いつもの職員室、自分の椅子に座り見慣れたパソコン画面に向かう。 "保健だより"と文字を入力したと同時、右の方で椅子が動くのを目端で捉えて、冨岡先生が授業を終え戻って来た事に気付いた。 という事は次は4限目か。 もう一度ベルが鳴る前に、これを印刷に回せるかどうかを考えながらキーボードを打つ。 配付するのは早くても明日の朝になるので、特別急ぐ必要はない。 しかし今日中には珠世先生に校閲をお願いしなくてはならないので、出来れば昼を跨がずにそれだけは終えたい。 午後になると保健室が怪我人で賑わう傾向があるためだ。 ふぅ、と息を吐いたためかは定かでないけれど、むず痒くなった鼻を小さく啜った事で若干マスクがずれたのに気付いてそれを直す。 「忙しいか?」 飛んできた問いに文字を打っていた手を止めないまま答えを考えた。 「忙しいと言えば忙しいです。何か御用ですか?」 「英気を養いたい。頭を貸してくれ」 「嫌です丁重にお断りします」 「1分で良い」 「時間の問題じゃないんですよ。冨岡先生、朝会で校長が話してた事聞いてました?そして覚えてます?」 「全く聞いていなかった上に覚えてるのは名前が途中でしたクシャミが可愛かったという事だけだ」 「そういうどうでも良い事ではなくて学校生活に必要な情報を頭に入れていただきたいんですけどね」 「どうでも良くはない。俺にとっては死活問題だ」 「私のクシャミがですか?」 「そうだ。余りにも可愛らしかったためそのまま抱きたくなる衝動を意識的に違う所へ向ける事で何とか凌いでいた。その状態で校長の話を聞けというのが皆目無理な話だ」 「そこまではっきり言われるといっそ清々しい気分になりますが、気持ちは全く理解出来ないですね」 たった1回のクシャミで私は命の危機を迎えそうになっていた、というのは結構な衝撃的事実だけれども。正直全く気が付かなかった。 「そのクシャミなんですよ。問題は」 「問題?可愛過ぎるという事案か?それは確かに否定は出来ない」 「クシャミ1つだけでそこまで滾れるのは冨岡先生だけだと思いますので、それについてはもう良いです大丈夫です」 「クシャミ1つだけで滾るんじゃない。名前のクシャミだから滾っている。そこの解釈を違えないでくれ」 「最近新型の風邪ウイルスが猛威を振るっているらしいんですよ。なので今冨岡先生も…」 視線を向けた先で言葉も動きも止めた。 good boy 「何だ?」 「何だ、じゃないですよ。マスクはどうしたんですか?さっきまでしてましたよね?」 「授業の妨げになるため外した」 「外したって…いや、それはまぁ屋外ですし身体を動かすのでその状況判断は良いんですけど、今に至ってはマスクをしていただかないと…」 「花粉の季節は過ぎた筈だ。必要ない」 「いえ、その花粉云々の話ではなくて」 この人ホントに何も聞いてなかったんだな。 さて、何処から説明しようかと思考を巡らせた所で背後に気配を感じて振り返った。 「悲鳴嶼先生、お疲れ様です」 がたいの良さから口元を覆うマスクが凄く小さく感じる。 「…これを」 差し出された両手に一瞬何かと考えた代物は 「パーテーションだ。机と机の間に仕切りとして置くと決まったらしい」 その説明で納得して頷いた。 「わかりました。ありがとうございます」 軽く頭を下げその中の1枚を受け取ると、悲鳴嶼先生は数枚のパーテーションを無人のデスクへ順番に取り付けていく。 段ボールで出来た枠組みの中、窓のように薄いアクリル板が嵌め込まれているそれを同じように右横、冨岡先生と私のデスクの境目に置いた。 「何の真似だ?」 「何って仕切りですよ」 「こんな物、俺と名前の間には必要ない」 「…どちらかと言えば冨岡先生だからこそ必要だと思いますけど。ウイルス感染防止とかの前に防御壁として」 「俺を細菌扱いするな」 「してません。これを置くのは念のためです」 駄目だこの人。状況を全く以て把握してないし、把握しようとする気もない。 「その新種の風邪っていうのが感染力が強くて厄介なんですよ。なので学校としても、生徒に万が一の事がないよう予防の観点から色々試行してるみたいです。手洗いとか消毒とか換気とか人と人との物理的距離を保持するとか」 そこまで言って漸く理解をしたのか、若干その表情が驚いている。 「だからさっきお前は俺が近付くのを泣く泣く謝絶したのか…」 「いえ、わかりやすく毅然とした態度でお断りさせていただいたと思うんですけど」 「心内は泣いていただろう?察するに余りある。責任を背負わなければならない立場は辛いな」 「そうですね。私がその立場で在る事を理解して尚1人で突っ走っていってしまう同僚が居るので今現在心の中で噎び泣いています」 「それなら丁度良い。俺の胸を貸そう」 「話が全く1ミリも伝わってないのは良くわかりました。そちらも丁重にお断りしますね」 こちらに向かって腕を広げてる姿は無視して、校医の紹介欄の作成に入る。 無言でキーボードを叩く私に諦めたのか両手を下ろしたのを目端で見た。 「何か手伝う事はあるか?」 「いえ、特にはないです。お気遣いありがとうございます」 会話が終わった。そう思ったのはこちらだけだったらしい。 椅子ごと距離を詰めてくる動きに反対側へ身を引いた。 ホント何にも、何一つわかってないなこの人。 「…これは名前が描いたのか?」 パソコンの画面を食い入る瞳は真剣なもので、一体何がそんなに気になるのだろうとその視線を追ってから気付く。 「あぁ、イラストですか?珠世先生が描いてくださったんです。可愛いですよね」 それは手洗い慣行の手順を簡易的に絵で表したもの。 前に一度、珠世先生が手描きした保健だよりを配付した所、生徒の評判が上々だった事からたまにこうして負担にならない範囲で描いて貰っている。 「保健医か…」 あからさまに落胆している隣の心算が何であれ、邪なものなのは変わらないのでとりあえずスルーする事にした。 「冨岡先生、コレいくつ当てはまります?」 指で示した先、これまた珠世先生が作った"感染予防対策チェック表"。 そこには初歩的な『帰宅後、手洗いうがいに努めていますか?』から始まる10項目の質問と説明が並んでいる。 当てはまった数によって3段階に分かれた的確なアドバイスがされていて、珠世先生の穏やかで優しい人柄が滲み出ていた。 興味本意で訊ねた事で、ただでさえ近いのに更に詰めてくる動きに合わせ椅子ごと横へずれる。 「何故逃げる?」 「逃げてる訳じゃないです。先程も言った通り物理的距離の保持ですよ。しかも私今朝から少し鼻の調子が悪いので、もしかしたら新型ウイルスの保菌者かも知れません。近付かない方が良いかと」 「こちらの身を案じているのならその気遣いは必要ない。俺達は一蓮托生を約束した身だ」 「いつそんな重めな約束しましたっけ?私にはその記憶が一切ないので、冨岡先生の微睡みの記憶という可能性が高いですね」 「こればかりは夢じゃないと言い切れる。お前が俺を飼い犬と認め、俺がお前を飼い始めた時から運命共同体となった。これから先、繁栄も衰退も共にある」 「…そうですか…。お気持ちは…わからないんですけど、わからなくもないって事にしときます」 これ以上何を反論しても無意味だと悟って言葉に詰まりながらそう返す。 「…当てはまるのは『人混みを避けている』『身体を動かしている』『爪を短く切り揃えてる』『マスクをしている』この4つだな」 突然話を戻した冨岡先生に一瞬ついていけなかったのは鼻の調子が悪いからか。 「マスクしてないですけどね」 「さっきまではしていた」 「今してないと意味を成さないんですよ」 全く危機感というものが一切感じられないんだけど、らしいと言えばらしい。 目に見えないウイルスすら、この人を前にしたら避けていく気がするのは恐らく強靭な狂人の精神から来る完全なイメージか。 いや、冨岡先生だけじゃなくてこのキメツ学園の面々はそういう類のものに屈強な気がする。何となく。 「人混みを避けるのはただ単に得意ではないからですか?」 「その通りだ。流石俺の事を良くわかっている」 身体を動かしている、というのは体育教師だから当たり前か。 「爪は、何か意外ですね」 気になって視線をその手先に向ければ、確かに10本共、白く伸びている部分が全くない。 「爪の長さは重要だ。昨日も寝る前に切ったためぬかりはない」 「拘りがあるんですね」 「あぁ。名前を傷付けては事だからな。常に意識をしている」 「何で私なんですか?」 疑問を口にしてから気付く。 「…いつも武力行使に出てるからですね…」 これまでの行いの数々を思い出してしまって溜め息が混じってしまった。 そういう配慮が出来るならそもそも武力を使わないという選択肢を選んで欲しいと思ってしまうのは、もはや贅沢な悩みなのかも知れない。 「それもあるが根本は違う。お前の全てを手に入れる時のために備えている」 「…どういう意味か全く見当が付かないんですけど」 「難しい事じゃない。名前を抱く時の話だ。ナカを慣らすにも爪が伸びていては傷が付「0〜3つ当てはまった方はもう少し頑張りましょう、特に手洗いうがいは習慣付けてくださいね、だそうです!」」 何を言い出すのかと思ったら、またえらいぶっ飛んだなこの人…。 完全に油断していたお陰で、ほぼ言葉として出させてしまったじゃないか。 「当てはまったのは4つだと言った」 「それならマスクをしていただけますか?そして今すぐ距離を取っていただければこの5 番目の"人との距離を一定に保っている"項目もクリア出来ますよ」 「授業を終えてからマスクを紛失したのに気付いた。予備を持ってないか?」 「そういう大事な事は戻ってきてすぐにおっしゃっていただきたいんですけど」 また出そうになる溜め息は堪えて3段目の引き出しから個包装された不織布製のマスクを取り出す。 「どうぞ」 外装を破るとそれを装着する冨岡先生を眺めてからまた画面へ向き合った。 どうやら離れるつもりはまだないらしい。 それ所かじりじりと距離を詰められてる気がする。 「…近いです。距離を保ってください」 「マスクをしていれば問題ない筈だ」 「これも飛沫感染防止のためでそこまで万能な訳ではないですよ」 「そうか」 何を納得したのか突然腰に手を回してくる左手を押さえた。 「何ですか?さっきから見事に逆らってきますね」 「万能でないなら意味がないと思わないか?」 「いや、それはまぁ…思いますけどあくまで予防ですからしないよりはまだマシだっていう話で…ちょっと冨岡先生!?」 耳に掛かるゴム紐を外そうとする右手も押さえた事でまた膠着状態が始まって小さく溜め息を吐く。 「非常に仕事の邪魔なんですけど」 「俺にとって邪魔なのは名前との距離を隔てている目に付く全てだ。これならまだ見えない分細菌の方が可愛げがある」 「可愛げは全くないと思います。冨岡先生にはもう少し冷静に状況の判断を「冷静に考えた上で敢えてこうしている」…それはまた傍迷惑な話ですね」 「傍迷惑なのはこちらの台詞だ。ただでさえ此処ではお前に触れるのも限度があるというのに、こうも妨害だらけな上に距離を取れと言われると余計に触れたくて仕方なくなる」 「典型的なカリギュラ効果ってやつですね」 そういえばこの人ってその傾向が強い気がする。 「こんな事なら今朝欲情した時点でお前を抱くべきだった。これからは後悔しないため欲望には忠実になろうと決意している」 「末恐ろしい事を断定的に言わないでくれませんか?これ以上ご自分に忠実になられると私の身が持たないです」 「このまま妨害が続けば俺の身も持たない」 いつになく真剣な群青色の瞳に、寄っていた眉を若干弛めたけれど押さえる両手には更に力を入れた。 でないとそのまま力ずくで持っていかれそうになる。 「妨害って…そこまで大袈裟なものでも「まず名前の顔が見えない」」 声色が焦眉の急を告げていて、グッと息を呑んだ。 「触れられずともお前の横顔を眺めるだけで幾許かは満たされていた。だがマスクをしていてはその大半が見えない。特に口元が見えないのは俺にとって由々しき事態だ。加えてこの仕切り板を置かれてはそれすらも歪んで見える。こんな状況が続くと考えるだけで耐えられない。無理だ」 ドキッと、してしまった。 本当に、私の事を好きでいてくれてるんだな、と。 いや、それはもうわかってるんだけど、改めて思い知ったというか。 「近くに居る筈なのに、まるで遠く感じる」 ゴム紐を取ろうとしていた指先がマスクへ移動したかと思えば下にずらされて、 「…とみ」 名前を呼ぶ前に口唇を撫でる動作に言葉を止めた。 「やはりこうして触れて確かめないと駄目だ」 熱を帯びた瞳から逃げようと落とした視線と同時、口唇へ触れる感触に息を止めそうになる、前に眉を寄せていた。 「…マスク、したままですよ」 「……」 一旦離れると無言で耳ゴムを取ろうとするその目元が心底煩わしいと言っていて、笑いそうになってしまう。 「わかりました」 また暴走をされる前に右手を伸ばすと置いてあったパーテーションを外した。 「ひとまず、これで良いですか?」 驚いている瞳の隙をついて未だ腰に回されている手も解き、顎まで下げられていたマスクで鼻まで覆う。 「これは流石に外せないんでこの折衷案で納得いただけると助かります」 「…仕方ない。名前の顔を見られた事に免じてひとますはこれで手を引こう」 口調こそ渋々といった様子を醸し出してはいるれど、嬉々とした瞳の色は素直なもの。 弛まっていく頬に気付かれてしまわないよう、もう一度マスクを直した。 2人を隔てるものは何も要らない (これ越しのキスもなかなか新鮮で良かった。もう一度しないか?) (しません) (そうか。やはり生が良(消毒液ぶっかけますよ)) [ 203/220 ] [*prev] [next#] [mokuji] [しおりを挟む] [back] ← ×
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