good boy | ナノ
これは参った。至極困った。
強靱な狂人に敗北を喫するのは仕方がないと思うけれど、常人で在る冨岡先生にも全く歯が立たない。
これは一体全体どういう事なのか。
いや、半分以上、狂人に近付いてきてはいるんだ。少しずつだけど。
でも記憶が戻らない。戻そうとしない。それがとても厄介な事態を招いている。

これはもう、武力行使的なものに出るしかないのか。
かと言って、もう一度キャットウォークから落とすというのは余りにもリスクが高すぎる。というか普通に考えて殺人、良くて殺人未遂だ。
いくら冨岡先生が人より丈夫だからといってそれは出来ない。
そしてどうにも、これ以上私が表立って動くと、更なる厄介事が生まれそうな予感もする。

しかしこのままだと物理的に体育の授業が進まない。
これも非常に困る。主に生徒達が。

だから素直に頼る事にした。
このキメツ学園が誇る、屈強な教師陣を。


とある学習室。
呼び出したのは、LINEグループの面々だ。

「冨岡先生の様子がおかしいとは聞いていたけれど、そんな大変な事になっていたのね〜」
「恐らく今は混乱しているのだろう。どうにかしてやらねば…」
「うむ!という事は、我々で記憶を呼び起こさせれば良いのだな!?」

胡蝶先生、悲鳴嶼先生、煉獄先生の言葉を聞きながら、明らかに呆れから目を細くしている伊黒先生と、爆笑している宇髄先生を目端で捉える。
まぁ、この2人の反応は予想通りなので気にしないでおこう。

「何か冨岡が戻ってくる切っ掛けになるモン、心当たりねェかァ?」

自然と場を取り仕切る不死川先生へと、カシャカシャとカメラの音が向けられているのを苦笑いで聞いたのは、一体これはどんな風に記事になるのだろうという一抹の不安が沸いたからだ。

暫しの沈黙の後、一斉に向けられた視線。
「苗字」
「苗字先生じゃないかしら?」
「苗字先生だろうな」
「苗字先生だ!」
「苗字一択だろ〜?」
呼称や語尾は違いながら、ほぼ全員から同時に呼ばれた事で眉が寄る。

「まァ、そーなるわなァ…」
何処か達観したような視線を遠くに向けながら、頭を掻くと不死川先生は続けた。
「正直俺もそれ以外全く思い付かねェ」
匙を投げたような言い方に更なる不安が沸き上がる。
この精鋭陣でもお手上げ状態なのかと。
私は狂人と常人が入り混じる、混沌な冨岡先生とたったひとりで戦わなければならないのか。
そんな事を考えていたものだから、
「そりゃ名案だ!派手に行こうぜ派手に!!」
突然盛り上がり始める宇髄先生達に全くついていけなくなった。

「…え?何ですか?」
「今不死川が言った。聞いてなかったのか」
「すみません聞き逃しました」
はぁ、と蛇と一緒に溜め息を吐く伊黒先生は至って冷静のまま

「お前を人質に取るそうだ」

それはもう涼しい顔でおっしゃってくださったものだから、理解をしようとする思考すら止まる。

「とにかく苗字先生を取られてしまうって慌てさせれば良いのね〜。それなら私にも出来そうだわ」
「感情を揺り起こせば、自然と具現化するという算段か」
「これでトミセンが戻ってきたらもう愛の力ですよねっ!」
部長までもが盛り上がっていく中、全くそのテンションにもついていけず、遠巻きに見つめた。

「伊黒先生」
「…何だ」
「あの作戦、上手くいくと思います?」
「知らない。俺に訊くな」
「そうですね。すみません」

めちゃくちゃ蛇が威嚇してくるので、会話を切り上げようとした時だ。

「上手くいって貰わなくては困る。今の澄ました冨岡はいけ好かない」

はっきりと発せられた言葉に、少し驚いた。
"未来の結婚相手"に関しての仲間意識が強いのは知ってたけれど、結構冨岡先生の事好きだったんだな、と、今の声色で少しわかった気がする。
だからこそ
「頑張ります」
その一言を返したんだけど、視線は全く合う事がなくて、伊黒先生はこの作戦には一切関与しないんだろうな、というのも察した。


good boy


「ねぇ、苗字先生。今日またあのお店に呑みに行きましょうよ〜」

職員室のデスクに戻るなり、ほんわかとした笑顔で作戦を開始した胡蝶先生に、本気でドキッとしてしまう。
これが右横で真面目に仕事をしてる冨岡先生への挑発だというのがわかっているんだけども、嬉しいと感じるのはもはや仕方ない。
「…そう、ですね。行きま「残念だったな胡蝶。苗字は今日俺と約束してんだぜ」」
横から入ってきたかと思えばピッと親指で自分を指す宇髄先生に、それはちょっと強引すぎるのではないかという突っ込みは呑み込んだ。
「そうなのか。私も苗字先生を誘おうと思ったのだが…」
両手を合わせる悲鳴嶼先生までこの作戦に乗ってくれたのかと思うと、こちらが泣きそうになってしまう。申し訳なさすぎて。
悲鳴嶼先生には平等と公平を貫いてもらうため、それこそ私情で頼らないようにしてきた。だから後ろめたさがある。
でもこれは一応、キメツ学園の危機として見られなくもないかと、ひとまず自分を納得させた。
「む!苗字先生!今日は剣術道場の見学に来て欲しい!!」
そして煉獄先生、意外と演技上手いな、と思った束の間
「見た所、苗字先生はなかなかの逸材な気がする!俺が鍛えたい!!」
その台詞は全て本音なのだろうと悟った瞬間、苦笑いが出る。

まるで漫画のようにわかりやすく取り合いを始める教師陣を抜けるように不死川先生が冨岡先生へ椅子ごと近付いた。
「何だかスゲェ人気だなァ苗字」
「そうだな」
焚き付けるような言葉にも、その涼しい顔は動かない。
「良いのかァ?オメェ」
「構わない。嫉妬など醜く自信がない男がする事だ。俺は違う」
言い切った冨岡先生に、教師陣全体が一度止まった。
そうして自然と顔を寄せ合う。
「こりゃ重症だァ」
不死川先生の言葉にしみじみと頷いている光景に、何とも言えない気持ちになった。
一度作戦を変えようといった主旨を話す中、音もなく近付いてきた伊黒先生に気が付いたのは、その傍らに立ってから。

「随分と臆病になったな冨岡」

返事の代わりに上げた視線が、少し揺れている。
「言い訳をしていては何も手にする事は出来ない。そう言っていたお前は何処にいった?」
「それは過去の話だ。それに今のは言い訳じゃない。事実を述べている」
「醜かろうが何だろうが食らい付いていけば未来は変わる。その為には事実さえ捻じ曲げる。そうも言っていた」
「だからそれは過去「一度手に入れたらそれで満足か?」」

ピリッと音が聞こえた気がする。空気がこれ程になくとてつもなく重い。
いつの間にか職員室中が固唾を呑んで2人を見守っていた。

「お前とは全て、根本的なものが合わないが苗字への慕情、この点においてだけは畏怖の念を抱いていた。しかしどうやらお前もその程度の人間だったという事か」
「…何だと?」
「お前は俺に言った筈だ。自分の命が尽きる直前まで、尽きたとしても苗字の事だけを愛し続けると。だからこそ俺はお前の覚悟を買い、あの時も協力した」

あの時…、少し考えた所で、それが恐らく伊黒先生の元同僚に連絡を入れた時だろうというのに気が付く。
知らない所ですごい重い話してたんだなこの2人。素直にそう思ってしまった。

「誰かのために自分を殺すなど滑稽すぎる」

吐き捨てる台詞に、どんどんと空気が冷えていく。

「やはりお前は冨岡じゃない」

言い終える前に勢い良く立ち上がった冨岡先生から、明らかな怒気が伝わってきた。
「まぁまぁ、落ち着け〜」
「冨岡も座れやァ」
それでもすぐに仲裁に入る宇髄先生達と
「しかし伊黒先生の言う事も一理あるな!前の冨岡先生はとても情熱的だった!!俺はそのわかりやすい冨岡先生が好きだ!!」
全く悪気はない煉獄先生からダダ漏れる本音に、バッと手を振り解いた。
こちらを見る群青色は酷く寂しそうでつい、心臓が高鳴っていくも

「やはり俺を俺として見てくれるのはお前だけだ」

はっきりと見据られて、この作戦が大失敗だったというのを理解した瞬間、能面になるしかなかった。

 * * *

「敗因は自己肯定感の低さだなァ」

最終的にそう結論付けた学習室の一角。先程より真剣な表情で向き合う教師陣にシャッター音が響く。
「つーかアイツのお前に対する信頼度なんなんだよ!やりにくいったらありゃしねぇ!」
若干八つ当たりにも取れる言い方の宇髄先生にもはや苦笑いも出ない。
「多分そこには以前の冨岡先生が入り混じっているんでしょうね」
「我々は完全に敵と見做されただろうな…」
悲鳴嶼先生の穏やかながら哀しそうな声に、空気は沈んでいく。
見かねた部長が慌てて口を開いた。
「あ、でも伊黒先生の言葉にはちょっと動かされてませんでした!?」
少し空いた間は、一瞬誰が答えるか迷ったものだろう。
「そうですね。確かにあの時の冨岡先生には以前の雰囲気も感じました」
「じゃあそこからまた新しく作戦を考えるべきかしら?」
「でもそしたら苗字への依存度が増すだけのような気がするがなァ」

うーん、とほぼ全員が唸る中、何故あの時、伊黒先生の言葉にだけは強く反応したかを考察してみた。
単純に否定をされたからではない。伊黒先生もそれを狙った訳じゃなかった。
まるで以前の冨岡先生を呼び戻すような喋り口で、そこに本人も呼応したようにも見える。
怒りは満ちていたけれど、それは多分、大半が"今"の冨岡先生のもの。
だから四面楚歌だと悟った時、私へと全感情を向けた。
そこが、以前の冨岡先生と大きく異なる行動だ。

いや、その前から―…

「今の澄ました冨岡はいけ好かない」

伊黒先生の声が脳内で響いて、閃きに似た何かが走った。

「…苗字先生?大丈夫?」

心配そうに見つめる胡蝶先生に、こめかみを押さえていたのに気付く。

「大丈夫です」

そうだ。だから伊黒先生はあんなに冷たく、わざと見捨てるような台詞を選んだのか。
視線を向けた先、また蛇に威嚇されて、今度は苦笑いが出るまで余裕を持てたのも知った。

「すみません皆さん。完全に目測違いでした」

反応の仕方はそれぞれ個性的だけれど、そこにはわかりやすく疑問符が並んでいる。

「反対だったんです。冨岡先生は皆さんを敵と見做したのではなく、味方と判断したから反応がなかった。そうですよね。伊黒先生」
「やっと気が付いたか」
今度はウネウネと動いてる蛇だけど、どこかやはり警戒されている。
「どういう事だよ?」
「本来の冨岡先生は本能で敵か味方かを判断していらっしゃいます。そこに多少の感情や経験は伴いますが、基本的には故意にナワバリを荒らされなければ敵視はしないんです。そして皆さんは、その冨岡先生のナワバリ圏内にいらっしゃるんですよ」
ここまで話して、ホントに犬みたいだなと今更ながら考えた。
「っつー訳はァ?」
「心を赦している。つまりは味方なんです。そんな皆さんが私を人質にして今更冨岡先生の心を荒立てるというのが土台無理な話でした」
「だから伊黒先生は怒らせようとしていたのか!!」

一斉に向けられた視線に、その眉根が一瞬寄る。

「それも"今"の冨岡に妨害され上手く交わされた」
「そうなんですよね」
「だがそれでは、私達では冨岡先生の心を揺さぶれないという事になってしまうか…」
「それでは手詰まりだな!!」
「そうですね。それもまた、その通りです」

これはまた厄介だと言える。
だけどその事実を知った分、新たな活路は見出せた。

「でも皆さんではなく、ひとりだけ居るのを思い出せました。今の冨岡先生も心を揺り起こせる、強力なカードを持つ人物が」
「…俺らの知ってる奴かァ?」
「宇髄先生は会った事ありますね。全く印象に残っていないとは思いますが」
「あぁん?」
眉を顰めてる表情がまさに"輩"だなと苦笑いをした後、多分説明しても覚えていないだろうと判断して算段を立てる。
多少危険は伴うけれど、今の冨岡先生を否定せず記憶を取り戻してもらうのは、多分この方法が一番良い。
というかこれしかないだろう。

「皆さんのお陰で希望の光が見えました。ありがとうございます」

そう言って深々と下げてから上げた先、三者三様の表情に自然と頬が綻んでいく。
「先生、どうするんですか?」
酷く心配そうな部長には、安心材料を渡しておいた方が良いかと、質問の答えを考える。
「覚えてますか?引き出しから発掘した写真」
「…あ!あの!」
「そうです」

諸刃の剣かも知れない。
だけどあそこまで強情になった犬の心を揺り動かせるものはそれしかなかった。


今は猫の手にすら縋りたい


(犬派VS猫派の戦い再びですね!?)
(…お前ェ、大丈夫なのかよォ?)
(共倒れにならないように努力はします)


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