good boy | ナノ
職員室の一角に響く、カチ、カチ、と一定のリズム音。
それが置かれたデスクの主は古今和歌集に集中し小声で音読を続けていた。
時折「あぁ」だの「えぇ」だの苦悩に満ちた唸り声を上げていく事、1時間余り。
職員室へ戻ってきた不死川先生が椅子に座ったのを気配を感じ取った。
しかし暫くして
「スゲェ、気が散る…」
4拍子で出された呟きについ小さく笑ってしまう。
「すみません。今日1日お騒がせします」
椅子ごと振り返れば、丁度テストの採点をしていた所なのが窺えた。
「あ?聞こえてたか?独り言だ独り言ォ。気にすんなァ」
顔だけをこちらへ向けるとすぐに答案へ向き直し、左手を上げる動作を目で追う。
これは不死川先生の癖なんだろうな。
「アレお前の案だろォ?俺らも新任ん時やらされたわ。8拍子呼吸法と120秒で自己PRとかいうやつ」
「キメツ学園でも実施されてたんですね。俺ら、というのは?」
「俺、冨岡、伊黒、胡蝶、か」
指折り数える仕草に若干眉が寄ってしまったのは
「先程まで冨岡先生も此処に居ましたけど、不思議な顔で何の遊びかと訊ねられましたよ?」
その言葉通り、このリズム話法についての知識を全く持っていなかったからだ。
かいつまんだ概要を説明してもあの表情では恐らく、というか絶対半分も理解をしていない。
だからこそ、今の不死川先生の話に正直多少の驚きと疑問は生まれる。
何故、冨岡先生はその時の記憶が一切ないのか。
しかしそれも口に出す前に
「あー…アイツ、忘れてるっつーかそもそも聞いてもなかったからなァ」
呆れに近い表情で言う不死川先生に小さく頷いた。
「恐らくこのリズムが心地好くて寝てたんでしょうね」
「…いや、目は開いてたけどよォとにかく上の空っつー…あぁ?そうかッ!あん時寝てたのかアレ!」
当時を思い出しているのか天を仰いでから腑に落ちたような表情でこちらを見る。
「お前、良く昔の行動まで遡って的中させられんなァ。すげぇ」
心の底から感嘆しているものだから苦笑いをするしかない。
「人の習性や性質というものは一朝一夕で早々変わるものではありませんから、少し推測すればわかります」
「それがスゲーっつってんの。俺には今も昔も冨岡が何考えてんだかわかんねーわ」
「そうですか?不死川先生はだいぶ冨岡先生の事を正確に把握していらっしゃるように思えますが」
右横で「…ぁああ!また違う」と叫んだかと思えばボソボソと呟く姿を横目で捉えて、また苦笑いが零れた。


good boy


「そりゃ苗字がいっからだなァ」
「私は関係ないと思いますが…」
つい眉間に入る力を意識して弛めたのに、何故か目が点になっているのに気付いてまた寄せてしまう。
「何だァお前…まだ自覚ないのかよォ?」
「何の自覚ですか?」
「冨岡の通訳になってるっつー自覚」
「何です?その通訳って」
「あ?まんまだよ。お前がアイツの言動を読んでるの見てっから段々わかるようになってきたっつー訳だァ」
「私が着任する前からバレンタインといい書類作成といい何かと冨岡先生を気に掛けていたような気がしますが?」
少なくとも断片的な話を聞く限り、距離自体は第三者で在りながらも、一番近くに居たように思う。
「ありゃぁ俺が進んでやってたワケじゃねーよ。当時の教務主任にやらされてただけでその名残りだ。アイツが俺と話し始めたのだって苗字が此処に来てからだしよォ」
「そうなんですね。お2人は前から仲が良いのかと思ってました」
「仲良いだァ?アイツ俺が何言ってもシカトか一言喋ったと思ったら喧嘩売ってきやがって良く我慢してやったと思うぜェホントよォ…」
また当時を思い出しているらしい。
相当苦労を強いられたと、こめかみに浮き出る青筋がそれを物語っていて心の中だけでお疲れ様です、と頭を下げた。
未だ60テンポで鳴り続ける振り子を耳に入れて、椅子ごと戻ろうとした身体を後ろへ戻す。
「結局その訓練は、結果的にどうなったんですか?」
「あ?あぁ、最終的に冨岡がブチ切れてそれぶっ壊して終了」
親指で指した先のメトロノームへ視線を動かしながら、簡単に想像出来てしまう光景に苦笑いしか出てこない。
「もしかしてその指導をしてたのが例の話が長くて諄い教務主任ですか?」
「そーそー。あん時もクドクド嫌味言ってたっけなァ」
「だから冨岡先生には当たりが強くなったのでしょうね」
「…あぁ、まァ…そうかァ。そう考えるとその後から目の敵にしてたなァ」
自然に両腕を組む不死川先生を目端で捉えた所で、こちらをずっと見つめる彼女に気付いた。
「どうしました?」
「母親が言ってました義勇先生の事」
丁度8拍子。なかなか呑み込みが早い。
「お母さまは何と?」
「懲戒免職直前に状況をひっくり返した、なかなか侮れない教師だって」
16拍子の間に一呼吸置くという応用も上手く出来ている。
「あー、それやったの苗字な」
リズム話法に捉われていたため名前を呼ばれた意味が一瞬わからなかった。
「やっぱりそうなんですね〜。そうだと思いました義勇先生がそういうの出来るとは思えないし言ったらアレですけどそこまで頭回るとも「8拍子、忘れてますよ」」
グッと息を呑む動作に小さく息を吐く。
「話しながら進む思考を止めるのは難しいと思います。だからこそ常に音を耳に入れるよう意識出来ると良いですね」
「…はい」
「それと懲戒処分にまで追い込まれたのは私が発端ですし、本人は何も出来なかったのではなく、しなかったのだと訂正しておきます。本来冨岡先生は明敏な頭脳の持ち主ですが発動条件がある上に、自分のためにそれを使おうとはしません。むやみやたらとひけらかさないので勘違いされやすいんですよ」
言い終わった所で彼女と不死川先生が同じような表情をしているのに気付いて眉を寄せた。
「何ですか?」
「…お前、ちょっとってかだいぶ?怒ってね?」
「怒ってはいません。ただ事実を述べただけです」
「いや、怒ってるってぜってー」
不死川先生の言葉で更に険しくなっていきそうな顔も
「何だやっぱり…」
小さく呟くと持っていた本に視線と落とすと共に消沈していく横顔に力を弛める。
「すみません。強い口調になってしまいましたね。先程の16拍子は素晴らしいものでした。この調子で練習していきましょう」
「…はい」
返事は弱々しいながら、僅かに表情が晴れていくのが見て取れて、"小型犬"という3文字が脳裏に浮かんでしまった。
すぐに真剣な表情に戻ると音読を再開させる横顔の邪魔にならぬようデスクへ向き直そうとした所で
「苗字よォ」
忍び声で呼び止められて視線をそちらへ向ける。
目が合った事で何を言わんとしているのかを悟って、そちら側へ耳を傾けた。
「上手くいくのかァ?アレ」
更に声を潜めた目線の先を追う。
具体的に讃した事で意欲が上がったのか、先程より若干張り上げた声。
それは振り子のリズムに完璧に調和していた。
「…恐らく、としか今はまだ言えませんね。上手くいって欲しい、という希望的観測の範疇からは抜け出せていませんが、彼女のポテンシャルを考えると」
ガッと勢い良く掴まれた左肩に思い切り身体が跳ねる。
一体何事かと置かれた手とは反対方向から振り返った所で、不死川先生も同時にそちらへ向いているのが視界に入った。
「何だァ、お前かァ。ビックリさせんじゃねェよ」
その右肩にも同じように乗った手と斜め上のしたり顔に目を細める。
「お疲れ様です、宇髄先生。何か御用ですか?」
「冨岡かと思っただろ〜?」
またからかいに来たのか、と小さく溜め息を吐いた。
「俺で良かったな〜。冨岡だったら肩叩くどころじゃないもんな〜?こんな仲良さげなお前ら見たら嫉妬どころじゃないよな〜?」
わざと語尾を伸ばしてる辺り、随分楽しそうだ。
ポンポンと肩を叩く手を粗雑に振り払う不死川先生の額には若干青筋が浮き出ている。
「仲良くねェよ普通だフツー。からかってんじゃねェぞォ」
そうしてデスクへ向き直す背中に、宇髄先生は短く笑うと私の肩からも手を放した。
あぁ、そうだ、丁度良かった。
宇髄先生が戻ってきたら訊こうと思ってたんだった。
彼女が本へ集中しているのを確認してから口を開く。
「宇髄先生、明日の研究授業にPTA会長をお招きしたいと考えているのですが許可をいただけますか?」
「あぁん?」
一瞬にして怪訝な顔をしたかと思えば、低く唸る。
「お前もしかして喧嘩おっぱじめんのか?良いぜ!派手にやってみろ!」
「喧嘩もしませんし派手にもしません」
つい冷静に答えてしまったけど、それが許諾というのは伝わった。
最近気付いたのは、宇髄先生が嬉々として色んな案件に首を突っ込んでいくのは、そうやって状況の把握と解決の道を図っているのだろうという事。
自分が他人から何を求められ、どの立ち位置に居れば良いのか、的確に判断している。
「オイ不死川!苗字と会長、どっちが勝つか賭けようぜ?」
その中で全力で楽しんでるのも、また事実なんだけども。
「は?賭けになんねェだろそんなのよォ」
名前を呼ばれた事で呆れた顔をしながらも渋々振り返るのは不死川先生らしい。
「何だお前も苗字に賭けるつもりか?」
「ったりめェだァ。苗字が勝たねーと冨岡のヤローが何しでかすかわかんねェ」
「…私は戦うつもりはないんですが」
「あぁ!冨岡と言えばよ!」
突然声を上げたかと思えば、今度は無遠慮に近付けてくる顔に思わず身を引く。
「すぐそこで女生徒に呼ばれてたぞ」
わざわざ耳打ちをする辺り、また面白がってるんだろうな、と思う。
「そうですか」
「んだよリアクション薄いなお前」
「どういう反応を期待していたか図りかねますが、今のご報告に返せる言葉と言えばそれ位かと」
「この前みたく後々問題に発展したら面倒くせぇだろ?見に行って来いよ。これも教務主任として把握しとくべき事柄のひとつだ」
口調は真面目なものの、つついてくる肘は明らかに煽っていて、溜め息を吐くと立ち上がった。
途端に得意顔をする宇髄先生は見なかった事にする。
「どちらですか?」
「印刷室に入ってったな」
その言葉に眉を寄せそうになったのを戻した。
同時に生徒は立ち入り禁止の筈ではないか、という言葉も呑み込んで
「わかりました」
それだけ言うと廊下へ出る。
黒字で"印刷室"と書かれた真っ白なプレートを目に入れてから、鉄製の戸へ視線を向ける。
僅かに内側へ開かれている隙間からは中の様子が窺えそうになく、その前で立ち止まった。
耳を欹(そばだ)ててから、これは職務から逸脱しているのでは?と思い直す。
確かに宇髄先生の言う事は一理あるけれど、だからといって盗み聞きするのはそれこそ職権の乱用に近い。
冨岡先生が告白されてる所をわざわざ見て、それからどうしろと?
考えれば考える程、此処に来た意味に疑問を感じて踵を返そうとした。
更に内側へ開いた扉で誰かが出てくると頭が認識しても、何処に逃げ道がある訳でもなくそのまま姿を現した人物と相対するしかなくなってしまった。

「…あ、苗字先生、こんにちはー」

にっこりと笑う女生徒に一瞬息を呑んでしまったのを誤魔化そうにも
「…今日和」
それだけしか咄嗟に返せなかったのが情けない。
トタトタと軽い足取りで去っていく背中を見つめてから、何か問題があった訳ではなさそうだと判断する。
では職員室へ戻ろう。
早々に、静かに、かつ迅速に。

「…名前?」

ぬっと出てきたジャージ姿に心臓が勝手に脈打つ。
「…お疲れ様です」
此処で引き返すのは不自然過ぎる。
会釈をして出来るだけ自然に通り過ぎようとした所で、腕を掴まれたかと思えば間髪入れず引き摺り込まれていく前に印刷室のドア枠を掴んだ。
状況判断より先に行動したのは今まで培われてきた危機察知能力のなせる技かも知れない。
しかし早々に滑る指先に、せめて利き手だったら良かったのにというのが頭を過ぎった。
それも冨岡先生の力技を前にしては余り、というか全く違いは何もないんだけど。
だからこそ武力ではなくどうにか文治を用いらなくては。
「何ですか?」
「随分と遅かったな」
「…はい?」
考えるより早くがっしりと抱えられた腰に身体が跳ねた。
お陰で自由になった利き手をドア枠に加勢させる。
ジリジリとそちらへ引き込もうとする動きでますます放す訳にはいかなくなった。
「こんな所で何してるんですか?」
「恍けなくて良い。宇髄から聞いたのだろう?俺が此処に居ると」
「そうですね、それは聞きました。お邪魔をするつもりはなかったのと、何も聞いていないという事はお知らせしておきますね。何か問題が起きた訳ではないようで安心しました。失礼します」
「あぁ、適当にやってみたが解決した。お前を呼ぶまでもなかった」
…これはおかしい。
全く会話が噛み合っていない。
「私呼ばれたんですか?」
「あぁ、俺が呼んだ」
「何のために?」
「印刷機が詰まったためだ」
印刷機が、詰まった?
理解が追い付かず固まった所でその腕の力も若干弛まる。
「さっきの生徒が顧問から頼まれた勧誘チラシを印刷していたが、動かなくなったらしい。通り掛かった所で相談を受けた。だが俺と宇髄ではどうにもならなかったため名前を呼びに行ったが、その後すぐ詰まりが解消されたというのが経緯だ」
言われてみれば出ていく際、両手に紙の束を抱えていたような…。
「…そうだったんですね」
無意識に弛めていたらしい両手は、突然引き寄せられる力で呆気なく枠から外れて、背後を取られた。
「邪魔をするつもりはなかったとはどういう意味だ?」
「そんな事言いましたっけ?」
「恍けるな」
その両腕にすっぽりと収まってしまってるものだから、温かいなと物理的な事を考えてしまう。
「宇髄先生が含みを持たせた言い方するからですよ。あれはどう考えても告白を…」
はたと言葉を止めるも時既に遅し。
「…そうか。だから焦慮していたのか」
嬉々とした頷きの後、頭に埋められる顔で完全にしくじってしまった。
そう思うより他になかった。


口は災いの元


(そうですね。また問題が起こると立場上困るので)
(恋人という肩書きを漸く認める気になったようだな)
(全然違います。教務主任としての立場ですよ)


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