good boy | ナノ
蓋を開けてみれば何て事はない。
勘違いによる更なる勘違いだった。
しかしそれを解くのはなかなかに難しい。
まず何処からその掛け違いが始まっているか、正確に認識するのが容易ではないからだ。

彼女と姉の場合も、第三者として判断するに、多少の認識のズレやボタンの掛け間違いは、以前から発生していたように思える。
それでも厳しい母親によって植え付けられた価値観への反発心と疑似性から、互いに互いを思いやる事で友好な距離を保っていた。

しかしその関係にヒビが入ったのは、姉がキメツ学園に入学した頃。

小学生から中学生になるその境目は、一般にとても難しいとされる。
取り巻く環境だけではなく、心の葛藤が起きる年齢だからだ。
その証拠に彼女は姉の事をこうも言っていた。
"遠くに行ってしまったようだった"と。

それでも思いやりで解決をしてきた彼女達は、無意識に過去の成功をなぞらえようと行動した。
自分が我慢をする事で、相手を立てる。
その結果生まれたのは、互いが互いを同一人物を好きであるであろうという解釈の違い。
彼女は、姉が煉獄先生…いや、彼女にとって"煉獄先輩"を好きだろうと認識し、姉は妹が"煉獄くん"に恋心を抱いていると錯覚を起こした。
その食い違いは、姉が妊娠した事で大きな傷として現れる。
彼女は、煉獄先輩と姉が話せるきっかけになるよう通った日々に対し姉が自棄に走り、好きでもない男と結婚まで選んでしまったと自分を責め、関わりを避けた。
しかしその様子を見た姉は、何でも開けっ広げに話してしまう無神経さと、決めた道を突き進んでしまう強引さに、今まで強いられてきた妹の我慢がついに限界に来たのだと責任を感じる。

生まれてしまった軋轢により、唯一の理解者だった姉と離れ離れになった。
彼女は徐々にその事実に耐えられなくなってしまったという。
そうして実習生の権利と、使いたくもない母親のコネに頼ってまでやって来たこのキメツ学園。
姉と煉獄先輩を再会させる事が出来たのならば、自分が犯してしまった間違いも、赦されるのではないかと考えたが、自分の姿を見ても全く示さない反応に、咄嗟に姉のように振る舞っていた。


「と、いうのが事の真相です」

説明し終えたと同時に、私が通れるように門を引く横顔は全く動じる事はなく、聞いているんだか聞いていないんだかわからないなと苦笑いを零す。
そのまま立っている訳にもいかず、小さく頭を下げながら擦り抜けた。
続いて通り抜けた冨岡先生がそのまま動かない事で感じた疑問は
「あ、すいませーん」
軽く手を上げると通っていく教員によって解決する。
こういう気遣いが自然に出るのも、蔦子さんのお陰なのだろう。
「お疲れ様です」
「お疲れ様でーす」
挨拶を交わしたその後でガラガラと音を立てる門扉が閉まり切るのを待つ。
把手から離れた手が自然と右手を攫っていきそうになったのに気付いた所で、反射的に引っ込めてしまった。


good boy


若干下がってしまった眉に、あぁそうだ違う、と手を差し出そうとしたものの、無言で歩き出した背中に完全にタイミングを失ってしまって、その後ろへ続く。

「…私や冨岡先生に敵対したのは、自分と近いものを感じたからと言っていました」
「正確には"似て非なるものだったと自覚したから"だろう。あの小型犬は強靭な狂人にはなれない」
「それも確かにありますね」
答えてから、少し間が空いた事で気付いた。
「その言い方だと私も強靱な狂人だという事になるんですが…」
「違うのか?」
振り向いたかと思えば驚いた表情をするものだから、どういう顔をすれば良いのかわからなくなる。
「強靱な狂人は冨岡先生1人で充分ですよ。私までそちらの世界に足を踏み入れたらカオス所の話じゃなくなります。破滅の未来しか見えません」
「…そうか。だから名前が傍に居て制御すると共に桜を眺めながら約束したな」
「約束をした覚えはないんですけど、そこはまぁ、良いです」
この人、地味に記憶を改竄していくのが得意だな。
今回の件はさして困る訳でもないから良いけど。
私が否定しなかった事で満足したのか、また前を向いて歩き出す背に続く。

「桜と言えば、冨岡先生。良かったんですか?」
「何がだ?」
「蔦子さんに戴いたチケットです」
行きたがっていた筈では?というのは心の中だけにした。
1回はっきりと断った身で流石に口には出せない。
「そもそもどうして隠し持っていたんです?」
「今の名前ならば1泊2日の旅行も受け入れるんじゃないかと考えての事だ」
「じゃあ尚更…」
突然止めた足に、こちらは言葉も止めた。
「優先させるべきは俺の一時的な願望じゃない。名前との現状を維持する事だ。あの場では姉妹間の争いを鎮めるのが何より重要だと判断した」
こういう時、この人の慎み深さと冷静さは本当に感服しかない。
「それにあの温泉旅館には混浴も個別風呂もなかったため興起は半減している。どうせ行くならば存分に名前との交わりを楽しみたい」
その後で必ずと言って良い程その感服をぶち壊してもいくけれど。
意味合いは違うのに"後足で砂をかける"そんな諺が浮かんだ。
「折衷案で一緒に旅行したとしても混浴なんてしませんよ。無理です」
「お前がすぐに受け入れられないのはわかってる。今すぐ実践しようとしている訳じゃない。これから先の話だ」
「…これから先もないと思います」
「本当にないと断言出来るか?」
群青色に見つめられて、息を呑む。
そう言われると…
「断言は…出来ないですけど…」
歯切れの悪さに自分で出した言葉ながら潔くないなと考えた。
しかし実際、そうとしか言えない。
また歩き出した背中を人知れず見つめて思いを巡らす。

あれだけヤバイだの犬だの狂人だの、そんな印象しかなかったこの人と恋人になるという選択肢を選んだ訳だから、これから先の未来にどんな事が起きるか全く予想は出来なくなった。
もしかしたら私らしからぬ事をしでかす可能性もゼロでは
「当面の目標は悪女名前と極妻名前の顕在化だ。俺の上で悦が「それはないと断言出来ますね」」
駄目だこの人。都度止めていかないと増長しかしない。
「だから今すぐではないとさっきも言った」
「何でちょっとふてくされるんですか…」
分岐路に差し掛かった所で迷う事なく帰路を選ぶその背中に眉を動かした。
「冨岡先生、ショップはこちらですよ?」
「今日は良い」
「良いんですか?」
もしかして私が否定したから臍を曲げた?
いや、あれは流石に受け流すのは難しい。というか無理だった。
それこそ約束したとか記憶の改竄をされたら愧死しかない。
冷たかったのは多少悪いとは思ってはいるけど。
そんな事を考えたものの
「あぁ、バックアップを取った今、特別差し迫る事態じゃない」
その口調はいつもと変わらず、少なくとも機嫌が降下した訳ではなさそうだ。
データが消えないとなったら、いきなりスマホに対する扱いがぞんざいになったのも気のせいじゃない。
「いきなり電源入らなくなるかも知れないって宇髄先生がおっしゃってましたけど、突然連絡取れなくなったら困る相手とか居ないんですか?」
「居ない。不死川と姉も名前経由で連絡は取れる」
私とは連絡が途切れないと認識している辺り、そこらへんもブレないと言えばブレないのか。
まぁ部屋は隣だし職場も同じだから必然的にそうはなるんだけど。
「…確かに、そうですね。パソコンでもLINEやってるっておっしゃってましたし…」
そこまで言ってはたと気付く。
「冨岡先生、LINEの履歴、パソコンの方に残りませんか?」
僅かに空いた間の後
「そうか。そうだな」
小さく呟いてから足を止めるのにつられて立ち止まる。
「それなら益々急ぐ必要はない。名前も朝から神経を尖らせて疲れただろう」
「いえ」
大丈夫です、と答える前に差し伸べられた左手と一緒に

「今日は何も考えず、ただ名前と帰りたい」

今までにない柔らかい声に心臓が跳ねてしまった。
何と答えようか迷う間に音もなく絡んでくる指先に誘導されて歩き出す。
いつもとは違う冨岡先生の雰囲気に、正直ちょっと呑まれてしまいそうでちらりと盗み見た先、斜め上の横顔が若干強張っているのに気付いた。

あぁ、そっか。
研究授業が終わるまではって、それは改竄じゃなくて約束したから、多分そういうつもり、なんだろうな。

改めて知覚してしまった瞬間、気恥ずかしさが込み上げてきて、繋いだ手に必要以上に力が入ってしまった。
会話を続ければ良いのに、こういう時に限って頭が回らずただ散っていく桜を眺める。

何度も一緒に歩いた変わり映えのしない景色の筈なのに、全てが真新しく感じるのは、何故なんだろう、とわかっているのに気付かないふりをした。


見慣れたマンションでさえ新鮮な物に見えたのは、此処に着くまで不自然な程にお互い一切口を利かなかったせい。
エレベーターの5と表記されたボタンを押す人差し指から足元へ視線を落として、このままでは気まず過ぎると話題を考えた。
「そういえば冨岡先生」
直接的な返事はなくとも、目が合った事で言葉を繋げる。
「スマホを替えに行く時、折角なのでお弁当箱買いに行きませんか?」
若干の驚きに揺れる群青色に苦笑いが洩れた。
「彼女の実習期間が終わったらお弁当、作って欲しいって言ってたじゃないですか」
「…覚えてたのか」
「一応は。ホワイトデーのお返しにお弁当箱一式を買おうと思ってたので」
私の言葉に僅かに眉を寄せてから確信を得たように顔を上げる。
「だからお前は新学期になったら俺を労うと言いだしたんだな」
「まぁ、そうですね。その意図は確かにありました」
あの時は単純に今までの感謝という名目で考えていただけだけど。
正直、まさかその数日後にこの人と付き合う事は、全く想定していなかった。

どうして私はあの時、受け入れようしたのか。
そう突き詰めると明確な理由が出てこない。
でも説明が出来ないからこそ、この想いのような気もしている。

鈍い音を立てて開いた扉に気付いたと共に、手を引かれ乗り込む。
強くなった指先の力を認識した時にはその腕に包まれていて、閉まる扉を目端で捉えた。
「名前…」
吐息混じりの囁きを頭で感じて心臓が高鳴っていく。
いや、でも流石に此処では…。
そうは思うのに、身体を離すと共に覗き込んでくる熱の籠った群青色に息を止めた。
いつものように強引に迫ってくる訳じゃない力加減に、本気で抵抗も出来ないし冗談で返せない。
「好きだ」
近付いてくる口唇にどうしたら良いのか迷って、早々に目を瞑る。
「………」
しかし暫くしても想定していた感触は訪れず、恐る恐る薄目を開ければ同時に扉も開いた。
何も言わずまた手を引いて降りていくその表情は、こちらからは窺えない。
505号室で立ち止まったまま動かなくなった背中に何か声を掛けるべきか思考を巡らす。
今冨岡先生が止まっているのは、この後の展開を考えているから?
そうしたら私が家に招待するのが自然な気もする。
夕飯をご馳走するっていつもみたいな流れで…。いや、いつもこの人が強引に上がり込んで来てたんだった。
私が自分から誘ったのは一昨日が初めてで、あの時何て言ったっけ?
深く考え過ぎていたせいで、振り向いた姿に反応するのが遅れてしまった。
躊躇していてもまた気まずい空気になりそうで口を開き掛けた時、髪を撫でる手の動きにまた息が止まる。
「名前は、可愛いな」
「…それは、どうも…。ありがとうございます」
参った。
余りにも真剣な表情にどう反応をすれば良いのかわからないし何処を見たら良いのかも迷ってしまって視線を泳がすしかない。
ゆっくり近付いてくる顔につい眉間を寄せてしまうのも、もはや習癖になってしまった。
さっきのように目を閉じたままのアホ面を晒す訳にはいかないと限界まで目蓋は動かさないようにしたのに至近距離で視界に入る深い青に耐えられず硬く瞑っていた。
僅かに触れた口唇の柔らかさに息を止める前に離されて、目を開ける。
フッと小さく笑うその表情にドキッとした。
これはもうかなりの劣勢なのでは、と頭に浮かんでから、もう攻防をする必要がない事に気付く。
いや、知ってはいたけれど改めて気持ちを新たにしたとかそういう
「名前」
「…は、いっ!?」

…やって、しまった。

目を丸くしている冨岡先生からただただ顔を逸らす。
明らかに不自然でしかない返事だけではなく思い切り肩が震えてしまっていた。
完璧に意識しているのがモロバレ過ぎる。
駄目だ。今すぐ此処から逃げ出したいしこの人の記憶の一切も消したい。
立て直そう、平静を装おう、そう思えば思う程、熱だけが上がっていってしまう。

「…可愛い」

呟きを耳が認識した時にはその胸元に収まっていて、包まれる温かさと匂いに誤魔化しようのない安らぎを感じた。
それと共に、抱き締める両腕の強さに息苦しくもなって酸素を求めようと顔を上へ動かしたのに、耳へ落とされるキスで心臓がどんどん速くなっていく。

「…名前、好きだ」

聞き慣れていた筈の台詞に、いつも何て返していたっけ、と考えてから、今までが全く参考にならない事を知る。
抗う以外の言葉を返そうとすると何も出て来なくなるのは何故だろうか?

私も好き。
そう言えれば苦労はしない。
そもそもそういう台詞を素直に言える人間ならば、多分此処までこの人と攻防は続けてこなかった。
それを鑑みると、無理は良くない。
そう、無理は良くないんだけれどこのまま黙っているのも良くはない。

「…部屋、入りませんか?」

口にしてから後悔した。
何なら部屋と言った時点で後悔していた。
これじゃあ私が誘ってるみたいじゃないか。
唐突に恥ずかしさが込み上げてきてただただ消えたくなる。
いや、誘ってないって訳じゃないけど、何ていうか、何か言わないとこの人が不安になるのも申し訳ないなと思って、受け入れてはいる事を示そうとしただけで、でもがっついてる…って思われただろうな確実に。
勢い良く捕まれた肩と離れる身体、そして驚きの表情を出来る限り見ないように顔を逸らし続ける。
でないと悪態で返してしまいそうだ。

「名前が誘ってくるとは…これは夢か‥?以前にもこんな状況があった」
「…恐らくその以前というのは夢で間違いないでしょうが、今はまごうことなき現実ですね」

事実を示したのは、この状況でまた暴走されても困るという半分建前で半分本音。
折角振り絞った勇気を夢だとは思われたくない。
そう考えてから、あの時この人が囁いた告白もそうだったんだろうと胸が痛んだ。
気持ちがわかるなら、私は此処で口にしなければ…。

「…冨岡先生」

突然喉の渇きを感じて喉を動かした。
見つめた群青色が不思議そうに瞬きをしてる。

「…好き、で」

言い終わっていないのに包まれる両腕の力強さに思考を止めるしかなかった。
「…名前。俺も、好きだ…」
ゆっくり紡ぐ言葉に、どれだけ想われているのかが伝わってきて、あぁ私この人の事、好きだなって改めて思い知った瞬間、また勢い良く離された身体と
「駄目だ」
低く呟く否定に眉を寄せる。
「…冨「これ以上は待てが出来なくなる」」
項垂れるその表情が見えず、余計に頭の中に疑問が湧いて出た。
「…もしかして私が"よし"って言うのを待ってるんですか?」
「違う。そういう意味じゃない。お前のよしは受け取った。だがまだ待てをしていたい」
「…すみません、ちょっと意味がわからないんですけど…昨日は無理だって言ってませんでした?」
待てを、していたい?
この状況でまだ律儀に待つ意義は何処に?
「昨日はお前が俺を受け入れたという事実で完全に浮ついていた。だが考えれば今こそ自制をすべきだと思い直している」
相変わらずその思考が良くわからないなと更に疑問が脳内を占めていく。
「名前がやっと俺のものになった。俺だけを見るようになった。その事実を噛み締めたい。この瞬間を大事にしたい。せめてもう少し…」
切羽詰まった声が途中で途切れて、眉間の皺が自然と弛んで小さく噴き出してしまった。
「…冨岡先生って、ホント実はかなり真摯な紳士ですね」
右手で口元を隠しても笑い声が抑えられず、目を見開いている表情ですら可愛い、そんな事を思う。
「わかりました。今日は大人しく帰りましょうね」
そう提案をすれば、両肩に置かれていた手が弛まっていくのを見計らって、その口唇に触れるだけのキスをした。
「………っ」
息を詰まらせたのがわかって、また笑いが込み上げてしまう。
「…飼い猫による寝る前の挨拶です」
いつだか言われた台詞をそのまま返した所で、その瞳がふっと嬉しそうなものへと変わった。
「…おやすみ」
髪を撫でる手が離れて、506号室に向かうと慣れた手つきで鍵を開ける動きに視線を止めていれば
「名前が先に部屋へ入らないと心配なんだが」
困ったような表情をする冨岡先生に我に返る。
「…そうですね、すみません」
それはそうか、と鍵を取り出すと早々に穴へ差し込んだ。
ガチャ、と音がしても、私の姿が見えなくなるまで見送るつもりでいる瞳の色は変わらない。
「おやすみ、なさい」
「あぁ、また明日」
穏やかな返答に少しくすぐったくなって、静かに扉を閉めた後も暫く弛まる頬が治まらなかった。


想いが溢れていく


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