good boy | ナノ
スマホの目覚ましがセットされている事を確認してから、傍らに置く。
ベッドに潜り込みながら、そういえば、冨岡先生がスマホを、特にLINEを見たら私達の関係は一発でバレるな、なんて、今更過ぎる事を考えてしまった。
でも今この時間になっても、何も連絡が来ていないから、見ていないのかも知れない。
元々そんなにスマホをいじるような人じゃなかったから、存在自体忘れている可能性もなきにしもあらずだ。

リビングへと続く、開け放たれた戸。
ぼんやりと見える布団の膨らみからは、まだ寝息が聞こえてこない。
眠れない程、気にしてしまっているんじゃないか。そんな心配が過ぎるのは、就寝する直前まで
「ごめんなさい」
その言葉を繰り返していたためだ。

特に何かがあった訳じゃない。
ただ彼女なりに私達の事を気にしてくれた。それと共に、記者魂が疼いた。
それだけだと言える。

明日の約束をしているのを、洗面所の扉の隙間から構えたカメラは秒も経たず冨岡先生に気が付かれ、すぐに険しい顔をした後、無言で部屋を去っていった。
その事が部長にとってはショックだったようで、何度も邪魔をしてすみませんと謝られたけれど、そこまで気に病む必要はないと伝えた。
実際、話が終わった直後だったから、彼女が居ても居なくても、あるいはカメラを構えてても構えてなくても、冨岡先生は遅かれ早かれ部屋を出ていっていただろう。
その事実も伝えたけれど、気になるのは、まぁ何というか、人間だから仕方ない。そうも思う。

部長には今日1日、ずっと気を遣わさせてしまっている。
それは私としても、とても申し訳なく感じているからだ。

だから徐々に聞こえ始めた寝息に、安堵の息を吐く。
部長が望む通り、明日にはその"愛の力"とやらで、冨岡先生の記憶が戻るのを願うばかりだ。
そしたら彼女の努力も、少しは報われるのではないかと思う。
かといって、具体的な解決策も、今現在全く思い付かないんだけども。
これは長期戦も覚悟しなくてはならないかも知れない。
そのためには早く寝なければ。寝不足で頭が回らないのが一番困る。

寝返りを打った先、鼻に抜けていく香りに一瞬にして心が解けていくのを感じた。
残り香だけでこんなに安心するのは、目の前に居る2号のムスッとした顔のお陰かも知れない。
その頭を撫でてから両腕で包めば、その香りを更に強く感じて、今度は少し寂しくもなった。

「…義勇」

今頃、何をしているのだろうか。もう眠っているのかな。
眠れているんだろうか。不安になっては、いないだろうか。そんな事ばかりが思い浮かぶ。
あの部屋には、縋れるものがないから余計に。
多少強引にでも、この2号を渡しておけば良かったかも知れない。
そしたら前に本人が言っていたように、少しは気休めになったのではないか。

そうやって意識を飛ばすまで、ずっとタラレバを考えてしまっていた。

それからどれくらい経ったかわからない。暗闇の中、ふと目が覚めた。
いつもならそのまま目を閉じるのに、自分でも何を思ったのか。おもむろにスマホを手に取る。

「…え!?」

思わず声を上げていたし、一瞬にして目も覚めた。
身体を起こしながらすぐに文字を打つ。

"どうしました?"

早く返信しなくてはと思いついたままに返したけれど、少し素っ気なく感じるかも知れないと考える。
それでも送られてきていた
"起きてるか?"
その一言に返せる言葉といったらそれくらいか。
時間を確認して、これまた驚いた。
送信時間は、丁度2分前を示している。
もしかして、だから目が覚めたのかも知れないなんて、都合の良い事を考えた。

すぐに返ってきた
"話がしたい"
から続く
"ふたりで"
その言葉に、寝息を立てている姿へ自然と視線が動く。

常人である冨岡先生の思考は正直、余り良くは読めない。
だけど、今のこの意図は良くわかる。
LINEが来たという事は、私との関係を全て知ったという事で概ね間違いないだろう。
"わかりました。そちらにお伺いしますね"
一応、既読がついたのを確認してから、部長を起こさないようリビングを抜ける。
ひとまずスマホと鍵だけあれば良いだろうと、ほぼ着の身着のままに近い恰好で506号室へと向かった。


good boy


扉は開けられたものの、無言のままで通されたリビング。
正直、今の冨岡先生が放つ雰囲気は温かいものと言えない。
若干の居心地の悪さを感じながらも、少し離れた位置に腰を下ろした。

「…話、とは何でしょうか?」

こちらから訊ねても良いものか迷ったものの、また床の一点を見つめる視線が上がりそうにない事で口を開く。

「…何故黙っていた?」
「冨岡先生と私の関係性について、ですか?」
「そうだ」
「何故かと聞かれれば、色々ありますが…、更に混乱を招くのは避けたい。それが一番の理由です」
こちらを一瞥しただけの群青色は険しくはなっていない。だからそのままを続けた。
「全く知らない人間から、恋人だの付き合っているだの言われて、例えそれが事実であっても気持ち悪くないですか?私が冨岡先生の立場なら、そう思うと判断したので黙っていました」
「気持ち悪いとは…」
途中で口を噤んだのは、完全に否定をし切れないと気が付いたからだろう。
「こちらの事はお気遣いなく。冨岡先生はご自分の事を一番にお考えください」

今の言葉で伝わっているのだろうか。
また一点を見つめ始めた姿に、若干不安になってくる。
そして何をそんなに見ているのだろうと気になってその場所を見てみるけれど、特に何もない。

「…記憶が戻らなかったらどうする?」

いきなり核心に触れてくるものだから、ドキッとした。
それについて考えない時はなかったけれど、答えは未だに出ていない。
何故出ないかと言えば、それは―…

「それは、冨岡先生次第だと思います」

これもまた、思ったままを素直に口にした。
此処で変に隠し立てすれば、何となく、この人の気持ちがもう戻って来ない気がする。
どうしてかは上手く説明が出来ないけれど。

「今後どうするか決めるのは、本人である冨岡先生ですから。それについて私が言える事は、何もないかと」
「恋人なのにか?」
「恋人だからこそです」

間髪入れずに答えてから、自分の気持ちに気が付いた。
どうしてこうやって、距離を保つ事を選んだのか。
根底から変わるのは、やはり難しいなと呑気に考えてしまった。

記憶を失くそうが失くさまいが、此処に居るのは"冨岡義勇"で、その生き方を誰も、邪魔は出来ない。
少なくとも、私は邪魔をしたくない。そして、否定もしたくない。
過去がなかった事になれば、当然、趣味趣向も変わる。
そこで冨岡先生が私から離れるという選択をするという可能性は、ゼロではない。
ゼロではないなら、余計な情報を与えて判断力を鈍らせる訳にもいかない。
私の主観で話せば、確実にそこに宿る感情に、常人なこの人は引き摺られてしまうからだ。

「お前は、"記憶がない俺"を尊重する。そういう事か?」

一点を見つめたままの発問に、私もそこを見続けながら答える。
こんなに目を合わせてこないこの人は、それこそ新鮮だ。
「まぁ、そんな所です」
正直、それ以上の言葉が思いつかない。
絶対に記憶が戻ると言い切れない今、優先するべきなのはこの目の前に居る人だ。

それでも所々で感じた、これまでの"冨岡義勇"の一面は、全部が全部、まっさらになって消えてしまった訳ではない事に安心も出来た。
だからこそ、一番大事なのは何なのかを、再確認出来た気がしてる。

「好きだ」

突然飛んできた3文字。
「はい?」
もしや記憶が戻った?なんていうのは上げた視線の先、揺れている瞳で違うとすぐに気付く。
じゃあまた無意識に出た言葉だろうか?それでも嬉しいは嬉しいかも知れない。

「正直以前の俺が何故お前の事を好いたのかはわからない。だが、今の俺は確実にお前に惹かれている」

決意に満ちた瞳と見つめ合いながら、どういう意味なのかを考えてみる。冗談ではなさそうだ。

「その上で訊ねたい。俺の記憶が戻らなかった場合、お前はどうする?」
「…どうするって」
「どうしたい?」

どう、するのだろう。
冨岡先生の、いや、義勇の事を好きなのは、変わりはない。これからも恐らくとつけるけど、変わらない、と思う。
"今"のこの人が好きだと言ってくれるのなら、私は―…

先程のように一点を見つめてしまったからか、近付いてくる冨岡先生に反応出来たのはその腕に収まった後だった。

「…冨岡せん「好きだ」」

何故だろう。心臓がこれまでにない程ドクドクいい始めた。

紛れもなくこの人は飼い犬兼恋人兼飼い主で、ついでに言えばひとまずは婚約者(仮)で、こうやって抱き締められたのなんて数え切れないのに、今凄く緊張してる。

「お前だけが俺を見てくれた。記憶がない、自分が誰かもわからない俺を、俺として…」

どうして?抱き締め方が違うから?それともあちらの緊張が伝わってくるから?

考えている内に床につく背中と、見上げる切羽詰まった表情。
そこから発せられる

「お前が欲しい」

真剣な台詞に心臓がけたたましく鳴り響いてる。

だって、こんな事、冨岡先生は―…いや、言ってたけれども。多分本人は至って本気で言ってたけども。私が本気で、全力で拒否して逃げようとしてる時から。

でも何かが違う。そんな気がして仕方ない。

落ちてくるキスは酷く優しいもので、これがまた違うという錯覚を呼び起こさせる。

私はこの人と、こんな事をして良いのだろうか。
どうしてかはわからないけど、そんな背徳感が沸き上がってきた。
いや、冨岡先生なんだけど。まごう事なき本人なんだけど。
問題はない、筈なのに。

背面に伸びてきた手にビクついたせいか、ホックを外そうとしてる動きがまごついていて、急にその違和感が強くなる。

「…ちょっと!待って!」

本気で押し返した顔は酷く哀しげで、こんな時でもその表情には弱いと自覚した。
「…すみません。突然の事でちょっと…」
「記憶がない俺は嫌いか…?」
「いえ、そういう事ではなくて…」
「LINEを全て見たが、以前の俺は随分と自分勝手だった。良くお前は付き合っていたな」
「それは「好きだからか?」」
圧が強い。こういう所に冨岡先生の片鱗を感じるのに

「今の俺ならお前をもっと大事にする。嫌がる事など何一つとしてしない」

真剣な眼差しは、全然、全く知らない人のようで息を止めた。

その間に塞ごうとしてくる口唇を咄嗟に押し返す。
「ちょっとやめてっ!」
「何故そんなに嫌がる?」
「嫌がりますよ!」
「やはり以前の俺が良いのか…?」
「だからそうやって傷付いた顔しないでください。もう前だの今だのこの際どうでも良いです。此処に居るのは冨岡先生そのものなんですから」
「それなら嫌がる必要はない筈だ」
「いいえ。だからこそ嫌がります。抗います。断固として拒否します」
「…何故だ」
「良く知りもしないのにLINEという情報だけで以前のご自分を否定なさるからですよ」

正直とてつもなく、最高に腹が立ってる。
多分これが記憶を失くした本人じゃなかったら頭突きのひとつでもしたくなるくらいに。

「確かに冨岡先生は自分勝手な所はありますし人の話もさほど効かないですしすぐに暴走もしますが、冨岡先生なりに私の事を一番に考え、何より大事にしてくれていました。それを否定する人は例え本人であろうが許しません」
「…そんなにアイツの事が好きなのか…」
「アイツって…冨岡先生ご本人なんですが…」
「今の俺は違う。あんな「違いません」」
そろそろ本気で頭突きしたくなってきた。なので代わりに両頬を抓む。
「どうしてそういう自分に否定的な所だけ受け継いじゃうんですかね?今も昔も冨岡義勇は冨岡義勇です。何も変わりませんし、違いもありません」
また傷付いた顔で何処か一点へ視線を投げ出すから、溜め息混じりにその頭を抱き締めた。
距離が縮まって、少しその行動の意味がわかった気がする。
そうやって一点を見つめるのは、自分の世界に入っているのだと。
だけどそれは以前の冨岡先生がしているものとは違う。今のこの人は、何者かわからない自分から現実を隔離しようと、全てをシャットアウトしてるんだ。

「まずご自分を受け入れてください」

いつからはわからないけれど、硬くなっていたその両肩に気が付いたのは力が抜けた後の事。
「…思い出せと、前の俺に戻れとは、言わないのか?」
余りにも弱々しく呟くものだから、つい笑ってしまいそうになった。
「それを言ったら私が否定する事になるじゃな」
言い終える前に抱き返される力強さに、また何処かあの片鱗を感じている。
比べたらだいぶ、加減はされているけれど。

「好きだ」

その一言にドキッとしてしまうのは、少しばかり、いつもとニュアンスが違うからか。
返事の代わりに青みがかった髪を撫でてみたけど、それでは今の冨岡先生は喜ばないらしい。
すぐにその手を掴まれたかと思えば、見下ろしてくる瞳は寂しい。そうハッキリと伝えている。
「好きだとは、返してくれないんだな」
答えに少し迷ってしまった。
本人には、違わない。変わりはない。そう言ったは良いけれど、やっぱりどうにも違和感は拭えない。
此処で私がそれを言うのは、何というか、冨岡先生に対する裏切りのような気がしてしまう。
いや、裏切りも何も冨岡先生なんだけども。わかってはいても、どうもこう、本人が別人格と判断している影響も強いのか、こちらも違うものと認識してしまっている。

そんな迷いを何となくでも見抜いたのか、何度か瞬きをした後で、突然フッと微笑んだ。
それがまた、心臓を高鳴らせていく。

「わかった。俺は俺を超えてみせる」

優しく背中を支えると身体を起こしてくれる動作は、真摯な紳士とはまた少し違うもので正直戸惑った。
「…ありがとう、ございます」
「礼を言われる立場にない。お前の気持ちも考えず逸った行動を取ってしまった。すまない」
「…いえ」
やっぱり、違う。何だろう。この違和感は脳内のバグと言えば良いのか。
だからこそ、多少強引に事を運ぼうとする先程の冨岡先生のほうが"らしく"感じた。

「…帰りますね。明日も仕事ですし」
明日、というかもう今日だけど。とにかくそう言って立ち上がる。
玄関へと無言でついてくる冨岡先生の気配を感じながら、靴を履いた。
「では、またあ」
した、まで言えたか、わからない。

「帰したくない」

熱の籠った声がすぐ傍で耳を撫でて、息が止まった。
それなのに優しく握られる手に、また違和感を持ってしまう。
「絶対に前の俺より、今の俺に夢中にさせる」
「冨岡先生」
意識的に眉を寄せて名を呼んだのは、そこに引き込まれそうな自分の浮ついた心への戒めのような気がした。


いや、どっちも本人なんだけど


(また否定してるじゃないですか)
(否定はしてない。超えようとしている)
(…余り変わらない気がするんですが…)


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