新年度特有の慌ただしさも、熟してきた経験と不死川先生を始めとした教師陣へ分担が出来るようになった事で単純に減った仕事量で、既に通常状態へと落ち着きを取り戻してきていた。 それでも毎日何かしら、仕事自体は増えていくので、今日も今日とて優先すべき事案をこなしていく。 パソコンを操作しながらも重く感じる頭と腰に、小さく息を吐こうとした時だ。 「具合はどうだ?」 右隣から飛んできた発問で、視線を向ける。 「快調、とは言い難いですが不調とまではいきません」 素直にそう述べたものの、下がっていってしまう眉に苦笑いをひとつ。 「仕方ないですよ。身体の仕組みがそうさせてるんですから」 ズキ、と重く痛む腹部を軽く摩るのは、もはや毎月の癖と言える。 来る度に憂鬱なそれも、今回ばかりは早くやってきてくれて良かった。そうも考えていた。 オンライン診療を受けた翌日には届いた小包、その中に入ってた低用量ピルと冊子には、避妊を目的とする場合、月経開始から5日目の間に飲み始めるのが好ましいと書いてあったためだ。 その記載通りに服用を始め、3日目を迎えた。 それは一応、冨岡先生にも伝えておいたので、こうして頻りに私の体調変化を気に掛けてくれている訳だけども、正直、副作用なのか月経による不調なのか、自分でも判断に困るくらいには通常通りだ。 それでも下がり続けてる眉に、何をどう口にしたら良いのか迷う。 「冨岡先生」 そう、冨岡先生。学校でそう呼ぶのは変わらない。下手に"義勇"なんて呼んでる所を厄介な保護者の耳にでも入った日には、また面倒な事になりかねないというのが前提にあるからだ。 だから、冨岡先生。 わざわざ心の中で繰り返したのは 「普段の呼び名は"冨岡先生"のままで良い」 本人からそう言われたのを、何となく今思い出したからと言える。 どうしてか聞いた私に、 「呼び名が切り替わる時がお前の…」 と言葉の途中で一切喋らなくなったものだから、訊くのはやめた。 それは単に朝食に集中しているという理由もあったけれど、前日に八つ当たりに近い態度を取った挙句、夜中に呼び出してマッサージをさせるという、最低過ぎる行動を取ってしまった申し訳なさから、気が引けたためだ。 何を続けようとしたか気にならない訳じゃない。 私の、何なのだろうか? それを今訊く訳にもいかないし、ずっと心に引っ掛けていても仕方がないので、頭を切り替える。 「書類の作成、お願いしても良いですか?今日のペースだと全く手がつけられそうにないので」 私の言葉に群青色の瞳が動いたと思えば 「任せろ」 すぐにその返事が返ってくる。 この人の中で、私が何かをお願いするというのは、とてつもなく"誇らしい"そうだ。 そんなような事を朝食を食べ終えた後、唐突に言われた。 嬉しいと感じていただけるなら、こちらも素直にお言葉に甘えようと、次に取り掛かろうとしていた生徒指導要録の記入例を纏めておいたメモ書きを渡す。 「レイアウトは…、ちょっと待ってくださいね」 以前使用していた記入例の用紙を引っ張り出すと、赤ペンで簡易的に印を付けてから差し出した。 「簡易的ですが変更点です。USBの中にこれと同じデータが入っているので、そこから編集をお願いします」 「わかった」 真面目な表情でパソコンに向かう横顔に人知れず口角を上げてから、僅かに治まった下腹部の痛みに気付く。 ドッグセラピーはこういう所でも役に立つのか、なんて冗談を心の中で考える位には思考は通常通りだ。 「この間の話だが」 マウスを動かしながら話を振る冨岡先生は、だいぶパソコンに向き合うのも様になってる。そう思いつつ視線を同じように自分のパソコンへ向けた。 "この間"というのがわからないまま 「はい」 短い返事だけを返す。 「名前の体調が落ち着いてからで良いか?」 「何をでしょう?」 惚けている訳ではなく、こればかりは情報量が少な過ぎて思考を働かせても全くわからないだろうと言葉が先に出ていた。 「姉と会う日だ」 「…そうですね。そうしていただけるととても助かります」 「わかった。後でLINEしておく」 「お願いします」 会話が終わった後、文字を打ち込んでから手を止める。 「そういえば、蔦子さんに戴いた温泉と遊園地の話なんですが、譲った事を正直に話した方が良いかと」 「ショックを受けないか?」 「状況が状況だけに、冨岡先生の行動が正しかったと判断してくれると思いますよ」 蔦子さんの事だから、何の曇りもない笑顔を返してくれるだろう。 「名前が言うなら、そうしよう」 今度こそ途切れた会話に、今はこれを終わらせてしまおうと画面に集中しようとした時、斜め後ろの椅子が動いた音と、こちらへ向いたであろう気配を感じた。 おもむろに振り返った先では、不死川先生が何とも言えず複雑な表情をしていて、反射的に眉を寄せそうになる。 「どうしました?」 「…いや」 ガシッと頭を掻くと、逸らした目が何処か迷っているように見えた。 「何か困り事でも?」 冨岡先生を見つめたまま何も言わないけれど、何か言いたそうにしているのは間違いない。 もう一度頭を掻いている姿は覚悟が決まったようにこちらへと向いて、黙って出される言葉を待った。 「…苗字よォ、もしかしてオメデタかァ?」 good boy 意味自体を理解するのにも、そして何故その質問に至ったのかも、考えるのにだいぶ時間がかかってしまって、不死川先生を見たまま動けない。 漸く我に返ったのは 「2人で見つめ合わないでくれ」 冨岡先生が物理的に割って入ってきてからだった。 「え?あぁ、すみません」 自然と謝罪が口を突いて出たけど、それも何か違うよなと思う前に話が続いていく。 「まだ出来てはいない。何故それを訊く?」 「あ?オメェ、最近苗字の体調ばっか気にしてっからてっきり…」 「気にしているのは生理が開始したと共に避妊薬を飲み出した事による副作用についての危惧だ」 「そんなら良いけどよォ」 「名前に子供が出来ると困るのか?」 「困りゃしねェが単純な話、仕事量減らすとか負担掛けないようにしねェといけねーだろうがァ。もしこの状況で苗字にいきなり抜けられたらその穴埋めんの簡単じゃねーんだぞ」 「名前の「冨岡先生」…まだ名前しか言っていない」 「何となく察しが付きます。のでやめてください」 不死川先生が不審な顔してるけど、訊いてこないのは有難い。 恐らく空気を読んでくれてるのだろう。 「不要な気を回させてしまってすみません」 「あ?いや、まァ一応、教務主任"代理"だしよォ。お前の仕事半分もまだ担えてねーからなァ。居なくなられたら困るは、困るっつーかァ…」 天を仰いだかと思えば頭を掻くとデスクに戻っていく姿に、不死川先生の不器用さが顕著に出たなと小さく笑った。 * * * 「…ふぁ」 欠伸をひとつしてからパソコンを閉じる。 「寝るのか?」 後ろから飛んできた声に、顔を動かした事でその香りがふわりと漂う。 最近、うちでお風呂に入る事が多くなったからか、若干の香りの変化はあるな、とふと考えた。 「…そろそろ寝る準備をしようかと思います」 離れるかと思えば、更に抱き締めてくる両腕に眉が動く。 「聞いてました?」 「もう少しこのままで居てくれ」 頭に埋める顔を感じて、返事はしないものの、大人しくする事にした。 この3日間、こうして仕事終わりに私の部屋で寝るまでの時間を過ごしているが、本人曰く私を物理的に温め癒しているらしい。 まぁ確かに温かいし癒しにはなるのは確かだ。私も嫌ではないので、好きなようにさせてはいる。 だけど、我慢もさせている、とも思う。それも本人は、絶対に私の前では言わないけれど。 そういう所が真摯な紳士だと感じる所以だろうな。 「…俺が代理になりたい」 突然の一言で頭に疑問符が浮かぶも、日中の出来事を思い出した事で、すぐに納得した。 「気にしてたんですか?」 「気にするなというのが無理な話だ」 「…気持ちは、わからなくもないです」 短く息を吐いてから続ける。 「何も不死川先生に全て頼る訳ではないですよ。冨岡先生にも同じ立場に立っていただこうとは思っています。そのために今、様々な仕事を覚えていって貰っている訳ですし」 むぅ、と唸る声に、これはまたご機嫌が斜めだと苦笑いをするしかない。 仕方がないと右手を上げれば、意味を悟ったように肩へと顎を乗せてくるのが犬みたいだと考えながら、その頭を撫でた。 相変わらず毛量が多いなと、ピンと跳ねる毛先の感触が面白くていつの間にか摩る、というより押し付けては放す、という動作になっていて、また小さく唸られる。 「ちゃんと撫でてくれないか?」 「すみません」 ご所望通りにゆっくりと撫でながら、そういえば蔦子さんは綺麗な直毛だなというのをふと思い出した。 いや、この人も癖っ毛とまではいかないけども。 「そういえば蔦子さんに連絡しました?まだでしたら私からしますが」 「グループLINEの方に入れておいた」 「そうなんですか?それじゃあ尚更こちらも一言入れないと失礼ですね」 テーブルに置いてあったスマホを手に取って、LINEを開く。既に来ている返信に眉を上げた。 "日曜なら大丈夫" 絵文字と一緒に送られてきたその一言に 「蔦子さん、日曜日、大丈夫だそうです」 送られたそのままを未だ強い力でひっついている後ろへ伝える。 「名前はどうだ?」 「私ですか?余程の問題が起きない限り日曜は「仕事じゃない。体調だ」」 あぁ、そっちか。一応頭の中で日数を数えてみる。 「大丈夫だと思います。日曜には終わってると思いますし」 「そうか。なら日曜で構わない」 「わかりました。返信しておきますね」 画面をタップして、丁寧に文字を打っていく。 この時間では、すぐには既読はつかないだろうと早々に画面を消した。 時間を確認した事で、もう一度出た欠伸に自然と腕を放される。 「そろそろハウスするとしよう」 「完全に犬の台詞ですね」 違和感が一切ないのがまた面白いと小さく笑いながら立ち上がった。 見送るために玄関へと向かいながら、明日も会えるというのに、どうしてかこの別れの瞬間はどうも物悲しさが込み上げるなと考えてしまう。 ついさっきまで温もりを感じていた背中が、単純に寒いというのもあるけども。 「では、また明日」 業務的な挨拶になってしまうのが、どうも私の悪い癖だとも考えた。 「…寂しさで眠れなかったら連絡をくれ。何時でも良い」 それを察知するとわかっているから、そういう態度になってしまうというのも、ここ最近、自覚し始めてはいる。 「いえ、大丈夫です」 寂しいとは言え、眠れなくはないなと冷静になってしまった。 それでも靴を履き終えると触れるだけのキスをした後、 「おやすみ」 そう優しく囁くものだから、またほんの少し寂しさが募る。 「…おやすみなさい」 静かに閉まる扉を見送って、音を立てないようそっと鍵を閉めながら、ホントに真摯な紳士だと笑みを零した。 * * * パタン、と後ろ手で戸を閉める。 小さくなった流水音を聞きながら、下腹部を押さえてみた。痛みはない。だけどまだ止まってもいない。微々たるものだけども、少し長いなというのは感じる。 もしかしたらこれが薬の副作用だったりするのかも知れないと、もう一度腹部を摩った。 気にしてもどうにかなる事でもないので、そろそろ家を出ようとダイニングテーブルに置いてあったスマホを手に取った所で、LINEの通知に気が付く。 "ごめんなさい名前ちゃん、義勇。今日はやっぱりやめとくね。今度また" 絵文字も何もないメッセージに眉を寄せた。 昨夜から余り体調が芳しくないというLINEが来ていたため、断られたという事実からではない。気掛かりなのは、メッセージが素っ気ないものになる程、身体の変調があるという事だ。 "わかった" すぐに付いた返信に、これはどうしたものかと思考を巡らす。 弟である冨岡先生が了承したのなら、例え恋人であれ私が口を出すべきではないのではないのかも知れない。 それでも心に引っ掛かるものがある。 画面を見つめたまま暫し考えて、一旦それを閉じた。続いてタップするのは個人LINE。 通話ボタンを押そうとした瞬間に軽快な電子音と共に着信を告げる画面に、心臓が跳ねた。 「…もしもし」 早々に耳に当てれば 『今日はどうする?』 短い質問が飛んでくる。 「それなんですが、蔦子さん、今家にいらっしゃるんですよね?」 『そうだが?』 「どなたかご子息の面倒を見てくれる、或いは蔦子さんの看病をしてくださる方はお家にいらっしゃいますか?」 沈黙が流れる向こう側は、こちらの意図を察した故のものだろう。 先程抱いた懸念はこれだった。 『…恐らく、居ない』 「やっぱりそうですよね」 蔦子さんの負担を考えると、自然とこちらからご実家の方にお邪魔しその時、ご両親にもご挨拶をしようかと話し合った数日前、"丁度主人も用があるし、誰も居ないから大丈夫よ"とその一言が返ってきたので、あくまで推測だけど、ご両親は元々その時間、在宅ではないという事だ。 だからこそ、蔦子さんの現状が気になる。 自分の体調不良で、夫の予定を変えさせる程の気強さを、蔦子さんが持っているとも思えない。 「冨岡先生」 『電話してみる』 「お願いします」 切れた通話に、ひとまず画面を消して思考を巡らす。 もしも誰にも頼れないまま、1人でご子息を抱え途方に暮れているとしたら、多少強引にでも訪問するべきだ。 どうなるかは蔦子さんの返答と、冨岡先生の判断次第にはなるけれども、一応家を出る準備だけはしておこうと鞄を手に取った。 ひとまず椅子に腰を掛け、折り返してくるであろう電話を待っていた所、 ピンポーン、ピンポーン 2回鳴る知らせに、隣人である事を悟る。 わざわざ訪ねてきたという事は、ご実家に向かうのであろうと予測して、スマホを鞄の中へと入れた。 鍵を開けた瞬間に合った群青色の瞳が、ほんの僅か驚きを宿している。 「…流石だな」 「何がでしょう?」 「俺の意図を正確に見抜いている」 「それは、冨岡先生もそうだと思いますが」 「一緒に行ってくれるのか?」 「えぇ。蔦子さんがご迷惑でなければの話ですが」 「迷惑所か有難い申し出だと言われた。俺1人では全く戦力にならない」 「私も大したお力にはなれませんが…」 言い切る前に思わず苦笑いをした。恐らくご子息は5ヶ月程になる頃だろうけれど、その月齢の詳細は、正直全く何も覚えていない。 「それでも心強いと言っていた」 「そう思っていただけるなら、嬉しいですね」 会話を続けながら、扉を閉めてエレベーターへと向かう。 「蔦子さんの体調の方は?」 「声から察するに相当辛そうだった」 「…そうですか」 足早に駅に向かう間にそれ以上の会話はなく、ただただ手を引かれ歩く。 冨岡先生なりに、私に気を遣いながらも、蔦子さんの事が気掛かりなのだろうというのが伝わってきた。 こういう時にいつも思うのだけど、この人は自分が"大事"だと判断したものは、何があっても護り通そうとするなと。 だからこそ、それが他人には暴走に捉えられるのか。ふと、桜祭りの経緯を思い出して、笑顔を深めた。 「あと少しで電車が来る」 そのまま手を引いて改札を抜けようとする背中に眉が寄る。 「冨岡先生、手を離さないと…」 制止する前に阻まれたゲートと 「ちょっと〜!1人ずつでお願いしますね〜!」 駅員の大声で向けられる周りの目に 「…すみません」 そう呟きながらも、いたたまれず顔を背けた。 気ばかり急くのは良くない (残高は申し分ない筈だ) (2人で通ろうとしたからですよ。まず手を離しましょうね) (改札機ごときが俺と名前の邪魔をするとは…) [ 139/220 ] [*prev] [next#] [mokuji] [しおりを挟む] [back] ← ×
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