good boy | ナノ
湯船に浸かることは心身ともにリラックスさせる。そんな情報をどこかで見たような聞いたような、そんな記憶がある。
暑い時季だからこそお風呂に入るのが効果的、というのは、夏休み前に配られた保健だよりに書いてあった。

「ふー……」

無意識に吐いた大きめな息は、それだけ張っていた気が弛んだ証拠、ということにしておく。
いつだったか冨岡先生が湯船を溜めてくれた時も、やっぱお風呂にゆっくり入るということは大事だな、と考えたのを思い出す。
だからといって毎日継続するのは、物理的に難しいけれど。挑戦したとしても3日も持たずシャワー生活に戻りそうだ。

だから、今この時はこの気持ちよさを存分に堪能しておく。

こんなにゆっくり温泉に入るなんて、それこそこれから先あるかどうかわからないから。

私以外誰もいないのをいいことに、思い切り足と手を伸ばしてみた。

「ん〜っ、はぁっ」

ついでなので普段は出さないような声も一緒に出してみたら、思いのほかスッキリした。

敢えて何も考えないようにして、今はこの癒しの時間だけを堪能としようと意味もなく天井を見つめてみる。

小学3年だった私は、どんなことを考え、どんなことを望んでいたっけ?

無意識に湧いた考察に、もう一度息を吐いてから、目を閉じた。


good boy


大浴場を出て、真っ直ぐに部屋へと向かいながら、着慣れない浴衣がどうにも心許なく感じて、襟元を直す。
一緒に大浴場へ向かった冨岡先生は、先に戻ってきてるかも知れない。そう思うと、扉を開ける手が少し緊張した。
浴衣がどうのと暴走されるのは勿論のことだけど、朝ちょっとしか見られなかったあの姿は、なかなかに心が揺さぶられるものがあったからだ。
だけどその気持ちも、誰もいない部屋を視界に入れて、急速に収まっていく。

まだ、戻ってきていないらしい。

一瞬、隣の部屋かも知れないという可能性も浮かんだけれど、部屋を別にするという提案だけはあのあと頑なに拒否され、最終的に差し戻しということになったので、それはないとひとまず座椅子に腰を下ろした。

ふと目端で捉えた脱ぎ捨てられた夏用ジャージの上を、手に取ってみる。
丁寧に畳んでいく間にも、抜けていく香りに鼻を動かした。

安心、する。

素直にそう感じる。

これは下手したら、湯船に浸かるよりも絶大な癒し効果をもたらすかも知れない。

急激に襲ってくる眠気にどうにか抗おうとしてみたものの、どうにも勝てそうにない。
少しだけ、ウトウトしたい。
きっと冨岡先生が帰ってきたら起こしてくれるだろう。
そんな甘えたことを考えつつ、畳の上に横たわる。その先の記憶はない。


ただ、夢を見た。

それがはっきり夢だとわかったのは、まるで触発されたように思い出した過去の記憶に、いるはずのない冨岡先生がいたからだ。

それ以上詳しいことは何も覚えていないのに、握る手の温かさだけは目を覚ました今も、鮮明に覚えている。

「……、あれ?」

入った覚えのない、それどころか敷いた記憶もない布団に、一瞬思考が止まった。

「起きたか」
備え付けの冷蔵庫を開けている姿に、あぁ、この人が運んでくれたのか、と納得する。
「……。どれくらい、寝てました?」
スッキリしない頭を押さえながら起き上がれば、傍らにジャージが置かれているのにも気付く。
「俺が戻ってきてからまだ20分も経ってない」
「そうですか…。すみません、運んでもらったみたいで」
「構わない。完全に無防備になった名前を見るのは楽しい。しかも浴衣姿となれば尚更だ」
「……そうですか」
寝起きのせいで働かない頭では、どうもそれしか返せない。
「着物と違い浴衣は肌蹴させやすくていい」
「寝てる間に何したんですか…」
「何もしてない。襟と裾を捲っただけだ」
「してるじゃないですか」
「触っていなければセーフだ」
何というかもう、これ以上の言葉の応酬は無駄な気がする。
この人の前で眠った私が悪かった。そういうことにしとこう。
一応溜め息だけは吐いてから、抜け出そうとする前に差し出されたペットボトルに上げた顔が止まった。

「水、飲むか?」

そういえばお風呂から上がって水分を取るのを忘れてた。
あまり多くの言葉が出てこなかったのは、喉が渇いていたのも原因のひとつかも知れない。

「ありがとうございます」

受け取ろうとした手は宙を掴んでいて、気が付いた時にはそれをゴクゴクと飲む喉を見つめていた。
何をしてるんだろうか。
眉を顰めるより早く掴まれた手には、今更嫌な予感がしている。
「っ!」
逃げる暇もなく塞がれた口から、先ほど冨岡先生が飲んだはずの液体が流れ込んできて身を震わせた。
「んんっ」
どうにか避けようにも、拘束された肩と腰に諦めが勝る。
大人しく飲み込んだあとで離れた口唇が笑っていた。
「…なにっするんですか…」
恨めしく睨んでみても、楽しそうな瞳に見つめ返されるだけでこれといった効果はない。
「水を飲ませた」
「だから…」
「まだ少し声が枯れてるな」
「ちょっ、と!」
制止する間もなくやってきた第二派は、喉が動いて尚、絡み付いて離れない舌に息が上がっていく。
「……っは」
これ以上は無理だと押し返した胸板に、ゆっくり離される口唇は先ほどより楽しそうだ。
「…っぁ、駄目っ」
首へ這う舌を遮るために頭を押し返しても、それほど意味がないのはわかってる。
「マーキングするだけだ。それ以上のことはしない」
「ホント、ですか…?っ」
どうにも疑ってかかってしまうけれど、
「本当だ。さっきの条件は俺にとって眉唾と言えるほど魅力的なものだからな」
言い切った強さは本物だ。
じゃあ、このまま飼い犬が満足するまで待つしかないか、と吐きそうになった溜め息は襟を下げていく指で止まる。
「ちょっ冨岡先生!」
「慌てなくていい。目立たないところに付けるだけだ」
「言ってることは尤もらしいんですけど、ちょっとそれ以上は寛容できません」
下着の上からといえど、明らかに胸を揉みしだいている左手はどういうことなのか。
ついでに言うと右手は右手で腰辺りをさわさわしていて、どう考えても帯を解こうとしているとしか思えない手つきだ。
「あまり暴れると更にいやらしい恰好になるぞ。やめてくれ。我慢が効かなくなる」
「そう思うのなら離していただけませんか?」
「まだマーキングが終わっていない」
「ちょっとっホントに!」

掴もうとした右手は逆に掴まれて、そのポカポカとした温かさは、それこそ温泉という名の効能なのだろう。
そのおかげかどうかはわからないけれど、さっきまで曖昧だったままの夢を唐突に思い出した。

両親が離婚した時の私は、小学3年生じゃない。もっと前の、恐らく2年だか1年だか、そんな年齢だ。
小さい頃見た父親と、冨岡先生を無意識に重ねたのは、一緒に海を見たことで潜在意識として蘇っただけ。

だけどそこには同時に、大きなヒントがあった。

あの子が"帰りたい"と泣いた理由は、戻らない過去に縋っていたんじゃない。
せめてどこかに、"今"自分がいられる場所が欲しいと求めていたんだ。

「冨岡先生、わかりました」
「何をだ」
「解決の糸口です。というより、もう目の前に用意されてたんですよね」

ただそれを繋げるまでの思考を、こちらが働かせられなかっただけの話。

「何をするつもりだ?」
「至極簡単なことですよ。あの子の望みを叶えます」
「まさかもう一度抱き締めるとでもいうんじゃないだろうな?」
「それ本気で言ってるんだったら怒りますよ。あとどさくさに紛れて脱がそうとしないでください」

人が真面目な話をしているというのに、ホントにこの人は…。

どうにか抵抗を続けて、ようやく観念したように離れた両手に、息を吐きながら襟を直した。
「また他人のために身を削るのか」
吐いた息は、こちらより遥かに重く感じる。
「身は削りません。今回は本当に単純明快ですから」
詳細を話そうとして動かした口唇は、突然抱き寄せられたことで胸元に当たって止まった。
視線を上げようとした瞬間すぐに離れたものの、肩を掴む両手は強い。

「その前に俺が名前の望みを叶え満たそう」

真剣な群青色の瞳に、ドキッとした。

どういうことなのか、訊き返すより早く

「存分に堪能していい」

そう言ったあと、一切動かなくなったものだから、眉を寄せるしかない。

「……あの」
「何だ?」
「何を堪能しろと?」
「俺をだ」
「はい?」

意味がわからなすぎて私まで止まってしまったじゃないか。

「どうも普段ギャップ萌えにそれほど興味ないお前も、この浴衣姿には心躍るようだ」

またドキッとした。今のは図星、という意味で。
さすが冨岡先生、こちらができるだけ直視しないようにしていたのをいとも簡単に見抜いてきた。

「気のせいでは?」
「気のせいじゃない。現に今もこうして目を逸らしている」

誤魔化しが効かないのはわかっていても、その格好で熱視線を浴びるのはすごく居た堪れない。

「なかなかにない情景だろう?恥ずかしがらず楽しめばいい。好きなように触ってみろ」
「……いえ、大丈夫ですホントに。視界に入るだけでホントにもう、十分です」
「視姦が好みか。やはり痴女で悪女だ」
「やめてくれませんかそっちの方向へ持っていこうとするの」
恨めしさを込めて能面を作っても、この人に効かないのもわかってる。
ただ私の"望み"を叶える。今はそれにしか重きを置いていない。

「単純な話なんですが」

誰かに対する"望み"なんて多分―…

「手、繋いで寝ませんか?」

そういう、すごくシンプルなものなのだろう。

だけどそれを口にするのは、すごく勇気がいることで、

「わかった。寝よう」

すべてを理解してくれるという安心がないと、口に出すのは難しい。

嬉しさから弛みそうになる口元には、どうにか力を入れて布団へ潜り込んだ。

繋いだ指先が温かい。

こんな風に気が落ち着くなんて、それこそ子供の頃以来だし、この人じゃなきゃ思わないと言い切れる。
一緒に住むのも、本気で考えてみようかな。まだ私の心の中だけでの話だけど。

「名前」

呼ばれたと思えば、その腕に収められていた。
さっきとは比にならない体温と匂いを与えてくるのは、絶対にわざとだ。

「おやすみ」

そうやって、優しく髪を撫でるのも。

「……おやすみ、義勇」

そうして割とすぐ、意識を手放した気がする。

* * *

教室に生徒達の叫びが木霊すのを眉ひとつ動かさず聞く。
それは「はぁ!?」や「え〜!?」など、様々なものだけど、不満気なのは皆同じ。

「さぁ、教科書をしまってください。今から付け焼刃で覚えても意味ないですからね」

正直、こんな小さな子達からのブーイングなど可愛いものだ。

先ほどの、教師陣全員からの非難の嵐に比べれば。

それに肝心の彼の表情は期待に満ちていて、それだけで強行しようとした意味がある。

「それではテストを配ります。内容は学年、科目別に分かれていますから、皆さんの実力を存分にぶつけてください」

教師陣からの不満はまさにそのせい。
始業より早く呼び出した私が今日中に各学年のテスト作成をお願いしたところ、かなりの批判を受けた。まぁ、当然の話だろう。
それでも島特有の人の善さで受け入れてくれたのは、とてもありがたく思う。

教室の後方、ロッカーに寄りかかり見守るだけに徹している群青色と目が合って、大丈夫だという意味の目配せをした。

確実に全員に渡ったこと、そして学年が合ってることを確認してから

「始めてください」

その一言で一斉に鉛筆を動かし始める。

全員を満遍なく見回してから、一番の憂慮である彼へ視線を向ければ、嬉々として問題を解いていて、この分では問題がなさそうだと小さく息を吐いた。

これは彼に100点を取らせる。それだけを目的にしている。

そうすれば、父親との約束を最短で叶えられると踏んだからだ。
頑張ったという証は、何かしらの形で示さないと周りには理解しがたい。
要はテストで100点取ったからゲームを買って大作戦だ。

彼もそれがわかっているから、今すごく真剣に計算式と向き合っている。

だからといって、簡単に100点を取れるような斟酌はしていない。

テスト内容については、ここの教師陣にすべて一任した。
単純に学力を計りたいという旨だけで、こちらの思惑は一切伝えていないため、条件はあくまで他の生徒と同じ。

でなければ、意味がないからだ。

彼は彼自身で道を切り拓いていかなければ、意味を持たない。

ただ、学力を計ると言ったことで、教師陣は立場上、それぞれのレベルに合わせてくるであろう算段もしていた。

だから、大丈夫。何の問題もない。

誰に言われたわけではないのに、あれほど予習を熱心にしている彼ならば、これまでの復習など造作もないことだ。

こればかりは、今までの努力が報われるのを願うしかできない。

若干の緊張も手伝ってか、空調は効いているはずなのにうっすら滲んでくる汗を自覚する。

時計を確認したところで、残り時間はあと半分。
どうか頑張ってほしいと願いながら見回っていた足を止めた。
途端に手招きする冨岡先生に、何か気になることがあったのかと近付けば、
「汗が流れてる」
冷静な指摘にこめかみを触ってからそれに気付く。
「ありがとうございます」
タオルを出そうとした瞬間に、掬い取っていく口唇に出そうになった声はなんとか我慢した。
(…なにをっ!)
代わりに口の動きだけで伝える。
(拭くものがなかった)
(だからってなんで…)
(ジャージは痛いと言っていたのを思い出した)
(そんなこと言いましたっけ?)
(言った。鼻水を拭いた時だ)
(……あぁ、すごく懐かしいですね…)
(これからはすべて口で受けようと決意を新たにしている)
(しなくていいんですってば)

何をどうしたらそういう思考になるのか、いまだホントに理解しがたい。

「先生、できました!」

その声に振り返る。さすがは6年生だ。自信満々に振り返る姿に見止めてから時間を確認する。

「それでは残りは見直しに「いつも終わったら自由時間にしていいって言われてます」」

ほお、そういう体制もありか。なんてやけに納得した。
確かに私も学生時代は、こういうテストの類では時間を持て余したこともあったっけ。
正式な試験や模試でなければ、努力のあとでの自由というのは、魅力的かつ効率的な報酬と言える。

「わかりました。それではいつもと同じく自由時間として過ごしてください」
「はい」

テストを教卓へ提出したあと、席に戻ると静かに本を開く姿に続き、問題を解き終えた子供達はそれぞれ好きなことをし始めた。
そんな中でも、必死に答案と向かい続ける彼に、ふと言い知れぬ不安を感じたけれど、鐘が鳴った時にはやり切った自信が満ち溢れているのを感じて、杞憂だったと判断する。

「それではこれから各教科の先生に採点をお願いしてきます。皆さんは通常通り、授業を受けてください」

はーい、というバラバラな返事を聞きつつ、答案用紙を手に教室を後にした。

「もし目論見通りにいかなかったらどうする?」

背後から飛んできた質問に一瞬詰まったのもそうだけど、振り返った先の群青色は、この時既にその不安を明確なものとして捉えていたんじゃないか。
今になってそう思う。

慣れた手つきで赤ペンを動かしていく教員の

「あ、惜っしいな〜。あいつ気ィ抜いたな?凡ミスしてんよ」

苦笑いを含んだ台詞に、一気に寄った眉を隠さずテストを覗き込んでから、その意味を知った。

3桁の足し算で最後の1問、繰り上がった百の位を足し忘れている。

これがあの時感じた引っかかりだったのか。

恐らく、集中していたつもりでも、他の子達が次々と終わらせていくという焦燥はあの子の平常心を徐々に欠いた。

その結果が、これ。

点数を記そうとした手を止めた冨岡先生に、
「お?なんだなんだ〜?」
事情を知らない驚き顔が向けられる。

「大丈夫です。このままで」

その一言だけでパッと放す動きはさすがだと言えるけれど、問題はこれからだ。


どこまで軌道修正できるか


(何?100点にしたかった?ここシュッてやっちまえば?6に見えるぞ)
(そうか。名案だ)
(そういう修正じゃなくてですね……)



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