good boy | ナノ
いつものように職員室でパソコンと睨み合いながら、キーボードを打とうと動かした手を止めて、自然と腕を組んだ。

目の前には"授業評価記録(指導教員用)"の文字。
そしてデスクにはそのカッコの文字がないだけで、同じ書類が2枚。
記入済になっているそれは先程、宇髄先生と煉獄先生に提出して貰ったものだ。

さて、どうしようか、と考える。

「…出来た」

答えが出る前に右横から聞こえた声へ視線を向けた。
パソコンを見つめる横顔は動かないけれど、その言葉の意味はわかっている。

「お疲れ様です。印刷かけてもらって良いですか?」
「わかった」

マウスを動かした後、コピー機に向かおうと立ち上がるジャージ姿を横目で見ながら、もう一度考える。
何をどう書こうか、と。
昨日起きた、いや、起こした事を正確に書く訳にはいかない。
事実を踏まえつつ、それなりに当たり障りない内容に変えなければ。
じゃないとこれを提出する先で非常にマズイ事態になってしまう。
生徒達には不評だった"120秒で上手く伝わるかなゲーム"のタイトルも、評価記録ではそれなりに恰好が付くものに変えた方が良いのかなんて、心底どうでも良い事を考えた。

宇髄先生と煉獄先生は、彼女の授業をどう見たのだろうか?
ふと興味が湧いて、ちらりとそちらへ視線を向けたと同じく、差し出されたもう1枚の"授業評価記録"に視線を上げる。

「これで良いか?」

抑揚のない口調に瞬きをしてから視線を戻した。
用紙の3分の2を占める評価内容の欄をびっしりと埋めている文字を見る。
「ありがとうございます」
お礼を言ってから受け取った後、軽く目を通しながらつい苦笑いが零れた。
「もう少し私についての内容は減らせませんでしたか?」
「それでもだいぶ削除した方だ」
自分の席に戻っていく冨岡先生に
「そうですね」
としか返すしかない。
確かに先程校閲した時よりかはマシかと思いながら最後の"指導員が優秀だった結果として見ている"という文字に、少しこそばゆくなった。
それでも授業内容についての評価は客観的かつ的確で、本当にこの人の本気は侮れないと実感している。
それは宇髄先生と煉獄先生に対しても思う事だけど。
三者三様の評価に最後まで目を通してから、そうだ、これをこのまま添付すれば良いのでは?と閃いて席を立った。

「おっはよーございますっ!すいっませんでしたぁ!」

扉を開けるなり、勢い良く頭を下げる姿に職員室中の視線が向けられる。
呆気に取られる職員達の雰囲気を感じ取ったのか頭を下げたまま自分のデスクへと進む動きが器用だなと思いながらコピー機のスタートボタンを押した。

「おはようございます」

2部ずつ取ったコピーと原本を回収してから椅子に座る彼女へ声を掛ける。
上げた顔は少し赤らんでいて、注目されたのが恥ずかしい、といった感情が窺えた。
「どうぞ。昨日の授業に対する評価記録です」
「…どうも」
視線を落とした先、それが翳ったのはほんの一瞬。すぐに嬉々としていくのを隠さぬまま私を見上げる瞳は、確かに小型犬っぽいかも、なんて考える。
「良かったですね」
それだけ言えば、その表情が更に嬉しそうなものへ変わっていった。
モゴモゴと動かす口元は、素直に微笑んで良いのか迷っているけれど、それが負の面ではないのが伝わってくる。
「…何が良かったんだ?」
横からぬっと出てきた冨岡先生の顔に反射的に身を引いた。
「義勇先生には関係ないし」
「お前には言っていない。俺は名前に訊いている」
2匹分の唸り声が聞こえるのは気のせいか。
「…冨岡先生」
黙りはしたものの、牽制はしている番犬なのか忠犬なのか、それとも本人は人間のつもりなのか、良くわからないけれど、ひとまずその顔へ1枚の紙を差し出す。
黙読を始めたかと思えばすぐに
「煉獄は覚えていたのか」
小さく呟く声に、彼女の顔から若干引いていた赤みが増した。
「義勇先生には関係ないし!」
「強がる必要はない。煉獄の事が好きなのだろう?丁度良い。俺が協力「良い良い良い良い良い!!やめてください!!余計な事しないで!ごめんなさい私が悪かったですごめんなさいもう逆らいませんから」」
腕を必死で掴むその顔は蒼白しているのに、当の冨岡先生は心底解せない、といった表情のまま続ける。
「何故そんなに怯える必要がある?自分の意思を伝えた方が良いと名前も言っていた」
しかも、こちらに同意を求める視線を受けて苦笑いのまま小さく首を横に振るしか出来なかった。
恐らく宇髄先生が自分にしてくれたように、煉獄先生の橋渡し役を担おうとしているのだろうけど、彼女が怯えるのも無理はない。
何を言い出すか、何をしでかすか、常人では全く予測が付かないからだ。
「苗字さんの事もう取ろうとか絶対もうそんな事思いませんから私の負けで良いですからほんとやめてください義勇先生みたいに狂ってるとか思われたくない煉獄先輩に嫌われたくない」
ダダ漏れの心の声が何気に失礼な事を言っているのに
「腕を放してくれないか。それと名前で呼ばないでくれ。名前が不安になる」
心配しているのは全く別の事で、ブレない強さと言えば良いのか、とにかくその全く変わらない姿勢に、もう私含め敵う人間は居ないんじゃないかと、そうふと思った。


good boy


壁から剥がし終えた掲示物を纏めて、閑散とした教室を眺めた。
あと数日すれば、期待と不安、どちらの気持ちも抱えた生徒達が、此処でイチから学園生活を始める。
それは定石通りなのに春休み中のこの雰囲気は何処か物悲しいものがあると、そう考えて寂しくなるのは

「こっちも終わりました〜」

少しだけ穏やかになったその笑顔を見るのが、今日で最後だからかも知れない。

「お疲れ様です。じゃあ戻りましょうか」
「は〜い」

研究授業について、大きな問題になる事はなく、今日を以て彼女は無事に実習生活を終える。
模造紙の束を両手で抱えながら廊下を進んでいた所で
「あの〜、苗字さん?」
背後から窺うような声色で呼ばれ、振り返らないまま答えた。
「何でしょう?」
「私の送別会って、来てくれます?」
その言葉には立ち止まってそちらを見る。
「いつですか?」
「…今日、です」
罰が悪そうに顔を伏せた仕草に、意識せずとも脳裏に冨岡先生の顔が過ぎった。
年度末の片付けが一段落する月末、機種変更がてらお弁当用品を見に行こうと約束したのも今日。
さて、どうするべきか。
そう考えなくても、優先すべきなのは今目の前に居る彼女だろうと答えになる。
私と同じように紙の束を抱えながらも、しきりに髪を整える仕草に苦笑いが零れた。
恐らく、ではなく確実に、私にその一言を告げるまで、たくさんの事を考えたのだろう。
手に取るようにわかるのは、その表情からじゃない。

「お前、送別会行くのかァ?」
5日前にそう訊ねてきた不死川先生のお陰だ。
当たり前に何の話かわかりかねる私に
「悪いと思ってんなら自分で誘えっつったんだけどよォ」
それだけで会話を切り上げられたけれど、与えられたヒントとしては十分過ぎる程。
ただその日付だけは知る由がなかったため、今日この日、というのはいささか驚きはした。
同時にそれは、彼女が悩んだ証でもある。
気の利いた台詞を考えようとした思考を止めて、余り上手くはないけれど微笑った。
「楽しみに、しています」
言葉の意味を理解した途端、しきりに動いていた手が止まって、溢れんばかりの嬉しさを湛える瞳に、今度は意識せず口角が上がる。

しかし、さて、どうしようか。
そう考えるのは、これをどう飼い犬兼恋人に伝えるべきかという問題が立ち塞がったからだ。


「駄目だ」

コミュニティルームへ向かう途中、階段の踊り場で物理的に立ち塞がる青いジャージに、いつぞやの攻防を思い出す。
攻防というより大暴走か。
あの時は一方的に噛み付かれて飼い犬にした事を後悔したけれど、今は恋人という立場がプラスされてる訳だから、その心に余裕も生まれただろうと、寧ろ生まれていておかしくない筈だと常識で考えたのが間違いだった。
対話をしようと開いた口は早々に塞がれて、身体中を這う両手に抵抗しようにも絡み付いてくる舌に気を取られて力が入らない。
「っちょっ冨岡せんせ…」
「言っておくが"待て"は効かない。俺が今日までどれほど我慢したか、知らないとは言わせない」
耳元で囁かれて心臓が跳ねた。
これは相当、お怒りのようだ。
でもそれは私のせいなのだろうか?
そんな事も考えてしまう。
この間"よし"はした筈だし、いや、それは今この場での"よし"ではないけれど、とにかく一度も"待て"は発動させていない。
発動させる条件も必要もなかった、というのが正直な所。

あれから一切、指一本触れてこなかったからだ。

だからそれも手伝って、精神的に安定したのだろうと判断をしたのだけれど、今この場においてはかなりの荒ぶりようで、下手したらこれまでの攻防戦史上、最狂クラスかも知れない。

「触りたいだろう?」

熱っぽい声でそう言うと、不自然に膨らみを持ち始めている場所へ誘導する右手に今出来うる、全ての力を込めて拒否を示した。
「良いです大丈夫です触りたくないです。何ですか?どうしたんですか?凄い暴走の仕方しますね今日に限って。これまでの歴史を塗り替えるような偉業ですよある意味」
「あの日から一切の欲を絶った。その結果、今これが勃っている」
「誰が上手い事言えと?何でそんなの絶つ必要があったんです?」
「そんなのとは随分な言い方をするな。これが勃たなく「違いますよそちら様の話ではなくて」」
出来るだけ視界に入れないように顔を逸らし続けているものの、首の筋が攣りそうになる。
ついでに全力で抗ってる右手の限界も近いのでこれはどうにかしないと取り返しのつかない事態を引き起こしてしまう。そして時間的にもとてもマズイ。

「一旦落ち着きましょうね。そのために離れましょう」
「落ち着かせたいと思うのなら撫でてくれ」
「それで落ち着くとは思えないんですけど。巻き添えからの爆死する未来しか見えないんですけど」
「一度出せば印刷機の搬入時間くらいは持たせられる」
「それ本気で言ってます?」
「本気だ…」
切羽詰まった声色に表情を窺おうと視線を動かした事で、その言葉が嘘でない事を知る。
「明日からあの会長の担当は正式に宇髄になり小型犬も此処を去る。名前は何の迷いや不安を抱く必要もなく俺だけを考え、俺だけに感じる。そのために…」
ふっと短く吐いた息が熱を持っていて、目を泳がした。
「駄目だ。夜まで持たせられない…」
耳を這っていく舌に、これは非常にマズイのではないかと冷静になって考える。
そう、冷静にならないと今の打開策が見付けられない。一度しっかりと、目を逸らさずに状況判断をするべきだ。いや、それそのものを視界には入れないけども。

この大暴走の原因は、私が約束を反故にしようとした事で生まれた怒りに身を任せた結果、無理に抑えつけていた欲求の跳ね返り。
そういう解釈で概ね間違いない。

「名前、触ってくれ…頼む…」

そして、その制御管理と現状維持の選択は今の冨岡先生には到底無理だという事実。
という事は、私がどうにかしてこれを鎮めなければいけない。
しかもあと僅かで搬入が始まるという時間制限がある中で。

ひとまず此処に留まり続けるのはとても危険である。
もうすぐコミュニティルームには会長を始めとした人々が集まってくるからだ。
この膨らみを見られたら何の言い訳も立たない。いや、ある意味立ってはいるけどもって私まで上手い事言ってる場合じゃない。

「冨岡先生…っ!?」

しまった、耳を噛まれたせいで力が抜けた。
状況を把握すると同時、ジャージ越しに触れてしまったそれに息を止める。
上下に擦らせようとする力にせめてもの抵抗に掌を反らせた。

「ちゃんと握ってくれないか…」
「何言ってるんですか駄目ですよ」
「大丈夫だっ…すぐに出る」
「大丈夫じゃないです全然大丈夫じゃないですとにかく此処を移動しましょう」
「…無理だっ…一度出さなくては動けない」
「ちょっと冨岡先生…!?」
動き出した腰に引きようがない身体を引こうとした事で、窓に後頭部を強打した拍子にそれを握ってしまう。
「…っ…」
ビクッと身体を震わせると更に激しくなる息遣いに眉を寄せた。

まさかホントに?このままするおつもりで?

状況は更に悪化の一途を辿ってる。
駄目だ。何とかお互いに被害を最小限に抑える方法を選ぶしかない。
これはもう処理だ。爆弾処理。
色んなものを巻き込んで爆破されるよりマシなのは比べるまでもないし、今此処で下手に躊躇してはいけない。
確実に短期戦で止めを刺すべきだ。

「…学校で…大胆だな…っ」
「誰がさせてるんですか誰が」
「直接触ってくれないか」
「無理です嫌ですそのまま爆破後正気に返ってから悔やんでください」

こちらは既に後悔の嵐だ。
嵐どころじゃない。そう思うと溜め息が出る。
この人の全てを受け入れようとか、そんな覚悟が生半可なものだったと思い知らされた。
恋人という立場で満足して落ち着くような常人ではないし、普通の生活を過ごせるとか、安穏が訪れるとかそんな事を少しでも期待してしまったこの数日間の自分が恨めしい。
本気で噛まれたあの時、後悔した筈だった。

この狂犬を抑えつけてはいけないと。

だからこれは罰として受け入れる。今回だけは。
二度と、金輪際、こんな所でこんな事するものか。絶対に。

「…名前…」
「ちょっと触んないでください!」
「駄目だ。お前も気持ち良くならないと」
「こちらに対してのお気遣いは結構です大丈夫です!求めてませんから!」
「俺が…欲しくないのか…?」
「そこで傷付くのやめてくれませんか!?そういう意味じゃ…」
「あらぁ!誰かと思ったら、苗字先生…!?」

階段の下から響いた声に心臓が止まりそうになった。大袈裟じゃなく。
珍しく冨岡先生も身を震わせて止まってる。
そりゃこんな状況、流石にヤバイと思うだろう。
思ってなかったらそれこそヤバイ。
いや、この人は大体ヤバくない時がないんだけど。

大丈夫、平静を装おう。今コミュニティルームから出てきたばかりじゃ私達が何をしているかまでは把握されていないし、その位置からは不自然な膨らみ周辺は見えていない。大丈夫。これ以上近付かれなければ問題はない。
今焦って動く方が不自然だ。

「…お疲れ様です、会長。もう着いていらっしゃったんですね…」
「この間見た時思ったのよ。この部屋凄く埃っぽいって。だからお掃除をね」
「…会長自らですか?」
「だってそしたら皆も使いやすくなるでしょう?私、キツイ事言い過ぎちゃったからせめて、ね?苗字先生もごめんなさいね。今まで」
「…いえ」
恐らく普通の状態なら会長の改心、というか原点への回帰に感動していただろう。
しかし今はそれどころじゃない。
「でもそのお陰で娘とたくさん話せたの。ほんと、小学生振りかしら?」
嬉しそうに微笑んでいる姿については心底、良かったと思う。
良い方向に転んだのはこれからのキメツ学園にとっても吉報だ。
しかし今は引き攣った笑顔しか
「娘からお2人の事も聞いたのよ。いっつもラブラブなんですって〜?」
しかじゃない、すら出来なくなった。
まさか生徒にまで認知されていたなんて、これはもう終わりだ。
遅かれ早かれ教員免許を剥奪される。
それならその前に返納しよう。
そうだ切腹だ。せめて最期は潔く散る。
その前に此処から生きて戻れたらの話だけど。

冨岡先生から自然に距離を取ろうとして
「無理して離れなくて良いわよ大丈夫。気にしないで。私も若い頃は職場で…とかあったわ〜燃えるのよねぇ。ごゆっくり」
フフフ、と笑うと戻っていく背中にまたとんでもない爆弾を落とされた上、不都合しかない誤解を生み出してしまった。
それでもひとまずは良かった、とそう思おう。
今考えるべきは止まったままこの人の爆弾をどうにかすべきだ。
そう思った所で手に感じていた感触が変わっている事に気付く。
会長という思わぬ伏兵の出現で鎮まったらしい。
いや、でもこれは何か…
俯いている顔を覗き込もうとした所で咄嗟に手を放す。

「…まさか…」

嘘、全く気が付かなかった。
思い返してから、あの身体が震えた時かと確信を得る。

まさか会長の声で…?

冨岡先生茫然としてるし、これはもうどうしたら

「お?お前ら何ヤッてんだ?」

階段を下りながら、いつものようにからかおうとしてくる宇髄先生にも何を返して良いか言葉に詰まってしまう。
何とか誤魔化そうと考えるも、すぐに全てを達観したような表情を見せると哀れみに満ちた瞳を向けられて、これではホントに爆死だと考えてしまった。


無事に生還ならず


(とりあえず俺に任せな)
(…お願いします)
(オーイ冨岡〜、生き返れ〜)


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