good boy | ナノ
むぅ。
そんな唸りが聞こえてきそうな表情を左目の端で捉えながら、話に耳を傾ける事数分、
「っつーワケでどっちにしろショップに行け」
宇髄先生は結論を言い切ると、手に収めていたスマホを差し出した。

それは先程私が返した物ではなく、人の背中に容赦なく怒りと体重を掛けた後、2脚椅子を用意したかと思えば、当たり前のように隣に腰を掛けた人物の物だ。
私の"スマホを返していただけ"という言葉に思い出したように、おもむろにポケットからそれを取り出すと
「電源が入ったのは良いがまた切れた」
若干眉を下げながらそう言ったのを
「見してみ?」
と宇髄先生が受け取ったのが始まり。
何度か画面をタップした後、すぐにバッテリーの寿命が原因だと見抜き交換を勧めた。
しかし当の本人は今現在、既存データが消えてしまう恐れの方が一大事らしく、消沈し続けているのを見兼ねて全てをバックアップしながら冒頭の台詞を掛けられた。

「まだ辛うじて稼働してるだけだからな。いつおっ死んでもおかしくねぇ」
「…そうか」
それを受け取る冨岡先生に、ひとまずは良かったですね、という言葉を掛けるのは憚られて、代わりに思い立った疑問を口にする。
「バッテリー交換をした場合、すぐに直りますか?」
「…前に修理した時は戻って来るまでに1週間は掛かったな。その間は代替機があったが…」
口に出した事でその時を思い出したようで低い声を洩らすと腕を組んだ。
「それ考えるとお前のそれじゃ買い替えちまった方が早いか」
確かに、と心の中で頷いてから冨岡先生に視線を向ける。
どちらを選ぶにしても宇髄先生の言う通り、キャリアショップに足を運ばなきゃいけないのは決定事項だ。
「どうします?今日一緒に行きますか?」
「お前付き合ったら途端に激甘だな」
「激甘という訳ではありません。原因を作ったのは私なので責任を取ろうとしているだけです」
「だからそういう…」
宇髄先生が不自然に言葉を止めたのは
「どちらにしろこの愛の軌跡は一度消えるのか…」
至って真剣な顔で宣う台詞に呆気に取られたからだろう。
辛うじてまだ息をしているスマホの画面にはLINEのトーク画面。
「そんくらい良んじゃねぇ?苗字が手に入ったんだからよ。しかもそれ、どうせ大半があしらわれてるだけだろ?」

それについては一切の否定をしようがないな、とは思った。
宇髄先生はグループLINEで、私の素っ気ない対応を何度も見ている。
それは冨岡先生に対してだけではないが、とにかく、個人的なやりとりになったからと言って、いきなり優しくなる訳でもない。
そう予想した上での発言なのだろう。
寧ろ思い返せばグループLINEの方が人目がある分、まだ柔和だった気はする。

「…バックアップ取って貰ったんですから、直ればトーク履歴も復元出来ますよ」
「それだけでは駄目だ。名前が俺のものになった結果に至るまでに培った過程も何一つとして忘れたくないし、1日に1回は見返さないと気が済まない」
「もしかして、これまでも毎日見返してたんですか?」
「そうだが?」
真っ直ぐな瞳はなんて言うか、冨岡先生だな、と。
その感想しか出てこないのは完全に慣れから来るものなんだと実感している。
「LINEの履歴なら私の方に残ってるので、修理している間スクショで良ければ送りますけど」
「良いのか?」
それだけの事でキラキラさせていくのも何というか、冨岡先生だな、としか言えない。
「えぇ。それくらいなら構いません」
「それならこれまで名前が連絡を取り交わした全員分の個人LINEとグループLINE、全ての履歴を送ってくれ」
「わかりました」


good boy


…ん?ちょっと待って。
つい自然の流れで頷いたけれど、今明らかにおかしな事言ったよな?この人。
「…頷いた後ですみません。お訊ねしますが、全員分、というのは?」
「言葉の通りだ。今まで誰と何を話してきたのか余す事なく詳細が知りたい」
「これも一応お訊きしますが、それが意図するものとは?」
「俺の預かり知れぬ所でお前がた…、苦しむような事態は避けたい。実際、小型犬の前例がある」
何か違う事を言い掛けていたのはもうこの際、気にしない事にしよう。
此処で深く追求すると長くなる上に、ニヤニヤし始めている宇髄先生からも爆弾を食らいそうだ。
「ご心配ありがとうございます。でも大丈夫です。話を戻しますが、スマホに関してはどうしますか?」
再度の問い掛けに、手元を見つめてから顔を上げる。
「宇髄、どちらにしてもこの中のデータ消失は避けられないのだろう?」
「ん?あ〜、まぁな。そん中っつーのは確実だ」
その返答を受けて、今度はこちらに向けてくる瞳に自然と眉が上がった。
「ならば新しくしようと思う。この際名前と同じ機種にしたい」
「…私、とですか?」
「嫌か?」
「いえ、嫌というより、最新機種ではないので多分物理的に無理なのではないかと…」
そういえば今の機種にしてからどれ位経ったっけ?と考えた所で
「あー、コレだもんな」
宇髄先生が取り出したスマホに目を窄める。
「…何故宇髄が名前のスマホを持っている?」
「あのまま壁に貼っ付けとくワケにもいかねーから回収しといたんだよ。返すタイミングが今になっただけだ」
若干の怒気を孕む冨岡先生を軽くかわすと、ほらよ、と差し出した右手からそれを受け取った。
「ありがとうございます」
「それ何年前のやつだよ?型からして古いだろ?」
「何年前なんでしょうね?ちょっとすぐには思い出せないです」
苦笑いをしながらそれを見つめる。
言われてみれば確かにかなり年代は感じられる代物だ。
特に不自由も不都合もなかったため全く気にしていなかったけれど。
「どうせなら苗字も機種変しちまえば良いじゃねーか。そしたら仲良くお揃いだぜ?」
「いえ、私は…」
言い掛けた言葉を飲み込んだのは放たれていた怒気が一瞬にして変わったためだ。
視線を動かした先、期待に満ちた犬とばっちり視線が合ってしまって苦笑いを返すしかない。
「お揃いにしたいんですか…?」
一応は、そう訊いてみる。
「したい」
即答なのは予測出来ていた。
「……。まぁ、良いですけど」
いつもの癖で回避する選択を探してしまったけれど、考えてみればこの状況で断る理由もない。
間は空いてしまったものの素直にそう答えれば、嬉しさから自分の世界に入ってしまわれたのを、宇髄先生も感じ取ったのか
「…お前、良くこんなクソ重い奴と付き合う選択肢選んだな。英断だよ英断」
しみじみとしている表情で、常識とは離れた価値観を持つこの人にもやはり強靭な狂人の世界は通用しないのか、という事実を再確認して苦笑いをした。

* * *

授業だからと職員室を出ていく宇髄先生を見送っても、未だこちらに戻ってこない冨岡先生を半ば強引に引き摺りつつ自分のデスクへと戻る。
古今和歌集へと落とされていた視線が不意に上がって、驚きを宿した。

「…どうしたんですか?」

明らかに不審だと見つめてくる瞳に苦笑いを返してから、引っ張っていた左腕を離す。
「いえ、歩行の介助をしていただけです」
「介助猫か。新しいな」
戻ってきたと思ったらまた良くわからない事を言い出すな、と思ったものの、大人しく椅子に座る冨岡先生に倣い、特に返答はせず席に着く。
「調べたんですか?お姉ちゃんの事」
見計らったように8拍子で投げ掛けられる疑問に、そういえば彼女ともまだしっかり話せていなかったのに気付く。
いつの間にか溜まっていた校閲書類を手に取りながら答えた。
「調べた訳ではありません。偶然にも以前、お会いした事があっただけです」
「嘘。それだけで姉妹だって絶対わかる訳ない」
言い切ったその"絶対"に、いささか胸が締め付けられるのを感じる。
「…そうですね。私は正直結び付ける事が出来ませんでした。気が付いたのは冨岡先生です」
言葉に詰まったのを気配で感じてから、赤ペンを走らせようとした手を止めた。
「そういえば冨岡先生、校閲ってした事ないですよね?」
「ない」
短い返事に持っていた書類をそちらへ差し出す。
「では、練習をしてみましょう」
無言で受け取る右手に、適当に見繕ったシャーペンも一緒に渡した。
間違いやすい語彙や文章作法を軽く教えた所で、1枚の紙と向き合いだす真剣な横顔の向こう側から、彼女の瞳が覗いている。
「…何か、雰囲気変わった…?」
独り言に似た疑問符にドキッとしてしまった。
「なかなか察しが良いな」
「アナタに言われても全然嬉しくないです」
ピリッとしていく彼女の空気に、冨岡先生は眉ひとつ動かす事なくペンを動かしていく。
こちらからしてみればこの2人の雰囲気の方が変わった気がするけど、それはただ単に私が裏側を知らなかっただけか、と思い直した。

「先生〜!高等部の方で殴り合いの喧嘩が始まりました〜!」

廊下から木霊する生徒の呼び掛けに、腰を上げようとするより早く立ち上がるはジャージ姿。
「行ってくる」
「お願いします」
校閲書類を差し出すと手ぶらで出て行く背中を見送りながら、そういえば竹刀は何処に行ったんだろうか、そんな事をふと考えた。
その間もこちらを見つめ続けている瞳は訝しみが強い。

「お姉ちゃんから聞いてたから今回の事で私が母親に泣きつかないって確信したんですよね?だからあんな強引な手に打って出たんだ」
「いいえ。確信はありませんでした。教育委員会の中で取り沙汰されても問題はないよう下準備もしておいたつもりですよ」
「…じゃあ…だから校長達に言わなかったっていう事?苗字さんが勝手にやった事にするために?」
「そうです。それも必要ありませんでしたけどね」
彼女の言う通り、特に悲鳴嶼先生と不死川先生には、この件に関与させる事は避けた。
突然教務主任が不在になったこの学園内でも、この2人が基盤として居れば混乱する事はない、その確信だけは持っていたからだ。
それを言うと、また自虐だどうだと始まるから黙ってはおいたけど。
恐らく不死川先生は、思惑に僅かながら気が付いていたからこそ、今朝の行き詰まりに何も言わないでいてくれたのだろう。
先程、校長室での提言に全く驚いていなかった事からそれが窺える。
まぁ、右横に居た存在も、全く動じてなかったけれど。

途中まで添削された文字を眺めて、小さく笑った。
きっと戻ってきたら続きをやりたがるだろうから、このままにしておこう。
籠に戻してから、違う書類を手に取る。
「必要ないって言い切れる訳…「そうするつもりなら、私にこんな話はしないでしょう?」」
図星を突かれた。
その表情がわかりやすく伝えている。
押し黙った代わりに髪を撫で始めた仕草に目を細めた。
「初めての授業、お疲れ様でした。緊張しましたか?」
「…別に。言う程でもなかったです」
「そうですか。流石です。演じるのは得意ですもんね」
途端に向けられる敵意に、意地悪な言い方になってしまったのを自覚して口元を上げる。
「今のは否定ではありません。純粋な褒め言葉です」
若干揺らいだ瞳がまた強くなっていくのを感じて続けた。
「自分を演じていない人間など、居ないのだと。そんな事を思いました」

きっと誰もが、何処かしらで何かしらに"相応しい自分"を作ってる。
それは完璧な虚像ではなくて、その人の一部分に過ぎないのだと、彼女を介して知った。
そうして演じる事で上手く物事を動かして、時に派生する乖離に苦しむ。

「生徒を守るため、会長に立ち向かっていく姿はとても教師らしくて頼もしかったですよ」

喜びへと色を変えたのは一瞬、淀んでいくその表情に疑問が湧く前にボソボソと呟く声を辛うじて聞き取った。
「…あれはあの子のためじゃないから。ただ似てるから…私と…」
「気持ちを汲み取り、その上で味方で居てくれる、そんな存在をすぐ傍に感じたお陰で、母親に逆らう勇気が出せたのでしょうね」
「だからって根本的に解決した訳じゃないし…私別に何にも出来なかったし…」
「何も変わっていないと?本当にそう思いますか?」
「………」
押し黙ってしまうその癖は、きっと一朝一夕では変化しない。
だけど―…
「授業の目的は?」
「……。自分と、向き合う…こと」
「結果はどうでした?」
「…スッキリは、しました。私が。母親に言えなかった事、あのオバサンには言えたから…」
罰が悪そうながらもはっきりとした答えに頬が弛んだ。
「それは良かったです」
それだけ返してペンを動かす。
静寂が流れて、あとは彼女の捉え方に任せようと目の前の文字に集中しようとした。

「…苗字さんが清々としてるのは自分の気持ちと向き合ったから?」

突然の発問に手は止めないながらも、何と恍けようと思考を巡らせる。
「嘘考えなくて良いですよわかってるから。義勇先生も今までと違うすっごい余裕な表情してたし」
先に釘を刺されて、今度はどういう形で伝えようかという思考へと変えた。
彼女が冨岡先生に敵対するのは、ある種同属嫌悪に近い。
此処で余り刺激するのはよろしくはないのはわかっているが、彼女の言う通り誤魔化すのも…いや、この先を考えれば、きっと何も考えない答えの方が良い。

「言うなれば、弱い自分にも向き合おうと思えたからでしょうね」

窄める瞳が傷付いているのが伝わってくる。
「やっぱり義勇先生の存在が…」
ポツリと零した言葉でこちらは苦笑いが零れた。
「その存在は大きいとは言えますが、冨岡先生だけという訳ではありません」

この気持ちを認めるまでに色んな人の心に触れ続けて、漸く輪郭が作られたように思う。
私はそれが、勝手に形を成していくような錯覚から、象られていく線を必死に消そうとしていた。
だけどその線を描いていたのは、他の誰でもなく自分自身。

「気が付こうとしないだけで、貴女の身近にも居るのでは?立場も何も関係なく、守ろうとしてくれる存在が」
「……。それがお姉ちゃんって言いたいんですか…?」
「思い浮かんだという時点でそういう事ではないかと思います」
視線を落とすと一点を見つめる横顔が何を巡らせているのかはわからない。
私に返す言葉を探しているのか、それとも自分に問い掛けているのか。
固まったまま動かなくなったのを目端で捉えながら赤線を引いていく。
「気付いても、もう遅いよ…」
静寂を破った呟きに対しては、敢えて聞こえないふりをした。
この場での私の肯定も否定も、意味がないからだ。
どちらにしろ口に出した事で今後、彼女の感情が変化していくのは間違いない。
話題を変えるべきか迷った所で
「だって煉獄先輩、お姉ちゃんの事も覚えてなかったし…」
その台詞には、思わずそちらを見てしまった。
きゅっと下口唇を噛み締める仕草に眉を寄せる。
「会わせるためだったのに…」
どういう事?
自分が会いに来た、という訳でなくて、姉のため?
それが意味するのは…

「お姉ちゃん、煉獄先輩の事好きだったから」

想定もしていなかった内容に面を食らってしまった。


解釈違いとはこういう事か


(…お姉さんがですか?ご自身ではなく?)
(違いますだから私あの時邪魔しないようにしたのに結局お姉ちゃん変な男に捕まっちゃったしでも今度こそはって思っ)
(すみません、順序立てて訊いても良いですか?)


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