間を探すか。となると一番可能性の高いのはやはり校長くらいしか思い浮かばない。 「海に寄っていかないのか?」 冨岡先生の言葉でハッと我に返る。 「そうでしたね」 危ない。このまま宿に戻るつもりでいた。 少し考えるのをやめよう。 今は横にいるこの人を大事にしたい。 そう決めて、海までの道を走らせた。 good boy 太陽が傾きかけているというのに、まだ暑さは照り付けていて車のエンジンを切るのが憚れる。 「日暮れまでにはまだ時間がありますし、ひとまずこのまま待ちましょうか」 「わかった」 全開にしていたクーラーを少しだけ弱めて、フロントガラス越しに海を眺めた。 「今更なんですけど」 「何だ?」 「綺麗ですよね。海」 白い砂浜と太陽に照らされる青は、時間も忘れて見入っていられる。 「名前の方が綺麗だ」 同じ青でもその瞳は一瞥だけで留めた。 「…それはどうも…。ありがとうございます」 100%本気で言うから反応しづらいんだよな。 否定したところで、また遥か斜め上に突き進んでいくから納得してなくても受け入れなくちゃいけない。 突然、脳裏に過ぎるのは泣きじゃくった顔。 受け入れなくちゃいけない…。あの子も、まさに今そうなんだろうな。 これから、どうすべきなのか。 母親と面談?いや、そうすると更に深刻な事態に陥る気がする。 たった数日派遣された教師が突っ込んでいくことに、何のメリットもない。 下手すれば他人に余計なことをバラしたと、あの子が母親に逆上される可能性も否定できない。 「……雲が出てきた」 冨岡先生の呟きに、ボーッと眺めていた海へ改めて視線を向けた。 確かにどこまでも続いていきそうな水平線を覆うように、雲がかかっている。 それは昨日とまったく同じ現象だ。 「この分だと、今日も難しそうですね…」 「だろうな」 さぞかし落ち込んでいるかと思えば、随分冷静に返されたのに少しばかり驚いて、横を見てみる。 表情から察しても、あまり感情は動いていないようだ。 「また、明日来てみましょう」 実質それがラストチャンスになる。 明後日の夕方には、私達はすでにこの地から遠く離れた空を飛んでいるからだ。 「わかった」 大人しく返事をする冨岡先生も、それはわかっているだろう。 徐々に落ちていく太陽が、完全に雲に隠れたのをただ見つめる。 日没までのあと数分で、それが綺麗に晴れることは奇跡でもない限り無理だ。 本当ならここで車を走らせてしまってもいいんだろうけれど、何となくそのまま雲を見つめ続ける。 一度も姿を現さないまま、海へと消えた太陽に小さく息を吐いた。 「……。何だか、ちっぽけですね。人間って」 思ったままを口にすれば、群青色がこちらを捉える。 続きを待っているのだと判断して、言葉を出した。 「どうにもできないことが、多すぎます」 すべてを見てきたわけじゃないけれど、世界は広いと思う。 きっと私が抱える悩みや迷いなんて、それこそ誰かからしてみれば、くだらないものなのかも知れない。 だけど、こうも上手くいかないことばかりだと、溜め息混じりにもなる。 「お前のせいじゃない」 「……。そうですね。言うだろうなって思いました」 だから多分、口にしたんだ。この人は絶対に、私を責めたりしないから。 気が付いた瞬間、自嘲にも似た笑いが零れた。 どうにも海を見ていると、感傷的になってしまうらしい。 「帰りましょうか」 「帰るのか?」 「まだいたいんですか?」 「このまま暗闇を待つのかと思った」 「いえ、待つ予定は、ないです…けど?」 たじろいでしまうのは随分と確定的に言うものだから、何か約束したっけ?という記憶の曖昧さからくる自信のなさだ。 「待たなくていいのか。わかった」 納得するとシートベルトを外す動きに、疑問符しか浮かばない。 身体を乗り出してきたと思えば、その瞬間、一気に倒れる背もたれがガタッ!と音を立てた。 「何っしてるんですか!?」 「押し倒している」 「だからっこういう時に状況の説明はっ」 言い終わる前に首を擽っていく髪と口唇に眉を寄せる。 「…狭いな」 ボソッと聞こえた声に反論するより早く、今度はシートが後ろへスライドしていく。 「ちょっと!冨岡先生!?」 「何だ?」 「どこで覚えたんですかそんな技!」 この状況で第一にそれを訊くのも違う気がするけれど、あまりにも正確に操作された座席に、疑問を持たざるを得ない。 「昨日、車を借りた直後だ。名前が位置を直してるのを見て覚えた」 「そんな一瞬のヒントで良くここまで…」 「偉いか?」 「いや、偉くはないです」 冷静に返したのがいけなかったのか。今度は耳に噛み付いてくる牙に身が震えた。 「ちょっとっ駄目ですって!痛くないんですか?ハンドル当たってません!?」 「許容範囲だ」 どうにか抜け出そうにもこの狭い空間では寝返りすら打てない。 「駄目ですよ!ホントに駄目です!しませんからね!?」 できうる限りの抵抗をしてみた。ここ一番の本気で。 じゃないと本当にここで最後までしかねない。それくらいに力が強い。 スッと引いた顔を見上げた時には、 「俺はシたい」 これまた真剣な群青色に見つめられて、咄嗟に息を呑んでしまった。 しかしこちらも譲れないのは理解してもらわないとならない。 「駄目、です。本当に」 「闇夜に紛れてもか?」 「駄目です」 「ならいつお前を抱ける?」 「……。それは」 言い淀んでしまった瞬間、塞がれる口に後悔した。 「んっ!んん!」 絡まる舌に噛み付こうにも、上手く避けてはこちらが弱い上顎を攻めてくるから、早くも力が抜けそうになっていく。 マズイ。このまま流されるのは危険すぎる。 振り絞った力で辛うじて逸らせた顔で口唇は離れたけれど、目端で見た眉を下げた表情にはどうにも平常心でいられなくなった。 「折衷案を出しましょう!」 これ以上事が進む前に、そう提案する。 でないと本当にこのまま受け入れてしまいそうだ。 「後ろに移動するのか?確かにその方がまだ広い」 「そういうことではないです」 駄目だ、この人。遂行することしか脳内にない。 「大変申し訳ないですが、状況的にこの地にいる間は無理です。できません。なので冨岡先生の負担を減らすといった意味でも部屋を本来通り、別にしましょう。それが私の案です。その代わり」 「嫌だ。それならこのまま抱く選択をする」 「人の話は最後まで聞いてくれませんか…?その代わり、帰ったあと冨岡先生の望みを聞きます。その折衷案でどうでしょうか?」 少しだけ力と圧が弱まった気がする。 「制限はないのか?」 「あまり常識を逸脱しているものは無理ですが、努力はします」 「上に乗るというのはどうだ?」 沈黙を作ってしまったけれど、正直くるとは思っていた。 この状態ではそれくらい破壊力があるものでないと抜け出せないだろうな、とも。 「わかりました。要求を呑みましょう」 驚いた瞳も一瞬にして冷静なものになるのは、何というかこれが冨岡先生の強味なんだろうな。 「わかった。今この場は離れよう」 「……いいんですか?口約束だけで」 「名前を信じている。追加だが、上に乗る際には俺が提示した下着も着用してもらいたい」 すぐに約束を反故にされないための予防線を張りつつ、今どれだけ私が折れるかを試してるんだろう。 「下着は…ものによります」 「黒色の下着だ」 その言葉に少し考えてから、あぁ、ガーターベルトと合わせて買ったやつか、と存在を思い出す。 あれならまだマシだとは、思う。いわゆる悪女下着とか、透けた暖簾に比べればの話だけども。 多分私がそう考えるのを見越してのチョイスなんだろうな。 「努力は……、してみます」 どうにも煮え切らない返答になってしまったが、触れるだけのキスをした後で、 「楽しみにしてる」 そう言った冨岡先生は嬉々としている。 機嫌が良くなったのはいいけれど帰ったあとが怖いなと思うと、何とも言い難い気持ちにはなった。 でもまぁ、まだ、執行は早くても明後日なわけだし猶予はある、と気持ちを切り替えようとしたのも束の間。 「今日は浴衣姿の名前を愛でるだけで我慢しよう」 明らかに不穏な台詞に警戒心が沸き上がった。 「愛でるってなんですか。さっきの話聞いてました?」 「言葉の通りだ。眺めるだけで触れたりはしない」 「それならいいですけど…」 「触れない代わりに脳内でお前を抱くことにする。自慰なら許されるだろう?」 「どうしてそういう考えに至るんですか…。それは私が見えないところでお願いします」 「何故だ?見たくないのか?」 「見たくないですよそんなの」 「俺は名前が一人でシてるところも見たい」 「見せませんよそんなの」 「上に乗る前に一人でシてくれないか?最高に興奮する」 「絶対嫌です。ホントにそれだけは絶対無理です」 「想像したら勃ってきた」 「ちょっと!押し付けてこないでくれません!?」 逃げようにも逃げられない状況をいいことに好き勝手されてる気がする。 「帰ったら黒い下着で自慰したあと、俺の上に乗る名前を見られるのか。最高だ」 「勝手に項目追加するのもやめてください!」 こちらは必死だというのに、見下ろしてくる群青色の瞳が楽し気な意味を優しく纏う沈黙が運んで、知った気がする。 またこの人は、私が私でいられるように、空気をそうやって壊してくれたのだと。 足に当たるそれほど硬くなっていない感触が、それを物語っている。 どうしてだろうか。 その瞳を見ていると、おおよそ不可能なことまで実現できるのではないかなんて、そんな風に思ってしまう。 私ひとりではちっぽけで無力だけど、まだどこかに道はあるんじゃないかと、模索したくなる。 「冨岡先生」 「何だ?」 「もう少し、頑張ってみます」 何を?と訊かれても、正直この場では答えられない。 だけどこのまま諦めて、この地を去る選択をしたくない。それだけは強く思った。 ふ、と小さく息を吐いて微笑った顔が安堵しているように見えて、あぁ、好きだなって素直に感じる。 「自慰行為をか。期待してる」 結局ぶっ壊していくんだけど (しないって言いませんでした?) (その気になったらわからないだろう?) (なりませんってば!ちょっと押し付けてこないで!義勇!待て!) [ 166/220 ] [*prev] [next#] [mokuji] [しおりを挟む] [back] ← ×
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