むぅ、と唸る横顔に、視線を向けてからまた戻す。 パソコンを見つめながらも、何をそんなに真剣に悩んでいらっしゃるのか。ちょっと笑ってしまいそうになる口元は、マグカップを運んで誤魔化した。 「職場のカップもお揃いとかいいなぁ」 カシャカシャと音を立てる部長にも、この数時間で、少し慣れたと言えば慣れた。 「…難しいな」 また小さく唸る冨岡先生に、今度は堪えきれなくて顔を背ける。 「やっぱ犬派と猫派の溝は深いですよね」 部長が同情混じりにそんな事をいうものだから、余計に笑いが零れそうになった。 冨岡先生がこんなにも真剣に悩んでいるのは他でもない。 会話の延長線で、何気なく部長が出した "2人で飼うなら、犬と猫、どちらが良いか" この質問がずっと尾を引いている。 どう考えても、明確な答えが出ないそうだ。 先程ブツブツ言っていたのを拾い上げると、"冨岡先生に似た犬を飼うか、私に似ている猫を飼うか、それが究極の選択"らしい。 多分こんなに悩んでいるのは、それだけではなく、飼い犬というポジションを取られるとか、またそういう理解に苦しむ事なんだろうな、と思うと笑いしか出てこない。 そんな常人では想像も出来ない思考は、部長には全く伝わっていないらしく、犬派の冨岡先生と、猫派の私の中で、争いが起きていると解釈したようだ。 余計な事を言うのは控えようと、全く口を挟まずにいたが、今この時ばかりは、真剣に自分の世界に入ってしまった冨岡先生に困り顔を強くしていくのを、放っておくわけにもいかない。 「どちらも飼えば良いのではないでしょうか」 ひとまずの折衷案を提示すれば、群青色の瞳が驚いている。 「…そうか」 まるで目から鱗が落ちたが如く納得している姿に、今まで堪えていたものが溢れ出した。 「…あ、苗字先生が笑ってる〜!嘘!すごい!」 「すみません…」 やはりその反応をされると思ったし、レンズを向けられるのも予測が出来た。だから我慢してたんだけども。 「いっつもこんな風に笑うんですか!?私初めて見た!」 「俺と居る時は大体そうだ」 「へー、いいな〜素敵〜」 これはまた冨岡先生のシナリオ通りに動いている。そんな気がする。 だけど、目を輝かせている生徒を前に、此処で否定するのもまた違ってくる訳で黙るしかないと口を噤む。 「あ、先生。そういえばさっきの話なんですけど」 「何だ?」 「指輪買いに行くって話です。今日行きません!?密着させてください!」 いや、これに関しては黙ってる訳にはいかないと言葉を出した。 「すみません。ここ1週間は仕事が立て込んでまして、買いに行く時間がありません。無理です」 「えー…!」 途端に落とす肩には申し訳なさを感じるけれど、こればかりは承諾しかねる。 赦してしまうのは、なし崩し的なものを助長する可能性があるためだ。 この流れで婚姻届を出そうなんて話になったら、困る所の話じゃない。 「やっぱり3日じゃ短いな〜…今度の休みまで密着しちゃダメですか?」 「駄目だ」 私より遥かに早く答える冨岡先生は流石だ。 食い下がる部長への対応はそちらにお任せする事にして、そういえばあの婚姻届って何処にしまったっけ?なんて考えた。 good boy 「泊まります!」 「駄目だ」 「なんで〜」 「名前が疲れてる。他人が居ると良く眠れない」 「邪魔しないようにしますから!」 「無理だ」 学園からの帰り、すっかり陽が暮れた道を冨岡先生と部長の攻防を耳にしながら歩く。 まぁ、起こるだろうと予期は出来ていたので、ひとまずは傍観に徹する。 私としてはどちらでも良いというのが本音だ。 悲鳴嶼先生から聞いた所、親御さんの許可は取ってあるそうだし、今此処で1人で帰らせるのは気が引けるし、心配にもなるので、もしそうなった際には送り届けようとも心に決めている。 しかし、その"もし"は起こらないであろうと予見もしていた。 恐らく、この戦い、強靭な狂人の冨岡先生でも勝てないだろうな。 何故かって、常人という名の猫を被っているからだ。 「苗字先生は!?どうですか!」 ぐるん、と顔を向けられて、ちょっと圧倒されてはしまったが、 「私はどちらでも、大丈夫です」 思っていたそのままを伝える。 一気に不満そうな表情をする冨岡先生は見なかった事にした。 「苗字先生がいいって言ってるから良いですよね!」 「駄目だ。許さない」 「トミセンの頑固〜!」 結局その攻防はマンション前まで続いて、最後は冨岡先生が口を噤むという形で決着する。 エレベーターに乗る時ほんの少し、こちらを憂慮する表情を向けられて、それが何故なのだろうというのは、すぐに解決した。 夕飯を食べてから、部長を先にお風呂へと案内した後。僅かだけど2人になった時 「大丈夫なのか?」 すぐにそう訊ねられた。 「何がですか?」 エプロンを外してから、リビングへ移動する私の後ろを自然とついてくるのが、犬のようで頬が弛む。 「他人を家に泊めるのはお前の負担になる筈だ」 あぁ、だからあんな複雑な顔をしていたのか、と納得した。 「まぁ、そうですね」 確かにそうだ。間違いないと言える。 今までの私なら、どうにか回避しようとしていただろう。 単純に気を遣うのが嫌だからだ。 他人が居れば、自分のリズムも当たり前に崩れるし、正直気を抜ける瞬間がないに等しい。 私の性格上、疲れてしまうのがわかりきっているから、最初から避けるようにしていた。 だけど、今回は―… 「心配していただいた身でこう返すのもおかしな話ですが、正直言うと楽しいですよ。心境の変化ですかね?」 クローゼットを開けた所で、背中に感じる温かさに瞬きが多くなった。 「これを出すのか?」 「えぇ」 流石は冨岡先生。察知が早い。 目の前の圧縮された布団を掴んだ手に、此処に居るのは邪魔だろうと横にずれようとした動きを、伸びてきた腕で遮られる。 そのまま頭に埋められる鼻に、あぁ英気を養ってるんだな、と呑気に考えた。 「飼い猫になった事で、人間への警戒心が薄れたか」 「…まぁ、喩えるならそうかも知れません」 否定が出来ない辺り、面白いなと思う。 思わず笑ってしまったから、一緒になってその顔も揺れた。 「それに、普段見られない義勇が見られるから…ぐぇ」 少し照れ臭くなったその台詞は、思いっ切り抱き締められたせいで台無しになったけれど、本人は嬉しいらしい。 「可愛い。襲いたい」 「駄目です。あと痛いです」 「わかってる」 放れた腕から私が抜け出すと、意味を汲み取ったように布団を取り出していく横顔は喜びに満ちていた。 「冨岡先生も、楽しそうですね」 「こんなに堂々と名前との関係を他人に話せるのは誇らしい」 「それは、良かったです」 「やはりこのまま結婚しないか?」 「やはりって何ですか。そうやってノリとか勢いでしようとすると後悔するかも知れませんよ?」 「何を後悔する事がある?」 「結婚した事を…」 最後まで言い掛けて、あぁ、この人に限ってそれはないかと思ったのと同時に 「俺が名前に対して後悔する事があると本気で思うのか?」 心底驚きに満ちた表情を返されて、苦笑いが出た。 「今自分で言ってて、ないだろうなって気付きました」 「そうだろう」 ちょっと得意げな顔してるのが、これまた褒められた犬みたいだと思いながらリビングの床を指す。 「あ、布団。此処に置いてください」 「わかった」 圧縮袋の口を開ければ空気を吸って膨らんでいく一組の布団。 それを見て、詰めれば二組敷けるか。そう、ふと考えた。確か前に弟が泊まりに来た時、もう一組買い足した筈。 「冨岡先生、すみません。もう一組運んで貰っても良いですか?」 「…それは誰が寝る?」 「わ「駄目だ」返答早くないですか?」 思わず呆れ顔をしてしまった。 「おおかた俺を寝室で1人寝かせるつもりだろう。駄目だ赦さない」 「現実を考えるとそれが一番良い方法なんですよ」 「良くない。お前が他人と一緒に寝るのも俺が1人になるのも良くない。赦さない。嫌だ」 「2号が居るじゃないですか」 「2号は気休めだ。お前の匂いも染みついていない」 「ホントに犬みたいですね」 「みたいじゃなく俺は犬だ」 ここぞとばかりに擦り寄ってくるのは確かにそうとしか見えないんだけども。 「邪魔です」 「可愛い飼い犬を邪険にするのか?」 「邪険にはしてないです。くすぐったいんですよ髪が」 「撫でるなら存分に撫でて良い」 そう言いながら更に擦り寄ってくる顔に髪を退けようとしていた手を止めた。 「ちょっと!何処に顔くっつけてるんですか!」 「胸だが?」 しれっとした台詞に溜め息が零れる。 「品行方正で清い関係を貫く筈では?」 「犬が飼い主に擦り寄るのは問題ない」 「問題あります。こんな所生徒に見せ」 マズイ。洗面所の戸が開いた音がした。 「ちょっ冨岡先生!ホントに離れっ」 「嫌だ」 足音が近付いて来てるのが確実にわかっててやってるこの駄々っ子は。 ヤバイ、扉が開かれる。そう思った瞬間 「義勇っ!おすわり!」 そう叫んでいた。 「お風呂ありが…え?おす、わり?」 事態を飲み込めていない瞳が、大人しく座る冨岡先生と、人差し指を指している私を交互に視線を向ける。 見られなかった安堵感はあるが、これもまたマズイ。 どうにか何か言い訳を考えなくてはならない。 「犬を飼ったらどう躾けるかをシミュレーションしていました」 「わん」 こちらは必死だというのに、突拍子もなく無表情で鳴き真似をするものだから、噴き出してしまったじゃないか。 「あははっ!可愛い〜!」 でもそのお陰で部長も笑っているので、よしとしておこう。上手く誤魔化せたけど 「ほんとにトミセン犬好きなんですね」 その台詞には、何も返せなかった。 また勘違いが増えていく (犬になれば役得が多い) (…犬に、なれば?) (犬になりたい程好きって事ですよね!冨岡先生!?) [ 148/220 ] [*prev] [next#] [mokuji] [しおりを挟む] [back] ← ×
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