good boy | ナノ
河川敷に沿った道を歩きながらも、たった1ヶ月と少ししか経っていないというのに、見える景色はこんなにも違うものかと感じていた。
薄紅の花で満たされてきた木々も、菜の花色で敷き詰められていた地面も、今は緑が生い茂っている。
しかしそれはそれで、季節の移ろいを感じられる上、壮大なのは変わらないな、と歩く速度は弛めないままで、その風景を眺めた。
隣で真っ直ぐ前を見据えている瞳に、それは恐らく映っていない。
興味がない、というのもあるけれど、今はとにかくそれどころではないのだろう。
ただただ引かれる手に黙ってついていった先、"冨岡"と書かれた木製の表札と、厳かな外塀に、若干たじろいでしまった。

「…凄い、立派なお家ですね」

その一言を出す間にも、中へ入っていく背中に続かざるを得ない。
「古いからそう見えるだけだ。田舎の一軒家など、何処もこんなものだろう」
進んでいく先で見えたこれまた立派な中庭に、広い、という言葉しか浮かばなかった。
2階建ての日本家屋の引き戸を開けると
「ただいま」
そう言う冨岡先生が、新鮮だと感じる。
いや、自分の家なんだから当たり前なんだけども。多分、その言葉を耳にするのは初めてな気がするからか。
「…お邪魔、します」
靴を脱ぎ揃えた玄関がこれまた広くて、完全に圧倒されてしまっている。
しかしこれだけ広ければ蔦子さんの旦那さんが、ご両親と一緒に住むという選択をしたのも頷けた。
嗅ぎ慣れない筈の冨岡家の匂いが、何処か懐かしく感じるのはこの昔ながらの雰囲気なのか、それとも此処に住んでいた人物と近しい関係にあるからか。どちらもだろう、なんて考える。
「多分、こっちに居る」
それだけ言うと、今でいう所のリビング、と言えば良いのか、そこを通り抜けていく。
続く閉ざされた襖にノックをすると
「…はい」
か細い声が聞こえた。
開かれた先の和室には布団の中に伏している蔦子さんと、その横には時折高い声を上げながら、手足をバタバタと動かしているご子息。
「具合はどうだ?」
問い掛けながらその場に屈む冨岡先生を後目に、散乱した使用済みの紙オムツや哺乳瓶を確認して眉を寄せた。
万全な体調ではない中でも、懸命に1人で頑張っていたのであろう事が容易に窺える。
姉弟の邪魔にはならぬよう、短い会話を耳に入れた。
どうやら察するに、蔦子さんの体調不良は月経からくるものだと悟る。ぼかしてはいるが、ほぼ間違いはないだろう。
だから先程送られた文面が、僅かながら冷たいと感じたのかと今、とても納得している。
「…少し、眠りたいの」
力ない声と共に、振り向く群青色と目が合って、こちらに判断を仰いでいるのを気が付いた。
「わかりました」
どうするべきか。
とにかく蔦子さんを安静にさせる事が優先だ。しかしそうするにあたって、いくつかの情報は聞かざるを得ない。
「蔦子さん、お辛い中申し訳ありませんが、育児用品がある場所、それと毎日の記録などつけていたら見せていただきたいのですが」
「…私の方こそごめんね。こんな事、名前ちゃんにしか頼めなくて」
眉を下げた蔦子さんが、ゆっくりと続きを話す間、やはり此処に訪れたのは間違いではなかったと考えていた。


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ひとまず隣のリビングまでご子息と共に移動してから、お借りした抱っこ紐を見つめてみる。
簡易的な装着の仕方は聞いたけれども、実践するとなると何処となく緊張するな、と思いながら腰にバックルを巻いた。
今日1日、蔦子さんは勿論、この子も余り寝ていないという。
赤ちゃんの習性と言えるのか、どうにも抱っこしていないと眠らない事が多く、漸く寝たと思い、布団に寝かせようとすると泣き出してしまうの繰り返しだと聞いた。
それに加え、頻繁に寝返りをするようになったものの自分では戻る事が出来ない心配から短時間でも傍から離れられず、家の中でも抱っこ紐が重宝していると言っていたため、私もそれに倣おうとしている。
「ごめんね、もう一度抱っこするよ?」
蔦子さんはおんぶが楽だと言っていたが、子育て経験者のない私には後ろが見えないというのはかなりの恐怖でしかなく、正直上手く装着出来る気がしない。
なので先日、蔦子さんがしていたように前抱きの選択肢を選んだ訳だが、ベルトを肩に掛けようとした所で

「待て。何をしてる?」

鋭い声がした方へ視線を向けた。
群青色の瞳が、ここ最近では珍しく険しいもので、一瞬息を呑んでしまう。
「何って、抱っこ紐を「駄目だ許さない」」
これはまたお怒りだと、その原因を考察する前に眉が寄せてしまうのも、やはり今までの積み重ねから来る自衛なのだと実感している。
そしてその原因が、今此処で
「あぅー」
可愛らしい喃語を話している小さな存在だという推測に至った時には、更に眉間に皺が増えていた。
「…冨岡先生、まさか嫉妬、とかしてないですよね?」
「まさかも何もそうだ。俺がしないとでも思ったのか?」
「いえ、それはまぁ、そうなんですよね。そうなんですけど…」
流石に赤ん坊と同じ土俵には立たないのではないかという、僅かながら期待もあった。
それが綺麗に全否定された今、苦笑いも出来ない。
「それを着けるという事は必然的にそいつは名前と密着するという事だ。そんな光景は見たくない。お前の身体は俺だけのものだ。誰にも触らせない」
「凄い真剣な表情でおっしゃっていられますが、敵視してる相手は純真無垢な瞳を叔父さんに向けてますよ。この世の汚いものを全て浄化出来るのではないかという位の曇りなき眼で見つめていらっしゃいます」
「あぶぅー」
「そんなもの俺には効かない。赤子だからといって例外はない。何人たりとも俺の名前には触れさせないし渡さない」
「…ぇっ、ふぇ」
まずい。愚図り始めた。
「ちょっと冨岡先生、赤ちゃんに威圧するのやめてくれませんか?」
「していない」
「その怒りのオーラが怖いんですってば。小さい子はそういうのに敏感なんですから…」
どうにか背中をトントンと叩いてあやすも、降下した機嫌は治ってはくれない。
威圧を感じたからなのか。それとも眠いのか。
ミルクは先程飲ませたばかりだと言っていたから、それ以外という事以外、全く判断出来ないが、これは早々に抱っこ紐に収まっていただいた方が良いのではないかと思った所で、鼻を突く匂いに眉を寄せた。

「…オムツですね」

口にしてから、成程と納得する。
育児用品が詰まった鞄から、おしりふきとオムツ、そしてオムツを替える際に使うといっていたシートを取り出した。
「…失礼します」
小さな愚図りが大きな癇癪へと発展しないように願いながら、そっと身体を寝かせる。
ズボンへ掛けた手を掴まれたと気付き、視線を向けた先
「何してる」
その瞳がますます不機嫌なものになっているのを知った。

「何ってオムツ替えるんですよ」
「俺以外のイチモツを見る事になるんだぞ。良いのか?」
「…良いも何もこのまま放置しておく訳にもいきませんし、視界に入るのは仕方ない事です」
ホントに何を言い出すんだこの人は。ビックリし過ぎて言葉に詰まってしまいそうになった。
「随分扱いが違う。俺のは常に目を逸らす上に触ろうともしない」
「そりゃ扱いも変わってきますよ。小さい子、特に赤ちゃんのなんて可愛いものです」
「俺のイチモツは可愛くないのか…?」
「そこでショック受ける意味がわからないんですけど。可愛くはないですよね確実に。まず規格そのものが違いますし」
「規格…そうだな。確かに可愛いとは言い難いか…」
またブツブツ言ってるけれど、その全ては聞こえないふりを貫くも、未だ掴まれている手首に眉が寄る。
「すみません放していただけますか?」
「いや、やはり駄目だ。他のイチモツを見る名前を見たくない」
「またそれですか?ちょっといい加減にしていただきたいんですけど。何にも出来ないじゃないですか。何のために此処に来たのか忘れました?」
「忘れてはいない。だから俺がやる」
「絶対無理だと思うんですけど…。私でさえ完璧に出来るかどうか自信がない位ですし」
「適当に拭いて適当に履かせれば良いのだろう?簡単だ」
「その適当が怖いんです。ちゃんと拭かないとすぐにかぶれますし、オムツもずれてたら漏れたりして大変なんですから」
「赤子というのは無力で面倒な生き物だな」
「その無力で面倒な時が冨岡先生にだってあったんですよ」
「…という事は名前にもあったという事か」
何を当たり前の事を言っているのだろうと出そうになった溜め息も
「赤子の名前はさぞかし可愛いだろうな」
また良くわからない所に行き着くものだから、吐くのを忘れてしまった。
「それを考えるとお前との子供が欲しくなった。やはり避妊薬はやめて結婚しないか?」
「ぇっふぇえっ…」
そうしてる間にもますます愚図りが酷くなっていくのを、両肩を揺さぶられながら聞く。
ホントにダメだこの人。
「それより今はご自分の甥の事を考えてくれませんか!?」
「考えてはいる。だからお前も真剣に考えてくれ。俺との子「今は良いです遠慮します!」」
愕然としていく表情に、ホントに本気で考えてたのかと、こちらが愕然としたくなる。
「何故だ…!?」
「何故だじゃないですよ!もし子供産んだとしても今と同じカオスな光景しか待ってないからです!退いてくれません?非常に邪魔です!」
「そのために今からオシメを替えようとしている。知識と技術を身に付けておけば重要な戦力となるだろう!」
「それなら一緒に替え「それは駄目だ!」じゃあどうしろって…!」

スッと開いた襖の音に、顔を上げれば
「喧嘩しないで2人とも。私が替えるから」
困ったような笑顔に、やってしまったと頭を抱えるしかなかった。

* * *

結局、蔦子さんが慣れた手つきでオムツを替えた後、年季の入った木製の階段を上りながら、そのジャージ姿が向かう方へとついていく。
「此処だ」
扉を開けると振り向いた事で、その胸に収まる無垢な瞳に捉えられて、先程の申し訳ない気持ちがまた蘇った。
まだその月齢では意味を理解出来ない事と、蔦子さんが気分を害す所か、面白いと笑ってくれた事がせめてもの救いではある。
「…お邪魔します」
そのまま動かない姿は、私を先に通させようとしているのだと判断してその部屋に一歩踏み入れる。
最初に目に入ったのは背が高い本棚と、その横の学習机。
その部屋の主の匂いが鼻を抜けて、あぁ、此処で暮らしていたんだと無性に実感が湧いた。

「部屋、そのままにしてあるんですね」
「姉がそうしておいた方が良いと言うのでそうしてる」
閉められた扉の音で、再度そちらに視線を向けた瞬間、顔が綻ぶ。
「何かおかしいか?」
「いえ、意外に似合うものだなって思いまして。抱っこ紐」
言い終えたと同時、小さく噴き出してしまったのは、まさかあの冨岡先生がそれを着ける姿を拝観する日が来るとは思わなかったからだ。
「存外、悪くはない」
穏やかな顔つきなのは、自分の胸の内に収まるその無垢な存在に少し感化されているのではないかとも思う。
私にとっても小さく弱い存在だと思うのだ。
この人にとっては更にそう感じるだろう。
「将来、お前との子供を育てる良い練習になる」
まぁ、考えてる事は相変わらずブレないのだけども。だからそれは聞き逃したフリをする。

「蔦子さんからお借りした育児記録ではこの時間、30分は眠るみたいですが」
預かったノートから顔を上げるも、凛々とした瞳に苦笑いが零れる。
「眠気があるようには見えませんね」
蔦子さんが気にならないよう、2階のこの部屋に移動をしたは良いが、正直全くどうするべきかはわからない。
ご子息が寝不足であるなら寝かせてあげたいとは思うも、機嫌が悪い訳でもないし、大人しくそこに居る間は余計な事はしない方が良いのでないかとも考える。

大変なのは、叔父である冨岡先生なのだけども。

「…ふっふぇっ」

腰を下ろした瞬間に不満を表す表情に立ち上がる姿を見て、尚の事そう考える。
「大丈夫ですか?」
「何故座ると機嫌が悪くなる」
「ちょっと待ってくださいね」
わからない事は調べた方が早い。
スマホに"赤ちゃん 座ると泣く"と打ち込んでから検索を掛けた。
「立っていた方、というより歩いていた方が赤ちゃんは揺れを感じてリラックス出来る、だそうです。科学的に証明されてるそうですよ」
画面を見せればその目蓋が何度か動いた後、
「だから名前もリラックスしているのか」
その良くわからない首肯に画面を自分の元へ戻す。
「何の話ですか?」
「哺乳類は皆そうだと書いてある。俺が挿れた時の揺「ちょっとやめてもらえませんか」」
言葉だけではなく物理的にその口を押さえた事で、きょとんとしているご子息の耳には入っていないとそう願いたい。
「子供の前でそういう事を言うのはホントにやめましょう。教育に悪いです」
これでも一応教師なんだよなと思い出してしまったのが少しばかり悲しい。
「言わなければ良いのか?」
攫っていく手に嫌な予感がして眉を寄せた。
「言"動"を慎みましょう。いくら意味が理解出来ないからといっても子供の前では私が嫌です」
大人しく手を放すも、若干上がっている口角に疑問をそのままぶつける。
「…何ですか?」
「いや、先程から台詞が母親のようでこう…喜びを感じている」
絶対今、興奮って言おうとしたな。
能面になってしまいそうになるより早く

「それを傍で見られるという事にも」

穏やかな表情で言うものだから、こちらまで口角を上げそうになる。
この人のこういう顔は卑怯だ。全て赦してしまうから。

「…冨岡先生、チャック食べられてますよ」

話を逸らすつもりはなかったが、下を向こうとした事で視界に入れたご子息に口がもぐもぐというより、はむはむと動いているのを見止めてしまった事で口を突いて出た。
同じように下を見るその目が少し窄んでいく。
「こういう時はどうすれば良い」
「止めるべきかと。万が一チャック部分が取れる可能性もなくもないですし」
「名前が止めてくれ。俺だと加減が出来なさそうだ」
「わかりました」
必要以上に近付こうとしなかったのは、それも理由なのかも知れないと考えながら右手を差し出した。
「これは食べない方が良いですよ」
何となく、先程の申し訳なさで敬語になりつつ、その口とチャックの間を人差し指で遮る。
放れた事で安堵したのも束の間
「…ぁーぶぅ」
何を喋っているのかはわからないがきゅっと指を掴まれた。
指1本を持つのにも精一杯の小さな手に可愛いと思った瞬間には
ちゅう
音を立てて指先を吸われて、意外と吸引力が強いんだな、なんて考える。
「指も汚いのでやめ」
言葉を止めたのは、その上でこれ程までにない圧を感じたからだ。
これは多分、相当不味い。早々にその口から指を放させる。
「だぁっ」
多少強引になってしまったけれど、泣いてしまわなかったのは良かった。
「チャック、上げます?下げます?」
同じ位置にあっては、また口に入れてしまうだろうとそう訊ねる顔は上げられない。
「下げてくれ」
その一言でさえ明らかに語気が強いのがわかっているからだ。
「わかりました」
小さな手を巻きこんでしまわぬよう、ゆっくり下げ終わった瞬間に掴まれる手に、眉を寄せるよりも、あぁ、やっぱりなと思ってしまったこの気持ちは何とも形容しがたい。

「俺も名前の指を舐めたい」

余りにもストレートな要求を能面で見つめるしかないこの気持ちも同じく表現しがたい。
「駄目です」
「何故赤子は赦されて俺は赦されない」
「そこを本気で疑問視します?産まれて数ヶ月の幼子と、20年以上生きている大人ではまず立場が「それを言うなら俺は名前に逢ってまだ1年を迎えたばかりの赤子だ。更に言えば、付き合った日数を換算すればコイツより幼い」」
そういう事じゃないと言おうにも、どうにも真剣な瞳に負けそうになる。
確かにそうかもと思うは思うけれども、そういう事ではない。絶対に。
「冨岡先」
ゆっくりと組み敷かれたのは、胸に収まる小さな甥と、階下で眠る姉を気遣ってなのだろうというのは読み取れた。
「…名前」
その熱視線の意味は理解をしたくないけれども。
「何考えてるんですか。駄目ですよ。"待て"です"待て"」
「何もしない。指を堪能するだけだ」
「それが駄目なんですってば」
「…それも駄目なのか…?」
一気に眉を下げる表情に、そうだった、最近ずっと"待て"をさせていたんだったと気付くと同時
「ふぇ…っぇえ」
小さく上がった声に、お互い何も言わずとも即座に身体を起こす。

「やはり赤子は面倒だ」

小さく息を吐いてはいるけれど、その背中へ添えられた手は無意識なのだろうと敢えて口にするのはやめて、気が付かれないよう上がる頬を誤魔化した。


本気で人生設計すべきかも


(今度は髪引っ張られてますよ)
(止めた方が良いのか?)
(意外とされるがままなんですね)


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