どうしてこんなに、罪悪感があるのか。そして何が違和感なのか。 ほぼ眠らず考えてみて、少しわかった気がする。 かなり乱暴に分類するとだけど、今の冨岡先生はやはり"猫"なのだと。 従順な飼い犬とは正反対と言えば良いのか。 私を飼い主と見ていない分、対等な関係性を求めて来る。だから違和感が拭えない。 正直、前の冨岡先生がどれほど暴走していようが、何処かで"犬だから"みたいな諦めという赦しがあったように思う。 それが今皆無な分、飼い主として怒る事も甘やかす事も出来ないのが、私にとってやりづらさを感じさせているのだと、何となくそこまでは分析している。 それと同時に、"猫"に対しての接し方というのを全く知らないのにも気が付いた。 いや、犬への接し方もそこまで詳しくはないけれど。冨岡先生以外。 そこまで考えてから、いや、冨岡先生は犬じゃなくて人間なんだよな、と思い直して、思い直すのも何だかおかしな話だと、堂々巡りした思考がいつの間にか眠りに就いていたと知ったのは、声が聞こえて、その姿をぼんやりと見てからだ。 思考が働かないまま、肩を揺すっている右手を両手で握る。 自分の頬に当てようとした所で 「朝だ。起きなくて良いのか?」 冷静に発せられた言葉で我に返ったし、眉も一気に寄った。 そうだ。この人が今此処に居るのはおかしい。 「…すみません、寝惚けてました」 早々に離せば引っ込められていく手に、名残惜しさを感じたのはきっと寝起きで頭が回らないせいだ。 「…どうして冨岡先生が此処に?」 訊ねてから、リビングの布団が空になっているのを同時に気が付いて、恐らく部長が呼んだのだろうと推測した。 「あの生徒だ。目覚ましが鳴っても声を掛けても起きないと俺を呼びに来た」 「…そうですか。すみません朝からお手数をお掛けしました」 何も返って来ない返答に、若干重い頭を押さえてからベッドから抜け出す。 「…部長は?」 「洗面所だ」 「そうですか」 そういえば、冨岡先生は朝食は取ったのだろうか。 呑気な考えは、現在時刻を確認した所で吹き飛んだ。 これはまた、良く寝入ってしまっていた。朝食など食べてる時間はない。 だからわざわざ部長は冨岡先生を呼んだのだろう。何という失態。 タンスからひったくるように見繕った着替えを手に向かったダイニングで、丁度戻ってきた部長と目が合った。 「あ、おはようございます!苗字先生!」 「ごめんなさい、朝食も用意出来ませんでした」 「大丈夫ですよ〜!気にしないでください!疲れてたんですよ。色々あったし」 そう言って眉を下げる表情は、後ろの冨岡先生へ向けられていて、あぁ、また気を遣わせてしまったと自己嫌悪が沸いてくるが、態度に出すべきではないと口角を上げる。 「行きに何か買っていきましょうね。お昼ご飯も」 時間がないため短めに伝えれば 「はい!」 屈託のない笑みを向けてくれて安心はした。 good boy 「次は何をすればいい?」 書類を渡すや否や、そう訊ねる冨岡先生に若干圧倒されている後ろの雰囲気を感じながら、校閲を終えたものを教頭宛てのプラ籠へ入れる。 「…とりあえずはまァ、そんくらいだァ」 「そうか。わかった。世話になった」 律儀にそう返すと自分のデスクへ戻り、何やら熱心にメモしているのを横目で捉えた。 恐らくは今、不死川先生に教えて貰った内容だろう。 キィッ 椅子を引く高音を耳に入れて、自然とこちらも後ろへと引いていた。 「何だァ?アレェ」 アレ、というのが冨岡先生の気概というのはわかっているので、何とも言えない気持ちで口を開く。 「何でも自分を超えたいそうです」 「相変わらず意味わかんねェなァ」 心底呆れた表情をする不死川先生に、零れそうになった苦笑いは 「あ、それ今日の朝も言ってました!」 こそっと告げる部長によって止まった。 自然と身を寄せる私達を一瞥はしたものの、そのまま席を立つと悲鳴嶼先生の元へ向かう背中に、やっぱり違和感が拭えない。 「アイツほんっとに記憶ねェんだなァ」 そう言ってしみじみ腕を組む不死川先生が続ける 「ここまで苗字に近付いたらぜってェ威嚇してくんのによォ」 その言葉とまさに同じ事を考えていた。 しかしもしかしたら自意識過剰なのかとも考えたため、すぐに意識の外へ追いやろうとしたけれど、認識的には間違っていないらしい。 「冨岡先生って結構やきもち妬きなんですか?」 部長の純粋な質問に、眉根を寄せるのは不死川先生。 「結構なんてモンじゃねェよ。取材しててわかんねェかァ?アイツの異常さ」 「わからないのは無理もないかと。記憶を失くすまでは猫を被ってたので」 「……。あァ」 「猫?冨岡先生って犬派じゃなかったでしたっけ?」 察したように頷く白髪(はくはつ)を、不思議な顔で見つめていた瞳がこちらに動いて、この際、部長には全て話しておいた方が良い。そう思い、口を開いた。 「実はですね…」 何から話したら良いのか迷いながらも話し始めた内容。 不死川先生は時々呆れに近い苦笑いを零しながら、部長はとても真剣な眼差しで聞いてくれた。 「というのが、昨日の出来事です」 本来の冨岡先生の気質から、昨日の夜中の件についてまでを簡単に話した私に、それぞれの表情が更に強くなっていく。 「お前ェ、やっぱ冨岡からは逃げらんねェんだなァ」 「記憶が失くなっても苗字先生を好きになるなんて正真正銘愛の力じゃないですか!?」 諦めに似た気持ちで 「そうですね」 一言を返したのは、多分どちらに対してのものだ。 「あ、だから"今までの俺を超える"って言ってたんだなあ」 独り言を言いながらメモを取っていく手に視線を止める。 「その台詞が出た経緯を知りたいのですが…」 「え?あ、っと、先生が起きないって、呼びに行って…。"付き合っていた頃の事を知りたい"って言うんで、生徒の間では有名ですよとか、そういうの話したら、何か急にそう言われて…。あ、でもそれ以上は話してくれなくなっちゃったんですけど」 「…そうですか」 低く唸った不死川先生から出た 「つー事はァ?アイツ今までの自分と正反対になろうとしてる事じゃねェのォ?」 また若干呆れに満ちた予測に、間髪入れず頷いた。 「その可能性は高いですね」 というか、恐らく十中八九そうだろう。 じゃなきゃ今、あんな真剣に悲鳴嶼先生の元でキメツ学園についての享受を受ける必要性がない。 「やばくねェ?」 これまた不死川先生の言葉に頷いた。 「余り良い兆候とは言い難いです」 「え?何でですか?」 「過去の自分を超えるって事はァ、要は記憶取り戻そうとしてねェって事になんだろォ?」 そう、全くもってその通り。 これはもう絶対だと言い切るが、常人の冨岡先生は、過去の狂人である冨岡先生に嫌悪感を抱いている。 そうなったのは、これは多分をつけるけど、私が今の冨岡先生に好きだと言うのを躊躇ったからだ。 今の冨岡先生が過去の冨岡先生と違うと線引きしていても、やはり本人なのは変わらないので共通するものは多い。 なのに今そうやって"過去を超えよう"と躍起になっているのは、こちらを通して垣間見た自分の輪郭をはっきりさせたいという承認欲求が大きいと推察が出来る。 記憶がないから、尚更なのだろう。 それを私への好意、親愛感と思い込んでいる節も見受けられる。 現在の自分を認められたいから、過去の自分を認めたくない。 矛盾していると言えば矛盾しているけれど、それは今の冨岡先生が持つ忌憚ない感情だと言える。 それを私が全面的に受け入れ消化をすれば、少しはその凝り固まった強情さも解けはするのも、わかってはいるんだけども。 しかしそれをすると、過去の冨岡先生を否定し傷付けるような気がしてしまって、結局どちらにも動けずにいる。 「どうしたら良いと思いますか?不死川先生」 正直こればかりは、私にも妙案が思い付かない。いや、私だからこそか。 どちらの冨岡先生も大事にしたい。 そう考えてしまうから、冷静な対処が出来ていないという自覚は持っている。 「まァ、なァ」 難しい表情をした後、天を仰ぐ姿が暫くして戻された。 「記憶が戻る可能性が高いっつーなら、今より前の冨岡を優先させるべきだろうなァ。どっちかっつーと…戻った時のブチ切れ具合も変わってくんじゃねェ?」 真剣な回答に、何となく今まで認めたくなかった事案を直視せざるを得なくなって、引き攣った笑いになってしまう。 「やっぱり、そう思いますよね」 これも恐らくや多分、ではない。 記憶が戻った時の冨岡先生は、記憶を失くしていた間のご自分にも敵意を向けるであろう。 今、常人の冨岡先生が嫌悪している位だ。狂人な冨岡先生が相手にしない筈がない。 それが私に好意を向けているとなると尚更だ。 だからこそ、常人の方を全面的に受け入れるという選択肢を出来ないんだ。 何故かって後が怖い。出来れば狂人の報復だけはご遠慮願いたい。 「いっそどっちの記憶もなくなりゃァまだマシなんだけどなァ」 低く唸る不死川先生に、首がもげそうになる程頷きたくなってしまった。 今の冨岡先生は常人である上に、記憶がないからそこまで荒れてもいないけれど、狂人の冨岡先生が今の記憶を宿したまま戻ってきた日には、最悪としか言いようがない。 命が終わる。私の。 「…トミセンってそんなにヤバイんですね…」 雰囲気から察知したのか、ゴクッと息を呑む部長に、否定が出来ない辺りまた悲しいなと思う。 「でもそしたら、早く戻って貰わないと困りません?苗字先生」 心配そうに見つめてくるものだから、それもそうなんだよなと頭を抱えたくなった。 狂人の怒りを最小限に抑えるためには、とにかく常人で居る時間を短くする事。 それならもう、選択肢は常人な方を傷付けて棄て置くしかない。 でも、それはそれで―… 「もしかしてオメェ、今の冨岡の方が良くなったとか言わねェよなァ?」 疑いの目を向けられて 「そういう訳ではありません」 ひとまず即答はした。 それでも目を窄める不死川先生がそそくさと自分のデスクへと戻っていくのに気が付いた時には 「見回りの仕方を教えてくれないか?」 上から覗く群青色の瞳。 「…あ、はい」 咄嗟にした返事も、すぐに背を向けられた。 それが職員室を出て行こうとしているものだと知った部長が手を挙げる。 「私も一緒に行って良いですか!?」 その勢いに振り向いた瞳は、余り歓迎しているようには見えなかった。 しかし 「…構わない」 それだけ言うと再度向けられる背に、部長が小さく「やった!」と喜んでいるのを見る。 「すみません不死川先生、ちょっと行ってきます」 「おォ。気ィ付けろやァ」 その言葉の意味が何となく意味深だと思いながらも、冨岡先生を追い掛けた。 * * * 教える程の内容もないそれも、今のこの人にとっては目につくものがとてもたくさんあるらしい。 普段ならきっと全く気にも留めていない、緊急時の避難経路の地図を持って実際のものと比べては、時折喉を唸らせている。 仕事熱心だ。ホントに。今までにないくらい。 「此処の壁が一部損傷しているが…」 指で示した先、剥がれ掛けている部分に当時を思い出して笑った。 「あぁ、これですか?この間の生徒同士の喧嘩でなったものですね」 その場にこの人も居たんだけど、やはり記憶にはないようだ。 「何故このままにしておく?生徒に刺さったりしたら問題だ」 「…そうなんですよね。ただ予算というのがありまして…今どうにか低コストで直す方法を模索しています」 まぁその方法はひとつなんだけども。 納得はしたのか、ひとまずそこから離れ、歩き出す。 噂をすれば何とやら。向こう側から板と金づちを持ってやって来る天狗の面が見えた。 「お疲れ様です」 そう言って頭を下げた瞬間、後ろから引っ張られた感覚がして振り向く。 しっかりと服の端を掴む冨岡先生の顔は険しく、何をそんなに怯えているのかと視線を動かした先には、軽く会釈をしてから剥がれた壁の前に屈み込む鱗滝さん。 「…アレは何だ?」 「用務員の鱗滝左近次さんです」 「人間か?」 「えぇ。多分…」 素顔を見た事がないのでそう言えば、くん、と引っ張る力が強くなって、立ち止まる。 「…もしかして、冨岡先生」 怖いんですか?という一言は直前で呑み込んだものの、未だ怯えた表情にはつい顔が綻んでしまった。 「大丈夫ですよ」 気を遣ってか、声が聞こえるか聞こえないかの所までの位置で待機している部長が驚いた表情をしたのに気が付いたのは、口唇が塞がれてからの事。 まさか常人の冨岡先生が、こんな所でキスをしてくるとは思わなかったため、完全に気を抜いてしまっていた。 身を引こうとする前に、素早くそれが離れる。 「…悪いっ!」 上擦った声で口元を押さえる様子は、初めて見たかも知れない。なんて考えた。 そうやって、顔を赤くしているのも。 だからだろうか。こちらまで顔が熱くなっていく。 「…いえ、大丈夫、です」 「言い訳でしかないが…身体が勝手に動いていた。本当にすまない」 ホントに違和感しかない。そう思ってしまう。 でも勝手に動いたというのは、恐らく狂人の冨岡先生の潜在意識。 もしかしたら目には見えないけれど、懸命に戻ろうとしているのかも知れない。 ひとまず歩き出した先、今度は少し取られた距離に苦笑いをひとつ。 「余り無理をする必要はないと思いますが…」 「無理などしていない。お前に相応しい男になるために努力は惜しまない」 それが無理だって話なんだけども。というのは心の中だけで思う。 「そうおっしゃるのなら前の冨岡先生は十分私に相応しい方でしたよ?」 「またアイツの肩を持つのか…」 「いえ、ですからご本人なので…」 非常にやりづらいのはこういう時、狂人の勝気さと繊細さが出てくるからか。 でも、此処まで顕著になってきたという事は、もう少しで戻ってこられるのではないかという期待もなきにしもあらずだ。 それなら―… 意を決して、勢い良く振り返る。 驚いている瞳をじっと見つめた。 「私は、どちらの冨岡先生も好きですよ」 これがきっかけになれば。 その淡い期待は、見る見る内に険しくなっていく表情ですぐに失敗だったと悟った。 「どちらもなどは絶対認めない。今の俺だけに惚れさせる」 そうやって決心を硬くしていく常人である筈の冨岡先生に、強靱な狂人の部分をひしひしと感じる。 不死川先生の「気を付けろ」今更その一言が、とてつもなく重く圧し掛かった。 そういえばこういう性分だった (…やっぱり冨岡先生って…) (何だ?) (いえ、何でもないです…) [ 153/220 ] [*prev] [next#] [mokuji] [しおりを挟む] [back] ← ×
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