分厚いページを捲りつつも、すやすやと眠る無垢な寝顔へ顔を上げずにはいられない。 可愛い。その一言に尽きる。 それがまた叔父である人物の胸中で、というのだから尚更だ。 「どうですか…?」 忍び声でそう言えば、部屋中を徘徊していた足を止め、静かに私の横へと腰を下ろす。 一瞬起きてしまわないか、緊張が走ったものの 「すぴー」 まるで漫画の擬音のように鳴る鼻に、笑いを堪えた。 「漸く寝た」 溜め息混じりの声も、いつもより声量が抑えめになっている。 流石の強靭な狂人も、上手く寝付けず愚図り続ける赤ん坊には防戦を強いられ、若干の疲れの色が滲み出ていた。 寝息が聞こえたという安堵から、立ち止まった瞬間に泣き声に変わる。何度もそれを繰り返していたのだから、参るなというのが無理な話だろう。 実際、この部屋を何回、いや、何十回往復したか。数えるも憚れる程だ。 途中で交代を名乗り出たものの 「赤子1人寝かせられないようじゃ名前との子供を育てるなど夢のまた夢だ」 と良くわからない闘争心を燃やしていたけれど、最後の方には 「眠いなら眠れば良いだろう…」 愚図る姿に呆れで満ちた目で見ていたのを思い出す。 それでも完全に寝付くまで、投げ出す事もなくやり切った姿は何と言うか、正直頼もしい。 もし、この人が父親になったら、なんて、そういうのを重ねて見てしまわなくもない。 それは今すぐどうこうの話じゃないので、口にはしないけど。 持ったままだったアルバムに視線を落として、冨岡義勇という名前の上、幼顔に顔を綻ばせた。 「…可愛いですね」 その感想は、つい口を突いて出てしまう。 「そう言われるのは好きじゃなかった」 「それは、すみません」 「名前になら良い。寧ろ言われたい」 「…そうですか」 何と答えて良いか返答に困るため、頷くだけにしておく。 まじまじとその写真を眺めながら、自然と桜祭りを思い出した。 8班の班長が言っていた"女みたいだった"というのを今、とても納得している。この頃に逢っていたら、どうなっていたんだろうか、と想像でしかないけれど考えてみた。 少なくとも多分、この写真の中の人物が私を好きになる事はなかったんじゃないか。そんな気がしてる。 good boy 「そう考えると、面白いですよね」 「何がだ?」 「運命の巡り逢わせです。出逢うべき時に出逢うべくして出逢った、なんて良く言いますが、あながち間違ってもないのかも知れないと思いました」 「俺と出逢えた事が運命だと、そう言いたいのか?」 「…ちょっと違うんですけど、まぁ良いですそれで」 嬉しそうにキラキラさせる瞳を向けてくるのは反則だ。 まぁ、でも運命というものがあるのなら、それも悪くないとは思う。 個人写真からクラス写真のページに移れば、また私の知らなかった頃の冨岡義勇が居て、その純真無垢な姿に、意識していないのに頬が弛んでいく。 「可愛いだろう」 「自分で言っちゃうんですね」 つい苦笑いになりそうになったのは抑えて視線を動かした瞬間に、また顔が綻んだ。 「髪、掴まれてますよ?」 いつも後ろにある長い髪を珍しく前へ流してると思いきや、その一束をぎゅっと握る小さな手。 「何かを掴んでいた方が寝付きが良いので与えておいた」 「…可愛い」 起こしてはいけないのはわかっているのだけど、この前よりも毛量が増えたそのフワフワな頭を撫でたくなってしまう。 少しだけなら、と手を伸ばした所で早々に右手に捕まった。 「頭を撫でるなら俺が居る。俺を撫でてくれ」 「いえ、大丈夫です」 まだ張り合うかこの人は。 柔らかい髪に触れるのは諦めて、その手から抜け出す。 下手に触って起こしても申し訳ないとも思うので、仕方がない。 「俺を見る目とこいつを見る目が全く違う。何故だ」 「何故って、それは…」 言葉に詰まるのは、見つめてくる群青色が酷く悲しそうだからで、言葉で何を言っても傷付けてしまいそうな、そんな気がしたから。 冨岡先生にとっては、何が起きようと私が1番だから、私にとっても、自分が1番で在って欲しいのだろう。 「嫉妬深い犬ですね」 溜め息を吐いたつもりだったけれど、口角は上がってしまっている。 そっと頭を撫でながら形の良い鼻にキスを落とした。 僅かながら開かれた瞳は、予期せぬ行動に驚いているのが窺える。 「義勇が1番可愛いよ」 強めに頭を撫でるのは完全に照れ隠しからくるものだけど、言葉自体は嘘じゃない。 自然な流れで髪を耳に掛ければ、僅かながら赤味が増しているのを見止めて、可愛い、その4文字がまた勝手に浮かんだ。 「…この状況でそれは卑怯だ。俺がお前に手を出せないのをわかっていての言動だろう」 「そうです」 不満を露わにしながら見つめてはくるけれど嬉々としたものを感じて、安堵はしている。 「やはり鬼畜飼い主か。わかった。指を舐めるだけで今は我慢しよう」 「…どうしてそうなるんですか」 折角撫でていた手を攫っていったと思えば、迷いなく口に含もうとする動きに全力で抗って拒否を示した。 「ちょっとやめてくださいホントに。犬じゃないんですから」 「俺は犬だ。思えば飼い主の指を舐めるのは日常と言える」 「そんな非日常を普通にされたら困るんですけど。しかも汚いですよ色んなもの触っ「汚くない。名前は綺麗だ」いえ、そういう意味ではなくて」 参った。ご子息が眠っているのをチャンスだと言わんばかりに一歩も引く気がなさそうだ。 これはまた折衷案を探さねばならない。 しかしこの状況で何を差し出せば良いのか。そう考えると指が無難なのかとも思えてきてしまうのがまず罠だ。 「わかりました。家に帰るまで"待て"が出来たら赦します」 どうにか考えるも、それしか道はない。 「家に帰ったら舐め放題という事か…」 「いや、そこまでは言ってないんですけど。どうしてすぐにそう斜め上に向かっていくんですかね」 「わかった"待て"を継続する」 「しかも聞いてないし」 キリッとした顔をしてから放される手は有難いとも思うけれど、こうなると帰宅後の攻防戦がある訳で、そこら辺は気が重い。 この人は一体、いつになったら落ち着いてくれるのだろうか。最近、本気でそう思わなくもない。 「そういえばそっちは何ですか?」 先程、手持ち無沙汰な私へ、冨岡先生が出してくれた数冊のアルバム、まだ残っている方へ視線だけで示した。 「赤子と中学時代のものだ」 「見ても良いですか?」 「構わない」 渡された分厚いそれを開けば、産まれたばかりの写真がまず目に入る。 何だか不思議な感じがするこの感情を、言葉には表しづらい。 「…可愛いですね」 それだけはまた素直に出てきて、言われた本人が静かに喜んでいるのを気配で感じた。 この頃から綺麗な顔をしているし、甥であるこの子の面影も若干ある。 血筋とは面白いものだと、何処か目には見えない繋がりを感じながら順番に目を通していく。 そうする事で、表情豊かだった無垢な少年が今の冨岡義勇になるまでの過程を垣間見た気がする。 最後に開いた中学の卒業アルバムからは冷たい瞳をしていて、あぁこれが桜祭りの事件後なのだろうと考えてみると、胸が痛んだ。 「…この先はないんですか?」 「あるとは思うが此処には置いてない。恐らく親がしまっている。これも棄てようと思ったが、姉が止めたためこのまま置いてあるだけだ」 淡々と言うその言葉の奥底に気が付いた事で更に心が苦しくなる。 これ"も"という事は、中学以降の写真を、一度破棄しようとしたのだろうな、と。 「じゃあ私がこれを見られたのは、蔦子さんのお陰ですね」 棄てられてしまわなくて良かった。そう思わずには居られない。 「私が知らない義勇が知る事が出来て、嬉しいです」 今この場だけは、気恥ずかしいなどという陳腐な感情より優先させるべきなのはこの人の心だと、素直な気持ちを告げた。 知って欲しい、と言っていたから。それに応えたい。その意思を。 「…今度は、俺が知らない名前を知りたい」 少しの沈黙の後、出された言葉の意味が何なのか、理解が遅れた。 「アルバムですか?」 「そうだ。産まれた頃から今まで、全て観たい」 「まぁ、良いですけど。実家に残ってるか確認してみます」 「その時に結婚の挨拶もしよう」 「どういう経緯でそうなったんですか?」 いつ結婚なんて話になったのか本気で記憶にない。 こういう所は付き合っても変わらないんだな、という何処か安心感も抱いてしまってるけれども。 「これからの将来を見据えた結果そうなった。自然だろう?」 「…成程。まぁ、そうですね」 暴走さえしなければ大丈夫そうだけども。 あぁ、でもそうか。弟がうるさそうだなと考えた所で、あれ?そういえば今年中学生になったんじゃなかったっけ?と疑問が出た。 入学祝いの催促がなかったからすっかり忘れてた。今度何かしら持っていくか。といっても強請られるのは現金だろうけど。 「何を考えてる?」 「あぁ、すみません。弟の事を考えてました」 下降していく機嫌を肌で感じ、慌てて続ける。 「挨拶ですね。考えておきます」 そうは言っても、この嫉妬心が強い内は顔を合わせない方が良いのではないかとも思う。 思わぬ所で飛び火してあらぬ方向へ爆発しそうだ。 「アルバム、ありがとうございました」 「可愛かっただろう?」 「…そうですね。可愛かったです。とても」 この人、恥も概念もかなぐり捨てて私に褒められようと直行してくるのに、素直に返すとそうやって耳を赤くさせるんだよな。 「今も可愛いですよ。すごく」 言葉に詰まるその表情も物珍しくて眺めていたいけれども、身動きを始めた小さな手足にそろそろじっとしているのも限界だろうと察せられるので、耳に掛けていた髪を戻した。 「片付けて下に戻りましょうか」 積まれたアルバムへ顔を向けたと同時に引かれた手。 「帰ったら全て、余す事なくお前を舐め尽くす」 耳元で聞こえる恨み節にゾクッとしてしまった。 それだけで放れたものの、けたたましくなる心臓はすぐには落ち着かない。 どうしてこの人はこういう事を平気な表情で言えるのか。未だに謎な部分だ。 こちらが動揺しているのはわかっていて尚、涼しい顔でスマホを取り出すと若干目を細めている。 「姉からLINEが来た。起きたらしい」 「わかりました」 その一言で立ち上がる姿に倣い、アルバムを本棚の隙間に押し込んでから膝を伸ばした。 * * * 「凄く良く眠れたわ。ありがとう2人共」 穏やかな笑顔から、それが嘘じゃないのが伝わってくるが、明らかに本調子でないのは肌の血色から見ても明らかだ。 布団の傍らに座る私の後ろで、止まる事なく歩き続けている足音を聞きながら口を開く。 「大丈夫ですか?もう少し寝ていても…」 遮るように首を横に振る蔦子さんに、黙って続く言葉を待った。 「そろそろ主人も帰ってくるから。それに薬も効き始めたし大丈夫。ごめんね心配かけちゃって」 そうか。それなら弟が居るのは少し分が悪いのか、と気が付く。 すぐに私達は此処を出なきゃいけないなと思いながらも、疑問を口にした。 「蔦子さん、毎月寝込んでしまうのですか?」 「え?あ、たまに、だけど…出産後は毎月、かな」 一瞬後ろへ視線が泳いだ上に、歯切れが悪いのは、例え姉弟であっても異性である事から来る恥じらいだろう。 冨岡先生が全て何でもフルオープンの人だったから、私まで配慮を欠いてしまった。これは、とても申し訳ない所の話じゃない。 「…あとでLINE、させていただいてよろしいでしょうか?」 「うん」 遅すぎる気遣いながらそう問えば、安心したように微笑ってくれて、そこについては気が付いて良かったと胸を撫で下ろしている。 「本当にありがとう、名前ちゃん」 「…いえ。私は特に、というか全くお力になれませんでした」 結局此処に来て、した事と言えば、昔のアルバムを拝見させていただいただけで、ご子息の面倒はほぼ冨岡先生1人が見ていた。本当に何もしていないと言わざるを得ない。 「名前ちゃんが居るからあの子、ああやってあやしてくれてるのよ」 こそっと耳打ちするとおかしそうに笑う蔦子さんには、私達の関係性の深い所まで読まれているのだろう。ふと、そんな気がした。 「お邪魔しました」 ご機嫌で目を覚ましたご子息と、笑顔の蔦子さんに見送られ、冨岡家を後にする。 「親への挨拶は今度だな」 歩き出すジャージ姿に続きながら、そうだ、何も考えないで上がり込んでしまったけれど、挨拶も手土産も何もナシの状態だったと今それに気が付いた。 良かった。鉢合わせにならなくて。 流石に蔦子さんとは面識があると言えど、家主であるご両親の承諾なしに家に入るのはよろしくはない。 今度はきちんと連絡をした上で手土産も用意して挨拶に窺わなくてはと考えた。 結婚の、ではないけれど、一応恋人として。 そういう時の手土産って何が良いのだろうか。あとで調べてみよう。好き嫌いも関係してくるから、蔦子さんに相談するのも良いかも知れない。 勿論、体調が落ち着いたらの話になるけれど。 「姉に何とLINEするつもりだ?」 突然の発問に、意識がそちらに持っていかれた。 「低用量ピルについてです。私もまだ飲み始めたばかりですが、何もしないよりは少しマシになるのではと思いまして」 「…そうか」 それだけで納得している冨岡先生は流石だと言える。 おもむろに自分の胸元から腹部を確かめるように動かした右手に眉が動いた。 「どうしました?」 「いや、妙にここら辺が軽く感じる」 「…寂しいですか?」 「寂しくはない」 即答はしたものの、もう一度腹部を触る手は明らかに寂寥としている。 何を言うべきか思考を巡らせていたため、繋がれる手に気が付いたのは相当後になってからだった。 「冨岡先生」 「何だ?」 「定期的に蔦子さんのお手伝いしませんか?私達」 「手伝い?」 足を止めた表情が不可解といった顔をしている。 「そうです。これから…と言っても平日は難しいですが、今日のように蔦子さんの体調が優れなかったり、気分転換をしたいといった時にその何時間かでもあの子を預かってあげられたら、お力になれるのではないかと考えたんですが、如何でしょう?」 そうしたら、叔父と甥としての関係も自然と作られて、冨岡先生も実家に帰りやすくなるのではないかという目論見は口には出さない。 「俺のためか?」 まぁ、すぐに見抜かれるので言う必要がないというべきか。 「それだけではありません。今日の蔦子さんは正直見ていて心苦しくなりました」 「赤子といえど名前には近付かせたくない」 はっきりと言い切ってくださった群青色の瞳は真剣そのもので、そこはやはり変わらないのかと能面になってしまうも 「それまでにオシメの替え方を覚えておく」 その台詞に、どうも素直じゃないなと思うと笑いが零れた。 「オシメって昔の人みたいですよ」 それだけではないけれど、それが理由だという事にしておこう。 黙ったまま歩き出した手に引かれ、足を動かせば、嬉々としていく空気を感じてその顔を見上げた。 こちらは何も訊ねてもいないのに 「帰れば名前を舐め放題だ」 キラキラとさせる瞳に、そういえばそうだったと気を落とす。 「冨岡先生、非常に報告しづらいんですが…」 「何だ?」 「実はまだ、終わってないんですよ」 若干の間は空いたものの、すぐに理解をしたようにこちらを見た。 その思考回路の速さに期待して、濁して言ったのだけども、流石としか言えなくなる。 「いつもより長いな」 そう面と向かって言われると、何処か羞恥が募っていく。的確に把握し過ぎなんだよなこの人の場合。 「もしかして副作用か…!?」 いきなり掴まれた肩にビックリしてしまった。 勢いの良さに考えようにもまごついてしまう。 「…まだ、そうだと決まった訳じゃないです」 「今日も無理していたんだな…」 「いえ、無理はして「気が付けなかった。飼い犬兼恋人兼飼い主兼婚約者でありながら飼い主兼恋人兼飼い猫兼婚約者の体調を見抜けな」すみません何か増えてますし人の話は聞いてください」 あらぬ方向に走っていこうとするのはホントにどうしたら治まるのか、溜め息を吐きながら考えてみる。 考えた所で無駄なのはわかっているけれど。 「もし私が無理をしていたのなら、真っ先に気が付くと思いますよ。飼い犬兼恋人兼飼い主なら」 敢えてひとつの単語を抜きつつ、要らぬ心配は無用だと伝えたつもりだったのだけど、この人はどうしてか 「どこまでなら舐めて良い?今日はそれで手を打とう」 真面目にぶっ飛んでくるのものだから、薄目にその群青色を見つめるしかなくなってしまった。 そういう折衷案ではなくて (…出来れば何処もやめて欲しいです) (わかった。俺を舐めたいのか。余す事なく堪能してくれ) (それも遠慮したいんですけど…) [ 141/220 ] [*prev] [next#] [mokuji] [しおりを挟む] [back] ← ×
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