good boy | ナノ
ざわざわと騒がしくなる室内、生徒達が席に着いていく様子を廊下から遠目に窺った。

「心の準備は出来ていますか?」

視線を向けないまま背後に問い掛ける。
ギリギリまで8拍子呼吸を続ける彼女を纏う空気がより一層、張り詰めたものになっていくのを感じた。
隠し切れない緊張をひしひしと感じて、自然に頬が弛まる。
「笑わないでください」
今のは6拍子だなと考えながら口を開いた。
「すみません。同じように緊張した昔の自分を思い出しまして」
「苗字さんの最初の授業って…」
言葉の途中、遠くから大きく丸を作る胡蝶先生に意識が向いたため、全ては聞き取れなかったけれどきっかり8拍子にはなっている。
「選択したのは同じく国語です。語るのも憚れる程の出来でしたけどね」
その合図は、彼女のお姉さんを無事コミュニティルームへ通せたという知らせ。
ギリギリまで待ってみてもその姿が現れる事はなく、簡易的な説明の後、宇髄先生のスマホを伊黒先生に託した。
始業ベルが鳴っても知らせが来なかった場合を考慮したけれど、もう必要ない。
これで完全に準備は整った。

校内に響く電子音で彼女が震え出してしまう前に、その肩へ手を添える。

「この授業の目的は何ですか?」
「…自分と、向き合う事」
「そうです。上手くこなそうとする必要はありません」

コクッと小さく頷いた瞳が強くなったのを確認して、大きく頷き返した。


good boy


ガラッ

引き戸を開けた事で、静まり返る生徒達の期待と珍奇の眼差しを一身に受け、強張りながらもしっかりした足取りで教卓へ歩を進める彼女。
その後ろに続くと、静かに扉を閉めた。
改めて自己紹介をする横顔は不安に満ちているが、頭を下げた後に生徒達から送られるまばらな拍手で、少し心を落ち着かせたように見える。

「…今日の授業はこの古今「せんせ〜!今日はチャンバラやんないんすか!?」」

1人が声を上げた事で
「そうだ!いっつも面白い事やってくれんもんな!?」
「この間の変顔大会、めっちゃ笑ったよね〜」
ワイワイと盛り上がり始める生徒達とは対照的に、彼女の顔はみるみる内に曇っていく。
上げた右手が髪を触る前に
「それでは今日も少し風変わりな授業をしてみましょうか?」
それだけ言うと、彼女の隣に移動した。
スマホを設置した際、念のため教卓内の棚に用意しておいたメトロノームを取り出す。
疑心を向けてくる瞳に笑顔を返してから前を見た。

「題して、120秒で上手く伝わるかなゲーム、です」

一瞬動きを止めた生徒達が「ださっ」と噴き出したり、「何それ」と困惑したり、各々の反応を見せる中、隣からは強い不信感を向けられているので早々に話を続ける。
「ダサくてわかりづらい題名ですが内容は簡単です。皆さんに今から作文を作ってもらい、120秒という限られた時間の中で発表してもらう。それだけです」
途端にざわつきが大きくなる教室内を見回す。
その反応も様々だが、しっかりと内容は理解出来ていると判断し言葉を続けた。
「それだけ?という声が聞こえましたので条件を追加しましょうか。テーマは『なりたい自分』文字数は600字を目標とします」
「えぇ!?そんな書けないっすよ!俺作文嫌いだし!」
「あくまで目標ですから600字に満たなくても構いません或いは600字を超えても大丈夫ですただ700字を超えるとこのテンポでないと120秒で読み切るのは難しくなってくるのでそこは気を付けてください」
早めの口調で注意点を伝えてから、状況を把握する前に素早く手を叩く。
「それでは各自ノートを開いて。考える時間は今から10分です。よーいスタート!」
困惑しながらも勢いに圧され机に向き合い始めた生徒達を眺めてから横に顔を動かした。
「…どういう事ですか?」
聞いていた話と違う、と恨めしさが籠っている瞳に敢えて驚いた顔をしてみる。
「早く書かないと時間になりますよ?」
「私も書くんですか!?」
「そうです」
「まさかそれを、生徒の前で発表しろって事?」
「8拍子、上手く出来てますね。それでは後はよろしくお願いします」
それだけ言って足を動かしたと同時に腕を掴まれた。
「どうすれば良いんですか?私どうすれば…」
「この授業の目的は?」
「自分と、向き合う、こと」
返事の代わりに笑顔だけを返して、震えている手をそっと解く。
行き場のなくなった手が髪へ触れようとする前に
「今の自分に出来る、あらゆる可能性と選択肢を考えてみて」
肩に手を添えてから頭を一度だけ撫でた。

その輪郭を描けるように。

「これは貴女にしか出来ない授業です」

どういう意味なのか考察し始める表情に背を向けると引き戸を閉める。
息を吐く前にすぐにコミュニティルームの方向へ歩き出した。



「あ、苗字先生〜」
扉の前、私の姿を見るなり小さく手を振る胡蝶先生につい口元が弛まってしまいそうになるのを耐える。
「すみません。任せっきりにしてしまって」
「大丈夫よ。こっちは何にも心配ないわ」
そう言って視線を向けた扉の先。
窓から覗き込めばスマホの画面へ集中している姿が確認出来た。
「息子さんは多目的室ですか?」
「えぇ。伊黒先生が一緒に居るわ。あの子蛇が好きらしくて、すごく喜んでいたのよ〜。伊黒先生も嬉しそうだったわ〜」
「そうですか」
確かに、何の心配もなさそうだ。
「わかりました。胡「私が此処を見ておくから、苗字先生は職員室に戻って?」」
ニッコリと微笑まれて、その可愛さに言葉が詰まる。
いや、可愛さだけじゃなくて、その気遣いにもだけど。
「もし誰かに訊かれたら、私の親戚って事にしておけば良いって伊黒先生も言っていたし」
確かに、そうだ。容姿を見れば誰もが疑わないだろう。
「…伊黒先生、お2人を見て驚いてませんでした?」
「え?あ、そうねぇ。何度か見比べられて姉妹か?って訊かれたわ」
狼狽えたであろうその姿を想像して口元が上がる前に「そんなに似てるかしら〜?」と首を傾げる胡蝶先生の相変わらずおっとりしている空気に癒しだと目を細めた。
「ほら、早く行かなきゃ〜」
優しく背中を押され、油断していた心臓が跳ねる。
「…ありがとうございます。何かあったら…」
無意識にポケットを触ってから眉を寄せた。
そうだ、今スマホがないんだった。
「大丈夫よ。心配しないで?」
念を押すように返ってきた言葉に小さく頷いてから背を向ける。
そうして数歩進んだ所で、一度足を止めた。

あぁ、そうだ。

「胡蝶先生」
「なぁに?」

その笑顔が好きですとつい口に出しそうになってしまったのは完全に心の声がダダ漏れな犬の影響だと思う。
言葉に詰まってしまった私に、小さく首を傾げたのに気付いて、口を開いた。

「もしもの話ですが──…」

* * *

いつもは和気藹々としている職員室も今この時ばかりは緊張感が漂っていると、踏み入れる前から空気の違いを感じた。
「お疲れ様です」
遠巻きに様子を窺っている事務方に軽く頭を下げ、その視線の先を追う。
デスクに置かれたスマホの正面を陣取る会長の横には宇髄先生。
その後ろには煉獄先生、冨岡先生が仁王立ちで腕を組んでいた。
「…この子進行下手じゃない?また噛んでるし」
「まー、最初の授業なんてこんなモンだぜ?大目に見てやってくれよ会長〜」
いささか苛立っている様子の肩をポンポンと叩く手で、その雰囲気が柔らかくなっていく。
相変わらず宇髄先生のあしらい方は上手いな、と感心した所で
「うむ!いつものような勢いは見受けられないが、これはこれで落ち着いていて良いのではないか!?発表後、必ず良点を一言添えるという心遣いも素晴らしい!!」
煉獄先生の熱心な肯定で会長が放つ圧が明らかに緩和されていくのを感じた。
見る限り、こちらも問題はないと言える。
此処で私が入っていくのは水を差してしまうかと、一歩後退した動きに気付いたのか、こちらへ顔を動かす冨岡先生と目が合った。
咄嗟に人差し指を自分の口元に当てる。
意味を察したようで静かにこちらへ近付いてくるその足が止まってから小声で訊ねた。
「彼女の様子はどうですか?」
「名前が去った直後は狼狽していたが徐々に冷静さを取り戻した。今は気負いこそ目立つがこれといった問題はまだ起きていない」
「そうですか」
思わず寄ってしまう眉間を押さえる。
「大いに問題あり、といった顔だな」
「…そうですね」
彼女自身の潜在力に期待をして全てを託したけれど、もしもこのまま当たり障りなく終えようとしているのなら、それは非常にマズイ。
もう一度教室に戻るべきか。
「冨岡先生」
「…何だ?」
「それはこちらの台詞なのですが。この手は何ですか?」
右手首を掴むだけではなく、引き込もうとする腕の力に体重を反対側に掛けながら思い切り怪訝な顔で対抗する。
「あと僅かでお前の全てが手に入ると逸る本能の仕業だ。俺の意思とは関係なく動いている」
「成程。だから容赦がないんですね」
「これでも理性が抑えている方だ」
宇髄先生がこちらを一瞥したのを目端で捉えた。
「今凄い呆れた顔されたんですけど…」
「俺はしてない」
「それはわかってます。宇髄先生がしたんですよ」
あの人に呆れられるなんて相当だ。
ついでに言うと事務方の目線もさっきから痛い位に突き刺さっている。
「ちょっと落ち着いて、離してくれませんか?」
「離したいのは山々だが、連日名前に触れていたせいか、たった半日で禁断現象が顕著になっている。早急な補給が必要だ」
「もはや水分ではなく怪しげな薬の位置付けになってますね」
「薬か。それは言い得て妙だな。確かにお前は俺の安定剤だ」
力の籠る指先と熱を帯びる群青色の瞳に、これは駄目だと早急に打開策を模索する。
日に日に我慢とか忍耐とか、そういうものが欠けていってるのは何とかならないものか。
確かにあれから一切近付いてもこなかった上に、明確に恋人という関係になった昨日の今日じゃ仕方ないのかも知れないけど。
「あっはっは!」
突然聞こえてきた笑い声に肩が跳ねる。
「プランクトンって!この男の子面白いわね!」
「だろ?コイツの特技は人を笑かせる事なんだよ」
「将来の夢は芸人だとこの間言っていた!!」
「へぇ、そうなの〜」
盛り上がりを見せる会長達を後目に全く引こうとしない腕を掴み返した。
「冨岡先生、ちょっと」
冷ややかな目で見る事務方の傍らを通り過ぎる時でさえ
「名前補給を許可してくれるのか?目算では頭ひと嗅ぎにつき15分の安定時間が得られる。キスでは1回につき10分だ。ただしこれは接触だけの場合に限り、舌を絡めるとなると5分になる」
そんな事を悪びれもなく言いのけてくものだから益々冷めた空気が突き刺さる。
それでも何とも思わなくなったのは、今も真っ直ぐ私だけを見ているこの人のお陰なのだろう。
今の非難に満ちた空気も間違いなくこの人が作り上げたものだけども。
「燃費悪過ぎません?しかも何で段々時間が減っていって…いえ、何でもないです」
訊くのはよそう。何となく返ってくる言葉がわかる。
ひとまず廊下まで移動した途端、壁に押し付けられる背中に痛みは感じなかった。
「…名前…」
顎を持ち上げると同時に近付いてくる顔を両手の壁を作る。
「キスは駄目ですよ」
「何故だ」
「ご自分でおっしゃったじゃないですか。安定時間が短くなるのは困ります」
「今から抱けば授業が終わるまでには「それ本気で言ってるなら怒りますよ?」」
途端に下がっていく眉にグッと息を飲んだ。
絆されてる場合じゃない。
「俺の全部は要らないのか…?」
冨岡先生め、また同情を引くパターンで来たな。
「あのですね、昨日のは言葉のあやと言うか、そういう…身体とか物理的な意味ではなく気概というか気持ちの問題という事を「それはわかってる」」
口唇をなぞる親指に、これ程にない温かさを感じた。
「だからこそ今全てを与えようとしている。溢れ出るこの想いは今この場でしか正確に伝わらないからだ」
「……冨岡先生…」
…ってちょっと待って。真面目な表情に息を止めてる場合じゃない。
下ろしかけた両手に力を込め直す前に
「大丈夫だ。これ以上名前が掻き回さずともすぐに問題は起きる」
発せられた言葉に警戒を弛めた。
「それは、どういう…」
「お前の狙いは会長の娘だろう?本音を引き出し、憤慨した会長を乱入させ、それを見た姉に小型犬を庇いに向かわせる。そういう算段をつけたはずだ」
「…良くわかりましたね」
「他人の感情には過敏なお前が考えそうな事だ」
「別に過敏な訳でもないんですけど…」
「小型犬はその術中に嵌まっている。画面越しで見た限りだが既に会長の娘に話を振る布石は作られた。今盛り上がっているのはその余興に過ぎない」
「…彼女、そこまで計算していたんですね」
「あぁ。だから名前は安心して俺に掻き回され「冨岡先生」」
じとっとした目つきで見つめてから、どうしてこんなに昨日と態度が違うのかを考える。
本能がどうこう、というのが口からでまかせで私を彼女の元へ向かわせないように取った行動なのは、冷静な考察が出来ている辺り間違いない。
恐らくは彼女の頭を撫でた事に対する報復もある、とは思う。
そこを差し引いても振り幅が激しい。
昨日の冨岡先生は、それはもう聞き分けが良かったし何なら柄にもなく狼狽えていた。
考えている間にも迫ってくる顔をどうにか押さえながら記憶を巡らせて、ひとつの答えに行き着く。

もしかして今強気なのは、私が抗っているから─…?

そういえば私が抵抗をやめた時程聞き分けが良かった。そんな記憶がある。恐らく、だけど。

「奥手な冨岡には手に余るからな」

宇髄先生の言葉が蘇って、自然と納得してしまった。
そういう事なら話が早い。
両手を下ろすと冨岡先生より早く口唇を重ねる。

「……っ!」

先程の威勢は何処に行ったのか、目を見開いたまま動きを止めた姿に笑ってしまいそうになったものの
「…ちょっと!何なのこれ!止めなさいよ!!」
会長の金切り声で張り詰める空気に遮られた。


舞台のが上がる


(行きますよ冨岡先生!)
(キスだけではもう我慢出来ないか…お前が良いのなら…)
(今のは勘違いしますねすみません。戻りましょう)


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