「まぁ、そーなると思ったわ」 涼しい顔でガムを膨らませる宇髄先生の横顔に、どういう表情をして良いか未だにわからないまま運ばれていく印刷機を眺めた。 「どこらへんに置きましょうか?」 「そうね、棚動かしちゃったからこっちの方が良いかしら?」 会長と業者の会話を一応耳には入れながらも、横からするパンッという破裂音にも 「お前、冨岡の事舐めてただろ?」 その一言にも一瞬ドキッとする。 此処に本人が居たらまた突拍子もない事を返すんだろうなと考えてから、いや、今はそんな元気はないかと足元に視線を落とした。 そのまま茫然とさせている訳にもいかないと宇髄先生が職員室まで介助したらしいけれども、完全に息を吹き返してはないと先程戻ってきた際、報告は受けている。 「…舐めてた、といえばそうかも知れませんね。冨岡先生の底を知ったような気でいたのは確かです」 「アイツに底なんかねぇよ。特にお前の事になるとな。ただでさえ底なしなのに無理に禁欲なんかさせてみろ。そりゃ派手に大爆発の木っ端微塵だ」 もう一度膨れていくガムが途中で割れたのを目端で捉えた。 「私がさせた訳じゃないんですけど…」 「同じようなモンだろ?」 否定が出来ない。だから黙ってしまう。 「何の事情も呑み込めてない俺でさえ途中でわかったぞ?やべぇなっつーのは。なのにお前が全く気付かなかったのは失態でしかねぇ」 「…それは…、本当にそうですね。反省してます」 今回の事は完全に飼い主兼恋人である私の不徳の致すところ。 そうとしか言えない。 冨岡先生が限界を迎える前に対処する行動を取れなかった。 否定のしようがないし、何の言い訳も出来ない。 「だから言っただろ?真っ向から受け止めようとすんなって。構えた分だけ視野が狭くなるし勘も瞬発力も鈍る。その結果、今まで見えてたモンも見えなくなるんだよ」 それについても、全く否定が出来ない。 本当にその通り、としか言えない。 「ま、これから気を付けるこった。流石にあのレベルはやべぇ。学期間じゃなかったらお前ら終わってたぞ」 「そうですよね…」 宇髄先生にそうハッキリ言われると、心にずっしり重く感じるものがある。 明らかに笑いを堪えてるのは、気のせいだという事にしておこう。 「あと今日は冨岡を労わってやれよ。派手に抱き潰されて来い」 「…それとこれとは話が違う気もするんですが…」 「お前やっぱ童貞の恐ろしさわかってねーな」 今度は重い溜め息を吐かれて視線を向けるけど、その目は遠くを見つめている。 「冨岡は会長の声に反応しちまったんだろ?恐らくただの脊髄反射かタイミングの問題だろうがその事実はアイツにとってかなりの屈辱だ。今すぐ腹切りたいほどにな」 「…大丈夫なんでしょうか?」 「だからお前が居るんだろうが。傷付いた冨岡を優しく介抱してやんだよ」 「…成程。意図はわかりました」 目の前では稼働し始めた印刷機に一同が目を輝かせていて、私達は何で遠くを見つめながらこんな話をしているのだろうかと考えてしまった。 「今度は舐めてかかるなよ?お前の行動が今後の冨岡を左右すんだからな」 「そこまで重要なんですか…?」 「かー!ほんとお前は…!良いか!?もしかしたらEDになっかも知んねーんだぞ!?EDってわかるか!?勃起不全だ勃起不全!!」 「………」 聞き間違いをしようがない程ハッキリ、それはもう良く通る声でおっしゃってくださったものだから、全員分の丸くした目を向けられる。 こういう時に人は達観を覚えるものなのだろうか。 「すみません、飼ってる犬の話です」 何の焦りも湧いてこず、極めて冷静に返していた。 good boy 「本日はありがとうございました。もし何か不具合とかありましたらすぐ電話ください!」 「わかりました。ありがとうございます」 深く下げる頭に、こちらもお辞儀を返す。 すぐに上げられた目が何か言いたげなのが伝わってきた。 「…今日までは、僕が担当なので…」 「と、おっしゃいますと?」 何となく意味はわかったものの、一応訊いてみる。 「来月から別の営業所に行くんです」 「…そうですか」 何て声をかけようか考えていた所で 「最後に貴重な体験が出来て嬉しかったです!あの、この間のジャージの方にもありがとうございましたって伝えてください」 もう一度下げられる頭に、自然と印刷機の蘇生術を思い出した。 「わかりました。伝えておきます」 「…それに、あの苗字先生と話せて…」 言葉を止めると俯くその姿に、このまま話を聞き続けるのは得策ではないと口を開く。 「とても良くしていただき、感謝しています。今後とも御社とのご縁を大切にしていきたいと思っておりますので、どうぞよろしくお願いいたします」 「…あ、お、お願いします!」 今度は勢い良くするお辞儀に苦笑いが零れた。 「あ、それでコレ!さっき渡そうと思ってたんですけどタイミング逃しちゃって…もし良かったら…」 差し出された右手に持つ物を視界に入れた瞬間、頬が弛んでいく。 「…可愛い、ですね」 「ですよね!昨日凄く良く撮れたから苗字先生に渡そうって!」 大きな瞳でこちらを見つめる姿はまるでCMに出てくるようなモデル猫のようで、確かにこれは誰かに自慢もしたくなるなと納得した。 此処で断ってしまうのは流石に申し訳なさを感じてそれを受け取る事にする。 「…ありがとうございます」 写真から伝わってくる愛らしさに癒されるのは確かだ。 今すぐとはいかないけれど、いつか猫を飼うのもアリかも知れない。 「あ、そうだ。ワンちゃん、大丈夫ですか…?」 「…えぇ。大丈夫、だと思います」 純粋に心配してくれている表情に、今度こそ申し訳なくなってしまった。 それでも屈託のない笑顔で 「折角だから長生きして欲しいですよね」 そう言われて、もう一度頷く。 「…そうですね」 「あ、じゃあ、失礼します!お世話になりました!」 「こちらこそ、ありがとうございました」 頭を下げている間に扉を開けるとそのまま階段を下っていく姿はすぐに見えなくなって、その忙しなさに違和感を覚えた。 急に慌てて出て行ったような気がしたけれど、何が… 「…?」 指に感じる質感の違いにその裏を捲る。 …成程。そういう事か。 貼り付けられた新しい営業所の名刺に、恐らく個人の携帯番号と "今度は島の営業所なんです!もし近くまで来たら遊びに来てください!" そう書かれた少し丸めの文字。 住所を確認してから、こちらは目が丸くなった。 随分遠くに異動が決まったものだと。 二度と会う事がない。そう思えば、これ位の勇気は振り絞れるだろう。 これは少し誤算だった。そう考えながらポケットにしまう。 猫は一緒に連れて行けるのか訊いてみれば良かったと、ふとそう思ったのは、少しでも新生活が楽しいもので在るようにという願いからきたもの。 そういうのを踏まえて考えると、毎年異動の可能性がある身としては、本物の動物を飼うというのには、なかなか踏み切れないなと廊下を進みながら考えた。 「…へ〜、お母さん、教育委員会に勤めてるの!?凄いじゃな〜い」 「凄くないです全然。そのせいでめっちゃ厳しくされたし」 「…そうね。それは親としても良くないわ…。ごめんなさい」 「あ、別にオバサンの事言ってるんじゃなくてさ!うちの母親の話だから〜!」 職員室へ足を踏み入れた先、仲睦まじく話している彼女と会長を目にして、これは珍しいとまた目を丸くする。 確かに先程、印刷機の設置が終わってから 「あの子にも謝りたいの」 そう言った会長を宇髄先生が職員室へ誘導したのを見てはいたけれど、それからの会話がこんなに盛り上がっているとは想像していなかった。 こちらは嬉しい誤算だ。 邪魔をしないように自分のデスクに戻ろうと後ろを通り過ぎてから、明らかに沈んでいる冨岡先生を見る。 まだ完全な生還は出来ていないらしい。 それどころか会長の声がする度に不審な動きをしていて、これは宇髄先生の言う通り、舐めてかかってはいけないと心に刻んだ。 刻みはしたけれど、具体的な策も見付からないまま終業を迎え、焼き肉屋で始まった彼女の送別会でも、冨岡先生はほぼ廃人に近く、一体その身に何が起きたのか訊かれ、言葉を濁した私と、意気消沈し続ける姿に気を遣い始めた一同にテーブルを追い出され、今、2人席で無言のまま肉を焼いているという図に至る。 少し遠くで盛り上がっている教師陣から鉄板へ視線を落とした。 「…焼けましたけど、食べます?」 小さく頷く姿にカルビ肉を皿に乗せれば、無言のまま口へ運んでいく冨岡先生を見る。 これは送別会ではなく、ただの食事では?と思いながらレモンサワーを一口呑んだ。 ただこの1ヶ月の思い出話に花を咲かせ、その中心に居る彼女が心の底から楽しそうにしているのは安堵している。 キメツ学園に少しでも居場所が見付けられたのは喜ばしい事だ。 程良く焼き色が付いた牛タンをトングを掴む。 「食べます?」 「さっきから俺ばかりに運んでいる。名前も食べてくれ」 「じゃあ、いただきます」 同じくレモンサワーを呑む瞳が少し輝いているように見えた。 立ち直り始めてる?だけど此処で蒸し返すのも何となく悪い気が…。 つい宇髄先生の方へ視線を向けてしまった。 私では全くこの状況をどうするべきかの判断が出来ない。 「混ざりたいのか?」 ヤバイ。眉が下がってしまった。 「俺に気を遣わなくて良い」 「いえ、良いです大丈夫です。ああいう席を私が苦手なのはご存知な筈では?」 「こっちに居るよりマシだろう」 完全に立ち直っていなかったらしい。それどころか卑屈になっている。 一気に呑み干されたレモンサワーを置く手から憤りに近いものが伝わってきた。 参った。これはどうしたものか。 このまま無言で焼き肉を食べ続けるにも空気が重い。 いっそオープンにしてしまった方が良いのかも知れない。 「…あの、冨岡先生?」 「何だ?」 「すみませんでした」 「…何故謝る?」 そう訊かれると、また答えが出るまで考察を始めたくなってしまうのが悪い癖だと自覚があるので思考を止めた。 「私が教務主任の役割を最後まで…いや、これじゃ何か今日で終わりみたいな言い方になってしまってますけど…、とにかく年度が終わるまでは仕事に打ち込めるように我慢してくれていたんですよね?」 「………」 何も答えないけれど伏せた目が肯定なのだろうなと判断して続ける。 「なので、申し訳ないと思っています」 「…怒ってるんじゃないのか?」 「怒るも何も、原因は私ですよ。冨岡先生こそ怒ってるんじゃないですか?」 「何故俺が名前に怒る事がある?」 「約束を反故にしたので。そうでした。そもそもの発端がそこからでしたね」 はぁ、と溜め息が出た。 こんな事になるなら無理に送別会に出る必要はなかったのではないかと思う。 そうしたらこんな事には最初から 「…俺は名前を困らせてるか?」 また眉を下げてしまった。というか下げさせてしまった。 私達は多分今現在、全く考えが噛み合っていないんだろうな。 当事者であるくせに、何処か他人事のように考えてしまった。 「とりあえず食べましょうか」 そう言いながら、残っているカルビ肉を鉄板の上へ乗せた。 答えない事で肯定と捉えて更に下がっていく眉に苦笑いをする。 「さっさと食べて帰りますよ。冨岡先生、ちょっと呑むペース速いですし、酔い醒ましにコーヒーでも淹れましょうね」 遠回しながらもこちらの意図に気付いたようで驚いた表情をしたのも束の間、漸く色を宿し始めた瞳に小さく息を吐いた。 * * * 「お前、もう帰んだろ?」 ジョッキを片手に私達のテーブルにやってくるなりそう言うと、トイレに向かった冨岡先生の代わりに椅子へ腰掛けるのは宇髄先生。 「えぇ」 丁度良かったと返事をしつつ鞄から財布を出す。 彼女に挨拶しがてらとも思ったけれど、先程は宇髄先生との恋愛談義を繰り広げられていて入っていく隙が全くなかったし、今は煉獄先生がする歴史話を楽しそうに頷き続けている姿に邪魔をするのも忍びないと思い留まった。 後でLINEを入れる事にしよう。 「宇髄先生、すみませんが「あー、良い良い」」 現金を出す前にその手を払われて動きを止める。 「祝儀ってコトにしといてやるよ」 若干目が据わってきている宇髄先生も、随分呑んでるんだろうな。いつかみたいにまた2日酔いにならなきゃ良いけど。 「…何の祝儀ですか」 「冨岡の童貞卒業祝いだ!ド派手にヤれよド派手に!」 「…すみません、流石に恥ずかしいので大声で言わないでください」 とても周りの視線が痛い。特に親子連れ。 「ママ〜、あのオジサン頭に変なのつけてる」 「ほんとね。変な人なのよ。ほっときなさい」 お母さまの言葉が何ともキツイなと苦笑いしてしまったが 「お前、マジで頑張れよ」 ボソッと呟かれた言葉に嫌でもプレッシャーを感じざるを得ない。 しかしそれも 「…待たせた。帰ろう」 戻ってきた冨岡先生によって、会話が終わってしまった。 何を頑張れというのか。 百戦錬磨と自負している宇髄先生に、少しでもヒントをもらっておけば良かったと思ったのはマンションに帰ってからだ。 「此処に入れれば良いのか?」 「はい、お願いします」 帰り道で何を話して良いかわからず無難に気温の話をした所で、炬燵の話題になったまでは良いものの家に上がるなりその炬燵の片付けなんて、思い切りどうでも良い事を始めてしまった私達は見るからに互いを意識してしまっていて、クローゼットにそれを押し込む冨岡先生の背が余計にぎこちなく見える。 多分、私が何かきっかけを作らないとホントにコーヒーを飲むだけで終わりかねない雰囲気だ。 階段の踊り場での冨岡先生は幻だったのか。一瞬そう思ってしまった。 いや、その事件があったからこその、このぎこちない空気なんだろうけど。 ひとまず本当にコーヒーは淹れようと足を動かしたと同時に音を立てるスマホに、画面を見てから応答ボタンを押す。 「お疲れ様です」 『何で先に帰ったんですか…?』 酷く暗い第一声に、これはこれでマズイとダイニングへ移動しながら答えた。 「すみません、挨拶しようと思ったのですがタイミングを掴め『ちゃんと顔見て話したかったのに…』」 悲しんでいる表情が浮かんで、またしきりに髪を撫でていないか心配になったのは姿が見えないからだろう。 黙り込んでしまった向こう側に、何を言おうか考えるために視線を下げてから上げた。 最後に何か言うべきなのはわかっている。 何か声を掛けたいとも思うんだけれども、何も浮かばない。 私はそれほど彼女の事を気に掛けていなかったという事だろうか?なんて、考えてから笑ってしまった。 またマイナスな考え方になっている自分に。 「顔を見たいと思うなら、いつでもどうぞ」 息を止めた気配に、驚いている表情を想像して、今度は自然と口角が上がる。 「年度が変わるからといって、キメツ学園の面々には何の変化もありませんから」 そう誰も何も変わらない。 重い立ち位置に潰されそうになる事も、全く違う環境に身を置く事も、ひとまずはない。 「優しそうに見えて長が人使い荒いのでいつも遅くまで誰かしら居ますし、その誰かしらは身内にめっぽう弱いのでコーヒーも飲み放題です」 だから辛くなった時は、その玄関を開けて欲しい。 きっと必ず誰かが、手を差し伸べてくれるから。 あの心地良い場所に、いつでも帰れる。 そんな安心感で、彼女が包まれるように。 沈黙が流れたのは数秒、すぐに 『コーヒーじゃなくて紅茶が良いです。ミルクティー』 そう返ってきて、また小さく笑った。 「わかりました。用意しておきますね」 そういえばコーヒーと言えば、準備をまだしていなかったとケトルを片手に持つ。 『義勇先生と一緒なんですか?』 突然の発問にドキッと心臓が跳ねた。 「…えぇ」 迷ったものの素直に肯定を返せば、少し迷っている空気を感じ、目を窄める。 『挨拶したいから、替わってください』 「…わかりました。ちょっと待ってくださいね」 リビングに戻ると、前回冨岡先生がしまってくれたテーブルがコタツの代わりに設置されていて、少し驚いた。 「冨岡先生、お電話です」 つい業務的な言い方をしてしまったものの、黙って受け取る姿から、そのまま持ってきてしまったケトルへ目を動かす。 此処で待っていても仕方ない。今のうちに沸かしてしまおう。 そう考えてもう一度ダイニングへ戻り、水を出した。 何も、変わらない。 もう一度心の中でそう呟いたのは、自分に言い聞かせるためかも知れない。 正確には、変わりたくない。 冨岡先生と恋人同士になった。 だからこうすべきとか、そうしなければとか、今の私は随分頭が硬くなってしまっていると、その自覚はあって、それが今まで貫こうとしてきた平等と公平を崩した結果の弊害なのもわかっている。 もう少し、肩の力を抜かなければ。 そう思っている時点で固定観念に捉われている証拠だとスプーンを持つ手を止めた。 「名前」 振り返った先にはスマホを差し出す冨岡先生。 どうやら通話は終わったらしい。 それを受け取ったと同じタイミングで 「今日は帰る」 短く呟いて玄関へ向かう背中に眉を寄せた。 「コーヒー、飲んでいかないんですか?」 「良い」 もしかしなくても、怒ってる。 「どうしたんですか?」 「何もない」 「思いっ切り嘘ですよね」 無言で靴を履き始めるそのジャージを掴んだ。 「嘘じゃない。放せ」 「話してくれるまで放しません。どうしたんですか?」 「とにかく放してくれ」 「じゃあ聞きません。手も放します。だから帰らないでください」 「帰る。帰らせてくれ」 今までにない拒絶の仕方に眉を寄せる。 言葉の代わりに抱き着いてみても、動かない背中が冷たく感じる。 何だか、冨岡先生じゃないみたいだ。 そんな事を考えてしまうのは、私達の関係に、名前が付いてしまったから? だから、やめとけば良かったのに。 変わらないようにと願っても、何処かで必ず何かは、変わってしまうんだから。 多分、ここ数日、無理をし過ぎた。お互いに。 これ以上、関係を拗らせるより今日はそっとしておいた方が―… 「今度は舐めてかかるなよ?お前の行動が今後の冨岡を左右すんだからな」 その言葉が駆け巡った瞬間、心が痛くなった。 薄々、思ってはいたけれどいつもの冨岡先生と違うのは宇髄先生の言う通り、自信をなくしてしまったからではないか。 じゃなきゃ、今私が抱き着いてる状態で何もしてこない理由がない。 まさか、ホントに…? 放し掛けた両手に力を込める。 「こっち向いてください」 「……」 「義勇!」 このタイミングで名前を呼ばれるとは思っていなかったのだろう。しかも結構強めに。 小さく肩を震わせると振り返ったその一点に視線を向けてしまう。 反応を示してない。間違いない。冨岡先生は… これは、私がどうにかしなくては。 でもどうやって? 「…名前?」 そうだ、考えてる場合じゃない。迷ってる暇もない。 何か言われる前に口唇を押し当てる。 私の予期せぬ行動に、咄嗟に避けようと後ろに引いたせいで背中が玄関にぶつかる音が聞こえた。 拒否しようとするなんて、やっぱり―… 日中とは打って変わって鎮まり返っているその場所へ手を滑らせる。 「…っ!…」 小さく反応はした。完全に、という訳ではない…? いや、でもまだわからない。 こんな事になるなら恥を忍んで詳細を訊いておけば良かった。 「…やはり名前は悪女だったか…」 意味を理解する前に引き寄せられる腰の力強さにあれ?いつもの冨岡先生だ、と思った時には立派に主張をしているそちら様に反射的に手を放していた。 「めちゃくちゃ元気じゃないですか!」 「何がだ?」 キョトンとしている表情にその場で頭を抱えたくなったのを何とか堪える。 もしかしてじゃない。私はまた宇髄先生の話術に惑わされて物事の本質を完全に見誤ったし自分も見失っていた。 いやでも、冨岡先生は明らかに様子が変だったのに。 「何がってこっちが訊きたいですよ。さっきまでの態度は何だったんですか?意図しない爆発だったから落ち込んでたんじゃないですか?」 「意図しない爆発…?確かに1滴残らず搾り取る情け容赦ない握り方は最高だった。暫く興奮が冷めやらず夢心地でいたが、結局名前を困らせただけだったと気付き、反省をしていた。それでもお前は優しいから、俺を1人にしないようにしていたのだろう?」 その言葉で半分の謎は、一気に解けた気がする。 推測するに情け容赦ないどうこうは会長の出現で私が驚いた事による不可抗力なのは何となくわかる。 だからこちらには、生還出来ていないと見えてしまって、焼き肉屋での卑屈さがそれに輪を掛けた。 「じゃあどうして今突然帰るなんて…」 言い終わる前にハッとする。 そうだ、冨岡先生は直前に彼女と電話で話していた。 間違いない。 「…まさか何か言われたんですか?」 「特に言われてはいない」 「じゃあどうして急に帰るって言い出したんですか?」 「それは言いたくない」 「私は除け者ですか」 「除け者じゃない。怒るな」 「怒ってません」 急に馬鹿らしくなってきた。 こっちがどれだけ…って勝手に深く考えて悩んだだけなのはわかってるから恩着せがましい事は考えたくないけど。 だけどさっきの拒否の仕方は流石に傷付いた。 それも今まで私が冨岡先生にしてきた事で、言うなれば因果応報なのもわかってる。 わかってはいるけれど、その理由が彼女ならそれは… 「本当に何も言われていない」 「そうですか。わかりました」 やっぱり、関係に名前なんて付けるべきじゃないんだ。 こうやって平静でいられなくなってしまうから。 「…名前は聞いていなかったのか?」 「何をですか?」 「あと2ヶ月と21日だ」 「全くわからないんですけど…」 ホントに全く噛み合ってない。びっくりする程一方通行だ。 その数字はどこから… 「やっぱり言われたんじゃないですか…」 思わず溜め息を吐いた私に、その顔が罰の悪そうなものになったのはほんのひと間。 「言われてはいない。思い出しただけだ。3ヶ月で本気度が測れるならいくらでも耐え忍ぶ」 真剣な表情に項垂れるしかなくなった。 焼き肉屋で突然始まった男女の恋愛観について、貞操観念が強い彼女は力説していた。 付き合って3ヶ月以内に手を出すのは本気ではない、といった内容の事を。 何でも統計を取った所、自分の周りにはそう考える人物ばかりだというのを遠巻きに聞きながら、お姉さんは違うのだろうなという感想を抱いたので良く覚えている。 という事は冨岡先生も、それを彼女と電話をした事で思い出した。 確かに言われてはいない。聞いただけ、そういう事になる。 そしてその彼女の力説に宇髄先生は、男は遊びでも3ヶ月くらいなら待てるといった反論をしていて、それを伝えるのは得策ではないという結果に落ち着いていた。 だから冨岡先生は私に言おうとしなかった、というのが全て。 まさか彼女も宇髄先生も、今此処で冨岡先生が本気にしているとは露ほど思っていないだろう。 駄目だ。今日の私は絶不調過ぎる。 考えれば考える程、言動全て裏目だ。 「…何でそういう所だけ、律儀に守ろうとしちゃうんですかね…」 「守らなくて良いのか?」 「…別に守る必要はないですよ。3ヶ月我慢したら本気だという定義なら冨岡先生はもう既にその倍以上我慢している訳ですし、これ以上耐え忍ぶ必要は…」 上がっていく口角に気付いて、身の危険を感じる。 非常に、とても、マズイではないのか、と。 「それなら今この状況は据え膳という訳だな」 手首を引かれたと思えばすぐに口を塞がれて、返事は何も返せなかった。 言葉を出せたとしても、今この場では肯定以外の選択肢はない。 これはもう宇髄先生に一杯食わされた所ではなく、自ら食べられに来たまさにカモネギ状態だ、と何処か冷静に考えながら目を閉じた。 どうぞ美味しく召し上がれ (その前にシャワー、とか言ったら…) (駄目だ) (…ですよね) [ 126/220 ] [*prev] [next#] [mokuji] [しおりを挟む] [back] ← ×
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