good boy | ナノ
「今日は七夕だ」

そんなような台詞、前にも聞いたなと思いながら目の前の画面とキーボードへ交互に視線を動かす。
「そうですね」
一応、返事だけはしておかないといけない。
取って付けたような口調ながらも、今の自分が出来る精一杯を返したつもりが、その右横の人物はとてつもなく、それはもう雰囲気だけで伝わってくる程に不満らしい。
「何かご所望ですか?」
仕方なくそちらへ顔を向ければ、同じくパソコンの画面を見ていた横顔は、ピクッと耳を立てた犬のようにすぐさま反応して、こちらを見る。

「俺が望むんじゃない。今日は名前の願いを叶えたい」

そう言ってキラキラとしていく瞳に思わず

「いえ、大丈夫です」

即答してしまった事で下がった眉に、しょんぼりした顔をしないで欲しいというのは願いの内に入るのかと口に出そうとしてから、そういう事ではないのだろうと口を噤んだ。


ひとまず「考えておきます」で返したものの、改めて願いというものを訊かれると、それはそれで悩んでしまうなと、教師陣に向けて夏休みの注意事項を入力しながらも思考を巡らせていく。

教師という立場でなら言わずもがな、生徒達の事だ。
出来るだけ心が傷付かないでいて欲しいし、笑顔が溢れる未来が訪れるよう願って止まない。
だけどそれを伝えた所で意味がない所か、下手すると実現のためにその身を犠牲にしそうなのでこれは早々に却下だ。

そうすると私個人という話になる。
何を望むのか。それもまた答えるのが難しい。
強いて言うのなら海を見たい、という位か。
それでも繁盛する今の時季に行きたい訳ではないので、願いとはまた違う。
確実に叶うのであれば、そう考えると現実的でこじんまりとしたものしか出てこず、これまた口にした日には本当に叶えてきそうで恐ろしい。
冗談でしたでは済まされないから下手な事が言えない。

そんな事を考えながら校内の見回りも終え、戻ったデスクには一枚の縦長の紙が置かれていて、思わず眉を寄せた。


good boy


「…何ですか?これ」

椅子に座る前に手に取ったけれど何も書かれていない。
上に丸い穴が開けられているから多分これは
「短冊だ。校長が配っていた」
マウスを動かしながら答える右横に視線を向けるも、その顔は真剣に画面を見つめている。
「願い事を書いて欲しい、そう言っていた」
「何で突然…」
こういう催し物は数日前から準備するものではないのかと思いながら、椅子に腰を下ろした。
「午後から外部の客が来るため、職員玄関に飾るらしい」
「また七面倒な事を思い付きましたね」
つい心の声が口を突いてしまったけれど、ひとまずボールペンを手に取る。
校長がわざわざこんな飾りつけをするという事はその客人は結構な身分の持ち主という事になるか。
そしたらもしその目に入っても問題がないように当たり障りのない内容を書くべきだろう。
そこまで考えを巡らせてから右横へ視線を動かした。

「冨岡先生、これ書きました?」
「書いていない」
「書かないんですか?」
これはまた、少し意外だと若干眉を上げる。
この人の事だから溢れんばかりの願望を書き連ねそうなものだけど。
「名前の事を書こうとしたら止められたため拒否した」
「…あぁ、成程」
納得しながらも相変わらずだなと苦笑いをしてしまった。
そうなると益々個人的なものではなく、教師として、という事になる。
"家内安全・無病息災"の安全牌でいくべきか。
いや、既に悲鳴嶼先生が本気で書いてそうだな。
これは記入者の名前を書かなくてはならないのだろうか?そうなるとまた書く内容も変わってくる。

「降ってきたわねぇ」

鈴が鳴るような可愛らしい声に顔を上げた。
胡蝶先生と煉獄先生が見つめる先、窓の外は先程見た時よりどんよりしていて、パタパタと大きな雨粒が落ちてきている。
「うむ!このまま降れば織女と牽牛は無事に会えるな!」
その言葉に、あぁ、煉獄先生はそちらの捉え方をしているのか、とデスクへ視線を戻した。
もう一度ちらりと右側を見てみる。
「冨岡先生は催涙雨についてどう思います?」
「俺には必要ないが名前には飲ませてみたい」
「……?」
頭に疑問符しか出てこなかった。時間を掛けて考えても全くわからない。
これは訊き返すべきなのかを迷ったのは何か嫌な予感がするからだ。
私が全く反応を見せない事でこちらへ向いた群青色の瞳が何故か嬉々としている。
「催淫薬の話だろう?」
答えを与えられても、余り聞き慣れない単語にそれがどういう意味なのか、また暫く考えてから
「違います」
その一言しか出てこなかった。
最初の"催"しか聞いてなかったなこの人。脳内変換の仕方も相変わらずだ。
「猫にまたたび。名前に催淫薬」
「格言みたいに言うのやめてくれませんか」
盛大に吐きたい溜め息を半分に抑えて吐き出す。
「7月7日に降る雨を催涙雨というんです。ご存知でした?」
「知らない。興味がない」
「…でしょうね」
案の定終わってしまった会話にまっさらな短冊と向き合う。

願い事か。

完全に止まってしまった思考を引き戻したのは
「逢瀬が出来ない涙という意味か」
静かに出された言葉だった。
「ご存知じゃないですか」
「知っていた訳じゃない。考えた」
「それはまた、凄いですね」
頭の回転の速さも流石としか言えない。
「だが煉獄はこのまま降り続ければ会えると言っていた。矛盾してないか?」
「良く聞いてますね」
「お前が聞き耳を立てていたので気になった」
「聞き耳を立てていた訳では…」
つい言葉に詰まってしまったのは、立てていたと言われればそうかも知れないと気付いたから。
それについては完全には否定出来ない。
「そんなに勃てた「今わざとそちらに誘導しましたね?」」
ホントに暇さえあればそういう方向に持っていこうとする。
今のは完全に油断していた。
強くなってきた雨にもう一度視線を向けた事で、何の話をしていたかを思い出して口を開く。
「催涙雨には諸説あるんですよ。雨のせいで会う事が叶わなかったという説と、天の川が氾濫したものの、鳥の群れが橋となって渡る事が出来た説です。煉獄先生は後者を信じているんでしょうね」
「くだらない」
そう吐き捨てる横顔は若干、眉間が寄っていた。
まぁお伽噺に興味はないか、と視線を戻そうとした所で

「雨が降ったら会えない、鳥の力を借りなくては会えない。奴らはそうやって出来ないと嘆いてばかりだ。己の力で切り開こうとする気概がなければ必然的にそうなるという摂理を理解していない」

また斬新な切り口で見解を述べてくださったものだから、目が点になる。

「そもそも1年に1回しか会えないと言われ大人しく従う時点で俺にとっては論外だ。何故抗わない」
「…まぁ、お伽噺ですから。確か神様が決めたんですよね」
「俺とお前の邪魔をする者は例え神でも許さない」
「いや、私達の話じゃないですし…。どうしたんですか?冨岡先生、何か」
イライラしてません?という言葉を止める。
訊かずともその理由がわかったからだ。

「もしかして花火が中止になりそうな事、怒ってます?」

その顔を窺えばわかりやすく眉毛が動いて、あぁ、やっぱり、と思わず苦笑いが零れる。

それは七夕に行われる小規模なお祭り。という事しか情報は持っていない。
耳にしたのはマンションに越してきてから。
突然鳴り響いた音にカーテンを開いた所、わざわざベランダに出なくとも見えた10分間の花火でその存在を知った。
先日、話の流れでその事を知った冨岡先生は当然それを一緒に観たいと所望したため、今夜私の部屋に来る約束をした。
しかし予報によると降り出した雨はこのまま明け方まで止まないとされている。
なりそう、ではなく、中止は確実だろう。

「あわよくばベランダで花火をバッグに後ろか「心の声を全部吐き出さないでください」今のは心の声じゃない。お前に話していた」
「それなら余計にやめてください」
やっぱり良からぬ事しか考えてなかったか。
呆れの溜め息を吐きそうになったものの、
「…初めての花火鑑賞が…」
悲しそうに眉を下げるから、それを止めた。
「花火なら今日じゃなくても観られますよ。来月、大規模な花火大会があるんですよね?」
「ある。だがお前は「一緒に行きませんか?」」
勢い良く向いた群青色の瞳が途端に嬉々としていくから、笑ってしまいそうになる。
「かなりの人混みだが…、良いのか?」
「構いません。1人だったら絶対行きませんけど、冨岡先生と一緒な」
ガッと掴まれた肩に驚く間もなく椅子ごと引き寄せられて、近距離で向かい合った。

「今日、結婚しないか?」

また良くわからない事を言い出すものだから目を窄める。
「しません」
「今日なら7月7日で憶えやすい」
「冨岡先生、そういうの好きですね」
「婚姻届は書いただろう?あとは出すだけだ」
「何で断定的なんですか。書いてません」
「結婚すればナカにも『キーンコーンカーンコーン』」
「チャイム鳴りましたよ。次、竈門くん達のクラスで授業ですよね」

掻き消された筈の台詞はバッチリ耳に入ってしまったけれど、聞こえなかった事にしよう。
「いってらっしゃいのキスが欲しい。新婚気分を味わいたい」
「来月の花火はナシにしましょうか」
その一言だけで大人しく立ち上がると職員室を出ていく背中を、何とも言えない表情を戻せないまま見送った。
ホントにすぐ良くわからないスイッチが入るんだから手に負えない。
「…ふぅ」
思ったより軽めの溜め息に、自嘲してしまった。
ちょっとドキッとしてしまった、とか絶対本人には言えないし言わない。

未だ手つかずのままの短冊を見つめて、ボールペンを持ち直すと迷う事なくそれを動かした。

願い事なんて、考えても仕方ない。
願っただけで叶う事なんて、何ひとつないからだ。
だからわざわざ神に祈るなんてしないし、そもそもの話、信じてもない。

だけど、これだけは本気で願う。

強靭な狂人なのに、繊細で傷付きやすいあの人がどうか


幸せで在りますように


(…それは誰に向けてだ?)
(っ!?体育館に行った筈では!?)
(適正テストを忘れた。それはだ(生徒達です!))


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