good boy | ナノ
「そんなので上手くいく訳ない苗字さん読みが甘いですそれに私がそうするメリットなんか何処にもないし満足するのってアナタだけじゃん嫌ですやりたくない」

眉ひとつ動かさないその表情は心底呆れていて、予想はしていたけれども結構当たりが強いなと苦笑いしてしまった。

本来の姿を表した彼女は、中々に強かな上言葉の言い回しも辛辣なもので、先程からこうやってダメ出しばかりを受けている。
それが正確に的を射ているので非常にやりづらい。

私が提案したのは大きく2つに分けてこうだ。
1つは明日、今の彼女のままで教鞭を取る事。
そして2つ目は煉獄先生に偶然を装いその様子を目撃させる事。
作り続けた虚像に幕を引き、なおかつその姿を目撃させ、彼女の事を思い出させる。
かいつまんで説明した私に、彼女はすぐに意図を理解しながら開口一番こう言った。
「それただの思い付きですよね策って程じゃないですあんな自信満々に言ってたのにそんなものなんですか?ちょっと買い被りすぎてたのかな恥ずかしい」
そこから冒頭の台詞へと繋がる。
苦笑いから出来るだけ真剣な表情へ戻すと言葉を考えてから
「でしたら、明日の授業はどうするんですか?そのまま嘘の貴女を貫き通すの?」
そう真っ直ぐ見据えれば、また弱々しく目が動いた後、私を避けるように俯いて顔を隠した。
黙ったまま頭を行き来する掌の動きを眺める。
彼女本人も、このままではいけないという事は頭の隅ではわかっているのだろう。
わかっていても抜け出せなくなってしまっている。
今更これが本来の自分だと告げた所で誰もが理解を示してくれる訳じゃない。
それがわかっているから、尚の事恐怖で動けなくなるんだ。
「もしも実習を終えたら元の自分に戻ろう、なんて思っているならそれこそ甘い考えです」
余り説教じみた事はしたくなかったのだけど、これだけは自覚をさせた上で選択肢を与えなければいけない。
「明日の時点で戻らなければ、一生嘘の自分を引き摺り続けなければならなくなりますよ」
「わかってるわかってます言いたい事全部わかってるってばうるさいな」
ボソボソと呟く口調は苛立ちを露わにしていて、確かにこの子も冨岡先生に似ているのかも知れないと考えた。


good boy


私が沈黙を作った事で弾かれたように上げられた顔が若干焦りを見せている。
「うるさいって言ったのはあの口癖と言うか喋るなとかそういう意味じゃないからあの…」
「わかっています。本気かどうかの区別はある程度付きますので気にしないでください」
恐らく今のは反射的に出た反抗なのだろうというのは彼女の半生とその性格で予測が出来た。
今まで母親に押し付けられてきた反動が、所々に歪みを来している。
彼女が私達に敵意を向けたのも、ある意味"感情の決壊"だったのだと、似たような経験をした事で漸くわかった。
これも冨岡先生が指摘しなければ、私は今の彼女のように強がり続け真実を直視しようとしなかった。

だから、許してあげよう。認めてあげよう。

私がそうして貰ったように。

小さく息を吐くと、ポケットに収まるレコーダーの停止ボタンを手探りで押した。
これを聞いたら、きっと大型犬がふてくされてしまうだろうから。

「立って貰っても良いですか?」
突然の提案に、明らかに解せないといった表情をしている。
説明を求められる前にテーブルに両手をつくと
「起立!」
立ち上がりながら声を張り上げた事で、それにつられて慌てて彼女も腰を上げた。
「良い反応ですね」
小さく笑った私を恨めしそうに見るその視線を受けながら、彼女の方へ回り込むと目の前に立つ。
「…なんですか?」
警戒しながら1歩下がる右足へ視線を落としてからまた向き合った。

行き場のない不安を落ち着かせるように髪を撫でようとする右手を掴んで引くと力いっぱい抱き締めた。

「…っ!?」

腕の中で彼女が息を止めたのを感じる。

どうして冨岡先生がいつも強引に迫って来るのか今少し、わかった気がする。
悔しいけれど。

私は今の彼女のようにいつからか、求めるようになっていたんだ。
こうやって、抱き締めて貰う事を。
輪郭を、撫でて貰う事を。

今漸く私が掬い上げた奥底の願望も、ずっと前から見抜かれていたんだろうな。
そう思うと、あれだけ強靱な狂人になれたのも納得が出来る。

「…何で笑ってるんですか子供じゃないんですけど私やめてください」
不服そうに口を曲げるその表情と目が合って、無意識にその頭を撫でていた事に気付いた。
不満を表しながら抵抗を見せない所か両手の力が抜けていくのがわかる。
あぁこれが冨岡先生の言っていた体性感覚かと更に納得した所で、これだけ顕著だと確かに、そう。
可愛い、と思う気持ちも湧いてくるのも頷ける。

「子供じゃなくても、無性にこうして貰いたい時ってありませんか?」
「ないです私はないです苗字さんあるんですかそんな馬鹿みたいな事考える時」
「ありますよ。というかずっと思ってます。昔からずっと」

子供ながらに我慢をした。聞き分けの良さを覚えてしまった。
その代償は、今も濃く残ってる。

「貴女も、そうでしょう?」

彼女はまるで私だと。
そう感じていたのも、あながち間違いではなかったのだと、噛み締めている。
彼女もまた私に近しいものを感じ、無意識に理解を求めた。
だけど気が付いて貰えない苛立ちと葛藤が敵意を生んだ起因。
ある意味で暴走と言える。
そしてこれは、当初の冨岡先生の見立てに微塵の狂いもなかったという証明だ。

意識をしたつもりはないのに微笑んでいたのは、その瞳から溢れ出る涙と、縋るように抱き着いてくる両腕に、心の底から安心したから。
「…っ…っく…!」
小さく嗚咽を漏らし肩を震わせる姿がどれ程のものを抱えてきたか。
想像をしただけで少し胸も痛むけれど、そうして素直に感情を出せたのは喜ばしい事だと言える。

「私が指導案を消したのは」
話を切り出した瞬間、僅かに身を縮める動作を感知して髪を撫でる右手を強める。
「貴女ならこの逆境を乗り越えられる。それどころかこれからの自分の糧へと変えられる。そう信じたからです」
「…ひっ、く…、ぇ…っ!」
しゃくり上げる動きが大きくなったのは、気のせいではないと思う。

本当はこの言葉を掛けるのは明日と決めていた。
敷かれたレールを壊され、極限まで追い詰められた後、頭の中が真っ白になった彼女に向けて、ただ淡々と事実だけを伝える。
彼女はそれだけで奮起出来る聡明な人物かつ強い潜在力があると、洞見したつもりでいた。
いや、推考自体は間違ってはなかったと自負している。
けれど人間は、推し量れない。
彼女自身にその力が備わっていたとしても、取り巻く環境が悪ければ、抑え付けられ続ければ、抗う意思を失くしていく。
彼女は…、彼女達姉妹は形こそ違えど、抑え付けられ軽んじてこられた。

だからこの腕の中で泣きじゃくる小さな存在は、私へと求めたんだ。
平等と公平の上に成り立つ評価を。
決して揺らぐ事がないような輪郭を。

それでも、私も人間だから。
彼女と同じで、強がる事しか出来ない、感情に流されてしまう、ちっぽけな人間だから

「いいですか?良く聞いてね?」

ずっと私が欲しかった言葉を授けよう。

「貴女は貴女のままで良い。誰に何を言われても、私が護ります。何があっても味方で居る。だから、自信を持って良いのよ」

恐る恐る上げられた顔は、驚きとほんの少しの喜びを滲ませていて、瞬きをする度に流れていく涙に苦笑いをしながらポケットの中からハンカチを取り出すとそれを拭った。

本当の意味で驚いているのは、彼女より私かも知れない。

こんな台詞を、誰かに言う日が来るなんて、思ってもみなかった。
それも多分きっと…

名を思い出すより先、鮮明に蘇るのはその群青色。

そう、全部
全部欲しかった言葉なの。

心の中で答えるように呟いてから、小さく笑った。

「…何で笑うんです私の泣き顔はそんなに面白いですか」
「いえ。違います。そう言って何度でも助けてくれる人が居る事を思い出したもので」
つい口を出た言葉に、嬉々としていた色が消えて、代わりに訝し気な目を向けられる。
「それ義勇先生の事?」
「……」
一瞬返事に詰まったのはその口調が戻った、いや、若干寄ったというべきか。言うなれば本物と偽物の真ん中辺り。
とにかく突然の変化に対応し切れなかった。
彼女はその沈黙を肯定と受け取ったらしい。
「…やっぱり」
納得をしたように呟くその口唇は若干尖っていて、あぁこれも既視感だな、と眉を寄せた。

「義勇先生って苗字さんの何なんですか?」
「何なんでしょうね?」
つい間髪入れずに答えた瞬間、また向けられる強い目に苦笑いを溢す。
「すみません。誤魔化そうとしている訳じゃないんです。ただちょっと、一言では表し切れないというか…」
犬と飼い主、猫と飼い主はまぁ決定的な関係と言えるのか。
この時点でおかしな話なんだけども。
「そういえば冨岡先生の事はもう良いんですか?」
敢えてそう訊ねた事で、自分の心に渦巻いていたその存在を認めてしまったと気付いた。
ハンカチを持つ手を下ろしたと同時、彼女は視線を下ろす。
「あれ嘘ですそもそも私好きって言ってないです苗字さんが勘違いしたんでそう言っただけで義勇先生の事は最初から何とも思ってなかったけど苗字さんと仲良かったからしかもずっと私の事睨ん」
不自然な所で言葉を切るとまた大きく鼻で息継ぎをする姿。
頭の回転についていこうと口調が速くなるんだ。
だから息が続かなくなるまで意識がそちらに向かない。
今はそれより
「好きなのは煉獄先生、ですもんね?」
そうカマを掛けたと同時、かぁっと擬音が聞こえてきそうな程赤くなっていく耳。
下を向いていてもわかるその熱さに答えを聞くまでもなくそれがイエスだというのは明白だ。
「好きとかじゃないです煉獄先輩は好きとか私が言っていいようなそんな…」
消え入りそうだ。そう思ったと同時、本当に消えていった声量に気付かれないよう苦笑いを溢す。
何だか初めて彼女の心の奥に触れられた。そんな気がする。
そして、向き合う事が出来た。

私自身の想いにも。

「さて、では明日の話をしましょうか」

極めて明るい声色で肩に置いた両手と私の顔を交互に見つめる不安げな彼女に
「貴女らしい、寧ろ貴女にしか出来ない講釈を見せてやりましょう」
有無を言わさぬような強い口調で押し切る。
「………」
勢いに圧され黙ったまま小さく頷いたものの、その瞳が更に揺れていくのが簡単に見て取れた。
まぁ、今の状態で自信を持てというのが無理な話な訳で、具体的に彼女らしさを限られた時間で発揮するのか、それを考える前に少し、その話し方を改善の余地がある。
私個人としてはそれも個性とし、全面に押し出すのもありはありだとは思う。
しかしそれが彼女にとって虚像に身を包む程のコンプレックスだというのも、これまでの行動で熟知している。
それなら少しでもその劣等感を取り除く道を選んだ方が、付け焼刃で成功させるたった50分より、後の彼女にとって何よりもかけがえない貴重な財産となるだろう。

両肩から手を放すと
「ちょっと待っててください」
それだけ声を掛け、壁に沿って設置されたスチール棚まで足を進めると引き戸を開けた。
所狭しと詰められた備品から目当ての物を発見し、それを引っ張り出す。
「何してるんですか何するんですかそれ」
後ろから飛んできた疑問に振り向くと両手をそちらへ向けた。
「メトロノームです」
振り子がついた機械は主に音楽の授業で誰もが1回は見た事があるだろう。
「見ればわかりますどうして今それを出してくるのって訊いてるんですってか何でそこにあるの知ってるんですかまさか最初から企んでたとか」
「テンポを覚えるためです」
それだけ言うとひとまずセットしてテーブルの上へ置いた。
カチ、カチ、と振り子が揺れる音が辺りに響く。
「この集会室は、保護者の方が、いつもコーラス部の練習に、使っているので、常備されています。最初から、企んでいた訳ではなく、これは単に、偶然の巡り合わせ、ですね」
「喋り方変」
「わざとです。わかりやすいようにこのテンポの4拍子と8拍子に区切って喋ってみました」
一度それを停止させると人差し指でテーブルを軽く叩く。
「いち、にぃ、さん、しぃ、ごぉ、ろく、しち、はち。この1秒に1拍のリズムを覚え、このタイミングで言葉を区切る、もしくは息継ぎをする。それを頭ではなく身体に叩き込みます」
私の意図をすぐに理解したように右手で8拍子のリズムを取ってから動きを止めた。
「8の時ですか?8の後ですか?」
「……」
ん?どっちだっけ?
「ちょっと待ってくださいね」
心の中で数えながら指折り数える。
「8と同時です」
そう言えばすぐに1拍を数えようとする動きに合わせてメトロノームを動かした。
「それなくても数えられますっていうか邪魔うるさい」
「自己流のリズムで覚えると1回躓いた時に立て直しが出来なくなりますよ。目的は8拍子をただ覚えるのではなく、このリズムに合わせた話法を習得する事です」
押し黙ったは良いが、若干反抗の色を見せているのも彼女なりに私への甘えなのだろう。
そういう解釈で受け取って続ける。
「そして、消去した指導案の内容についてもその頭の中から一切消してください」
これにおいては完璧に反論してくるだろうと息継ぎもそこそこに口を開いた。
「一度真っ新の状態まで戻して貰います」
「授業は明日なのに悠長な事言って本気で力貸す気とかないんじゃないですか本当は「8拍子」」
グッと黙り込む彼女に出来るだけの笑顔を向ける。
「1日あれば十分過ぎる程です。何なら1時間でも良い位ですね」
「そこまで自信満々の根拠が…、知りたいです」
「惜しいですね。1拍ズレました。根拠は先程も言いましたよ」
解せないという表情に4拍分置いてから
「貴女にはそれだけの力があるという事です」
きっかり8拍子で答えれば、その瞳が僅かに輝いたように見えた。


呼び起こすは潜在するもの


(何でそんな正確に出来るんですか?)
(簡単な事ですよ。叩き込むだけです)
(またぴったり8拍子…)


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