good boy | ナノ
「俺も行く」

頑ななその態度に、参った。久々に本気でそう思う。
右隣、同僚兼隣人兼飼い犬兼恋人兼飼い主のこの人に。
特に今は主に同僚として、とても困っている。
さっきは恋人として困っていたけれど。

「どういうことだ?」

始まりは数分前のその疑問から。


good boy


授業を終えてデスクに戻ってきたかと思えば、また主語が一切ない発問に首を傾げるしかなく、理解をしたのは次に出された言葉によってだ。
「明日だ。半休と書かれていた」
「あぁ、ホワイトボードですか?」
一応訊ねる形にしてみたけれど、無言が肯定だと判断する。
職員室に掲げられた、月間と教師個々の予定表に先ほど書いたばかりの文字を見たのだろう。
「俺は聞いてない。どこに行くつもりだ?」
声色から若干の怒りが伝わってくる。
「すみません。黙っていたわけじゃないです。インフルエンザの予防接種に行くのが急遽決まりまして、戻ってきたら話そうと思っていました」
仕事をする手を動かしながらチラッと向けた視線で見る分には、少し鎮まったらしい。
「忙しさにかまけて予約するの忘れてたんですよ。さっき校長に指摘されまして、病院に電話をしたら明日の午前なら空いていると言われたので半休をいただきました」
「…そういうことか」
どうやらちゃんと理解も納得もしてくれたようだ。
「冨岡先生は受けました?予防接種」
「受けてない。受けない」
「受けないんですか?」
「必要ない」
目を丸くはしたけれど、まぁ確かにこの人がそういう類のものを自分から受けるタイプでもないか、とも考える。
「そうですか」
だから一言で終わらせた。
正直、予防接種に関しては義務ではなく、あくまで任意とされているので冨岡先生のような選択も自由だ。
教務主任であり恋人といえども、その意思に対しては尊重すべきで、いかなる理由があろうと強要することは出来ない。

話が終わるかと思ったら、そうは問屋が卸さない。

「俺も明日半休を取りたい」

始まった要求に、当然疑問符がいくつも浮かぶ。
「何か用事でも思い出しました?」
「名前と共に病院に行く用事ができた」
理由を知ってもさらにハテナは増えるだけ。
「冨岡先生も予防接種受けたいんですか?」
全くの検討違いだとわかっていても、話の流れ的に今一度訊いておく。
「受けないとさっき言った」
まぁ、でしょうねとしか返せなくなりそうなのを抑えてから語彙を考えた。
「でしたら何のために?」
「わからないのか?珍しいな」
「いつもの如く全くわかりません。私に対しての期待値高すぎですよ。もうちょっと理解できるように噛み砕いて伝えてくださると助かります」
「お前はいつもその期待値を軽く超えてくる。いや、今回は感知できなくて当然か。お前はごく稀にだが、自己肯定感の低さから他人に対しての警戒心が薄まる時がある」
そろそろ頭の中がハテナで埋め尽くされそうな予感がする。
もう一度詳細を訊ねるべきなのか、それともとりあえず滞っている仕事に集中すべきなのか迷っているうちに出された

「医者というのは男だろう?」

疑問の体でありながら断定する口調で、一瞬にして能面になった。

「…そういうことですか」
「そういうことだ。明日はお前の護衛という役目を果たす」
独断しかないその頑固さは簡単に崩せるものじゃない。
「冨岡先生、明日は体育の授業が入ってますよね?」
「不死川か宇髄に代打を任す。煉獄でもいい」
「代打って野球じゃないんですから簡単に言わないでください。不死川先生達も忙しいんですよ。生徒達の成績評価を出さなきゃいけないので」

11月から12月までは2学期の通知表作成で、担任や授業を受け持つ教師陣はかなり追い込まれる時期だ。
正直、他人の仕事を請け負えるほどの余裕もない。理由が理由だけに尚更だろう。
いや、煉獄先生なら喜んで代打に立ってくれそうだけど。ちょっと熱血すぎる指導なので、体育となると軽く怪我人も出そうだ。

「冨岡先生も成績付けまだ終わってませんよね?」
デスクに積まれた紙の束は、間違いなくそれ関係のものだろう。
「俺はそこまで差し迫ってはいない。午前中抜けるくらい何も問題はないから大丈夫だ」
「冨岡先生が大丈夫でも周りが困るんですよ」
それから何を言っても"俺も行く"としか言わなくなったその涼しい横顔は一応キーボードを叩いてはいて、決してふざけても暴走もしているわけじゃないのも伝わる。

だから参った。
こちらも本気で妥協案を探さなければならない。
でないとずっと平行線を辿るしかなくなる。

「立場上、その理由では半休を許可できません」
言い切ったことで一瞬寄った眉と、恨めしく向けられる群青色は若干犬が拗ねてるのに似ていた。
「だから冨岡先生も予防接種受けませんか?」
今度は驚いて眉を上げてるけれど、今提示できる案はそれしかない。
「今からならまだ予約も取れると思いますし、そういった理由なら半休も許されます」
「それなら全休を取りたい。たまには平日をゆったり過ごすのも悪くないだろう」
「悪いです。駄目です」
即答したけど、多分この人にとって予防接種というものに全くメリットを感じないんだろうな。
どうにか私について重きを置いているのがその証拠だ。
「冨岡先生、互助会って入ってますよね?」
「……?知らない」
「多分ですけど、普通に教師やってたら入っていると思います。教職員互助会。インフルエンザの予防接種を受けるとそこから補助金が出るんですよ。全額ではないですけど」
「興味がない」
それはそうだろうなと、なんとなく癖で吐きかけた溜め息を止める。
「その補助金の申請が増えると、教務主任の評価にも繋がったりするんです。と言ったら興味は持ちます?」
「…どういうことだ?」
「どうしても任意なので、接種する率を見るとかなり低いんです。互助会側からすると、補助金は予算に組み込まれてますから教職員に上限まで使って欲しいんですね。そして予防接種=危機管理という観点で見ると、教育委員会側からは危機管理が高い教師という心証が芽生えます。それが学園内で1人や2人ではなく、教師全員ではどうでしょう?」
「…上に立つ人間が優秀だと判断される」
「そうです。だからこの場合、校長、教頭、そして私に対しての評価がうなぎ登りになるかもしれません」
少しだけ考えるような瞳の動きは揺らいでいる。
「俺以外は全員打ってるのか?」
「打ってません」
即答するのは、嘘を吐いたところでこの人が騙されるはずがないとわかっているからこそ。
「正直キメツ学園の接種率は低い方なので、1人でも多く受けてくれれば助かるとは思っています」
恐らくはこの台詞で意欲的になるかと思えば、途端にシュンとする表情に驚いた。

「……。どう、しました?」
それがあまりにも悲しそうなものだから、つい声に動揺が出てしまった。
「……か?」
「はい?」
「痛いのか?」

これは、また、さっきよりも驚きに満ちている。
もしかしてこの人…

「注射、怖いんですか…?」

だから頑なに行くとは言っても、自分も打つとは言わなかったのか。
手を止めた後、目を窄めるのがどこか可愛らしく見えた。
「怖いわけじゃない。他人から痛みを与えられるのが慣れていないだけだ。脊髄反射で手が出そうになるのを抑えるのが難しい」
「そういうの猫みたいですね」
また不機嫌だと言わんばかりの表情には苦笑いしかない。
「名前の胸に顔を埋めていればどんな痛みも耐えられる気がする」
「残念ながらそれはちょっと流石に無理ですね」
「愛犬もとい愛猫が怯えていてもか?」
「やっぱり怖いんじゃないですか…」
「今のは譬えだ。獣医が好きなペットは居ないと聞く」
「…まぁ、そうですね」

でもそう言われると、何となく赦しそうになってしまうのがまた不思議なところだ。
さて、どこで妥協案を練り合わせるか。

「じゃあ何かご褒美があれば頑張れます?」
「上に乗って悦がってほしい」
「無理です。それなら予防接種しなくていいですよ、という返答になりますね」
「…頑なだな。それなら護衛として共に行く」
「話が最初に戻ってますよ。それも駄目です」

目線だけで抗議をしてくるのは、どうにも犬と猫にしか見えない。
オヤツで釣るのもありかもしれないけれど、この人の場合は人間だし、食べ物で満足はしないだろうな。
暫し考えてから、口を開いた。

「わかりました。じゃあ注射する時に手を繋ぐのはどうでしょう?」

発案としては弱いという懸念は拭えないけれど、途端に若干輝いていく瞳は満足げでちょっと意外だと思う。

「注射した後は胸に顔を埋めたい。偉いと頭を撫でてくれ」

足された願望に思わず笑ってしまいそうになるのを軽い咳払いで誤魔化して
「それくらいなら喜んで。たくさん褒めてあげます」
無言で差し出してくる頭をポンポンとあやした。


きっと犬とか猫もこんな感じ?


(はーい、今から打ちますよー。大丈夫ですかー?)
(声掛けは必要ない。ひと思いにやってくれ)
(冨岡先生、手汗すごいですよ)


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