good boy | ナノ
テーブルを挟んで向こう側、まだ開き切ってない目を辛うじて開けながら、のそのそとパンを頬張る表情を眺めつつ、コーヒーを飲む。
先程、顔を洗った際に使ったままのコンコルドクリップに、可愛いなという言葉が自然と浮かんだ。
出来る事ならこのままボーッとさせておいてあげたい。そう思うけれど、こうして落ち着いて話せるのは今しかないので、断腸の思いで口を開く。

「冨岡先生、昨日の話の続きなんですが」

一旦言葉を切って、私の声が耳に届いているかを確認した。
瞳が動いたから、聞こえてはいるらしい。
「婚約者として一緒に住んでいる。そう振る舞うにあたって、いくつか守っていただきたい事があります」
「…何だ?」
「今日から3日間、極力、過激な言動を慎んでいただきたいのと「過激な言動をしているつもりはない」」
言い切ったな、この人。
まぁ、だろうと予想していたけども。
「冨岡先生に自覚はなくても、世間一般的な常識で考えると結構過激なんですよ。流石にいつもの光景を生徒には見せられませんし、聞かせられません」

昨日もそう。
寝る前に思いついたこの条件を伝えようとした所で、また上に乗るのがどうとか言い出した挙句、話し合いが始まる間もなく、なし崩し的にしてしまった。いや、上に乗るのは断固として拒否したけれど。
いつもならば、余程の事がない限り気に留める必要がなくなったその言動も、この3日は我慢してもらわなくてはならない。

「校長が婚約者として、という条件も付けたのもそこでしょう。私達は生徒にとって手本にならなければなりません。品行方正で清いお付き合いという印象を与えるようにしたいんです」
「元々俺達は清い関係だ。2人の間に一切の濁りも穢れもない」
「…いや、それはそうなんですけど」
品行方正の方に触れないのは、無自覚に心当たりがあるからなのかも知れない。
何と言えばこの人は承諾してくれるだろうか。
目玉焼きを食べ始める動作を眺めながら、思考を巡らす。

自分の欲を抑える事は出来なくもないし、暴走もスイッチが入らなければ、最近はそこまで酷くもない。
単純にこちらが慣れてしまったというのもあるけども、とにかくだ。
その証拠に1ヶ月半、大人しかったという実績があるし、そう考えると3日なんて大した事ない。そうも言える。
だけどこの人の場合、駄目と言われると余計に燃え上がる性質を持っているので、一概に大丈夫とも言い切れない。
だから考える。
この人にとって、我慢する事によって生まれるメリットを。
ご褒美というと、また上がどうのとか始まるので、今此処で口に出すべきじゃない。
そこまではいかないながら、それを提示する事で抑止力となるもの。

もう一度コンコルドクリップに視線が止まった事で、閃きに似た何かを得た。

おもむろにそれへ手を伸ばし、外す。その動作には当たり前に疑問の目を向けられて、口を開いた。

「いくら生徒のための取材だからといえ、私しか知らない義勇を他人に見せたくないの」

思っていた程、気恥ずかしさが沸き上がってこなかったのは、それが半分以上、本音だからだろう。
しかし冨岡先生にとっては突然すぎる私の本音に、わかりやすくフリーズした。

「目玉焼き、落ちましたよ」
「……」
「せめて何か言ってくれませんか…?」
流石に無言で目を見開かれ続けるのは居た堪れない。
「可愛過ぎて絶句していた。わかった。取材は断ろう」
「いえ、そこまではしなくて大丈夫です」
「名前しか知らない俺で居たい。仕事も辞めてお前の帰りを待つ選択肢をした方が良いな」
「それ本気で言ってるなら全力で反対しますね」
「何故だ。そしたら全て名前のものになる」
「そこまで全て欲しい訳ではないです。自立性がない人とは一緒に住めませんし、結婚なんてもっての外です。私の稼ぎだけでは現実問題、食べていけませんから仕事は辞めないでください」
小さく唸ると何かを考え出したかと思えば
「飼い犬と恋人の両立は難しいな…」
そうやってブツブツ言い出すものだから、この人ってこういう所、何処まで本気なのか、未だにわからないなと能面になってしまう。
それでも暫くすれば、帰還するだろうと放っておいてパンを齧った。
あとは、何かあったっけ?注意事項みたいなもの。
そう考えていた所で

「わかった。品行方正で清い関係を貫こう」

決意を持った表情に、口の端が上がっていく。

「よろしくお願いします」

軽く頭を下げて上げた時には、既に横に立っていて、いつの間にと思うより早く近付いてくる顔を左手で押さえた。
「…何ですか?どうしました?」
「品行方正な清さという猫を被るため猫を補給しようとしている」
「何言ってるんだかわからない事にしときますね。もうそろそろ支度しないと遅刻しますよ」
「5分で良い」
「嫌ですよ。朝の5分は貴重なんですから」
「ならば3分で全て終わらせる」
「全てって」

突如として始まった攻防も、

ピンポーン

響いたその音に、止めざるを得なかった。


good boy


「へ〜、朝ご飯はパン派なんですね〜。冨岡先生の好みですか?それとも苗字先生の?」

カシャカシャとシャッター音が響く中で
「いえ、どちらの好みというか…今日はたまたまです」
若干、思考が追い付いていないまま答えを出す。
突然の生徒の訪問に、正直圧倒されてしまった。
まさか朝から、そして出勤前から密着が開始されるとは思っておらず、完全に気を抜いてしまっていた所に登場したものだから、"教師"という意識に切り替えるのに時間を要している。
私とは違い、冨岡先生はコーヒーをすすっていて、その落ち着きようから察するに、全部知っていたな、と恨めしさを目つきだけで送った。
いつだかはわからないけれど、この人が此処の住所も教えたのだろう。
じゃなきゃ、この子が知る筈がない。人づてに聞いたとしたら、505号ではなく、506号室に向かう筈だからだ。

未だシャッターを切り続ける部長に、漸く切り替わり始めた頭で考える。
「…すみません、まさかこの朝食、新聞に載せないですよね?」
私の問い掛けに、その手が止まった。
「多分載せないと思います。記録用に色々撮っていくだけなんで、先生達は気にせずいつも通りにしててください。あ、完成した時も確認はしてもらうんでご安心をっ!勝手に載せたりはしないんで!」
「…そうですか」
「じゃあ朝のツーショット撮りますね〜」
そう言われた瞬間に向けられたレンズに、眉が寄ってしまう。
「密着取材をするのは冨岡先生だけでは?私を撮る必要はないのではないかと思うんですが」
何気にポーズを取ってる本人を目端で捉えながら出した発問は

「え?だって、今回はもうすぐ結婚する先生2人に密着するって事にしたいって言ってましたよね?」

無垢な瞳が向けられた瞬間、この飼い主兼恋人兼婚約者(仮)の意図している狙いに気が付いて、ハッとした。

「…冨岡先生」
更に恨めしさを込めた目線で見るも、ふいと逸らされる群青色に、今これ以上突っ込んで聞く事は出来ないと判断し、口を噤む。
だけど間違いない。
この人は密着取材といういちイベントを利用して、恋人という関係を余す事なく周知させ、自分の思い通りになる空気を作ろうとしてる。
そしてあわよくば、写真のデータも貰う気でいる。
完璧に冨岡先生の望み通りだし、ひとり勝ちだ。
しかも、此処で私が嫌だとも言える筈がない。

「私の写真は極力載せないでもらいたいんですが…」
「わぁさすが!」
途端に驚きを見せる表情に、眉を寄せる間もなく言葉が続いた。
「苗字先生は絶対そう言うって!トミセンが!すごーい!」
感嘆している部長から視線を動かせば、若干得意げになってるトミセンに目を窄めてしまう。
最近ずっとこうやって"してやられている"気がする。気がする、というか確実にやられてる。
まぁ、今のは良い印象になるから良いんだけども。余りにもあちらの読み通りに事が運ぶとそれはそれで、後々不利になると身構えてしまうのも癖だ。

「そろそろ出よう。遅刻する」

そう言って立ち上がる姿に、ホントに頭から爪先まで猫を被ってるなと直感する。
心なしか顔も爽やかに見えて、この人犬ではなくて実は何にでも擬態色で対応出来るカメレオンなのでは?なんていうのは、心の中だけで思うだけで留めた。

* * *

歩き慣れたキメツ学園への道は、ひとり人が増えると、こうもまた景色が変わるものなのか、と時々切られるシャッター音を聞きながら、出来る限り平静を保つ。

「そういえば!キメ学に着くまで色々訊きたくて、質問表作ってきたの、見てください」

おもむろに渡された紙を受け取った後、その内容に若干戸惑った。
2人の馴れ初めから此処まで至るまで、事細かな問い。これに全部答えるとなると確実にボロが出るな、という意味から苦笑いが零れた。
「最低限答えて欲しい事は、二重丸してあるんでそこだけはお願いします!」
「…わかりました。努力はして」
みます、と言い切る前に攫っていく手の方へ顔を動かす。
僅かばかり険しい表情をしている冨岡先生に、何か言い出すつもりなのでは?と不安が過ぎった。
特に初めての何々といった所辺りを、重点的に、しかも事細かに答えそうで気が気じゃない。

「悪いが、余りにも個人的で細かい内容は答えられない。初めてのデートやキスなど、他人に教えるような事じゃない」

あら。
つい心の中でそう言ってしまった。
冨岡先生が常識的だ。これはすごい。とてつもなく珍しい。

「えー…そういうのがみんな知りたいところなんだけどなー…」

しょんぼりとしていく部長に、まぁ気持ちはわからなくもないとも思う。
学生時代って、そういう他人の恋愛事情が気になるし、ひとつの基準にしていた子が多かった。
そう考えると、初めてのデート位は答えても問題ないのではなかろうかと考えた所で、それはお弁当箱と下着を買った時になる訳で、とても問題だと早々に意識の外へ追いやる。
こうなると、なかなか品行方正で清いという関係を演出するのは難しいのでは?
だから冨岡先生も止めたのかも知れない。
これまでの過程を思い返すと常識じゃない事ばかりで、とてもじゃないけど清さは皆無だ。
これはある程度シナリオを作っておかなければならない案件だったのではないかと思った矢先、
「答えられるものは、業務の合間に考えておく」
そう言って紙を折り畳むと、自然の流れでポケットにしまっていく動作に、今度は私が"流石"、そう思った。
そう言っておけば、ひとまず此処で、答えの相違やボロが出るのは避けられる。
部長も素直なもので
「お願いします」
何の疑いもなく微笑んでくれて、胸を撫で下ろした。


とにかく立ちはだかった問題を、部長が授業を受けている間に煮詰めておこうとした思惑は、右隣に増えたパイプ椅子と、職員室に響くシャッター音で許されなくなった。
密着新聞を作る時の特別措置とされ、期間内は授業免除だという。
という事は、ひとまず放課後まで部長の密着は続くという訳か、と心の中で溜め息を吐いた。
「…そういえば」
音が止んだ後、出された言葉に、一瞬ドキッともする。
また何か訊かれるのではないかという緊張からだ。
「トミセンと苗字先生の初めての出会いっていつなんですか?」
答えていいものか、部長の向こう側にいる表情を窺う。
書類を作っている横顔は、まぁ真剣なもので、もしかしたら聞こえてないかも知れないという可能性が浮かんだ。
しかしそれも
「去年の入学式だ」
静かに答える姿に、ひとまずは任せようと画面へ戻す。
「その時からお互いの事好きだなぁとあったんですか?」
カメラの代わりにペンとノートを構えるのを、あぁ、取材っぽいなと目端で捉えた。
「その時はまだない。俺がそうだと感じたのは、次に始業式で会った時だ」
「へー」
変な事を言い出さないか。気が気じゃない。
何でかって、この人の場合、変だという自覚がないからだ。
「それでもはっきりと気が付いたのは、生徒から告白を受けた時だ」
これは、言っても良いのか。判断に困る。
「断ろうとした時、名前の顔が自然と浮かび、気が付いたら手紙を竹刀で叩き落としていた」
「へー!素敵っ!」
そして果たして素敵なのだろうか。
「その子私と同じクラスだったんですよ」
「そうなのか」
「そうです。だから良く知ってますその話」
「落ち込んでなかったか?」
「いえ全然!あの子前から色んな人にそれやってるんで。宇髄先生とか煉獄先生とかには毎月のように手紙送ってますよ。付き合ってくださいって」
そうなのか。
つい、冨岡先生と同じ事を思ってしまった。
でも良かった。それがトラウマになってるんじゃなくて。
心なしか、冨岡先生もホッとしていて、そういう所が好きかも。なんて思う。
「それでそれで!苗字先生が好きってわかってからどうしたんですか!?」
「決まってる。好きだと告げた」
「そしたら苗字先生は!?」
「断られた」
「ええー!?何でですか?」
これはまた、掘り下げるのは良くないのでは?
自然と寄った眉間に、こちらを見た訳ではないのに群青色の瞳が僅かに動いた。
「当時名前は赴任したてで忙しかった。恋愛などする気にならなかったのだろう。それに俺の事も良く知らないままだった。警戒をされて当然だ」

隠そうと、してくれている。そう、瞬時に過ぎった。
私の過去が露呈してしまわないように。

「じゃあ付き合ったのはいつなんですか?」

核心に触れるような問いに、どうするべきかを考える。
正直に答えると、僅か2ヶ月半ほど前、という答えになってしまう。
それで同棲、そして婚約者は如何なものかと。
正直、生徒の誰かがそんな事態に陥っていたら、冷静な見極めをするよう諭したくなる。
だからこそ経歴は、どうにか上手い事、改竄したいとも思う。
付き合って、同棲に至り、婚約者となるまでの自然の流れの構想はある。しかし、冨岡先生に相談というものを一切していない。
だからといって、此処で私が止めるのも、口を挟むのも、余りにも不自然だ。
傍観に徹するしかない。

「俺の謹慎が明けてからだ」

一言で答えたその横顔を凝視したくなる気持ちを堪えて、ゆっくり目線だけを向ける。
「俺の身の潔白を証明するために、名前は動いてくれた。そこから距離が縮まったのを覚えている」
「うわ、すっごい!ドラマみたいな展開!じゃあ一緒に住もうってなったのは?」
「新年度を迎えた辺りから徐々にだ。今も完全に一緒に住んでる訳じゃない」
「あ、そうなんですね!いいなぁそういうの!」
嬉々としていく部長の声を聞きながらも、凄い。その一言しか出てこなかった。
まさしく、私が思い浮かべたシナリオ通りだったから。
この人は察知能力というか、本当に私の心を的確に読んでくる。
熱心にメモをとっていく姿越しに目が合って、僅かに上げる口角は、まるでヒーローみたいにカッコイイ。そんな事。

いつだかも思ったっけ


(あ、だからまだ指輪とかもまだなんですね!)
(近々買いに行く予定だ。何なら今日でも良い)
(…冨岡先生!?)


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