good boy | ナノ
どうにも最近、冨岡先生の思想が読みづらい。
そう思う。

いや、元々すべては察知できていなかったし、余りにも暴走が酷い時なんかはどこの方角へぶっ飛んでいくのかも読めない。
でも、今までの思想は、一貫して筋が通っていた。
だから何となく、予測と理解ができていたように思う。

でも最近、"何故そうしたのか"。
それがわからない時が増えたような気がするのは、キャットウォークから落ちてからかも知れない。
記憶を取り戻したとはいえ、たまに猫である冨岡先生の片鱗が顔を出す時がある。

言うなれば、常識的な行動。
だからそれに驚く事もなきにしもあらずだけど、最終的に納得はできていた。

強調するけれど、常識的だから。

だけど今は、まったくその意図も思考も、まるで雲を掴むかのように捉える事ができない。

正直こんなにも、この人が理解不能だと思ったのは、初めてかも知れない。


「さぁ、じゃあ次はー…、これ読んで欲しい人ー!」

一冊の本を掲げた瞬間、元気な返事と共にほぼ全員の手も一緒に上がるのを横目に、同じように眺めている群青色を窺った。
わざわざ時間を作ってまで読書会に顔を出す必要性は、考えてみてもあまりないと言える。
強いて言うなら、日常の様子がわかる。そのくらいだ。
こうして廊下から窺うだけで参加するでもないのに、何をそんなに真面目に観察しているのか。

読みづらい。というか読めない。
根底からくるであろう行動が、今までと真逆だからだ。

少なくとも今、無邪気に本を読み聞かせている彼に対しては、敵対や張り合いといった意思がないのは間違いない。
それが何故か。考えると色んな要素が組み合わさっていて、一概にこれだというはっきりとした要因はない、と思う。
敵対しなくていいほどに、今の冨岡先生は犬としても恋人としても満たされている。そう言っても過言ではない。

でも、どうしてあの時、私達の関係性を伝えようとしたのを敢えて止めたのか。

それだけが、どうしても解せない。

隠しておきたい。そんな事を思うような人ではないのは言わずもがなで、寧ろそれを周知されるのを喜んでさえいた。
どういった心境の変化なのかと―…

「気になって仕方がない、という顔だな」

群青色に真っ直ぐ捉えられてドキッとしたものの、間髪入れずに返答した。

「そうですね。今までの冨岡先生らしいからしくないかと言えばらしくないので」

そうやって盛り上がる光景へ視線を戻すのも、おおよそらしくない。

「惚れた相手にハッキリと拒絶されるのは心に傷が付く。そう言われたのを思い出した」
相変わらず涼しい横顔に、いつだか階段にしゃがみこんだ時の記憶が蘇った。
「あの男はお前に好意を持ってはいるが、それ以上を望んでいない」
「…まぁ、そうですね…」
「それならわざわざ地の底に落とす必要はないだろう。手のかかる飼い犬に手一杯で人間に興味を持たないと思わせておけばいい」
「……。まさかその、手のかかる飼い犬にそんな提案をされる日がくるとは思いませんでした」
咄嗟に答えてしまったけど、確かにそうかも知れない。というか、そうだ。

恋人という存在を護るために、何も望まない純粋な人間を、わざわざ傷付ける。

そうする事で起こり得る影響、感情を、既に冨岡先生は見抜いていた。
私自身でさえ気付いていなかった、心に深く沈んでいく何か。
昨日、無性にその寝顔に縋りつきたくなったのは、無意識にそれを払拭したかったからだと、今、気付かされた気がしている。

「…でも、遅かれ早かれ事実は耳にすると思いますが…」

可能性を示唆してから、それでも直接告げられるよりかは伝い聞きの方がまだダメージも少ないという配慮もあるか、と思い直したのも束の間、
「恐らくそれはない」
断言する群青色の瞳は生徒達を見つめているけれど、強い確信を宿していた。
「言い切る根拠は?」
「昨夜、俺とお前が恋人同士という事は公にしていない。そのため、ここの教師らは俺が名前に一方的な好意を持っていると錯覚しているだろう。事実を知っているのは校長だけだ。あの俯瞰力の強い人間が、あの男の気持ちに気付かないというのは到底有り得ない」
ほぼ一息で言い終えた内容を整理するため、一度間を空けて、
確かに。
その一言がすぐに出た。
キメツ学園から来たと自己紹介はしたけれど、個人間の話題に触れる前に地元酒の回し呑みという風習が始まったため、ロクに会話はなかった。
何の前情報も持たない第三者の視点から見れば、酒を呑ませられそうになっている同僚を庇い、結果酔い潰れた、というのが自然だ。

それを前提として、冨岡先生が言いたいのはこうだろう。

わざわざその解釈違いを校長が訂正する必要もない。
それどころか、相対して数時間足らずで冨岡先生の特性を見抜き、味方につけた人物が、そう簡単に他人を傷付けるような事を例え口が滑っても言わないであろう、と。
それは単純な信用や信頼という感情ではなく、揺るぎようのない事実だ。

だから、このまま周りに隠しておけば今の無邪気な笑顔は曇らない。
少なくとも、私達がここから去るまでは。

天秤にかけるわけではないけれど、正反対と言えなくもない2人の表情を見比べてから

「いいんですか?冨岡先生はそれで」

そう訊ねた。

「構わない」

間髪入れず返ってきた返事と瞳は真剣なもの。

「わかりました。では、こちらからその類の発言はしません。訊ねられた場合の対処はどのようにすればよろしいですか?」
「訊かれた時は隠し立てする必要はないだろう。あくまでこちら側からの発信はしないという事だ。そこまであの男に義理立てする必要はない」
「そうですね」
あぁ、そこはブレないんだ。つい上げてしまいそうになった口元を隠そうと俯いた顔に
「怒ってるのか…?」
ほんの少しシュンとした声がして、すぐに上げた。
「いえ、飼い犬の成長に驚き、そして喜んでいます」
この提案の根本が私のためだとあったとしても、他人を慮るこの人を見るのは嫌いじゃない。
というか、好きだとはっきり言える。
こういう時に思うけれど、本当にこの人が他を顧みない性質だったら、こんな風に隣に立つ事はなかっただろう。
自己犠牲の強さは困り物だけど、こうやって誰かを思いやる心を自然と持てるところが、好きなところのひとつだと言える。
心の中といえども、素直に認めてしまったせいか

「…少し、寂しい気もしますけどね」

出すつもりのなかった言葉が口を突いた。
途端に見開かれる目にすぐに後悔する。

「前言は撤回だ。やはり当初の予定通り夫婦になるという宣告をしよう。この島中に余すことなく轟かせたい」
うきうきしながら教室に乗り込もうとするジャージを掴んで
「当初の予定も何もそんな宣告する予定はないですよ。安易な作戦変更は残り3日の戦果に関わりますから大人しくしててください」
早口でそう言えば、漸く黙った背中に溜め息を吐いた。


good boy


優先させるのは、誰が惚れた腫れただの、そんな話じゃない。
たった9年しか生きていない小さな身体が抱える悲哀や苦悩を、どう取り除くかだ。
まったく同じではなくても似通った感情を経験をしているから、余計に強く思ってしまう。
自覚しているので、ここでもう1回、心に刻み直す。

人間は推し量れない。
他人にできることなんて、微々たるものだ、と。

だけど辛うじてでも通じ合える何かは、きっとある。
今はそれを探し出そう。

「今は4桁同士の筆算を習ってるんですね」

先ほど借りた"新しい算数"と書かれた冊子を覗き込んでそう言えば、こくっと小さく頭が動いた。
必要最低限の声しか発されないけれど、意思疎通をする気はあると判断して続ける。
何となく前の冨岡先生みたいだと、そんな事がふと頭を過ぎったのは、ピーッ!という聞き慣れた高音を耳に入れたからかも知れない。

楽しそうに響くはしゃぎ声へ向けようとした視線は、俯きがちに机へ向かう小さな彼に固定する。

体育教師という利点を最大限に生かした冨岡先生の特別授業。
昨日のジェラートという飴で味を占めたのか、今日もそれを受けたいと所望した生徒達の中、唯一ノーを唱えたのは彼だけだった。

「遅れてる授業を進めたい…」

物怖じしながらも、ハッキリと出した希望を一蹴するわけにもいかず、今日はこうして彼1人だけ算数の科目を受けさせると決めたはいいが、小学生に授業をした事なんてないので、幾分かの戸惑いはある。
教員用の教材に要所要所については赤文字で記されているから、これに沿っていけば間違いはないのだろうけれど。

「0〜9のカードを使って、答えが9000になるたし算の式をつくりましょう」

読んでみてから、これはまた難しい問題だと思い知る。特に教えるのが。
「それ、昨日家でやってきた」
「自習したんですか?すごいですね」
おもむろに開かれたノートには3つの計算式が並んでいて、さらに驚いた。
この子はなかなかに勉強熱心だ。
「丸つけてください」
「わかりました」
赤鉛筆を片手に机の前に屈もうとして、一度足を止める。
目についた椅子をひとつ拝借して、彼の横に置いた。
「隣、いいですか?こちらの方が見やすいので」
「…あ、はい」
緊張から伸びる背筋は見なかった事にして、腰をかけると手を動かす。
「3つとも合ってます。よくできましたね。式を考えるのは答えを導き出すより難しいでしょう?」
「…そう、かな。僕はこっちのほうが簡単だと思う。答えたくさんあるから、どれにしようかなって考えられます」
「なるほど。その考え方は素敵ですね」
狙ったわけではないが、今の言葉は彼の心のどこかに刺さったらしい。
嬉しそうに上げた顔からは、隠しきれない笑顔が滲み出ている。
「これもっ、やってきたの!」
教科書を捲り指で示した先には、1ページ分の"学習のしあげ たしかめよう"と題された問題。
いそいそとノートを差し出す両手は期待で満ちていて、この子は別に他人に心を閉ざしたいわけではないのだと知った。
では、なぜこんなに拗れてしまったのか。
考える間にも、止まることなく増える丸は感嘆の一言に尽きる。
「これまでの復習とはいえ、全部正解なのはすごいです。頑張ったんですね」
「勉強がんばったらゲーム買ってもらえるから」
これは少し、踏み込んでみるべきなのかも知れない。即座にそう考えた。
「目標を掲げるのも励みになりますし良いことです。どなたかと約束したんですか?」
「お父さん!そしたらいつでもお父さんとも友達とも話せるからって!」
パッと輝いた表情は、私と目が合った瞬間に翳を落としていく。
沈黙が落ちたからか、校庭から響く子供達の声が妙に大きく聞こえた。

「この島に」

一度言葉を区切ったのは、自分でもこれが合っているかなんてわからない、その自信のなさからくるもの。
だけど相手の望む言葉を探すより、私は私の言葉で伝えたい。

「この島に来た理由は、校長先生からお聞きしました」

無意識に落とした視線の先には、何度も書いては消して、やっと辿り着いたであろう計算式。
それだけの事なのに、彼は彼なりにこの状況を何とか打破しようとしている。そんな気がした。

「困っていることはありませんか?」

だから思ったそのままが出たのだと、どこか俯瞰的に見ている。

それこそ有り余るだろう。
何を困っているのか。何が辛いのか。それすらもわからないくらいに。
私が彼の立場に置かれたと想定しても、正直耐えられる気がしない。

「この島の人間じゃないからこそ、話せることもあるのではないかと思いまして」

私は、ずっと一緒にはいられない。だから無責任なことは口が裂けても言えない。
頑張れとか、いつかとか、目の前に希望をぶら下げるのは簡単で、まだ幼いこの子は一字一句を盲目的に信じるだろう。
だけど、どこかで知る。
頑張っても報われることなど人生においてあまりに少なく、いつかという未来は、ただの
幻想にしか過ぎないことに。
それはもう、揺るがない真理のようなものだと思う。

どうせ絶望をするのなら―…

「つらいことをつらいと、口にするのは恥ずかしいことではない。むしろ認めてあげることが大事だと、私はそう思います」

頑張れ、なんて安易に言えないくらいに、この子はもうきっと頑張っている。
ずっとそうやって俯いて、耐えて、頑張ったら何かが変わるのだと、必死に言い聞かせて。
それでも現実が変わらないのは、努力が足りないのだと、いつしか自分を責めるのが癖になってしまう前に、どうか

「頑張ることはとても素敵だけど、無理して頑張り続ける必要は、どこにもないんですよ」

掌で触れたその頭が小さいと感じたのは、完全に飼い犬と比べてしまったからなんだけど、儚げに感じたのは、一生懸命我慢しているはずの涙がポロポロと膝に染みを作っていくからかも知れない。

「…帰り、たいよぉ…」

絞り出された言葉は、悲痛なもの。
その一言に、どれほどの感情の重みが込められているのか。
想像しただけで、心臓を鷲掴みにされるような痛みがした。

あぁ、私も、そんな風に思ったことがあったっけ。

幸せだった過去に戻りたい。
父と母が微笑う、穏やかで優しい場所に帰りたい。

でもそれがもう、無理な願いだというのも理解をしているから、大人を困らせていけないと口を噤み続けるんだ。

嗚咽すらも我慢しようとする小さな身体に、かけられる言葉なんてもう何もなくて、ただ頭を撫でる。
勢いで抱き着いてくる両手は、まるで縋りつくものを必死で探しているようで、できるだけ優しく抱き返した。

こういう時に限って、鼻が利くというのか。

ガラッ。

迷いなく引かれた教室の扉の先には見慣れたジャージ姿で、あぁこれはちょっとじゃなくだいぶマズイな、と引き攣った顔で考えてしまった。


何でってとてつもなく顔が怖い


(…お疲れ様です)
(…遥か歳下の教え子と禁断の関係か)
(ちょっとやめてもらえませんか?その悪意しかない言い方)


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