"大変な事が起きた" 冨岡先生から、その一言が送られてきたのが約30分前。 気が付いたのは確か16分前だった気がする。 相変わらず言葉が足りないと思いながら "どうしました?" それだけ送ってみたものの、既読にはならない。 まぁ、あの人もいつもスマホに張り付いてる訳じゃないし、寧ろ見てない時の方が多いかと考えて、ダイニングテーブルへそれを置いた。 一度座ってしまった事で重くなった腰と頭を、どうにか洗い物をするという意識に切り替えて動かそうとしたは良いが、どうにも気になってしまう。 冨岡先生が"大変な事"というのは、"相当ヤバイ時"か"全くヤバくない時"か。そのどちらかしかない。 これまでの経験上、何となくそれは察せられる。 "全くヤバくない時"だったなら、この心のざわつきも取り越し苦労だったかと笑えるけれど、もしその"相当ヤバイ"だった場合、初動の遅れは命取りになりかねない。 迷いながら、もう一度トークを開いても未読のままの画面に音声通話を押した。 電子音を聞き続けるも、繋がらない画面をタップする。 出ない。あの冨岡先生が電話に出ない。 それはここ最近で一番と言える位、結構な衝撃だった。 常に連絡を取り合ってる訳ではないから絶対と言い切れはしないが、少なくともこれまでは、冨岡先生が自分から連絡をしてきた際、1時間以内に折り返せばすぐに既読は付いていたし通話も繋がっていた。 何が起きたのか、と。 いつもなら少し位連絡が取れなくても、此処まで気にする事はないのに、今は何となく嫌な予感が胸を占める。 "大変な事が起きた" それだけで連絡が取れなくなれば、心配になるのは当然だ。 体調が悪くなったのか、それとも何かトラブルが起きたのか。 そもそも今現在、在宅しているのすらも把握してない。 もしかしてそのまま倒れてたりとかは流石に… いや、でもあの人自分の事に無頓着で鈍感だからな。限界を超えても意地でどうにかしようとするし。 という事はこれは冨岡先生なりのSOSだったのでは? 私の身体がピルに慣れるまでと、この1ヶ月半の間、真摯な紳士を貫いているし、そのせいで身体に変調を来したのかも知れない。 いや、全くそういう事をしていない訳ではないけれど、改めて数えると両手で足りる位の回数だ。 それもあっさりというか、とにかく真摯な紳士という言葉が似合う程、気遣ってくれている。 だからこそ、耐え忍んだ結果"大変な事が起きた"という意味合いだと考えると、それはそれで妙にしっくりきてしまう。 考えている間にも、既読がつかないメッセージに立ち上がった。 もしこのまま大丈夫だろうと楽観的に放置して、取り返しの付かない事になったら? でもまさかそんな大事ではないんじゃ?冷静さを欠くとロクな事がないし…。 せめぎ合う気持ちを全て頭の外へ追いやって、靴を履く。 とにかく今は、どうにか冨岡先生の安否を確認するのが最優先だと玄関から出た。 good boy ピンポーン、ピンポーン チャイムが響いた後も続く静寂で、家主が出られない状況にいるのは把握する。 出掛けているのか、それとも… 視線を下に落とした目をつい見開いてしまった。 ドアノブのラッチが外側に引っ掛かっていて、扉が閉まり切ってない。 これは、どういう事なのか。 もしかして、強盗の類? いやでも、争うような音は聞こえてこなかったし、もしそうだとしてもそこらの常人に簡単に負けるような人でもない。 恐る恐る、ゆっくりとその扉を開けながら 「冨岡先生…?」 その名を呼んでみても物音ひとつしない無機質な空間に、形容し難い不安が一気に湧き上がる。 勝手に上がり込んで良いのかなどと遠慮している場合じゃない。 「失礼します」 強めに断りを入れてから、靴を脱ごうとした足を止めた。 もしこの中に第三者が潜んでいたとしたら。そう仮定すると今の私はかなり無防備だ。 せめて何か気休めでも武器を持たなくてはならない。 可能なら鉢合わせても距離を取れるようなリーチの長い、それでいて打撃も兼任出来るような何か…。 視線を動かした所で、いつだかキメツ学園から借りた紺色の傘が目に入る。 冨岡先生、返してなかったのか。って今はそこじゃない。 ひとまずこれを借りる事にしよう。 両手で強く握り締めて、家の中へと足音を立てないように侵入した。 もし誰かが居て冨岡先生が危険な状態だったなら、この石突、傘の先で相手の目を潰す。 容赦なくだ。不審者に情けは掛けられない。 そう決意しながら進んだ先、リビングにも、寝室にも、誰も居ない上に気配も感じず、どうやら杞憂だったと息を吐いた。 しかしそしたら冨岡先生は鍵も掛けずに何処かに行ったという事になる。 もしくは連れ去られた?いや、まさかそんなドラマみたいな事…ないとは言い切れない。 もう一度スマホを確認しても既読は付いてないし、無事だという確証が全く得られていないこの状況で、私はどうすれば良いのかと考える。 もう一度電話は、しても意味がない。 蔦子さんに報告?いや、それはこの状況が続いた時の最終手段だ。手掛かりがない今の状態では余計な不安を与えるだけで、何の解決にもならない。 ベッドに横たわるムスッとした紺色の犬に、いつもなら心が綻ぶ筈なのに今この場に至っては、焦燥が募っていくだけだ。 「…何処、行っちゃったんですか。冨岡先生」 余りにもか細い声で呟いてしまった事で、更に思考が悪い方へと傾いていく。 これでは駄目だ。私が今出来る事をしなければ。 考察は重要だけど深く掘り下げるのは、そこに意味を見出せる時だけだ。今は可能性について考えている場合じゃない。状況を正確に見極める。 とにかく此処で突っ立っていても仕方ない。ひとまず玄関まで戻って… 「あ」 リビングを抜けようとした先、テーブルに置かれた揃いのスマホを見止めて、思わず声を上げた。 既読が付かないのも無理はない。 だけどこれじゃ、そのうち連絡が来るかも知れないという、唯一の望みは絶たれてしまった。 「…義勇」 呼んでも返事がないのはわかっていても、心を占める心細さに耐え切れず声に出す。 スマホも持たず、鍵も閉めず、一体何処へ行ってしまったというのか。 "大変な事が起きた" 一言だけ残して居なくなるなんて──… こんな状況、異常だ。 その身に何かあったとしか考えようがない。 見つめ続けていた四角い画面に、漸くちゃんと整然とした思考が回り始めた。 そうだ、スマホ。この中に何か失踪のヒントが入ってるかも知れない。直前にやり取りしていた相手もそうだけど、検索履歴とか、とにかく何でも良い。手掛かりを探そう。 焦る気持ちを抑えながら、それを手に取るとパスコードを解除した。 LINEは、見てみても目ぼしいものはない。直近で連絡を取っているのは、私を除けば不死川先生と蔦子さんくらい。 それも日数的に間が空いてるから、わざわざトーク画面を開かなくてもこの2人が関係していないのは確信出来る。 あとはネットの観覧履歴… 「…名前?」 声量が小さいながら、はっきりと聞こえたその声に顔を上げる。 全く、本当に全く何一つ変わらないジャージと端正な顔。 右手に下げたビニール袋で、ただ買い物に行っていただけ、というのを瞬時に悟った。 何、だ。失踪した訳じゃな 「どうした?傘まで持って何してる?」 心底不可解と言いたげな表情に、今この状況で、一番の不審者は自分だというのを自覚した。 * * * 「栄養剤を買いに行っていた」 こちらが何故あの状況に至ったのかを軽く説明した後だ。 何処へ行っていたのかと訊ね返せば、冨岡先生は思い出したようにビニール袋から見慣れない薬剤容器やスプレー容器などを出していく。 どうやらその"大変な事"というのは、未だ継続中だと切羽詰まった表情が伝えている。 ひとまず玄関に傘を返しに行った間に、テーブルに置かれた植木鉢に瞬きが速くなった。 この間見た時より更に成長を遂げている。そう感じたのも束の間、青々しい筈の葉が所々茶色へと変化しているのに気が付いた。 もしかして大変なのは、このドラセナの異変という事? 「どれが一番効くと思う?」 ズラリと並んだ容器を暫し見つめてから、群青色の瞳へ戻した。 「どれ、と言われましても…、効能がわかってて買ってきたんじゃないですか?」 「良くわからない。とにかく栄養を与えなければならないだろうと目についた物全てを購入してきた」 「そもそも、葉が変色した原因はご存知で?」 「知らない。昨日までは平気だったが、今日見たら突然こうなっていた」 「だから、大変な事だとLINEしてきたんですか…?」 「そうだ。名前に相談すれば解決策が見出せるかと思ったが、既読になるのを待つ間、弱っていくのをただ黙って見ている訳にもいかず、ひとまず栄養だけでも与えるべきだろうと判断した」 「だから慌てて出て行っちゃったんですか?スマホも鍵も忘れて?」 「財布は持っていった」 「…そうですね。そこは、偉いですね…」 がっくりと項垂れてしまいたい。そう思った時にはその場に力なく座り込んでいた。 「…どうした?」 「…いえ…。そんな事だったんだなと思って安心してます…」 「そんな事じゃない。名前が枯れたらどうする」 「私じゃなくてドラセナですよドラセナ」 渡した時に、化身がどうとか言っていたけれど、未だにそうだと思ってるのかこの人。 「俺にとっては名前だ。いつもそのつもりで話し掛けている」 「話し、掛けてるんですね…」 「あぁ、その甲斐あってこいつも自分が名前だという意識が芽生え始めたようだ。俺が話し掛けると喜ぶようになった」 「冨岡先生。ちょっとお訊ねしたいんですけど…」 「何だ?」 「幻覚とか幻聴とかの副作用が起きる薬とか飲んでないですよね?」 「薬なら此処最近は何も飲んでない」 不思議そうに見つめてくる瞳に嘘はない。という事はこれは素での言動という事だ。 「やっぱり真摯な紳士になり過ぎて精神が崩壊したんじゃ…」 「声が小さくて聞こえなかった。もう1回言ってくれないか?」 「いえ、何でもないです」 つい心の声が漏れてしまっていた。 「それよりどうしたら名前は治る?」 あぁ、そうだった。今のこの人の頭の中はそれが最重要なんだっけ。 「ひとまずこの変色の原因を突き止める事が先決ですね」 検索バナーに"ドラセナ"と打ってから、一度その葉へと視線を戻した。 これは、何と表現したら良いのだろうか。色の変化から、単純に枯れそうになっているのではなさそう。 だとしたら──… "病気" その可能性が高いと判断して文字を打つ。 「植物にも病があるのか?」 覗き込んでくる冨岡先生の姿、というより動きが何処となく犬に見えたのは恐らく無意識の産物だ。 「あるみたいです。たまに保護者の方と園芸についてお話をする事があるので、私も少し詳しくなりました」 「保護者と園芸の何が関係ある?」 「ご存知ないんですか?学園内の花壇や木々は、保護者の方からボランティアを募って管理して貰ってるんです。植物に関しての知識がある方ばかりなので、必要経費などを話し合う際に色々耳に入れたりしますよ」 「それで名前は病気なのか?」 その呼び名はやめていただきたいんだけど、と思うも言った所で効かないだろうから、早々に画面を見る。 「ちょっと待ってくださいね」 軽くスクロールして、今の状況と近いものを探していく。 「…多分、これです」 タップした先、水浸状症斑という文字に、あぁ成程と納得した。確かに水が染み込んでいているように、変色が進んでいってる。 「疫病?名前は流行り病に罹っているという事か?」 「植物と人間は違いますから流行り病とはまた違います。あとその毎回名前を呼ぶのをやめていただ「名前が疫病になった原因は何だ?」」 わざとやってるなこの人。今の一言で確信した。 「水のあげ過ぎです」 だからこちらも包み隠さず伝えた訳だけども、その瞳が驚きに満ちている。 「水は必要だろう」 「必要ですけどね。観葉植物は土が乾いてる位が丁度良い、あげ過ぎるのは返って根腐れを起こしたりするって、書いてあります」 「だが今まで名前に水を飲ませる頻度は変えてない」 そろそろ怒っても良いだろうか? そうは考えるけれど、どうしても今気になるのはそちらじゃない。 「変えてないからじゃないですか?」 「…どういう事だ?」 「これまでは乾燥する冬の時期でしたから、冨岡先生が言うその頻度で丁度良かったのかも知れませんが、今は梅雨の時期ですから、水分を蒸発するのも時間が掛かるのが要因なのではないかと」 土は見ただけでもわかる位に湿ってるし、受け皿にも多少ではあるものの水が溜まっている。 「このままだと完全に枯「どうすれば良い?」」 乗り出してくる真剣な表情と圧から逃れるように、画面へと視線を向けた。 「対処法は、まず土を乾燥させる。発病株を除去する。とあります」 「名前は発情してるのか?」 「茶色くなった葉の部分に、此処にはハサミを入れるって書いてありますが」 「名前を切れと「冨岡先生、先程からふざけてますよね?」」 どうも口調が強くなってしまったのは、これ以上スルーが出来る程の余裕がない。 「大変な事が起きたと言うので何事かと思ったんですよ。扉開けたまま、スマホも置いたままで、冨岡先生の身に何かあったのではないかと。それが何ですか?たかが観葉植物で」 「たかがじゃない。名前が初めてくれたものだ」 そうやって真っ直ぐに見つめてくる瞳がわかるから、わかってるから余計に苛立ちが増してしまう。 ホントに馬鹿らしい。こんな事で苛立っている自分が。 「…そうですね。大事にしてくださってありがとうございます。とにかく風通しを良くして土が乾くまで待てば徐々に症状も良くなるそうです。あんまり水はあげ過ぎないでくださいね。あと弱っている時の栄養剤は逆効果なので、容態が落ち着くまではあげない方が良いかと」 口早にそう言いながら立ち上がれば 「もう帰るのか」 言葉とは裏腹にドラセナを見つめる瞳はそのままこちらに向く事はない。 愛おしそうに葉を撫で続ける指から目を逸らした。 「すみません。勝手に上がり込んでしまって。失礼しま」 確かに向かう先のダイニングへ顔を向けた筈だったのに、気が付いた時にはその腕の中に居るわ、至近距離で見つめ合っているわ、突然の事態に追い付けなかったようで、柄にもなく胸元で手を組んでしまっていた。 「可愛い」 もはやそう言われるのは挨拶と同義語だと思うようにしているのに、速くなる心音が止まらない。 近付いてくる顔の意味を理解して、敢えて逸らした。 一瞬窄んだ瞳が、確実にこちらの思考を読もうとしている。 「こっちを向け」 「嫌です」 「怒ってる名前を観たい」 「私は怒っていないのでそちらの方の話ですね。どうぞこちらの事は気にせずにごゆっくりご覧ください」 視線だけを植木鉢へ向けたけれど、その瞬間に上がっていく口角を目端で捉えてしまった。 全部読まれているんだろうな。何もかも。 だからこそ天邪鬼な態度を取ってしまう。 観葉植物に嫉妬した、なんて、口が裂けても言えない。 心の中で認めてしまった事で、更に居た堪れなくなる。 結局、考えていた事も杞憂だった訳で何もなかったのだから良かった。だから早く部屋に戻ろう。というより戻りたい。 このまま一緒に居るとボロが出てしまいそうだ。 だから見つめられないように必死で逸らしているというのに、身動ぎひとつしなくなって、これはまた均衡状態に陥りそうだと、僅かに視線を動かす。 溢れ出る嬉しさを隠し切れていない純真な瞳に、何だか盛大な溜め息を吐きたくなった。 「わざとふざけましたね」 「此処まで嫉妬心を露わにしてくれるとは思わなかった。最高だ。可愛い」 「え、ちょ」 てっきり抱き寄せられるかと思いきや、そのまま後ろへ倒れ込む冨岡先生に引かれ、見下ろす体勢へと誘導される。 「やはり名前はドラセナだ」 頬を撫でる指の温かみと、細まる瞳の穏やかさに心臓がドクドクと脈打っていく。 幸福、か。前もそんな事、言っていた気がする。 「だからって植物に人の名前を付けないでくれますか?言い得ぬ気持ちになるので」 「正式には名前1号だ」 「はい?」 1号、とは? 思いっ切り眉を寄せてしまったにも関わらず、冨岡先生は相変わらず涼しい顔で言い放つ。 「あいつには名前2号と名を付けている」 「…あいつって…犬のぬいぐるみですか?」 「そうだ。名前2号とは常に夜を共にしている」 「その語弊が生まれる言い方やめていただきたいんですけど」 この人、今度は犬にまで嫉妬させようとしてるな。 「妬かないのか?」 「もう妬きません。ドラセナは状況が状況だっただけに腹が立っただけです」 「もう、という事はやはり妬いていたんだな」 楽しそうに笑うその表情に、あぁボロが出たと思ってしまった。いや、もう既に出てはいるんだけども色々と。 「俺が居なくなるのが怖かったか?」 こうやって訊いてくる辺り、この人の意地の悪い所だと最近考える。 「心配はします。飼い犬兼恋人ですし」 「飼い主が抜けてる」 「それは何というかわざとですね。飼い主ならまた探せば「駄目だ。俺以外名前を飼う事は赦さない」」 突然真剣になるものだから、つい頬が弛んでしまった。 どうしてだろうか。 心に渦巻く感情を、今まで何処か後ろめたい負の産物だと思っていたのに、この人と一緒ならそれすらも愛おしく感じるのは。 それが愛情のバロメーターになる訳じゃないと理解をしていても、心地好いと思える。 見えない首輪をしてるみたい (冗談です。そしたら野良猫になりますよ) (野良猫にはさせない。俺がずっと飼う) (それも冗談ですってば) [ 142/220 ] [*prev] [next#] [mokuji] [しおりを挟む] [back] ← ×
|